2020年12月24日木曜日

内心

安倍前首相「深く反省しおわび」 「桜見る会」夕食会費用補填問題

――私が知らない中で行われたとはいえ道義的責任を痛感する。深く反省するとともに国民におわび申し上げる――

とのこと。過去、一体どれだけ”責任を痛感”の文言が繰り返されるのか...責任の帰属は認めるが、だからといって責任を取った、という事例を知りません。これまでと変わらない、口先だけの居直りです。

で、この知っている/知らないは内心の問題です。”知らなかった”との発言があってもそれが事実か虚偽かは別の話であって、補填を知っていた、指示したという事実を否定するものではありません。それが証拠が見当たらない場合の中立的な見方です。説得力を欠いたお詫びなど全く意味をなしません。

安倍政権時代、NHK他のメディアの内閣の支持率調査で、支持しない理由という質問も含まれていました。この不支持の理由の第一位か第二位に必ず、

人柄が信用できない

というものがありました。当にそれが具現化したお詫びの文言でした。一国の宰相がこういった理由で支持されないというのもなんとも情けない話です。

信頼社会の実現など夢のまた夢です。

2020年12月19日土曜日

因果

年に数回スカイラークグループの店で昼食を摂ります。同グループの優待券を譲り受けることがしばしばあって、遅い昼食の際、該券を消化する目的で訪れています。

同グループはいくつかの外食チェーンを擁していますが、その中で赴く店はほぼしゃぶ葉かから好しに限っています。これはそれ以外の店では、料理の質が価格に見合っていないというのが理由です。特にガスト...長居するにはドリンクバーは便利なのかもしれませんけど。

そんな中、肉についてはどうでもいいのですが、とにかく野菜をたっぷり摂ることのできるしゃぶ葉か、手っ取り早く定食の体で昼食を済ませられるから好し、という選択になった次第です。

スカイラークグループではよくある話ですが、他社である業態が好調になると、追随というか模倣した業態の出店を始めます。やや劣化してですが。記憶にあるのは、いきなりステーキとステーキガスト、大戸屋とおはしでガスト、サイゼリアとグラッチェガーデンズといった処でしょうか。焼肉は焼肉で何かあったような。

勿論、から好しにも当て嵌まる話で、店舗の拡大が目覚ましい、からしげやからやまの後追いであることは間違いないとみています。価格面では後発ですから先行他社を上回る設定は難しいと思われ、少なくとも看板メニューのからあげ定食は三社横並びです。それでも、大手外食チェーンで提供される定食としては価格訴求力があるというか、割安感が受け入れられて三社とも店舗数増加に勢いがあるように見受けられます。

で、まぁ上記理由から、から好しを運営するスカイラークグループとからしげのアークランドサービスの間で訴訟になっているようです。

「かつや」運営社がすかいらーくを訴えたワケ
ちなみに、価格訴求力、割安感と上述しましたが、実際の処どうなんだろうと見てみると、からあげグランプリ3年連続金賞とか伝説のからあげなどと喧伝していても、鶏もも肉はタイ、ブラジル、アルゼンチン産だったりしています。これを云々するつもりはありませんが、そういうことです。ただ、そういうことであっても顧客の支持を得ているのは確かであって、それが、”ぱっとしないガストの店内に好調のから好しを併設”という形で具現化したのでしょう。一部、該訴訟の影響もあるかもしれませんが。

さて、ここからです。先日、このガストでから好しメニューに対応、という話を知りガストに入店しました。名古屋市内にから好し単独店は郊外の一店のみです。この併設により一気に店舗数が増え、所用で通りがかった際、から好しに立ち寄りやすくなったという認識でした。

入店、着席し、タッチパネルからから好しの看板メニューであるから揚げ定食を注文したのですが、なんとなく違和感を感じました。帰宅して調べてみると、同じから揚げ定食であってもから好し単独店とガストで価格が異なっていたことがその理由でした。ガストでは、から好し単独店の価格に税抜きで100円上乗せした価格設定になっていました。

つまり、同一のから好しのから揚げ定食であっても、同じスカイラークグループのから好しとガストで、価格が異なる一物二価の状態、ということです。加えて、ガストでは、同等の看板メニューについて、後発であるにも関わらず、競合のからしげやからやまを上回る価格設定になっているわけです。

