2013年5月25日土曜日

苦瓜

少し時が早いかもしませんが...

十分に冷やしたゴーヤーチャンプルーの丼について触れずして初夏〜盛夏の料理について語る...

そういった輩の投稿、口コミに果して信憑性があるのでしょうか。



補遺

トマトと卵の中華風炒めの丼を追加致します。(但し、よく冷やした場合に限ります。)

2013年5月21日火曜日

記憶

あるブログで紹介があったので読んでみました。

この日本で生きる君が知っておくべき「戦後史の学び方」 池上彰教授の東工大講義(池上彰)

15項目の戦後史のトピックスについて解りやすく解説してあります。

ただ、この本そのままが理系大学生の初年度一般教養の内容とするなら概略過ぎるかな、といった印象です。詳述すれば、各々の項目だけで専門書何冊にもなってしまうテーマばかりです。しかしながら、数項目についてでもその思想的背景、歴史的経緯、他国との比較、現状と今後の展望などもう少し堀下げた内容が、大学生向け講義として適当だろうと思いました。例え理系であったとしてもです。

この本の内容のみに限るなら、戦後史に興味のある高校二、三年生向きといったところでしょうか。

いい年した私自身にとって、生徒、学生、社会人時代を通じ、正に新聞、テレビで現在進行中の事件として見聞した項目もあり、今となっては曖昧な記憶が改めて思い出される部分もあります。勿論、当時、初等教育過程で語られなかったことについては新たな事項として...

例えば、”日教組”の説明など、その当時一体誰が解説し得たのか、少なくとも周囲には誰もいませんでした。偏った情報が与えられず良かったのかもしれませんが...

”日教組”含め未だ疑問がある幾つかの項目があります。いずれ機会があれば記すつもりです。

期待

乙武洋匡氏の入店拒否騒動についてですが、双方の持つ期待のミスマッチということなんでしょう。共に各々が想定していた訪客、飲食店のイメージと実際との間に隔たりがあったわけです。

店側は、まさかエレベータの止まらない階にあり、階段での昇降の際も必ずしも空間的に余裕のない自分の店に、知名度はともかく、介助を必要とする予約客が訪問するとは思わなかった。一方、乙武氏も予約の際、車椅子であることを事前に伝えていなかった。おそらく、これまでの飲食店訪問で、それほど大きなトラブルがなかったのでしょう。或は、御自分の知名度が念頭にあり名前を出せば察してくれるだろう、といった部分があったのかもしれません。

いずれにせよ、両者がこれまで経験のない場面に遭遇した、で、物理的に解決困難という状態の中、各々の姿勢が衝突した、といったところでしょうか。事前に回避し得た問題です。

残念ながら、特に小規模な店舗、特にビル内にテナントとして入居、営業している店舗において、いわゆるバリアフリーの構造が満たされていない事例は珍しくありません。従って、事前に車椅子での訪問であること、来店に介助が必要であることを伝えてさえおけば、準備するなり、予約を断る等の対応が可能となり、騒動にまで至らなかったと考えます。

ところで、私達は飲食店に何を期待するのでしょうか。勿論、味、量、価格、雰囲気、サービス等全てに満足できればこの上ありません。しかしながら、当然、価格とそれ以外の項目はトレードオフの関係になっています。例えば、食べログ等の匿名投稿サイトでは常設屋台のような飲食店でサービスが...とか乳幼児同伴を想定した飲食店で子供が騒がしい、と低い評価をつけた投稿をしばしば目にします。

上記項目全てを満たそうとする飲食店もあれば、一つの項目には特に拘って注力する飲食店もあります。これは正に飲食店のスタイルであり、責めるべき根拠は客側にはないのではないでしょうか。

ネットワーク上には、事前に伝えずとも対応するべきだとか、米国では...といった声があるようですが、法的な整備が十分でない時期に建築された商業ビルにバリアフリー構造が満たされていない事実からは逃れられません。又、一部の優位な部分だけを取り上げて、欧米では...だから日本は...といった考えには全く与できません。

件の店で、”料理と共に最高のサービスを提供します”とでも唱っているならともかく、サイト上にもエレベータが止まらない旨表示があるわけですから、確認しておくべきだったと考えます。予約時点で確認できていれば、そういった店であり、こちらの望むサービスは難しい、事前に準備するかキャンセルするかの選択も可能でした。

私自身は名古屋郊外に居住し、乗用車での移動がほとんどです。そのため、市内中心部で飲食する際には必ず当該店舗の駐車場の有無を確認します。ただ、駐車場がないからといって劣った飲食店という判断はしません。

下調べも疎かに初めて訪れた店が定休日だった、営業時間外だったとして、果してその店を責められるでしょうか。

さかもと未明氏の騒動の原因となった、公共の交通機関への乳児の帯同と同根のものを感じ、更に、手前勝手に考えればモバイル機器の発達による、”段取る力”の低下の一端が垣間見えた気がしました。
 
現状を直視し、如何に問題を未然に防いで、円滑、できれば愉快に物事を進めるべく段取るには、といった視点に重きを置くべきと考えます。

2013年5月17日金曜日

反応

橋下大阪市長による件の発言に対する内外の批判について思ったところを少し、

朝日の報復なのか?

中国から人権について批判されるとは ...
どの口が...と失笑を禁じ得ません。

超保守稲田行革相 、橋下発言を全く擁護せず。人権化活動家に転向か?

