2012年11月25日日曜日

選出(続々)

――無党派層は寝ていてくれればいい――

かつて、元首相の森氏は衆院選の際、こう失言して批判を浴びました。(尤も、実際にはこの発言には前後があり、メディアによって御本人の意図が誇張、もしくは、歪曲されてしまったようです。)当時、与党自民党の人気下降し続けており、立場的、心情的に理解できないわけではありませんが、民主主義下の政治家として支持できる発言ではなく、いずれにせよ、軽率の誹りは免れませんでした。該発言やこれに先立つ”神の国”発言の頃からメディアの恣意が込められた報道が顕著になったように感じています。なんとなくですが...

さて、意図に関わらず、”無党派層は寝ていてくれればいい”発言からは、統治者サイドの無党派層に対する身勝手な解釈、或は、上からの物言いといった印象を含む強い違和感を持たざるを得ません。

代議士の本分の根幹である、”できるだけ多くの有権者から支持を得て、民意を代弁する”、といった意思が感じられないのです。このことこそが代議士たらんとする発意の源泉なのではないでしょうか。獲得した支持の多さこそが議員の矜持であり、”民意に選択されている”という議員が持つべき自覚と”無党派層は寝ていてくれればいい”という思いとは相容れるものではないと考えます。

冒頭の発言からは、おそらく政治に対し無関心、若しくは、思慮が浅いであろう無党派層がそうである責は彼等自身に帰する、といった誤認へ誘導しようとする意図を感じてしまいます。勿論、無党派層自身の責を否定するものではありませんが、関心の目を逸らすことで無党派層を生み出した責任は議員サイドにはないのか、その活動は幅広い有権者から関心が持たれるものなのか、活動について十分な説明責任を果たし理解を得ようとしているのか、民意の代弁者たる議員には自省を促すと共に自責の念を持って頂きたいと存じます。

これまで、数少ないながらも代議士の国政報告会等で講演を拝聴したことがありましたが、講演会ですから意思の伝達は一方向であり、双方向性は全くありませんでした。出席者の関心と講演内容が合致しているならば双方向性は不要ですが、殆どの場合、隔たりが生じているものです。

ブログについては多くの代議士が記されていますが、御自分の売り込みに終始しているといった感が否めず、読者からのコメントに真摯に応えるどころか、炎上を危惧してかコメント欄が閉ざされていることもよくあります。 

こういった状況の中で、現在の所、橋下大阪市長のツイッターを介した発言は最も高い双方向性を伴った情報の発信の一つでしょう。残念ながら、短文での発信ですから系統的な理解に手間がかかったり、政策を支持できなかったりするわけですが...いずれにせよこういった動きは、一方で、例えばツイッターのバカ発見器としての働きも期待しつつ、更に拡がるべきだと考えます。

又、選挙後の投票率の低さを示して、有権者の政治に対する無関心を嘆く政治家の声を私達はしばしば耳にしてきました。上記”寝ていてくれればいい”や”投票率の低さ”は、”棄権してくれればいい”、”棄権した有権者が多い”ことを意味するものです。では棄権した有権者は無党派層であったり政治に無関心な層だけなのでしょうか。勿論、無関心を理由として選挙を棄権というか、無視する層は含まれていますが、しかしながら、実は、政治に重大な関心を寄せ熟慮した結果棄権する、全ての候補者が投票に値しないと考える層がかなりの割合で存在しているのではないでしょうか。

無批判、盲目的、或は、義理人情で候補者を支持し賛成票を投じる層がいる一方で、その対極として全ての候補者に対し不支持の意思表示をするために棄権する層も十分存在し得ます。特に近年の選挙における選択の動機は、当たりクジなど入ってないことを承知し、その上で消去法によって如何にマシな外れクジを選ぶか、といった印象を強く感じます。

11月下旬現在、メディアに取り上げられている政党、候補者は数多あるにも関わらず、主義、主張、政策が賛同できないだけでなく、資質が欠如していたり、器量、能力不足だったり、人格として?だったりで、諸手を挙げて支持できる政党、候補者が不在であることが不思議でなりません。何故これほど人材に欠くのでしょう。