まぁ、同一グループのスーパー、例えばアピタとドン・キホーテ、バローとタチヤ、イオンとマックスバリュでも商圏の違いや販売戦略により同一商品であっても価格が異なることはあり得ます。ファストフードチェーンのマクドナルドでも似たような話を以前耳にしました。現在はどうなのかと調べてみると、メニュー表示の下部に
※全国の約40店舗(空港、駅・遊園地・サービスエリア・大都市圏の一部店舗)では価格が異なります。該当店舗はこちら
と注釈が記されていますから、テナント料等の固定費が高い店では高めの価格設定にしていることが窺われます。ただ、それでは上記ガストとから好しの一物二価もこれに該当しているかというと、別の事情によるものと推測しています。

おそらく、スカイラークグループ社内で、

1.後発、模倣で、ファストフード形態の、低価格唐揚げ専門店を始めた処、繁盛した。

2.出店を拡大したいが、自社の高コスト体質のため店舗数を増やしても利益に繋がらない。だからといって価格の引き上げは競合店との価格競争の点で難しい。競合他社からの訴訟の行方も懸念される。

3.既に他店舗展開しているガスト内にから好しを取り込もう。一気に店舗数が拡大する。その際、価格を引き上げておけば利益にも繋がる。ガストの業態はファストフードではないから価格設定を引き上げても受け入れられるだろう...

こういった経緯で意思決定が為されたんじゃないかと憶測しています。これがあながち外れてはいないとするなら、それこそがスカイラークグループの経営不振というかダメな理由ではないかと考えます。

ファミレスのガストとファストフードのから好し、同じ料理の提供でガストの方が高価格である理由が見当たりません。業態、サービスの差と言われても違いを実感できず、利益増を図った、と捉えるのが妥当な気がします。ちなみにから好しではセルフサービスですが水とお茶が用意されています。ガストではタッチパネルでから好しのメニューを注文後、

ドリンクバーで水をどうぞ

と表示されます。から好しでは各テーブルに用意されていたマヨネーズやドレッシングも、漬物類の小壺もガストには見当たりませんでした。まぁ、これは新型コロナ感染の恐れを減じるためかもしれませんが。

この取り組みが周知になった時、果してガストの来店客はから好しのメニューを注文するだろうか、或いは、から好しのメニューを注文するためにガストに来店するだろうか、疑問です。

から揚げ定食が目当てであれば、から好し単独店か、他チェーンの唐揚げ専門店に行くでしょうし、ガストの来店客はわざわざ上乗せ価格のから好しメニューは選択しないだろう、との見立てです。

つまり、この新しい取り組みは、ガストでから好しメニューを選択する動機を生み出すようなものではなく、むしろ動機消失させるようなものではないかと。こういった顧客視点を欠いた企画というのは、先述の後追い、模倣体質と共にスカイラークグループらしいなぁと思った次第です。

尚、記していて気づきましたが、ガストから徒歩圏内の勤め人、学生あたりのテイクアウトに的を絞った企画としてなら、或いは効果的なのかもしれません。それが主目的だったのでしょうか。それでも一物二価状態は変わりません。というかテイクアウトの場合の方が更に価格差の説明がつきませんけど。

2020年12月18日金曜日

体裁

「桜」疑惑、安倍氏が国会で説明意向

年末ギリギリに”説明をした”という形式を整え、年明け以降は”説明は済んだ”で押し通す、と。着々とシナリオ、配役、演出が決まりつつあるのでしょう。後は覆い被せる蓋、”それどころじゃない”感が醸成できるような年末年始のニュースをどんなタイミングでリークするか、或いは、どんなニュースを蓋にするかでしょうか。

それなりに重い蓋が必要な気がしますが。

2020年12月15日火曜日

盲進

――土産店の女性店員も「感染の怖さはあるが、店の存続の方が大事だ」と話し、先行きを案じた。――
Go Toナントカの一時停止を受けて、名古屋 金シャチ横丁からの声のようです。感染より店の存続ですか、店員なのに...高い家賃を払ってよそ者からぼったくる、止められない魅力があるのかもしれません。自らの感染を恐れず、同時に感染源となる恐れも顧みず、一体どんな土産を販売しているのか、興味ある処です。

2020年12月11日金曜日

手掛

未だゼロリスクについて考えあぐね、もたもた書き連ねているわけですが、そんな中、以前録画しておいた、

BS1スペシャル シリーズコロナ危機▽アメリカ バーチャル経済の光と影

を視てみました。番組そのものはバーチャル偏重というか、そこまでリアルを軽視できるものなのか、といった印象を抱いたのですが、その中でネット通販の将来像に触れていました。これまでは、実店舗における商品そのものや販売手法の評価が高まり、その展開としてネット通販という形態が加わってきたとのこと。それが発展したバーチャル経済社会では、最初にネット通販での評価が高まり、その後実店舗での販売が加わるようになるだろう、とのことでした。

