2021年10月17日日曜日

物語(2)

 前のエントリに続けます。

そして、やはりMRJの開発もYS-11と同じく官が事業に絡んでいます。計画の発端は経産省で開発費の半分は国費から費出されたようです。

MRJ計画の発端は、2002年に経済産業省が発表した30席から50席クラスの小型ジェット機開発案「環境適応型高性能小型航空機」(同時発案に50人程度の小型航空機用ジェットエンジン開発「環境適応型小型航空機エンジン」)で、開発について機体メーカー3社(三菱重工業、川崎重工業、富士重工業)に提案を求めた。

開発期間は2003年度から5年間、開発費は500億円を予定し、その半分を国が補助するとした。Mitsubishi SpaceJetより

こういった政府主導の開発事業、業界再編で成功した事例というものがちょっと思い出せません。まぁ、斜陽や不振が予測されての再編ですし、買収や合併、民事再生や会社更生法の適用であれば新聞の紙面を賑わしますから。成功例が少ないのか、単に記憶に残っていないだけなのかよく判らない部分もあるのは確かですが。

ただ一方、JDI、ルネサスといった国策合弁会社の社名からはなかなか順風満帆のイメージは連想できません。エルピーダというDRAM製造会社もかつて存在していました。

そうなると、官が製造業に口を挟むと碌な結果にならないのは何故なのかが気になる処です。少し考えてみると、いくつかの理由が思い当たります。

その中で問題視すべきはやはり、前のエントリにも記した、”買ってくればいい”といった姿勢ではないかと考えます。

生産品そのもの、基幹部材、部品、或いは製造装置を購入して、若しくは技術導入しての商品化、自社ブランドでの販売は、明らかに安易です。後発が独自開発して製品化するより、時間や人材、費用といった投入資源は圧倒的に少なくて済みますから。

当然、投入資源に対するリターンも僅かですが、それより供給元を上回る付加価値の製品への付与が困難であることが問題です。外部からのモノ、サービスの供給、つまり金の力で製品ができたとしても、それは自社での研究、開発の放棄に他なりません。それでは常に先行メーカの後塵を拝し続けることになるだけでなく、技術的知見の蓄積もされず、独創的製品も生まれ難くなるのは道理です。

新たな知や、社会を変革する卓越した技術の創出が基礎研究の目的であるならば、”買ってくればいい”という姿勢はこれを蔑ろに、あまつさえ否定すらしているわけです。

それは、杓子定規に何から何まで自らが賄うという話ではなく、思想の話です。少なくとも、”買ってくればいい”ではなく、”悔しいが外部からの購入に頼らざるを得ない”であるべきと考えます。

では、その安直な買ってくればいい”は何に由来して生じるのか、根底には何が横臥しているのか、が当然気になります。まぁ、水は低きに流れますから、それも理由の一つではあるのでしょう。ただやはり、その根幹には、成果を求める圧力と無謬性の体質が潜んでいるのではないかと。

計画が立案承認されれば予算がついてあとは目標達成に邁進するのみ...計画に誤りなどあろうはずがなく、できて当然、できない方が異常であると。何せ、そのための計画があるわけですから。

極論を記せば、先行き不透明な独自技術の開発より、他所から買ってきてラベルを付け替えて、”できました。”と喧伝したほうが製品化の負担は低減できます。しかしながら、だからといってそれを効率的な製品開発とするのは全くの誤りです。

他の要因、例えば難易度やガイアツを考慮する必要はあるものの、自動車やプリンタと航空機やコンピュータの明暗を分けたのはその辺りに依る処が大きいのでは、と思量しています。

このような、目標が達成されて当然といった無謬の雰囲気の中では、誤りも誤りではなく常に成果が得られることになっています。独創的技術が創出され難い環境です。

ちなみに、この無謬の雰囲気で不足を補う手段として精神力を重視すると、それは旧日本軍になります。無謬性は日本の組織に内在する伝統的な体質かもしれません。そしてこれはとりもなおさずリスクを許容ないゼロリスク社会に繋がるわけです。

ゼロリスクと無謬は、絶対、完璧とか完全、万全の語で形容される、非現実的な修辞の表現に他なりません。理想や目標とするにしても虚構の域内に留まらせるべきで、実現する、した、できたとの言は妄言、虚言、或いは大言壮語、風呂敷の類です。