目の錯覚なのか?現政権が中道寄りに見えてしまいます。

それはさておき、橋下氏は公教育を主導するべきではない、と改めて感じました。勿論、橋下氏以前を肯定するものではありません。教育に関する理念の不備を真っ当に是正することこそ喫緊の課題と考えます。

2013年5月16日木曜日

終焉

ルキウスさんのブログに
鮨屋のクレジットカード問題
といったエントリがあります。


――鮨屋でカードはどうなのか――

といった内容です。

とんと高級寿司屋とは御無沙汰の私から見れば、現金払いの姿の方がこざっぱりと映ります。ただ、予め予算を想定して銀行で新券を用意しておくのもなあ、と感じています。そこからが寿司を喰うということの始まりかもしれませんが、”気分でちょっと摘んでいこうか”といった緩い気持で訪れるということへのハードルが上がってしまいます。カード払いはそういったフットワークの軽い利用を促してくれるのではないかと...

カードの利用手数料の別途徴収についてはよく判りません。おそらく、”機会を逃しません”とか”未払いがありません”といったカード会社、或は、その代理店の甘言に誘われて契約してしまったのではないでしょうか。

で、契約してみたら勝手に口銭を取られ、不愉快だが契約期間もあるし、初期投資もあるのでなかなか解約できない、と邪推しています。カード会社との契約当初から手数料を、といった飲食店もあるかもしれません。

この話についてはここでこれ以上言及するつもりはありません。

本エントリで私が考えたことは、果して、銀行振り込みは歓迎されるのだろうか、ということです。大仰ではありません。スマートフォン始めモバイル端末とネットバンクの組み合わせで、同一行ならばほぼ時間を問わず瞬時に振り込みが完了してしまいます。振り込み手数料も毎回ではないにしても月にx回までは無料、といったネットバンクもあります。

このxが今後増大し、店も客もカード会社を飛ばして理不尽な中抜きを排除する方向に進むべきと考えます。現金一回払いの飲食客にとっては何ら問題ないどころか、社会の中に介在する出納システムの効率が向上していくのではないでしょうか。(支払いを翌月に、或は、分割で、といったカード払いの方はそもそも借金ですから高級寿司屋に行くべきではないでしょうし...)

問題が銀行とカード会社が同根であり既得権益を排除し、自発的にシェイプアップできるか否かでしょう。


これが相当困難かもしれません。



――では、直ちに振り込みますので口座番号を――

武骨すぎて却って共感を呼ばないでしょうか?

2013年5月14日火曜日

余裕

過日、お世話になった閑栖和尚様(隠居した禅僧のこと)の津送に参列したことがあります。僧俗問わず、又、社会的にも広く敬慕されていた方の葬儀であり、非常に多数の会葬者が参列した規模の大きな式でした。


この式は勿論ある意味公人の式ですから、一般個人の葬儀と規模も内容も異なりま
した。ただ、傍から見ていて、式を卒なく進行していくために相当な労力が段取り、下準備にかけられている、といった印象を持ちました。

一方、私の周囲で見聞する一般個人の葬儀は以前より更に簡素化が進んでいます。同居の親族だけ執り行う家族葬も全く珍しくありません。この傾向は例えば、”葬式は、要らない”(幻冬舎新書)や、しばしば週刊ダイヤモンド等雑誌の葬儀特集といった、出版物がきっかけではなく、既存のそういう共通認識が該出版物になったと捉えています。(この認識の正否、出版物の信憑性については言及しません。)

では、この共通認識の根源はどこ
あるのでしょうか。結婚式と異なり、場合によっては不本意で、不慣れな弔事を葬儀社に依頼することの不確かさ、不透明性は勿論あり、それが葬儀の簡素化へ向けさせているのは確かでしょう。

ただ、それだけではなく、スマートフォンを含む携帯に象徴される、”直ちに解を手に入れたい”、といった姿勢も多分に影響しているように感じます。

もはや、待ち合わせという表現が適切とは思えませんが、時間も場所も予め決めないで携帯で通話しながら落ち合うことが当り前の”待ち合わせ”になっています。


所定の時間内に、特定の場所に到着する、そのために何時に家を出てどの交通機関を使うか。そういった、ある目的を達成するために必要な行動は何か、どの行動が最適なのか、更にその準備等、いわゆる段取る力の低下、若しくは、段取ることの回避が該共通認識の一因にもなっている気がします。

通勤、通学の時間中、或は、旅行の移動中、手持ち無沙汰でメールをチェックしたり、サイトにアクセスする、時間の有効活用という見方も否定しません。ただ、思考するという視点からは、モバイル機器を所持せず、傍目には車窓を漫然と見ているようであっても、その日の段取り、懸案事項、些細な疑問、高遠な問題に思いを巡らせる方が時には有効ではないだろうかと思ったりします。

こういった、考えることに割ける余裕が狭められていく風潮、これがモバイル機器によるものなのか、その象徴がモバイル機器なのかはわかりません。

いずれにせよ、”段取る”に代表される、思考力の低下、若しくは、思考の回避も上記傾向の要因の一つではないだろうかと憶測しています。



スマートフォンやタブレットを使いすぎると頭が悪くなるんじゃないか

を拝読してそんな思いが頭を過りました。

2013年5月13日月曜日

効率

先日、京大で催された作家、村上春樹氏の講演について報道がありました。その際、2011年スペイン講演での内容の一部、過酷事故の要因ともされる原発推進政策の駆動源を”効率優先”にあるとした部分を偶々耳にし、違和感を覚えました。遅ればせながら思うところを記します。

私は、効率化志向がむしろ不十分ではなかったのではと考えます。後講釈ではありますが、事故の発生確率、被害の程度を含めた安全性、核廃棄物の処理等をも繰り入れて効率性を公正に評価したならば、それでも原発は発電システムとしての優位性は揺るぎないものだったのでしょうか。