Amazonが実店舗の販売を始めるようなものでしょうか。実験的な試みとして実店舗を出店したという話は以前聞いたことがあります。

で、これらにおいて最も重視されるものは何かを考えてみると、それはやはり信頼なんだろうと思った次第です。実物に触れることなくモニタとスピーカからの画像、動画、音、商品説明だけで購入を判断するわけですから。尤も、この購買スタイル自体は既に日常的にはなっていますが。

取引の成立には販売側と購入側に一定の信頼関係が存在していることが必須です。購入の決断は、完全にではないにせよ、バーチャルで知り得た情報を信用してこそ行われます。

上記番組で予想されている、

”最初にネット通販から人気となり、その後実店舗の販売が続く

これが定着し、日常になるということは、信頼社会の実現へと一歩、或いは半歩進んだ、若しくは少なくともその方向へ進む手がかりが得られたことに相違ない、そんな気がしています。

バーチャル空間からの情報で全ての顧客の期待に応える、といのはなかなか難題です。販売者側から提供される商品情報が示す内容と、その情報に対する購入者の認識との間で、無視できない割合の誤認や齟齬が必ず生じているはずです。商品を送付しないとか、説明と異なった商品を送付するといった詐欺的な話ではなく、販売者にとって適切に商品情報を説明しても誤認や齟齬は起こり得る、という話です。

購入者に誤認や齟齬を生じさせない取引が理想であるのは当然です。しかしながら、取引成立を目的として価格と仕様、画像、動画、商品説明で購入者の購買意欲を喚起する販売者の販促活動は、誤認や齟齬を容易に引き起こします。

簡単に記せば、販促という行動には例え潜在的であっても、虚飾、価値の嵩上げが必ず混入している、ということです。これは排除できません。販促にマイナスとなる情報には触れない、過小に、或いは淡々というか事務的に伝える、若しくはそれを恰も補えるかのような対処法を示す一方で、売り文句は誇大ではないにしても過大に伝える、そういった中立性を欠いたアンバランスな宣伝文句は日常的に目に止まります。

激、極、秘、高、限などの文字が入る修辞が踊って食傷気味になります。序列不明なまま最高と最上、極上、究極と質を形容する語で散々持ち上げられ、語意はインフレ化する一方です。特に、デザイン、味、接客といった主観性抜きには評価不可能な物品、サービスについては、当に言った者勝ちといった様相に感じます。まぁ、受け止める側も話半分というか、半値八掛け五割引きで差し引きますから、修辞は超インフレ状態です。

これは、売れても売れなくてもどうでも良い社会主義経済社会ならいざ知らず、自由主義経済社会では不可避の本質です。従って、上記の誤認や齟齬、期待外れや想定外による、購入者の失望は常に起こり得ます。

そのためこれまでの購買行動は、実店舗で実物を確認した上で試行的に商品を購入したり、商品の品質レベルを担保するブランドの信用力などに依拠したものでした。その後、該商品の高い評価が広まるに従い、ウェブサイトからの購入も増加していくといった流れです。

それが逆転し、ネット通販から人気に火がつくということは、ネットからの情報のみで購入が決断され、且つ、購入した商品が期待通り、若しくは期待以上だった、ということを意味します。つまり、ネットからの情報に頼ったネット通販で、安心して期待通りの商品を購入できるシステムが実現しているわけです。

そのシステムがどのように実現されるのか、実現には何が必要かは解りません。少なくとも、JISやウールマークに代表される(半)公的機関の品質認証だけでは全く不十分です。主観的要素が無視できない顧客満足度の話ですから。

ただ、常に高い顧客満足度を獲得、つまり、商品の購入者が期待以上と評価するような情報をネットのみから提供できるということは、ある意味信頼社会の実現に他なりません。これが実現し得るならば、前のエントリで記した信頼社会実現へと歩を進める端緒にできるのではないか、と考えます。

残念ながら、それがどのように実現されるか条件も施策もちょっと想像できないでいます。ないものねだりではないことを願って止みません。ただ、その実現には条件や施策以外にも問題が山積しています。その辺りの懸念を記していずれ又再考することとします。