このようなゼロリスクや無謬といった語意に絶対性、完全性を想定させる語、或いは、直接に絶対、完璧、完全であることの喧伝欺瞞か空手形に過ぎず、不信感を招く以外のなにものでもありません。

それでも国会では、国家運営に責任ある方々が、”完全”、”完璧”、”絶対”、”全力”、”しっかり”、”ちゃんと”の語を日々乱発しています。リスク社会において完全とか完璧の語は却って発言者に対する不信感を募らせます。

最近では”完全”、”完璧”だけでなく”倍増”も怪しい語になりました。

10月14日、山際大志郎経済再生担当大臣は、岸田総理大臣が総裁選で掲げた「令和版所得倍増」について、「所得が2倍になるという意味ではない」との認識を示したという。この発言はテレビ朝日によって報じられ、大きな反響を呼んでいる。

拍子抜けというか、落胆している今日この頃ではあります。

話が随分明後日の方向に脱線しました。このリスクと信頼社会については折りに触れ記してみます。

話をプロジェクトXに戻します。あくまで主観ですが、今、求められているコンテンツは娯楽や感動のための成功物語ではなく、撤退やダメージコントロールの記録ではないかと考えます。製造業版

失敗の本質 日本軍の組織論的研究」(戸部良一、寺本義也、鎌田伸一、杉之尾孝生、村井友秀、野中郁次郎)

といった処でしょうか。妙に物語化した転進ではなく、あくまで撤退の記録です。技術の進歩や社会情勢の変化に伴う避け得ない事態です。それが日本的体質によるものか、バイアスと称される心理的偏向によるものかは存じませんが、次の成長に必要なものは過去の成功事例をなぞることではなく、失敗を研究し轍を踏まないことを重視すべきです。言うは易し行うは難しの話です。小池知事東京都の現都知事ある小池氏は、上記「失敗の本質」の推薦人の一人でした。都政の現状を鑑みれば、

”本当に読んだのか?”

との疑念が生じないでもありません。

ここの処、日本国内の半導体産業復活?活性化?のためにTSMC(台湾の半導体ファンドリ)の工場を誘致する、といった報道を見聞します。外国籍の会社の製造工場を国内に建設すれば自国の産業が復活する?理屈が理解できません。雇用確保以外に意味があるのだろうかと。かつて日産は英国で自動車生産を行っていました。(今も、かどうか詳細は存じません)で、日産は英国に製造工場を持つことで雇用を除いて英国の自動車産業に恩恵はあったのだろうか、ということです。

国費を拠出し、おそらく優遇措置も提示して半導体工場の誘致を進めるとのこと。”官が絡むと碌な結果にならない”の事例を増やすことにならなければいいのですが...


追記していきます。

2021年10月16日土曜日

物語

東京五輪の番組視聴率が好調とのこと。どう算出しているかは知りませんが、NHKの地上波、BSの4チャンネル中、3チャンネルで、加えて民放2〜3チャンネルで同時に五輪の番組を放送していれば、そりゃ、五輪の番組視聴率は高くなって当たり前です。五輪を放送しているチャンネルの視聴率の総和が東京五輪の番組視聴率と言っても間違いではありませんから。

で、仕方なく少し前に録画しておいたNHKの「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」を観ていたわけです。トヨタ自動車の最初の乗用車開発への挑戦についての番組でした。トヨタのフラッグシップカーとなるクラウンが誰によってどう開発に至ったか、開発物語、苦労話というか、まぁ、そんな内容でした。

その中に、出てくるわけです。根性とか度胸といった語が...

当時の技術開発には体育会系的な精神論が重視されていたのか、或いは、番組制作で脚色された”技術屋の根性が完成をもたらした壮絶な物語”なのかは存じません。ただ、開発の過程で、根性と度胸で頑張ります、頑張ろうといった声が聞こえるような場からはそっと距離を取って離れていきたい処です。

尤も、開発が恙無く完了し目標達成の後には、後日談として”根性と度胸で頑張りました”はよくある話です。ただ、それは自らによる意図的な脚色で、広報、宣伝といった販促活動、或いは企業のイメージ戦略の一環とも思われます。

公正中立を自負するみなさまのNHKが手がける、いわゆるドキュメンタリとは似て非なるものです。端からドキュメンタリ風開発ドラマと捉えられれば違和感のようなものを抱くことはないのでしょうが、当時の関係者の声や実際のエピソードを番組に巧み織り交ぜて真実性が醸し出されています。