実は、公正な評価を歪める圧力が本来効率性に含めて考慮すべき部分を排除、少なくとも、過少評価し、単に(発電単価)=(効率)としてしまったと憶測しています。この”公正な評価を歪める圧力”が意図的なものであったか否かについては不明ですが、この力が愚直に効率向上を図る、合理的に選択する姿勢を損なってきたのではないかということです。

勿論、結果論との自覚はあり、その指摘を否定しません。私自身は事故以前は漠然とですが原発はやむを得ないという立場でした。現在は電力需要、効率化に纏わる疑問についての理解が進むまで是非の判断を留保しています。

以上は電力を供給する側の効率についてです。一方、消費側の視点に立っても効率化志向がむしろ不十分では、といった印象を持っています。


とりとめもなく挙げてみます。各々についていずれ詳細に言及できれば、と思っています。


1.電子書籍化


例えば、”色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年”も旧来からの書籍の形とせず、電子書籍として出版すれば、製本に必要な素材始め、印刷、製本、流通は不要になります。書店での展示、在庫どころかリアルの店舗すら価値は縮小します。電子書籍として販売という形態にすれば、従来からの広告宣伝や販売促進にかける資源もかなりの効率化ができると考えます。

究極には、無償化してしまえばすれば出版社抜きで読者に直接作品を配本できるのではないでしょうか。



2.出版

毎年、莫大な量の書籍が上梓されます。その中で資源を消費して出版し、本という形態に留めておきたい、価値ある書籍がどれほどあるのでしょう。例えば、”ハダカの美奈子”、出版の必要があるのでしょうか。資源の浪費です。


3.テレビ放送

地上波とBS、チャンネル数を一方だけに削減、民放放送局を半減、地方局を解散しても社会に大きな影響はないと考えます。放送時間の短縮も効率化の一助ではないでしょうか。

例えば、天気予報、気象予報士という資格制度が創設される以前から、各局で定時に天気予報が放送されていましたが、現在ではオンデマンドで地デジのデータ放送やネット経由で天気予報を知ることができます。

各局が重複して天気予報を放送する意義をそれほど感じません。

報道番組についてもかなりの部分で重複している印象を持っています。

ただ、米議会調査局の報告書に関する報道(2013.5.11)のように必ずしも重複せず各局の思惑が見え隠れする場合もあります。該報告書内の従軍慰安婦(comfort girls)に関する記述が報道されたり、されなかったりで、局によって差がありました。

しかしながら、こういった差異は分かりにくく、建前で中立公正を唱うならば、いっそ偏向した報道姿勢を明確にする方がわかりやすく望ましいと考えます。


4.食料品

勿論、鮮魚店や精肉店も行きますが、他にも食料品を求めて成城石井、北野エース、西友、農協等によく赴きます。デパ地下の食品売場を訪れるのは年に一度でしょうか。デパ地下に限らずデパートは行く毎に気分を害することが多いので...

それはさておき、こういったスーパーには常に食料品が溢れています。当たり前のように、通常販売の食品に加え、相当量の賞味期限間近の食品、消費期限が近い食材が日々並べられています。-20%、-30%、半額といったシールが貼付けられたいわゆる見切り品の販売は以前よりかなり目立って顕著になったと感じています。需要と供給、価格の均衡が欠けた、余剰感を強く印象づけられます。

こういった見切り品、特に生鮮食材については購入、消費されなければ廃棄されるのでしょう。追跡、調査したことはありませんが、飲食店からの廃棄分も加えれば、日々膨大な食品廃棄物が生まれているのは明らかです。

”世界で生産される食料の半分が無駄に=英報告書”

身近な理不尽な例:“怒りのおでん”


原発に関わらずですが、これら食品廃棄物の”生産”、”廃棄”のために電力が消費されることに釈然としないものがあります。この現状で原発再稼働を、と宣われても...


全てではないでしょうが、”ゴミを生産して処理するのに電力が足りない”と見受けられる部分もあり、違和感を感じます。

原発再稼働とか食糧自給率を云々する以前に、食に纏わる最適化、効率化が図られるべきであり、その余地は十分にあるものと考えます。



5.パチンコ


今更、言及しませんが必要性を感じません。電力の供給余力が逼迫した場合、原発再稼働より前にパチンコ店の営業停止を優先すべきと考えます。

詳細は存じませんがかなり以前からカジノ合法化の検討が続けられています。同様な理由で賛同するつもりはありませんがパチンコ産業の解体、廃止と引換の公営カジノ運営ならば一考するかもしれません。


石原御大がそこまで踏み込むなら、その部分では見方を少しは変えようかと... 


6.スマートフォン

私の周囲でも多少はスマフォ利用者を見かけるのですが、生産的に活用されているのでしょうか。用途は会話、メールの送受信、ゲーム、地図、飲食店探し、株式取引、写真撮影、携帯音楽プレイヤー、通販、電子書籍端末、掲示板への投稿といったところでしょうか。

便利かもしれませんが生産的なのでしょうか?むしろ生産的活動に費す機会が削がれているように思えてなりません。確かに、便利という点では効率は向上しているのかもしれませんが、費用対効果は如何なものでしょうか。

ネットワークの効用を否定したりスマフォの機能を過小評価する意図は毛頭ありません。ただ、いわゆる業務での利用はさておき、スマフォの端末としての機能、性能、携帯性、ネットワークの利便性を十分活かし、相応して利用されているのだろうか。少なくとも上述の用途からはそれが窺えません。