一つは、民間の事業者がそういったシステムを手掛けることの適格性です。上記した、販売者側から提供される情報と購入者の期待感の摺り合わせを仲介するシステム全体はEC市場の管理運営者が担うものと考えられます。EC市場の管理運営者とはアマゾンに代表される民間の事業者であり、あくまで営利事業として情報提供の仕組みを含むEC市場のプラットホームが運営される、ということです。商品取引の場で培われた、情報提供と期待感の摺り合わせに関する知見を信頼社会の実現に適用できたとして、果してそれが妥当であるか否かは別途検討が必要であります。

つまり、信頼社会を実現する施策の設計に当たり、個々人の内面にある倫理や道徳的な部分にも一定程度目を向け、設計に組み込むことが求められるわけです。そういった個人の内面部分に対し民間の営利事業者が果して公正中立、誠実に向き合えるのか、事業者の自律性は担保されるのか、暴走は抑えられるのか、といった話です。過大な任にも思えますし、民間の営利事業者が手掛けることを手放しに是とはできません。

だからといって公的機関には困難な課題です。公的組織と市民の関係は、選挙を除けば原則として上意下達、”由らしむべし知らしむべからず”の図式になっていて、相互の信頼が既に成立していることが前提になっていますから。信頼関係が損なわれているからこそ信頼社会の実現を、と唱っている処にその役目を公的機関に担わせることは適当ではないだろうということです。

結局、信頼社会の実現に向けた仕組みの構築は誰が担うのか、という問題になります。

ただ、信頼社会の実現を、相似している商取引における顧客の十分な満足の発展形と捉えれば、大手EC事業者の様々な取り組みは端緒になり得ます。その最たるものは顧客レビューや口コミの仕組みではないでしょうか。勿論、該システムにおいても、なりすましによるヤラセ、虚偽、誹謗中傷といった不正や欺瞞行為は珍しくなく、イタチごっこの様相を呈しています。

不完全であるにしても、やはり透明性を上げる仕組みが信頼社会の実現に必須であるのは間違いありません。そんな中、完全万全完璧の語が乱舞し、

”仮定の質問には答えません”

の連発は、なんだかインチキ健康食品や偽ブランド商品の販売サイトとダブって映ります。この姿勢でアマゾンに出店していたら出店即アカウント削除です。

日本政府がアマゾンに施策を出品、説明は完全、万全、完璧を多用、美辞麗句が並んでいます。問い合わせてみると、

”回答を控えさせていただきます”

と。これじゃぁ...

2020年12月4日金曜日

淡々

先日、所用で中央自動車道 塩尻北インター近くのビジネスホテルに宿泊した時のことです。ここ最近のGo toナントカを制限するとか自粛するとか騒がれるより少し前でしょうか。新型コロナの感染者数が日々増加している一方で、どうする?どうしよう?とか、”厳重警戒”とか”最高レベル”と記されたパネルを手にした首長が???な呼びかけを会見でしていた頃です。(そしてそれは未だに続いているわけですが。)

22:00頃、ふとホテルの駐車場に目を向けると、駐車場は満車でした。その半分程度は業務?作業?用ワンボックスカーでした。そのうち七割はルーフに脚立を載せていました。その他、商用バンだったりボディに社名の入った乗用車が結構な割合で駐車しているわけです。

一夜明けて9:00過ぎ、各々、自分が担当する現場だったり客先へと向かったのでしょう。九割方の車は出庫済みでした。コロナ禍を尻目に、Go toナントカの狂騒やら制限を余所に今日も生産活動は続けられています。

国庫の施しがあるからと、さもしく各地を遊び回るのは勝手です。それが原因で新型コロナの感染拡大が起こったとしても、それはまぁ承知の上でのバラマキなんだろうと。ただそれが、淡々と営まれている生産活動に支障をきたすようなことはあるまじきことです。強く主張しておきます。

仕事の邪魔すんな!

2020年11月8日日曜日

撤退

ここの処、廃止、中止を巡る喧しい動きがありました。

MRJ事業の凍結

大阪都構想否決

押印廃止の提唱

大村愛知県知事のリコール運動断念

あたりが直ぐに脳裏を過りました。最後は付け足しですが。つくづく現状維持バイアスの強大さを感じます。

MRJ事業はコロナ禍が渡りに舟だったと思うのですが、それでも撤退ではなく凍結でした。国からの補助金が投入されているためでしょうか。即撤退では、コロナのみに理由を転嫁できず、戦犯というか責任者探しが始まるかもしれませんし。凍結して人知れずフェイドアウトと...