選挙の最も優先されるべき目的は民意(=全ての有権者の意思)の政治への反映です。従って、圧倒的最大与党である「無党派党」の一部として、上記外れクジを避けるために投票を棄権した有権者層の潜在的な意思、声なき声も選挙の結果に含まれなければならないと考えます。

こういった意思を伝える手法として適任者を一人選択する単記投票方式への不信任、不支持投票、或は、バーチャルな政党、候補者の追加はできないものでしょうか。この仮想候補については機会があれば記してみたいのですが、ネットワークの功績の一つである集合知によって、たとえ実在しなくとも民意が理想とする候補、ベンチマークとなる候補を創造し、この候補を含めた選挙の結果から顕在化されるであろう、理想と現実の乖離を政治にフィードバックできないのだろうかと思っています。

現在の所、おそらく、各メディアによる世論調査が漠然とその任を担っているのでしょうが、積極的に自浄、自律を迫るには公的で公正中立なシステムが必要ではないでしょうか。

このエントリを書くに当たって、
”民意が正当に反映された為政者、議員と、国家、国民にとって有益な人材は一致するのか否か、「又は」なのか「かつ」なのか?”
”国家の利益と国民の利益の関係は?必ず一致するものなのか?”
といった疑問が生じました。
いずれの機会に改めて考えてみたいと思います。

2012年11月24日土曜日

手筈

興行師、アドバルーン屋、若しくはマッチポンプだと思っていた石原前東京都知事。実は放火犯であったことに遅ればせながら気付きました。
 

”用意周到、準備万端、先手必勝”を念頭に置いての行動でしょうか。故瀬島龍三氏とは面識があったはずと想像するのですが...

幻想

衆院選の騒ぎにすっかり紛れてしまっていますが、先の竹島の帰属に関わる韓国との諍いについて、その解決を国際司法裁判所に委ねようという声があるのを御存知でしょうか。

あまつさえ、中国との尖閣問題の解決も国際司法裁判所に任せてしまおうと...

国際司法の公正性という曖昧な判断基準に過度の期待というか、幻想が抱かれている気がします。

国際司法裁判所の下す判断の公正性は何によって担保されているのか、又、判断如何に依らず私達はその決定を受諾できるのか。更に、該裁判所はどこの機関に属しており、そしてその上部機関の現事務総長はどこの国の出身なのか。上記はそういった状況も念頭に置いた上での提案なのでしょうか。


国際社会の判断、決定の公平性に疑問符がつく事例は枚挙に暇がありません。古くは東京裁判が、ここ最近の記憶に新しい例ではイラクに対する国連決議が挙げられます。オリンピックやサッカーワールドカップの開催地決定、及び、該競技における審判の判定やいわゆる芸術点の採点、或は、ノーベル賞、特に平和賞、文学賞受賞者の選定においても各国の利益衝突や恣意が生じているであろう例を見ます。

理性的、科学的知見を無視し、資源量回復に依らず、未だ事態が好転していない捕鯨も最たる例です。

こういった先例を鑑みれば、竹島や尖閣の帰属問題について国際司法に判断を委ねさえすれば”日本の望む公正な判断”が下されると考えるのは、全くもって自分達に都合の良い、甘い妄想であると言わざるを得ません。

国家間の問題に対し国際機関、国際組織が判断を下す場合、歴史的な正当性、信憑性、公正性はどこまで考慮されるのでしょうか。判断基準はむしろ、如何に国際社会の利益に貢献するか、更に言えば、如何に審理し決議する各国の利に適うかにあると考えます。

かつて、日本は国連の常任理事国入りを求め国際社会に強く働きかけたものの、実現しませんでした。経済援助を含めた支持を得るための多数派工作より加入阻止の動きが勝ったのでしょう。上記国際司法裁判所での係争も同じ構図です。

この時の轍を踏まぬよう、歴史的事実の上に安穏とあぐらをかくことなく、経済援助始め、手段を選ばない活動で国際世論を誘導することが肝要ではないでしょうか。(歴史的事実はあくまでも私達の知る事実です。経済援助は極論すれば買収ですが、それさえ厭わない万難を排する覚悟が必要でしょう。)