これら用途に対しスマフォでなければならない理由が見当たらず、強いて言えば全てを1台で賄えるといった程度です。このことと、スマフォなど本来不要であろう利用者層の存在が、リソースの浪費のように見え、かえって非生産的、非効率に見えているのかもしれません。

ハードウェア、プラットホームの持つ機能、性能とソフトウェア、コンテンツの意義、価値、更に利用者の要求、目的のミスマッチが効率向上を妨げているように思えます。





思いつくままに漫然とあげつらってきました。

個々人の立場や価値観により、効率の見方には大きな差異があるであろうことは認識しています。ただ、放置すれば増大していくであろう電力供給への欲求に対し、求められるのは節度というか、足るを知る姿勢ではないでしょうか。

果たして、社会にそんな自律性が備わっているのか半信半疑です。如何に自律機能を付与し、高めていくか、或は、そんなことは可能なのかについて引続き頭を抱えてみようと思っています。

2013年5月11日土曜日

進展

ここの所のアベノミクス騒ぎに覆われ、身近なメディアによるいじめに関する報道は少なくなりました。衆目を集めるセンセーショナルな事実、問題解決に向かう進展がないためでしょうか。

メディアが大きく取り上げることはなくなりましたが、一時的なものと考えます。私には依然、この問題が解決に向かっているとは思えず、手詰り状態に陥っているのでは、と憶測しています。


いじめの定義自体には曖昧な部分があるものの、いじめそのものがなくなれば問題解決ではあります。残念ながら、現時点で私は”いじめをなくすことは不可能”といった立場です。ただ、問題解決がいじめ撲滅と等価である、即ち、いじめをなくすことが問題解決の唯一の方策であるとは考えていません。いじめをなくす方策についての検討が不要という訳ではありませんが、優先すべきはいじめによる被害をなくすことに注力すべきでしょう。

勿論、いじめ撲滅を唱わなければならない、或は、撲滅が可能と信じなければならない立場の人々がいることも承知していますが...
 

先の改憲についてのエントリで、法治や遵法意識が優先されるべきであり、これらの価値観はいじめ問題と関連付けられると記しました。憲法違反すら自律的に解消できない姿勢でいじめが撲滅できるのか、ということです。

遵法意識、即ち、”何故法は守らなければならないのか?”と同じく、いじめの加害者、或は、その予備軍に対し、”いじめはしてはいけないことである”と理解、納得させることは果して可能なのでしょうか。 


道徳的、倫理的にではなく、或は、感性に訴えることなく、合理的に理解させる論理を私は持ち合わせていません。以前、”いじめの正当性と道徳教育”といった記事を拝見しました。頷く部分は多々あるものの、やはり理解、納得段階の手前で留まっているように見受けられます。

”なぜいじめはいけないのか”といった問いに対し典型的な回答を幾つか耳にしますが、未だ十分な合理性を満たしているとは思えません


”法によって罰せられるから”や”因果報応”、”己がされて不快な行為を他人するべきではない”、”社会の要請”とか、”公共の福祉に反するから”といったところでしょうが、これら事由がどこまでいじめの抑止力として働くのでしょうか。 



思い浮かんだ事例を二つ程。



麻雀放浪記

読んだのはもう三十年以上前です。

社会に出る前の学生時分の印象として、読後感はとても爽やかといえるものではなく、寂寥感を覚えました。幼い自分の周囲と無頼の世界との間の相当な乖離を感じたのでしょう。   

それはさておき、”なぜいじめはいけないのか”について考えた時、漠然と本書が思い起こされました。詳細な言葉は思い出せなかったため検索してみた所、正しくこの言葉が浮かんだわけではありませんが(他の台詞だったような気もしますが)、

――負けた奴は、裸になる。――

――年を老ったら、博打打ちらしく野たれて死ぬこった。お前さんそういう生き方をしてきたんだろう。――

――指だろうが足だろうが、千切ってどっかへ持っていくがいいや。手前等が力ずくで何をしようと文句は言わねえ。俺だっていかさまをやる人間だ。今まで力で、金を奪って生きてきたんだ。力に泣くのはしょうがねえ。だが、その力に頭を下げることだけはしねえんだ。――

確かにその言葉かと問われても確信はありませんが、こういった趣旨の言葉でした。

年端のいかない生徒、学生の口からこういった言葉を聞くならば愕然とするわけですが、意識の底流にこういった考えが潜んでいる可能性を否定できるのでしょうか。

即ち、”己も傷つけられないために他者を殴らない”の裏となる、”己が責められることも厭わないが、他者をも攻撃する”といった考えを否定し得るか、ということです。自己責任という言葉の下、両者の例は枚挙に暇がありません。

後者で受ける責めは、報復、賠償、罰だったりします。勿論、被る損害と与えたそれは必ずしも等価にはなりません。又、この場合については、結果として社会全体の損失、不利益に繋がっていく恐れはあるかもしれませんが、上記二つの姿勢は意識として対等の関係にあると考えます。


後者は他者に被害を与える行為ですが、それはあくまで行為の結果としてであって、行為の直前まではイーブンの関係です。

私はこれに坑って否定する論拠を見出せないままでいます。
報復、賠償、罰を覚悟し、更には、あわよくば逃げ切ろうという姿勢、換言すれば、開きなおりに対抗する合理的な術はあり得るのでしょうか。

解があるとすれば前の違憲状態も判決が下される前に解消されているのでは、と考えます



スポーツ


反則や罰則に対する捉え方がスポーツの種目で大きな差異があると感じています。ラグビー、サッカー、水球といった選手同士の接触を伴う格闘技型(?)と野球やバレーボール、ゴルフといった非接触のスポーツの違いでしょうか。