大阪都構想否決は、大阪維新の会に対する有権者の支持と裏腹な結果でした。当に現状維持バイアスが働いた典型とみています。激変を避け緩慢な移行でしたら受け入れられたかも。遅々としてであっても一旦動き出してしまえば今度は止められなくなったと思います。

これは今の押印廃止騒動にも該当する話です。押印廃止なんてブチ上げれば印鑑関連業界から反発されるのは火を見るより明らかな話です。アドバルーンを上げたつもりが破裂して中の可燃性ガスに引火してしまった、ということでしょうか...そこに空気を読めない大臣が唯我独尊時にガソリンを投入したのが今の状態です。端からポーズというか、風呂敷を広げて存在感を示した後、きれいに畳んでしまっておくならそれもアリかもしれませんけど。禍根が残るのは避けられないだろうなぁ、と。

今更ですが、押印に代わる仕組みを試験的に導入して徐々に浸透させるような手法を採るべきでした。

それにしても巧く撤退できないのは連綿と続く日本の伝統的体質なんでしょうか。なんとなく儒教による要因もあるような気もします。何か外圧がない限り困難な話かもしれません。

2020年11月7日土曜日

買収(追記アリ)

国(自民・公明)がふるさと納税から始まって、給付金やらGo to ナントカで有権者を買収すれば、今度は愛知県岡崎市という地方でも、コロナ対策として全市民一律五万円給付の公約を掲げた市長(共産)が当選しました。

まぁ、民意の選択ですから、”みんなで決める民主主義”からは逸脱してはいないわけです。民主主義におけるポピュリズム的部分が端的に表面化したにすぎません。

金を配るも、減税するも、クーポン配布、ポイント付与も、似たようなものです。負担はまだ世に出ぬ将来世代に押し付ける、これも民主主義の本質です。

これが欧米辺りなら他国からの搾取も加えて原資を補填できるのですが...技術立国であることを放棄して徒に債務を積み増した結果、破綻が避け得ないとしても、

――その頃俺はいないから。それより今をどうするかだ。――

と宣わられれば抗う術が見当たりません。

この辺りが民主主義の限界なのかもしれません。


その後、

――一律5万円給付見送り検討、岡崎
市長の公約、議会の反対受け
――

との報道がありました。 

中根氏は7日、共同通信の取材に「市長は独裁者ではない。意見を聴いて必要なら政策を変えるのが民主主義の常道だ」と述べた。

とのこと...できもしないことを公約に掲げて当選し、実現の見通しが立たないとなると舌の根も乾かない内に撤回と。確信的公約違反以外の言葉が見つかりません。そしてその理由を議会に転嫁って...

当に厚顔無恥な話で、岡崎市民の対応に関心を寄せずにはいられません。 

2020年11月3日火曜日

港猪

Go to Eatを利用して食べログやぐるなびで店を予約、スマホで撮ってSNSで公開、獲得したポイントで再訪と...

2020年10月30日金曜日

不平

どうにも得心がいかない、というか不快感を抱かせる雑事がありました。ドコモの名義変更の件といい、苛立たせる事態が続きます。

根本的に事務手続きの適性が欠けているのでしょうか。備忘録として記します。視点に客観性が足りない部分があればご指摘頂けると今後の糧になります。

ここの処、銀行口座への振込手続きはインターネット銀行でしか行っていませんでした。振込や引き落としのための口座への入金はコンビニATMを利用しています。勿論、リアルの銀行口座からの引き落としもありますから、そちらの口座への入金も銀行支店外のスーパーや公共施設に設置されたATMを使うことが殆どです。

で、偶々、地元の信用金庫にある口座宛に振込の必要が生じました。その信用金庫は自宅から徒歩五分ほどの所に支店が在り、身内が口座を保有していたため通帳とキャッシュカードを携帯して該支店に赴いたわけです。ただその口座は以前月々の何かの引き落とし用に開設した口座で、行った手続きはこれまで入金のみで出金をしたことがなかった、まぁ、半休眠口座でした。設定した暗証番号が不確かな口座ということです。

予定の手続きは該口座に一旦入金し、その口座から指定口座に振り込む、その際、振込者と口座名義人は異なるため振込者名と電話番号を変更して、というものです。

この一連の操作において、誤った暗証番号を入力した場合のATMの応答というかシステムの対応が不快感を催させた次第です。伝えられた暗証番号が間違っていたことがきっかけではありますが原因はそれではありません。