2012年11月21日水曜日

パン

朝食としてハム、ベーコン、ソーセージ、リエット、パテといった畜肉加工品を添えてパンをよく食べます。

こういった食肉加工品と共に食べるには風味が強いパンの方が適しているようで、主にライ麦入りのパンを好んで食べています。

個人経営ブーランジェリー?から、スーパー内のベーカリーまで自宅周囲にはパン屋は少なくありません。極端に言えばコンビニでも様々なパンを購入できます。

ところが、気に入るライ麦入りパンはなかなか気軽に入手できないのです。そもそもこの種のパンを販売している店があまり見つかりません。

名古屋市、或いは、名古屋市近郊にお住まいの方なら御存知かもしれませんが、メゾンカイザー、ブランパン、ポルカ、モンタナベーカリーから調達しています。

(もう少し薄めスライスしてあると嬉しいのですが、)ブランパンのヴァイツェンスライスやメゾンカイザーのトゥルトを気に入っています。

またまた、御存知の方しか分からない訳ですが、上記パン屋は位置的にばらばらです。(ポルカは日常的にライ麦パンを焼いていないのですが、自宅から最も近くその他のパンが美味しいので伺っています。)

手前勝手な言い分ですが、パンの購入のみを目的に上記パン屋(除ポルカ)を訪れるにはかなり距離があり、所用の際、立ち寄って購入するのですが煩わしさを感じています。

単なる朝食用パンを入手するのに自動車で30分以上かけてパン屋に行く、気に入ったパンを入手するという行為はそんなに手間がかかることなのかと思ってしまいます。

パンの製造については全く無知なのですが、美味しいライ麦パンというものはそれ程店頭に並び難いものなのでしょうか。

一方で、ひょっとしたら私自身が実はパンという食物を好きではないのかもしれません。米飯では全くと言っていい程選り好みすることがないのです。

特定の食材が持つ味わいの差が気になる、感じられるのは該食材が実は本質的に好きではないからこそ、といった面もあるような気がします。

2012年11月7日水曜日

選出(続)

ここ最近、衆目を集めている政治家の一人である橋下徹大阪市長ですが、市長のインタビューやツイッターによる発言から非常に頻繁に”民意”という語を見聞します。現在、この単語を日本で最も口にする為政者ではないでしょうか。

さて、先のエントリで単記投票による選挙で民意は正当な結果として反映されているのか、否か、或いは、該投票が果たして有用な人材を選出する最適な手法たりえるかについて疑問を呈しました。

例えば、橋下市長や、同様に動静が注目されている石原慎太郎前東京都知事には相当数の支持がある一方で、その大きさに相応して反橋下、反石原の声もあるはずです。しかしながら、単なる単記投票ではこの不支持の意思は投票結果には現れません。

選挙の結果を示して、錦の御旗のように”民意が選んだ”という文言が声高に叫ばれますが、あくまで、現行の投票ルールの下での結果に過ぎません。この結果と有権者の意思の間には小さからぬギャップがあるように思えてならないのです。

有権者の意思をより正確に選挙結果に反映させる、真に最も有能な人材を選出するための一つの考え方として、好ましい候補者に投票する単記投票と、拒否、除外したい候補者への投票との組み合わせはあり得ないのでしょうか。潜在的な不支持の意思も顕在化して選挙結果に込めることが本来望ましいのでは、と考えます

支持票と不支持票の差分で、或は、比で判断するべきかはまだ考えていません。ただ、(差分の場合で)極端には100人に支持され不支持者が0人の当選者と、200人の支持がある一方で不支持者も100人存在する当選者では有権者からの支持の質(?)、重み(?)、意味(?)が異なるはずです。

もう少し投票方法について続けます。

(続)

選出

石原慎太郎氏が知事職を投げ出し、老骨にむち打って国政にしゃしゃり出ると言ってみたり、未だ”近いうち”や”近い将来”の定義について言い争ってみたり、ここのところ解散総選挙に纏わる話題で喧しい毎日が続いています。