例えば、サッカーの試合において、ゴール前で反則してでも得点されるのを阻止する光景は珍しいものではありません。全く以って当たり前に見ることができます。

この行為がペナルティという代償を課せられることを承知の上でなされているのは明らかです。

この時、反則か否かといった判断は審判にのみ委ねられており、審判に反則を指摘されなければ尚好ましい、といった心理もなくはないだろうと憶測します。

 ”ばか正直の飛雄馬”(巨人の星)のような実話は寡聞にして知りません。

実は反射的なものかもしれませんが、こういった行為に至らしめる意識は、スポーツという枠組内のみに留められているものでしょうか。

ある特定のルール下にあるスポーツという場、法を拠り所にして秩序を維持しようとする現実社会の場、構図自体には大きな差異はないものと認識しています。スポーツ社会の中に内包された一部ではありますが、該意識が両者の間で適切に峻別、制御されているのでしょうか。実際には切り分け、切替えは曖昧になっていると感じます。

即ち、現実社会においても、法に対する意識は必ずしも、法を逸脱したら代償を払わなければならない、或は、代償を払わなければならないから逸脱しない、といった姿勢のみで構成されてはいないと推測しています。代償を払えば法を逸脱しても構わない、或は、代償を払う覚悟で逸脱する、といった姿勢も多分にあるものと考えます。

代償と引換に違反、反則が正当化されていると捉えることができます。

スポーツの世界と現実社会を同一視するのは適切ではありませんが、メディアが臨場感やリアリティを観衆に実感させようと垣根を取り払うべく煽っている気もします。 

スポーツの世界と現実社会、法(ルール)に対し同根の意識があると考えます。こういった意識といじめの防止、どのように整合性を図るべきでしょうか。

当事者間、延いては社会全体の不利益を抑えるため、程度しか私には思いつきません。これではいじめ加害者の理解を得て納得させるには理が不十分です。

初等教育課程、家庭教育におけるこういった部分の欠如、不足がいじめに纏わる問題が燻ぶり続ける要因と推測します。

明解な論拠提唱は現在の所、難題であると思います。新たな価値観の創出とまで至らずとも、指針になり得る論理の進捗を期待し、問題解消に向けたなんらかの光明が差し込むことを願います。

2013年5月5日日曜日

先日も少し触れましたが、”消費税還元セールを禁止する特措法”が話題になりました。

取り引き上で立場の強い小売業者から納入業者に対する不当な値引き圧力の防止が目的とのことです。実は消費増税が敵視され増税阻止への気運の高まりを懸念して、早期に芽を摘んでおきたいということなのでしょう。

”どのように悪者に仕立て上げるか”は政策、選挙等で用いられる、常套的な政治手法であります。特に今日、一旦敵に祭り上げられてしまうと、正に”ドブに落ちた犬は叩け”状態に陥り、集団いじめの様相を呈してきます。そこからの挽回、回復は容易ではありません。

そういった状況を回避したいという意図は理解できない訳ではありませんが、全くもってお門違いです。

特措法が成立しても立場の弱い側への圧力が低下するとは思えません。手を変え品を変え圧力は続くものと考えます。

公正取引委員会の権限強化、独占禁止法の厳正な運用を検討されたら如何でしょう。

いずれにせよこの特措法には国家社会主義的抑圧を感じます。規制すべきは、大手流通が消費税還元と銘打って、既に悪者である消費税への衆目を集めることではありません。

そんな余力は、大手流通や外食チェーンが鰻を扱うことへの規制に向けられるべきだと考えます。

滲透

私の行動範囲内に限れば、蕎野、江月、そば清は美味い蕎麦が食べられる店です。そば清はうどんも提供されているのでそば専門と言えば蕎野、江月ということになるでしょうか。で、こういった専門店であっても昼食時に訪れれば必ずランチセットというか昼定食といった呼称で蕎麦とご飯もの(天丼他)を組み合わせたメニューが用意されています。

洗練とか粋といった仕草とは全く無縁の私にとってはありがたいのですが、”粋”を連想させる蕎麦専門の店で丼と蕎麦のセットメニューが何となく野暮ったく見えるのは気のせいでしょうか。(昼のメニューからなくされたら非常に困りますが...)

蕎麦専門店の歴史がそれほど古くない、元々きしめん、味噌煮込みといったうどん地域である名古屋圏の特徴かもしれません。

以前、少し考えてみました。

 

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いわゆる、名古屋メシの麺物の例として味噌煮込みうどん、きしめん、あんかけスパゲッティが挙げられています。実は私は、これらの根底には麺と共に”当然のように”飯を喰らう習慣があり、これこそが名古屋メシの本質ではないだろうかと思っています。


ラーメンをおかずに飯を喰らうのも、確かにラーメンライスという組み合わせ自体は全国的なメニューかもしれませんが、名古屋、正確には名古屋近郊以外の地域ではこれほど広く深く浸透していないような気がします。ラーメンそのものは名古屋近辺では比較的歴史の浅い麺物ですが、遡って中華そばと飯との組み合わせという視点から、ラーメン、若しくは、中華そばと飯のセットも十分名古屋メシの範疇にあるのではないでしょうか。

きっかけは関東以北出身者からの指摘でした。名古屋、正確には名古屋近郊も含めてですが、この地域では特にランチタイムにうどん、或は、きしめんとご飯、それにフライやてんぷら等の揚げ物を組み合わせて定食としたメニューが当り前のようにお品書きの筆頭や店頭、店内の壁の最も目立つ場所に表示されています。昼食のメニューには定食と双壁をなすものとして、一方がミニサイズとなることもありますが丼物と麺類の組合せも非常によく目につきます。指摘はこの丼物を含むご飯と麺類の組合せのあたり前さが奇異に感じる、といったものでした。