一回目 入金操作

入金ボタンを押下、キャッシュカード挿入、(誤った)暗証番号入力、通帳挿入、現金入金...問題なく完了。(問題なく入金できましたから暗証番号が誤っていることなどツユほども思いませんでした。)

二回目 振込操作-1

振込ボタンを押下、キャッシュカード挿入、(誤った)暗証番号入力、振込先口座情報入力、振込金額入力、情報を確認して振込者と電話番号を訂正、振込実行ボタン押下。(暗証番号入力後、振込情報が正常に入力できましたから、暗証番号が誤っていることなどツユほども思いませんでした。)

三回目 振込操作-2

再び暗証番号の入力が求められ、(誤った)暗証番号入力。(ネット通販などでログイン時、決済時と二、三度のパスワード入力を求められることはよくあります。暗証番号が誤っていることなどツユほども思いませんでした。

四回目 振込操作-3

”もう一度暗証番号を入力して下さい”との表示が出て再度(誤った)暗証番号入力。(ネットの会員サイトでアカウントを取得する際、パスワードを二度続けて入力させられることは珍しくありません。暗証番号入力要求の繰り返しに、僅かに”?”と思いながらも、暗証番号が誤っていることなどツユほども思いませんでした。

その結果キャッシュカード、通帳と共に
このお取引は成立しておりません。パスワードが間違っています。やり直して下さい。

と印刷されたご利用明細が出力されました。それでようやく暗証番号の誤りに気づき身内に連絡、次の確からしい暗証番号が伝えられたわけですが、その時点でキャッシュカードが使用不能に...誤った暗証番号を4回入力したことが理由とのこと。

勿論、窓口で問い合わせました。結局、キャッシュカードを再発行する以外手段はなく、それには手数料が必要とのこと。ナンダソレ?

一体、どの段階で暗証番号が違っていることに気がつけるのか、自分の落ち度がどこにあるのか理解できません。キャッシュカードが最初の暗証番号入力で拒絶されたのであれば頷けますが。

信用金庫側が云うには、四回目の暗証番号入力の際、画面の左下?右下に暗証番号の相違云々と表示されているはず、とのこと。表示されていたか否かすら覚えていないほど印象に残っていません。画面中央に、

”もう一度暗証番号を入力して下さい”

と目立つように表示されればもう一度そのまま入力する以外、何を入力しろと...こっちは暗証番号が違っているなんてツユほども思っていないのだから。

その後、口座を解約したのは言うまでもありません。

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以前某スーパーで買い物をしてセルフレジで決済する際、クレジットカード一括払いを選択したつもりが、誤ってリボ払いにしてしまったことがありました。ちょっと急いでいたことに加えて、一括払いとリボ払いを選択するアイコンに同じカードの絵柄が使われていて、それほど大きくない文字情報のみで一括かリボを選択させるようなインターフェイスだったことが理由です。カードの請求明細が届くまで気が付きませんでした。

意図しない選択というのはやはり不快です。明確に識別できるよう改善を希望しました。その結果かどうかは存じませんが現在はより識別しやすいアイコンに変更されています。



なんだか、誤認を誘引するようなインターフェイスが至るところで散見されるように思います。健康食品のお試し→定期購入契約や、意図しないリボ払いへの誘導を意図したインターフェイスは論外であるのは記すまでもありません。ただ、自身のインターフェイスの質の低さを棚に上げて、気づかない側に落ち度があるとする姿勢も頷けません。常に注意を怠ることができない、気を抜けない社会というのも厭なものです。


2020年10月26日月曜日

鳴動

 コロナ禍の中、リモートなんちゃらとか、オンライン、5Gといった語が巷間で踊り続け、IT技術活用による効率化、利便性向上が叫ばれています。菅政権誕生後の昨今ではデジタル庁によるDX(デジタルトランスフォーメーション)、押印制度の廃止とか、まぁ、いろいろな掛け声が聞こえてくるわけです。


その少し前、技術資源の浪費以外の何ものでもない状況に直面し、ちょっと呆れちゃっています。これが日本の代表的IT企業の雄、NTTドコモの業務かと思うと失望を禁じ得ませんでした。先日、騒動となったドコモ口座不正利用事件の二週間ほど前の話です。

身内間で携帯電話の名義を変更する必要が生じました。その一部
顛末です。

自宅近くのドコモショップで手続きをしたわけですが、それに当たって、事前にNTTドコモのwebサイトで必要書類の確認をしました。というのは、これまで何度もドコモショップで様々な手続きをしてきたのですが、
一度で手続きを完了できたことがほとんどなかった
ためです。実際の使用者、或いは契約者の代理で手続きをするのですが、委任状がない、押印がない、本人確認書類が不備、自筆で記入していない、記入漏れ...等で幾度となく手続きを拒絶された経験があります。