特に次期衆院選については、いわゆる第三極を巻き込んだ政権争いに加え、最高裁から違憲判決が下された一票の格差の取扱にも焦点が当てられています。果して格差是正のために議員定数の削減は実現されるのか否か不透明な状況です。

勿論、一票の格差は是正されて当然で、こんなことは司法の判断以前に立法府が自発的に正すべき問題のはずです。違憲判決が下されるまで率先して矯正しない、できないといった姿勢に我国立法府の自律性のなさが如実に露呈しています。とっとと是正を進めたらいかがでしょうか。

ところで、この格差是正のための手法として議員定数の削減が挙げ
られています。これは、一票の価値が高い選挙区の議員定数を削減することで価値の均等化を図ろうとするものです。

ただ、この方向で議員定数を削減しても、議員一人当たりに費やされる国費
(歳費を含めた経費)が減るわけではありません。一票の格差を是正することが目的ならば、一票の価値が小さな選挙区の議員定数を増するという選択肢もあり得ます。この方向に議論が進まなかったのは、当事者である議員と私達の間に横たわっているであろう、一人当たりの議員(活動)に費されている国費過大である、といった共通認識によるものと考えます。この認識が定数を削減してせめて議員全体の総額を抑えることになったのでしょう。これは裏返せば、議員(活動)の成果が大したものではなく、費されている国費と見合っていないということを意味します。従って、更なる議員定数削減を望む声は、格差是正後も(一票の重さの均等性を保つことを前提として)依然止むことなく増大し続けていくと思います。

実は私達が重視すべきは、議員(活動)のコストパフォーマンス、即ち、議員活動で費された国費でどれだけの国益が得られるか、どれだけの利益を国民にもたらせるかではないでしょうか。国家、国民にとって有用な人材で、国富を増大せしめることに秀でた議員ならばいくらでも定数を増員したって構いません。一方、コストパフォーマンスの低い、率直に言えば無能な議員ばかりの集団ならばいくら定数を削減しても何の効果もありません。

選挙の目的は、理想的には、民意が正当、忠実に反映された為政者や代議員の選出であるのは勿論ですが、それだけに留まらず、国家、国民にとって有用な人材の選出も選挙の担う重要な役割だと考えています。この選挙ですが私達は通常、各々が最も適任と考える候補者に一票を投ずる、いわゆる単記投票で当選者を選出しています。例外としては最高裁判所裁判官国民審査ぐらいしか直ぐに思い浮かびません。

果して、この投票方式による選挙は民意の正当、忠実な鏡として、及び/或は、有能な人材の選出方法として最適なのでしょうか。

本来、この選出方法について記したかったのですが長くなりました。次に続けます。


(続)

2012年11月2日金曜日

安全


先のエントリでは、安全性が確認されたとして大飯原発が再稼働決定に至ったことを記しました。

では、この安全性が確認された大飯原発は、過酷な事故が発生しないことが確約された原発でしょうか。私には、過酷事故の発生確率が確実に0%である原発とは信じられないのです。

おそらく、大飯原発という特定の原発に関し、原発の耐用年数を原則40年として、残余の稼働期間中は
――まあ、大丈夫なんじゃないか。過酷事故が発生しないまま逃げ切れるんじゃないか。――
といった、時間、空間が限定された条件下での安全を宣っているのではないでしょうか。


大飯原発が無事故のまま寿命を迎えた時、過酷事故の発生率は結果として0%となります。しかしながら、各国各地の新旧全ての原発でたとえ大飯原発と同等の安全性が得られ、各々の原発で過酷事故の発生率が0%と見積もられたとしても、それらの総和は決して0にならないと考えます。

”安全性が確認された大飯原発”にはこの文言を利用して”安全性が裏付けられた原発は存在可能”へと普遍化しようとする意図が見え隠れし、強い不信感を憶えました。

勿論、安易な
――無事故のまま逃げ切れるんじゃないか。逃げ切りたい。――
も容認できないことを申し添えておきます。