うっかりというか素直に観れば、全て事実から構成されたドキュメンタリと見紛いかねません。これは当に、社会小説におえる山崎豊子、歴史小説における司馬遼太郎的手法を映像分野に適用した手法相違ありません

”画期的な技術開発に成功”という揺るぎない事実をゴールに定め、そこに至るプロセスを演出、折々にエピソードを挟み込んで全体として事実感に満ちた物語が展開されていきます。おそらく細部の演出によって紆余曲折、七転八倒、波乱万丈、獅子奮迅、山あり谷あり、喜怒哀楽が凝縮されたドラマの完成に至るわけです。

今思い返すと、番組中でも”・・・のドラマである。”とのナレーションが入っていたような気もしないではありません。

迫真に迫る良作であればあるほど難しいわけですが、虚実を見極めないままの盲目的な物語への思い入れには危うさを感じます。本来であれば、懐疑の念など持たず素直に開発の軌跡を辿りたいと思っていて、虚構や脚色を織り込んだ嵩上げした感動ドラマは御免被りたい、というのが正直な処です。

少し検索してみると、上記放送ではありませんが、過剰演出や脚色を指摘されたり、事実と異なるとして抗議を受けている事例もあるようです。トヨタ自動車のクラウンに関して、そういった話が出ているわけではありませんが、だからといって粉飾はなかった、一点の曇りもない事実であると断定できる根拠もありません。クラウンという国産乗用車の開発に成功したという事実以外は...

やはり、話半分というか割り引いて、或いは、斜に構えて盲信しない姿勢が必要かもしれません。ウィキペディアの説明では「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」のジャンルはドキュメンタリとなっているとしても...残念です。

さて、こういったドキュメンタリ的ドラマ云々の話はこの程度にして、プロジェクトXの題材となった時代背景の流れを受けた昨今について少し所感を記してみます。

上記プロジェクトXの国産乗用車(クラウン)開発物語の中で、

──国力の少ない日本では、乗用車の開発は無理──
との、当時の日銀総裁 一万田尚登氏の発言が取り上げられていました。ドッジラインによって当時林立していた国内自動車メーカーが苦境に喘いでいた頃でしょうか。確かに、資金も技術もない上、整理解雇や労働争議が頻発していて、国産乗用車の開発が遅々として進まない環境では、そういった声が上がるのも理解できないわけではありません。しかしながら、それを国家の経済活動の舵取りを担う、極めて枢要な立場にある中央銀行の総裁が発言するか、と理解に苦しみます。それは、工業立国、技術立国であることの放棄を意味する発言です。であるならば、自国存立の糧を何に依って得るのか、ビジョンを開陳し産業を提案すべきです。

日銀総裁だから日銀券をじゃぶじゃぶ印刷するからそれで輸入車を買えばいい、ということでもないと思いますが...少なくとも、国産乗用車の事業化を中央銀行の総裁の立場から支援するのが本来の責務と考えます。”国際分業の中では日本が自動車工業を育成するのは無意味である”という意見が根本にあったとしても、であれば何を担うのかを明確にする義務があります。

この流れが、後の乗用車輸入自由化に向けた、通産省主導による自動車業界再編の動きに繋がっていったのではないかと。上記発言で作家 清水一行による企業小説です。もはや題名すら定かではありませんがマツダをモデルにしたフィクションで、おそらく「世襲企業」だったかと。ロータリーエンジンの開発によって、そういった官主導による業界再編の圧力を跳ね返す、そんな話でした。

一万田氏は製鉄の分野でも、川崎製鉄が本格的高炉を備えた製鉄所を千葉に設する計画を耳にして、

──建設を強行するなら今にペンペン草をはやしてやる──

と言ったとか言わなかったとか...

繰り返しますが、それならそれで日本が依って立つ基盤産業を明示すべきです。

親方日の丸の意に添うことなく、自動車メーカ自らの意志と力で技術開発を推し進めたからこそ、自動車産業は日本の基幹産業として今尚隆盛を誇っている、という見方にも相当の合理性があると考えます。日本の製鉄メーカが開発を進めた、高性能の自動車向け鋼板も自動車産業の発展に寄与しているのは勿論です。まぁ、

官が製造業に口を挟むと碌な結果にならない

の裏返しといった処かもしれません。

上記「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」[国産乗用車(クラウン)開発物語]の再放送後でしょうか、今度は「翼はよみがえった 前編 YS-11開発」を観る機会がありました。戦後初の国産旅客機YS-11の開発に纏わる話でした。