サイトを見た処、まず、ドコモショップで手続きをするには日時の予約が必要でした。コロナ禍のためショップで人が密になるのを防いだり滞在時間を短縮するためなんでしょう。このご時勢ですから、まぁそれも当然かと。これまで予約無しで訪れて、結構な待ち時間があったことが幾度となくありましたから、これはこれで頷けます。

ただ、希望の時間を予約しようとすると前日では無理でした。所用で週一でドコモショップの近くを通りますのでそれに合わせて来店予約をするわけですが、前日予約が無理で一週、予約を失念して二週経過して三週目にようやく予約成立と相成りました。単なる書類の手続きで、行動を制限される予約を入れるのに一ヶ月弱...少しづつストレスが蓄積されていきます。

次に必要書類の確認をしたわけですが、今回の名義変更は身内A、B、CとあってC名義の携帯をBに名義変更、支払い口座はこれまでのAの口座で変更なしというものです。又、これまでA、B、Cは同一住所でしたが、Cのみ転居しているという状況です。

ドコモのサイトによると、

お手続きいただける方
現在の名義人の方
変更後の名義人の方
代理人の方

ご家族間(三親等以内)の名義変更で、一部のサービスや設定情報を引継ぐ場合は「現在の名義人の方」のご来店が必要です。

ただし、ご登録いただいているご利用者※が「変更後の名義人の方」の場合に限り、「現在の名義人の方」のご来店いただかなくてもお手続きになれます。

とあって、 現在の名義人C、変更後の名義人B、代理人Aのいずれでも手続き可能なようです。ただ次の注釈にある”ご家族間〜「現在の名義人の方」のご来店が必要です。”は、委任状があれば必要ではないのか、否か、判りません。今回は引継ぐ/引継がない、どちらでも構いませんでしたが。

で、A、B、Cの誰でも手続き可能なようですが、その後ろに記されている、”お手続きに必要なもの”を見ると煩わしさにかなりの差があります。

お手続きに必要なもの
ご来店される方問わず必要なもの :
  現在の名義人の方の本人確認書類
  変更後の名義人の方の本人確認書類
  変更後の名義人の方のキャッシュカードまたはクレジットカード※
  変更後の名義人の方が来店されないまたは、キャッシュカードやクレジットカードをお持ちでない場合は変更後の名義人の預金通帳+お届け印が必要です。
現在の名義人の方のみご来店される場合: 
  以下を追加でご用意ください。
  変更後の名義人の方からの委任状
変更後の名義人の方のみご来店される場合: 
  以を追加でご用意ください。
  現在の名義人の方からの委任状
代理人の方がご来店される場合: 
  以下を追加でご用意ください。
  代理人の方の本人確認書類
  現在の名義人の方からの委任状
  変更後の名義人の方からの委任状
現在と変更後の名義人の方両名でご来店される場合: 
追加書類はありません。
Cの来店は困難なのでBが手続きをすることにしました。となると必要書類はCの本人確認書類、Bの本人確認書類、Cからの委任状になります。この時点でドコモに電話で問い合わせました。電話料金の支払い口座としてAの口座を使う旨、問い合わせ窓口に話した処、”CからBへの名義変更に伴い、一旦支払い口座が解約され再手続きが必要”との指摘がありました。そこで、上記委任状と共に”異なる名義による一括請求同意書(代表回線契約者から三親等の方のみ)”もダウンロードして作成したのですが、そうなるとAからの委任状や本人確認書類も必要か?、ということになって、結局Aも来店することになりました。加えて、サイトにある本人確認書類のリンクを見た処、
(コピーでは受付できません)
の文言があるのを目にしていたため、”当日来店しないCの運転免許証、マイナンバーカードの原本を借りるのか?”と尋ねたわけです。その回答は、”委任状があれば不要”とのことでしたから、A、Bの本人確認書類、Cからの委任状、Aの同意書を持参してドコモショップに赴きました。

徐々に疲弊してきていますが、これで手続き完了と自信満々でショップを訪問、その結果は...差し戻しでした。Bの本人確認書類が必要との理由でした。確かに必要書類には挙げてありましたが、その一方で”(コピーでは受付できません)”との説明があるわけです。それもあって、事前に確認したのですが、Bの本人確認書類は複写でも可とのこと。