 

―― うどんを主としておにぎりや稲荷ずしを食べることはあるが、これはあくまでうどんのみでは量的に不十分な場合を補うサイドメニューである。おにぎりや稲荷ずしはうどんと切り離しても食事として成立する。しかしながら、それだけで食事として成立しない白飯と、麺類の組み合わせは受け入れ難い。又、丼物と麺物の組み合わせに至っては、何故麺類と共に丼物を食べる必要があるのか。丼物か麺類の一方だけで十分ではないか。なぜことさらに麺類と共に飯を喰らおうとするのか。――

 

確かに、私自身、関東での学生時代、貧乏学生のインフラの一つである学生街の中華屋でラーメンライスを食べたことがありませんでした。焼きそばを含む中華の麺類とご飯を注文し喰らう姿は、同級生からも、その店に居合わせた他の客からも見られませんでした。いくら空腹であっても注文するのは麺類かご飯物のいずれかでせいぜい大盛にする程度でした。メニューに麺類とご飯物を組み合わせたセットメニューを目にした記憶もありません。ラーメンライスを食べている客を見たのは5年間で一度位でしょうか。

その後勤め人として暮らした、東北、関東でも会社の社員食堂で麺類とご飯物のセットメニューはありませんでした。ただ、食欲だけは旺盛な若手でしたから、奇異な目(?)で見られながらもいわゆる定食や丼物に麺類を追加して勝手にセットメニューにしていました。名古屋圏の量を勘案したセットメニューではなかったため、各々一人前たっぷりありましたから結構な量でした。


先輩、後輩、同期といった私と同世代の人間も同様に食欲旺盛であったはずですが、他に勝手なセットメニューを食べている姿は記憶に残っていませんから、殆どいなかったと思います。街の極普通の蕎麦屋でもセットメニューはなく、丼物とそばの組み合わせを個別に注文していました。私の場合、この頃から麺類と共に飯を喰いたいという欲求が蘇ったような気がします。

ここで蘇ったと表現したのは、好むと好まざるに関わらず、義務教育過程の給食において既にみそ汁で煮たような味噌煮込み、焼きそば、ナポリタンやインディアンと称されたスパゲッティ等の麺類と食パンの組み合わせで、又、家庭でもうどんや焼きそばと白飯の組み合わせで食事を摂っていた原体験があるためです。麺を喰う時、白飯が欲しくなるこの性がDNAに刻み込まれているとまではオーバーですが、骨の髄まで滲み込んでいると言っても過言ではないでしょう。

白飯と組み合わせる麺について考えてみると、おそらく私はうどんやきしめんを一汁三菜といった定食における汁物と位置づけています。そのため主食である白飯が必要となり、又、同時に供されるフライ等の揚げ物を副菜として当然のように受け入れているのでしょう。一方、味噌煮込みの場合、その濃厚な食味が白飯とよく合い、従って、白飯が進む汁物の役割を併せ持つ副菜として捉えられているものと考えます。名古屋圏で妙にカレーうどんが人気なのは味噌煮込みといった味が濃く白飯が進む先行例があるためではないでしょうか。

きしめんや味噌煮込みは名古屋文化圏に特徴的な料理として挙げられていますが、その根幹には
――うどんやきしめんは汁物として、又、味噌煮込みやカレーうどんのみならず、中華、挙句には焼きそばやスパゲッティすら副菜として白飯と共に喰らう――
があり、このことこそが名古屋圏における食文化の本質ではないかと考えています。

気概

憲法記念日です。巷間、改憲の是非が盛んに議論されています。

現時点で、改憲の是非について言及する意図は私には全くありません。改憲について云々する前に法治の意味、或いは、遵法の意識について明確にしておくべきではないかと思っています。

極論すれば、遵法意識に乏しい状況下で改憲に意義は見出せるのでしょうか、疑問です。あらゆる犠牲と引き換えても憲法を厳守する、そういった覚悟が問われることなく改憲の議論のみが先行しているように見受けられます。

揺るぎない遵法意識が確立していないならば、現行憲法のままで構わないのではないでしょうか。違憲か合憲かという判断が曖昧な場合であっても、これまでのように時流に合わせた都合のいい解釈で目を瞑っていれば時間は流れていきます。更には、一票の格差問題に対する長期に渡る違憲状態の放置、違憲どころか選挙無効とまで判断された先日の裁判で、判決に対する緊急避難的と言えば聞こえはいいが、実は当面の鉾先を鈍らせるべくその場しのぎの対応、とても法治国家の礎として憲法を尊重し遵守しようという姿勢が窺えません。

ここ数日、議論の中心は改憲のハードルを下げる第九十六条についてですが、己の遵法意識を棚に上げ、そこまで改憲に固執する必要はあるのでしょうか。これまで憲法に対する遵法意識が確固として堅持されてきたわけではありませんから、”たとえ憲法違反との誹りを受けようとも、国益に資するならば違憲となることを躊躇しない”、といった毅然とした意思で憲法と向き合うことも一つの理があると考えます。

中途半端な遵法意識で、浅薄な議論によって第九十六条を弄り憲法全体に影響を及ぼす前に、自らの襟を正されることを願います。違憲や無効との判断が下された選挙によって選出された議員で構成される立法府、ここでの決議の正当性を問うことについては卵が先か鶏が先かになり不毛です。ただ、足元の違憲状態を最優先に解消し、合憲であることに疑う余地のない立法府が確立してこそ、改憲についての議論に尊重すべき意義が生まれると考えます。