こちらは、1956年に通産省主導で国産民間機計画が打ち出され、(財)輸送機設計研究協会が設立された処から具体化が始まりました。

──国内線の航空輸送を外国機に頼らず、さらに海外に輸出して、日本の国際収支(外貨獲得)に貢献する──

を目的として設計・開発には国費が投入され、製造も官民共同の特殊法人である日本航空機製造が製造を担いました。紛うことのない国家プロジェクトだったわけです。

上述のように、自動車の場合には、”国力の少ない日本では、乗用車の開発は無理”と否定、自動車業界再編を主導し、一方では、国が音頭を取って国産の旅客機を開発製造すると...

何故、”国力の少ない日本では、旅客機の開発は無理”という声が上がらなかったのか不思議です。”国際分業の中では日本が航空機製造業を育成するのは無意味である”とか。

国産乗用車の開発・製造は無理だが国産旅客機なら可能とする理屈が理解できません。素人目には自動車より航空機の方が開発の難易度は高いように思えるのですが...

国が関与することなくメーカー自らの意志と力で技術開発を進めた自動車と、国主導の護送船団方式で技術開発を推し進めた航空機、その違いが一つの理由かもしれません。

自らが足を突っ込んだら、無理とか無意味とか口にすることはできなくなりますから。護送船団の舵取りや業界団体のお仕事も新たに創出できますし。

時は流れて、その結果が今日です。自動車産業は日本の基幹産業の揺るぎない一角を占めています。勿論、日本の国際収支に多大な寄与をしていることは記すまでもありません。

一方、国産航空機製造事業はどうなったか。プロジェクトXで取り上げられたYS-11はその後、飛びました、量産しました、安売りで採算割れ、生産終了の道を辿るわけです。

この開発、量産もウィキペディアによれば、ジュラルミン(部材)、エンジン、プロペラ、タイヤはもとよりレーダーや無線機も外国製品を採用とのこと。部材や部品を国産で賄った国産乗用車との彼我の差を感じます。航空機と乗用車では開発難易度に大差があるのはさておいての話ですが。

その彼我の差がその後の明暗を分けた理由という見方も強ち外れてはいないような...

そして、雌伏の時を経て再びMRJ...日本の一部界隈が沸き立ちました。

しかしながら結局、幾度となく納期が延期され、MRJからMSJへと名称を変更、最終的には、開発凍結で頓挫して今に至っています。

穿った見方でしょうが、コロナ禍による航空機需要の低迷という開発凍結の理由は渡りに舟だったようにも思えます。戦前戦後を通じ撤退できないのは日本の伝統的体質です。撤退するということは、介錯は誰がするのかとか、事業化判断の是非といった責任者や戦犯探し、時には敗残兵狩りが始まります。組織の三菱としては誰も悪くない、悪いのはコロナ、そんな凍結理由にして社内の合意形成をスムーズに進めたのではないかと...憶測です。


長くなりました。次のエントリへ続けます。

2021年10月15日金曜日

傾聴

しばしば、

──人と会う、人の話を聴くことが政治家の仕事──

そんな文言を耳にしてきました。勿論、コロナ禍真っ只中の頃もです。

で、岸田新総理の話です。人の話をよく聴くことが特技だそうです。えーっと。言葉通りに受け止めて、これが特技なら他の選良は人の話をかない輩ばかりなんでしょうか。まぁ、”そうだ”と言われればその通りかもしれませんけど。

ただ、人の話をよく聴くというのはコミュニケーションの根本です。それがあって、質疑や答弁、議論、論戦が成立するわけです。

”俺、私、オイラ、小生、僕、拙は聴いているよ!”

そんな反論も聞こえてきません。 

人の話を聞かない連中が永田町に集まって一体何が生産されているのか、今更ながら不思議です。

話し変わって、コロナ禍の収束に伴い全国津々浦々でGo toなんとかのキャンペーンが始まるようです。選挙戦を迎えてのポピュリズム政治の具現化でしょうか。その一方で、岸田政権誕生の前後から、”分配”の語をやたらと耳にします。”バラマキ”と”分配”は違うと認識していますが、その分別は適切に行われているのか、違いについての解説を見かけません。

れについての説明を未だに見つけられていません。旅行や外食といった遊興費を政府が補助すること、これはバラマキなのか、事業者視点に立った分配なのか、興味深い処です。いずれにせよ公平性についての疑念は拭えませんけど。