2021年4月25日日曜日

正体

先日、俳優田中邦衛氏の死去が報道されました。これを一つの機会として、氏出演の代表作であるドラマ「北の国から」について思う処を記してみます。当時の放送をリアルタイムで観てはいませんが、好評を博し多くの視聴者を惹きつけたドラマだったかと。概略については上記リンクに譲ります。

特段、是非を云々したり批判する意図はなく、”「北の国から」とは何だったか”、そういった視点から考えてみました。

1.真実性

言うまでもなく該ドラマは倉本聰氏が原作、脚本を手がけた創作です。それが今尚話題性を保っている理由の一つは、ドラマで醸成されたリアリティにあると確信しています。以前のエントリでも記しましたが、フィクションにリアリティを持たさせる典型的な手法は事実や史実の脚色、というか歪曲です。

その実例は社会派と称される小説、歴史小説、著名人の人物伝、朝ドラ、大河ドラマと枚挙に暇がありません。

――死ぬときはたとえどぶの中でも前のめりに死にたい――

漫画、「巨人の星」の中で坂本竜馬の言葉とされていますが、原作者による創作です。

事実に虚構を織り込んでいき、あたかも全てが事実であるかのごとく刷り込んでいく、その印象が強い場合には虚実の逆転すら引き起こすと。このように虚構が事実して独り歩きを始め、それが是正されないまま既成事実化した例も珍しくありません。

では、「北の国から」はどのような手法で視聴者に現実感を抱かせているか。事実というか実際の”出来事”や”実在した人物の言動”の流用の程度は小さいのではないでしょうか。

代わってリアリティを感じさせるものとして使用された道具が北海道の自然という舞台です。撮影方法により映像に演出を加えることはできますが、北海道、富良野辺りの自然(=事実)の上に創作を立脚させることで現実感を醸し出しているのではないか、と考えます。それを狙ったのか、結果として、なのかは存じませんが。

富良野の四季折々の自然に加え、離農、冷害、無農薬農法、高齢化、過疎といった農業が直面している事実を織り込んで具現化?昇華?したドラマが「北の国から」である、という認識です。


2.話の筋立て

次に物語の内容について考えてみます。このドラマは非常に大雑把には、妻の不倫をきっかけに、夫である黒板五郎が純と蛍という二人の子供を連れて郷里の富良野市麓郷という僻地に移住する場面から始まります。彼の地で半ば自給自足で生活する家族や友人、地域共同体の仲間との人間模様、時の流れに伴うそれらの変化が描かれていくわけです。

それは悲喜こもごもの出来事によって、絆、情愛、友情、思いやり、無私の姿勢、傷心の慰め、集団で困難に対処する協調性だったり、その一方で、嘘や誤魔化し、姑息な姿勢、同調圧力、怒り、哀しみ、傷心が具現化されています。

感覚的ではありますが、いくつかの小さな幸せ、喜びが続いた後、それらを覆すような、取り返しのつかない大きな哀しみがどーんと...それらは夜逃げ、焼失、離農、死別といった重いもので、頭の中で差し引きするとネガティブ部分の方が大きな陰気なドラマという印象ではありました。

決して順風満帆な幸せを享受してきたわけではない、心の傷を負った多くの登場人物(大人)が、過去から逃避するように富良野にやってきて傷を癒す...勿論、主役である黒板五郎も含まれています。

一方、純や蛍を始とする子供の人物像は、健気、純朴、素直の語で形容できるよう描写されていて、大人の人物像とのコントラストを際立たたせています。まぁ、この子供の浅はかさに由来する悪戯、嘘、誤魔化しが大きな事件、騒動へと発展させてしまうこともしばしばしばありました。

登場人物全てが人格者だとドラマになりませんから、対比の構図を作って話を転がしていく手法なんでしょう。尤も、登場する少年少女も成長と共に、問題を起こし傷ついていくわけです。純朴な子供のまま成長したとか、人格者に成長したという話ではないのは確かです。

つまり、総じて善男善女の弱い市民を登場人物とした、成功とか生産、道徳とか人間的成長を描いたドラマではなく、大団円もない作品、ということです。作品を通して何か目標を達成するわけでもありません。そもそも目標がありませんから。

強いて言えば、富良野の僻地を舞台に、ひたむき、真摯と言うより、気負わずなんとか生きている人々が、粛々と流れる時と共に齢を重ねていく姿を描いたドラマである、と捉えています。姿を描いたドラマである、と捉えています。

それを批判、否定するするつもりは毛頭ありません。創作ですから。ただそれでもある一点だけ違和感を抱きました。受け止めることに抵抗があった、ということです。それは、
子は親を選べない
という語に尽きます。上記したように主人公、黒板五郎は妻の不倫が理由に純と蛍の二人の子供と共に富良野 麓郷に移住して半自給自足的な生活を始めるわけです。いろいろな部分で厭世的になり僻地に引きこもるという心情が理解できないわけではありません。が、自分の子供にもそういった生活を強いることになります。その選択があくまで自分の都合のみに依るようにも見え、二人の子供の成長、教育を慮った選択なのか、を考えると疑問が拭えません。

麓郷の自然の中で子供を育てる、ということを否定するつもりは毛頭なく、その選択の適否は判りません。しかしながら、思慮したか、蔑ろにしたかは極めて大きな問題です。できる範囲ではありますが、生きていく上で多くの選択肢を子供に用意する、成育とか教育をそう捉えると、ドラマを見て覚えた抵抗感がなんとなく説明できる気がします。

この処、関連する話を見聞します。
フランケンシュタインの誘惑(5)「愛と絶望の心理学実験」
母親の虐待の研究をするために、サルに苦痛な刺激を与える母親を作り出し、揺さぶるような親に対しては、懸命にしがみつき、針金で刺すような母親からは一時的に逃れるが、そのあとやはり、母親のところに帰っていく。
「中学校に行く気はありませーん!」 元小学生ユーチューバー・ゆたぼんが不登校を宣言
現行の教育課程を受け入れろ、従え、という話ではありません。その適否はさておき、より多くの選択肢、より大きな自由を獲得するための手段として教育が蔑ろにされること、そういった風潮に批判の声が上がらないことに違和感を覚えた次第です。

差別だけでなく格差や貧困の解消、何も持たない人間の自立には、残念ながら教育以外に手段を見い出せません。 40年ほど前に放送されたドラマだから、と言われれば致し方ない話かもしれません。マララ・ユサフザイ氏のスピーチもその後のことですから。

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