改憲の目的について、現行憲法は余りに実態にそぐわないから、といった発言も耳にします。現状が違憲だから改憲して合憲化する?
大丈夫なのでしょうか。上述した”違憲となることを躊躇しない”より危惧すべき主張です。違憲になったら改憲すればいい、といった論理に流されてしまいます。憲法改正の発議要件どころか、一票の格差も、戦力の保持も、自在に合憲化できてしまいます。現状追認憲法では国家としての理念、目指すべき姿が見出せません。

勿論、私自身はいわゆる護憲派ではありません。現行憲法が実態と乖離していることは承知しており、例えば、集団的自衛権を行使すべく自衛隊の再定義は必要と考えています。ただ、現状が違憲だから改憲して合憲化するという理由には全く合理性を認めません。たとえそれが念頭にあったとしても口にするべきではなく、多くの国民の合意形成に導く論理の構築を優先すべきでしょう。

シャツのボタンを留め間違えた時、それが正しいと主張しボタンを掛けたまま袖、襟、身頃を外し、その状態に合わせてシャツを仕立て直すでしょうか。一旦全てのボタンを外し、正しく留め直すのが自然です。


尚、法治、遵法の捉え方はいじめや体罰問題の根本にも大きく関連付けられると考えています。いずれ記すつもりです。

2013年5月3日金曜日

解約

本日(5/3)、新聞テレビ欄に
 

――金曜ロードSHOW!「特別エンターテインメント池上彰くんに教えたいニュース」――
番組内容     池上彰でも知らない事がある!各界の賢人に学ぶ今を読み解くキーワードが続々....

とありましたので、私も一つ。できれば、是非池上さんに解説願いたいのですが....

テレビを保有していなくても携帯電話を保有しているならばNHKとの受信契約、即ち、受信料支払いの義務が発生する、ということをご存知でしょうか。テレビ放送が受信可能な機器、たとえその機器がテレビ放送の受信を目的とした保有ではないとしても、携帯電話やカーナビにワンセグ放送の受信機能があるならば契約の義務があるとのことです。

視聴するに値しない番組がほとんどだからテレビは購入しない、固定電話は不要で携帯だけで十分、で、その携帯電話にワンセグ放送の受信機能が付加されている。視聴するどころか、受信さえ希望していないにも関わらず、NHKとの契約の義務発生...不愉快です。

問題なのはNTTドコモについてしか存じませんが、ガラケーと呼称されるほぼ全ての機種にワンセグ受信機能が付加されており、又、この機能を除外できないことです。受信機能のない機種は高齢者向けの”らくらくフォン”一機種と何種かのスマートフォンのみ。ガラケーで十分と思っている人には機種変更の自由度はほぼ皆無です。

NTTドコモが全てのガラケー使用者にスマートフォンへの移行を促したいのか、或は、NHKが、テレビ保有の有無に関わらず全世帯から受信料を徴収する意図なのでしょうか。

著しい不快感を持ってます。結局、テレビを保有し、既に受信料を支払っている世帯のワンセグ受信機能のないらくらくフォンと交換しました。交換はSIMカードも交換して行いましたが、バックアップを取ったり、メモリ容量不足でデータをすべて交換できなかったり非常に面倒でした。

この当事者は私ではありません。私はテレビを保有し受信料を支払っています。ただ、現在のテレビが耐用年数を迎え、又は、故障した時、更新するつもりが失せました。NHKとの受信契約を解約します。テレビ放送を受信する意思がなく、偶々保有している携帯電話にワンセグ受信機能があるといういう理由で受信契約を迫るNHKの姿勢に公共性や公正性は全く感じられません。

池上さんに解説して頂ければ幸いです。

萌芽

一連の記事を書き進めていく中で強く感じたことがあります。
 

その間、いじめや体罰に関連した事件がメディアで盛んに取り上げられ、道徳教育の教科化が検討され始めました。現場の教員のみならずこの教科化を提唱、議論、推進する側の道徳心は?、又、道徳教育の目標像、或は、目標を達成する手段は?、といった点で、私自身は教科化の効果には懐疑的です。 

例えば、ヘルメットに迷彩服といった出で立ちで戦車に乗り込み嬉々として手を振る首相や与党幹部、靖国神社を参拝したり供物奉納する閣僚や与党国会議員、”消費税還元セール”に対し抑圧的な姿勢を示す大臣、そういった方々を政権中枢に擁する政府が推進する道徳教育、危惧せざるを得ません。

私自身は特段上記二つのナショナリスティックな行動を否定する意図はありません。ただ、そういった行動を基に抑圧的な姿勢で、個人の思想、信条とも無関係ではない道徳教育が進められることの危うさを強く感じます。

まさか、聖人君子を養成するわけではないにしても、道徳心の育成や向上が目的なのでしょう。勿論、道徳教育が不要とは思いませんが、精神の根幹部分に関わる問題です。期間が限られた有識者会議等で安易な結論が出されてしまうことを恐れます。
 

初等教育課程では、これまでの記事で扱った、"空路を利用した移動における乳児の帯同"、"乳幼児を伴った場合の新幹線の座席(自由席、指定席)の利用ルール"といった具体例を通じて身近な日常生活の知識、ルールを周知すべきではないでしょうか。そういった具体例におけるルール遵守の蓄積が公共の場での行動規範となり、”道徳教育”などと大上段に構えずとも、公共の場におけるマナー、ひいては各個人の道徳心の萌芽、育成へと昇華していくものと考えます。
 

尤も、ネットワーク上の論争を見れば、上記二つの題材についてでさえ明確な解が得られないかもしれません。ただ、少なくともそういったテーマについて考察することが、内包する問題を意識した行動に繋がり、それが各々の道徳心の礎形成に大きな役割を果たすであろうことを期待しています。
 

乗物に偏ってしまいますが自転車の通行方法も一つの事例です。今日、どれだけの生徒、学生が車道の左側通行を意識的に遵守しているのでしょう。勿論、学生のみに限らず、いい大人も含まれますが...
 


