2013年5月14日火曜日

余裕

過日、お世話になった閑栖和尚様(隠居した禅僧のこと)の津送に参列したことがあります。僧俗問わず、又、社会的にも広く敬慕されていた方の葬儀であり、非常に多数の会葬者が参列した規模の大きな式でした。


この式は勿論ある意味公人の式ですから、一般個人の葬儀と規模も内容も異なりま
した。ただ、傍から見ていて、式を卒なく進行していくために相当な労力が段取り、下準備にかけられている、といった印象を持ちました。

一方、私の周囲で見聞する一般個人の葬儀は以前より更に簡素化が進んでいます。同居の親族だけ執り行う家族葬も全く珍しくありません。この傾向は例えば、”葬式は、要らない”(幻冬舎新書)や、しばしば週刊ダイヤモンド等雑誌の葬儀特集といった、出版物がきっかけではなく、既存のそういう共通認識が該出版物になったと捉えています。(この認識の正否、出版物の信憑性については言及しません。)

では、この共通認識の根源はどこ
あるのでしょうか。結婚式と異なり、場合によっては不本意で、不慣れな弔事を葬儀社に依頼することの不確かさ、不透明性は勿論あり、それが葬儀の簡素化へ向けさせているのは確かでしょう。

ただ、それだけではなく、スマートフォンを含む携帯に象徴される、”直ちに解を手に入れたい”、といった姿勢も多分に影響しているように感じます。

もはや、待ち合わせという表現が適切とは思えませんが、時間も場所も予め決めないで携帯で通話しながら落ち合うことが当り前の”待ち合わせ”になっています。


所定の時間内に、特定の場所に到着する、そのために何時に家を出てどの交通機関を使うか。そういった、ある目的を達成するために必要な行動は何か、どの行動が最適なのか、更にその準備等、いわゆる段取る力の低下、若しくは、段取ることの回避が該共通認識の一因にもなっている気がします。

通勤、通学の時間中、或は、旅行の移動中、手持ち無沙汰でメールをチェックしたり、サイトにアクセスする、時間の有効活用という見方も否定しません。ただ、思考するという視点からは、モバイル機器を所持せず、傍目には車窓を漫然と見ているようであっても、その日の段取り、懸案事項、些細な疑問、高遠な問題に思いを巡らせる方が時には有効ではないだろうかと思ったりします。

こういった、考えることに割ける余裕が狭められていく風潮、これがモバイル機器によるものなのか、その象徴がモバイル機器なのかはわかりません。

いずれにせよ、”段取る”に代表される、思考力の低下、若しくは、思考の回避も上記傾向の要因の一つではないだろうかと憶測しています。



スマートフォンやタブレットを使いすぎると頭が悪くなるんじゃないか

を拝読してそんな思いが頭を過りました。