2013年5月3日金曜日

萌芽

一連の記事を書き進めていく中で強く感じたことがあります。
 

その間、いじめや体罰に関連した事件がメディアで盛んに取り上げられ、道徳教育の教科化が検討され始めました。現場の教員のみならずこの教科化を提唱、議論、推進する側の道徳心は?、又、道徳教育の目標像、或は、目標を達成する手段は?、といった点で、私自身は教科化の効果には懐疑的です。 

例えば、ヘルメットに迷彩服といった出で立ちで戦車に乗り込み嬉々として手を振る首相や与党幹部、靖国神社を参拝したり供物奉納する閣僚や与党国会議員、”消費税還元セール”に対し抑圧的な姿勢を示す大臣、そういった方々を政権中枢に擁する政府が推進する道徳教育、危惧せざるを得ません。

私自身は特段上記二つのナショナリスティックな行動を否定する意図はありません。ただ、そういった行動を基に抑圧的な姿勢で、個人の思想、信条とも無関係ではない道徳教育が進められることの危うさを強く感じます。

まさか、聖人君子を養成するわけではないにしても、道徳心の育成や向上が目的なのでしょう。勿論、道徳教育が不要とは思いませんが、精神の根幹部分に関わる問題です。期間が限られた有識者会議等で安易な結論が出されてしまうことを恐れます。
 

初等教育課程では、これまでの記事で扱った、"空路を利用した移動における乳児の帯同"、"乳幼児を伴った場合の新幹線の座席(自由席、指定席)の利用ルール"といった具体例を通じて身近な日常生活の知識、ルールを周知すべきではないでしょうか。そういった具体例におけるルール遵守の蓄積が公共の場での行動規範となり、”道徳教育”などと大上段に構えずとも、公共の場におけるマナー、ひいては各個人の道徳心の萌芽、育成へと昇華していくものと考えます。
 

尤も、ネットワーク上の論争を見れば、上記二つの題材についてでさえ明確な解が得られないかもしれません。ただ、少なくともそういったテーマについて考察することが、内包する問題を意識した行動に繋がり、それが各々の道徳心の礎形成に大きな役割を果たすであろうことを期待しています。
 

乗物に偏ってしまいますが自転車の通行方法も一つの事例です。今日、どれだけの生徒、学生が車道の左側通行を意識的に遵守しているのでしょう。勿論、学生のみに限らず、いい大人も含まれますが...
 


又、自転車の運転についての規制が曖昧な基準で運用されている状況下、中高生が自転車通学に利用する経路に関する安全性、適法性の検討、評価を行う責任主体はどこにあるのでしょうか。
 

実質的に野放し状態になっているのが現状で。とても学校、警察を含めた行政が責任を持って生徒、学生の自転車通学路を選定、指導、評価しているとは思えません。
 

自転車の通行に関する規制に曖昧な部分があるならば、生徒、学生、更には、彼らの保護者に対し、相応にきめ細かい教育、指導が必要なはずです。ただ、自転車通学する生徒、学生の通学路を学校、警察が個々の事情を考慮して綿密に評価、指導したという事例を私は存じません。
 

実際、自動車専用道路に近い、歩道がなく往来の激しい幹線道路を高校生が自転車で右側通行する姿を目撃しています。
 

こういった身近な日常生活に纏わる、安全についての交通ルールでさえ遵守されていない、又、遵守すべく指導、教育も為されていない現状では、道徳教育の意義とその実効性に疑問を持たざるを得ません。
 

本来合理性に依拠しているであろう、日常生活の支障を未然に防ぐ身近なルールやマナーの遵守、或いは、それらを遵守するための指導や教育、これらの現状が改善されることがより精神の根幹に関わる道徳についての議論の始まりと考えます。


更に、しつこく乗物に偏りますが、教育で伝えて頂きたい知識の例を一つ挙げます。


数年前まで自宅である名古屋市近郊と千葉県浦安市(JR新浦安駅)を往来することがありました。JR新浦安駅から自宅へ向かう場合には、新幹線に乗り換える前に東京駅の改札を出ることが許され、駅外で昼食を摂ったり、或は、手土産を購入することが可能でした。ところが、自宅から浦安に向かう際には、新幹線に乗車する前の名古屋駅での途中下車が許されませんでした。少なくとも私にとっては理不尽で長い間疑問でした。思い出して調べてみて、違いを理解したのは最近です。
 

新浦安に向かう時にはJRを大曽根駅(名古屋市内の駅)から利用していたことが問題でした。乗車券は”名古屋市内から新浦安行き”となります。この場合名古屋市内の駅間で途中下車は認められません。一方、自宅へ向かう場合の乗車券は”新浦安から名古屋市内行き”であり、東京駅は途中駅であるから下車が許された、ということです。

当然と指摘されれば私が至らなかったわけですが、名古屋駅で途中下車を拒否された時、JR職員から説明を受けてもいません。JR側からすれば説明するまでもない当り前のことという意識だったのでしょう。(私も"東京駅では途中下車できた"という不明確な物言いでした。)

このルールが教育で伝えられるべき知識ということではありません。日常生活において、より不可欠であるが正しく伝えられていない、教育されていないルールや情報が実は他にも数多くあるのではないかということです。
 

繰り返しになりますが、初等教育課程では曖昧な部分が排除できない道徳教育を押しつけるのではなく、最低限必要な日常生活の知識、ルールの周知を優先し、それに伴う道徳心、公共心の自発的な萌芽、育成を図るべきと考えます。

(終)

0 件のコメント:

コメントを投稿