2013年5月5日日曜日

気概

憲法記念日です。巷間、改憲の是非が盛んに議論されています。

現時点で、改憲の是非について言及する意図は私には全くありません。改憲について云々する前に法治の意味、或いは、遵法の意識について明確にしておくべきではないかと思っています。

極論すれば、遵法意識に乏しい状況下で改憲に意義は見出せるのでしょうか、疑問です。あらゆる犠牲と引き換えても憲法を厳守する、そういった覚悟が問われることなく改憲の議論のみが先行しているように見受けられます。

揺るぎない遵法意識が確立していないならば、現行憲法のままで構わないのではないでしょうか。違憲か合憲かという判断が曖昧な場合であっても、これまでのように時流に合わせた都合のいい解釈で目を瞑っていれば時間は流れていきます。更には、一票の格差問題に対する長期に渡る違憲状態の放置、違憲どころか選挙無効とまで判断された先日の裁判で、判決に対する緊急避難的と言えば聞こえはいいが、実は当面の鉾先を鈍らせるべくその場しのぎの対応、とても法治国家の礎として憲法を尊重し遵守しようという姿勢が窺えません。

ここ数日、議論の中心は改憲のハードルを下げる第九十六条についてですが、己の遵法意識を棚に上げ、そこまで改憲に固執する必要はあるのでしょうか。これまで憲法に対する遵法意識が確固として堅持されてきたわけではありませんから、”たとえ憲法違反との誹りを受けようとも、国益に資するならば違憲となることを躊躇しない”、といった毅然とした意思で憲法と向き合うことも一つの理があると考えます。

中途半端な遵法意識で、浅薄な議論によって第九十六条を弄り憲法全体に影響を及ぼす前に、自らの襟を正されることを願います。違憲や無効との判断が下された選挙によって選出された議員で構成される立法府、ここでの決議の正当性を問うことについては卵が先か鶏が先かになり不毛です。ただ、足元の違憲状態を最優先に解消し、合憲であることに疑う余地のない立法府が確立してこそ、改憲についての議論に尊重すべき意義が生まれると考えます。

改憲の目的について、現行憲法は余りに実態にそぐわないから、といった発言も耳にします。現状が違憲だから改憲して合憲化する?
大丈夫なのでしょうか。上述した”違憲となることを躊躇しない”より危惧すべき主張です。違憲になったら改憲すればいい、といった論理に流されてしまいます。憲法改正の発議要件どころか、一票の格差も、戦力の保持も、自在に合憲化できてしまいます。現状追認憲法では国家としての理念、目指すべき姿が見出せません。

勿論、私自身はいわゆる護憲派ではありません。現行憲法が実態と乖離していることは承知しており、例えば、集団的自衛権を行使すべく自衛隊の再定義は必要と考えています。ただ、現状が違憲だから改憲して合憲化するという理由には全く合理性を認めません。たとえそれが念頭にあったとしても口にするべきではなく、多くの国民の合意形成に導く論理の構築を優先すべきでしょう。

シャツのボタンを留め間違えた時、それが正しいと主張しボタンを掛けたまま袖、襟、身頃を外し、その状態に合わせてシャツを仕立て直すでしょうか。一旦全てのボタンを外し、正しく留め直すのが自然です。


尚、法治、遵法の捉え方はいじめや体罰問題の根本にも大きく関連付けられると考えています。いずれ記すつもりです。