又、自転車の運転についての規制が曖昧な基準で運用されている状況下、中高生が自転車通学に利用する経路に関する安全性、適法性の検討、評価を行う責任主体はどこにあるのでしょうか。
 

実質的に野放し状態になっているのが現状で。とても学校、警察を含めた行政が責任を持って生徒、学生の自転車通学路を選定、指導、評価しているとは思えません。
 

自転車の通行に関する規制に曖昧な部分があるならば、生徒、学生、更には、彼らの保護者に対し、相応にきめ細かい教育、指導が必要なはずです。ただ、自転車通学する生徒、学生の通学路を学校、警察が個々の事情を考慮して綿密に評価、指導したという事例を私は存じません。
 

実際、自動車専用道路に近い、歩道がなく往来の激しい幹線道路を高校生が自転車で右側通行する姿を目撃しています。
 

こういった身近な日常生活に纏わる、安全についての交通ルールでさえ遵守されていない、又、遵守すべく指導、教育も為されていない現状では、道徳教育の意義とその実効性に疑問を持たざるを得ません。
 

本来合理性に依拠しているであろう、日常生活の支障を未然に防ぐ身近なルールやマナーの遵守、或いは、それらを遵守するための指導や教育、これらの現状が改善されることがより精神の根幹に関わる道徳についての議論の始まりと考えます。


更に、しつこく乗物に偏りますが、教育で伝えて頂きたい知識の例を一つ挙げます。


数年前まで自宅である名古屋市近郊と千葉県浦安市(JR新浦安駅)を往来することがありました。JR新浦安駅から自宅へ向かう場合には、新幹線に乗り換える前に東京駅の改札を出ることが許され、駅外で昼食を摂ったり、或は、手土産を購入することが可能でした。ところが、自宅から浦安に向かう際には、新幹線に乗車する前の名古屋駅での途中下車が許されませんでした。少なくとも私にとっては理不尽で長い間疑問でした。思い出して調べてみて、違いを理解したのは最近です。
 

新浦安に向かう時にはJRを大曽根駅(名古屋市内の駅)から利用していたことが問題でした。乗車券は”名古屋市内から新浦安行き”となります。この場合名古屋市内の駅間で途中下車は認められません。一方、自宅へ向かう場合の乗車券は”新浦安から名古屋市内行き”であり、東京駅は途中駅であるから下車が許された、ということです。

当然と指摘されれば私が至らなかったわけですが、名古屋駅で途中下車を拒否された時、JR職員から説明を受けてもいません。JR側からすれば説明するまでもない当り前のことという意識だったのでしょう。(私も"東京駅では途中下車できた"という不明確な物言いでした。)

このルールが教育で伝えられるべき知識ということではありません。日常生活において、より不可欠であるが正しく伝えられていない、教育されていないルールや情報が実は他にも数多くあるのではないかということです。
 

繰り返しになりますが、初等教育課程では曖昧な部分が排除できない道徳教育を押しつけるのではなく、最低限必要な日常生活の知識、ルールの周知を優先し、それに伴う道徳心、公共心の自発的な萌芽、育成を図るべきと考えます。

(終)

2013年5月1日水曜日

予測

生来の文才のなさに加え、実生活での雑事に忙殺されて、更新を滞らせていました。その間も政治、社会、経済、教育、メディア、科学技術、スポーツの分野で時々刻々と興味ある事案が現れ流転しています。折良く所感を記すことはできませんが、その根幹について考える機会があれば、と思っています。

さて、さかもと氏の騒動は、旅客機内で偶々母親と共に同乗していた乳児が止むことなく泣き続けたことに原因がありました。それでは、乳児を同伴した移動で空路を利用せざるを得ない場合、保護者の行動に望まれる姿勢とは一体どういったものでしょうか。

残念ながら、全くもってありきたりな思いつきしか挙げられません。”移動中に起こり得る事態を想定し、事前の準備を怠らない”に尽き、如何に多様な事態を想定するかが肝要と考えます。事態と共にその理由が予め把握できていれば対策の用意も難くないはずです。

例えば、建築や土木、製造の現場、或いは、自動車の運転に際し、事故を未然に防ぐ安全活動の一つとして危険予知トレーニングといった手法があります。これは、平常のある状況を示すイラストや写真を見て、そこにどういった危険が潜み、発生し得る事故を想定する訓練です。この活動は実際の現場での安全対策を講じることに有用であるだけでなく、イラストや写真を見ることで状況を客観的に把握し、この後何が起こり得るかを推測する力の養成にも効果的です。

こういった手法を応用し、題材の体系化と事例の蓄積を進めれば、少しづつであっても不測の事態の低減に繋がるでしょう。

いずれにせよ、別のエントリでも触れた言葉ですが、(起こり得る事態を想定し)用意周到、(入念な)準備万端、(事態の兆候に応じ)先手必勝こそが保護者に望まれる姿勢と考えます。

付け加えれば、鉄道会社や航空会社といった運行管理者には乳児を同伴した移動で起こり得る事態例に留まらず、自らに生じ得る事態を各乗客自身が想定するために有用な資料の提供を期待します。