仕切り直しです。手続きカウンターに進むことなく待合エリアで門前払いでした。

転居したCから運転免許証のコピーを入手し再度ドコモショップを訪れたのはそれから二週間後です。勿論予約してのことです。

その結果は...差し戻しでした。理由は、委任状記載のCの現住所と運転免許証記載の住所が一致しないとのことです。委任状は転居後の住所、運転免許証は住所変更前のため旧住所が記載されていたわけです。又しても手続きカウンターまで進むことなく門前払いでした。運転免許証の住所変更は次の免許書き換え時で構わない、そのために平日を潰してまで住民票の交付を受けて手続きをするほどではない、というのが自分の認識でした。まさか、こんな処で引っ掛かるとは...

代わりに健康保険証のコピーでは、というとこちらも新住所記載の保険証はまだ交付前...結局、委任状に記載する住所を運転免許証記載の住所に合わせて再記入することにしました。ここで新たな問題が発生。委任状を再記入にあたって、
「契約者本人の自署」または「契約者本人の記名押印」が必要です。
とあるわけです。転居したCが委任状を再度記入するにはそれから更に二週間を要しました。この時点でかなり意気消沈しています。自分には携帯電話の名義変更は無理なんじゃないかと...

再度、自分を奮い立たせてドコモショップに予約を入れたのは、名義変更の必要が生じてから七週間後です...


ようやく手続きカウンターまで案内されました。やれやれと思いながら手続きが進むのを待っていると新たな問題が...
委任状の注文内容欄にある、

□名義変更+dポイントクラブ入会

のチェック欄に✔がなかったのです。目眩が...Cからの委任状でCがその場にいない中、ショップ店員の眼前でAやBが✔を書き込むわけにはいきません。

とって返して30分弱、ようやく✔が適切に記された委任状を提出、名義変更が完了致しました。めでたしめでたし。

疲れました。


ここからが本論なんですが、事前に必要書類を確認して、問い合わせていても、ドコモショップに延べ四回赴き、七週間かかって携帯電話の名義変更が完了したわけです。

巷間で、外出を控えるというか、人が集まる場に行くのは控えましょうと言われる中、四回もドコモショップを訪れることになりました。リモートだ、オンラインだと持て囃される一方で、回答の不備、記載内容の不一致とか自署といった問題で名義変更に七週間の時間を要しました。チグハグ感が否めません。

これは通話、SMS、二段階認証の本人確認用に使用しているガラケーの話です。スマホだ、dポイントだ、G5だと煽る前にこんな程度の手続きはオンラインでできるようにナントカナランノカ?、というのが率直な印象です。

以前、AI技術の進歩で消滅する仕事という話題が衆目を集めましたが、AI以前の話です。事前に確認しても必要書類が解りにくく、自署や押印のある委任状の必要性、実情より書類の整合性を優先、などを鑑みると、ドコモショップの対面業務はなくならない、なくす気がないことがよく理解出来ました。

この一連の手続きは八月には完了していましたが、九月に入ってドコモ口座を利用した、電子決済サービス不正引き出し事件が発覚しました。

これはドコモ口座を、ドコモの携帯電話契約者のみの開設に留めず、メールアドレスを保有している不特定多数の開設まで間口を広げたことが原因です。ドコモとしては他者の携帯電話ユーザーにもドコモ口座の開設、利用を開放することで、キャッシュレス決済等の金融サービス事業の拡大、新規契約者の誘引を目論んだのだろうと、容易に推測できます。自社の携帯電話契約、契約の名義変更には厳格な本人確認を求める一方、自社利益の足がかりになりそうなドコモ口座開設には匿名での開設を許可するという...ユルユル感、チグハグ感は否めません。チグハグ感が否めません。

これは通話、SMS、二段階認証の本人確認用に使用しているガラケーの話です。スマホだ、dポイントだ、G5だと煽る前にこんな程度の手続きはオンラインでできるようにナントカナランノカ?、というのが率直な印象です。

以前、AI技術の進歩で消滅する仕事という話題が衆目を集めましたが、AI以前の話です。事前に確認しても必要書類が解りにくく、自署や押印のある委任状の必要性、実情より書類の整合性を優先、などを鑑みると、ドコモショップの対面業務はなくならない、なくす気がないことがよく理解出来ました。

この一連の手続きは八月には完了していましたが、九月に入ってドコモ口座を利用した、電子決済サービス不正引き出し事件が発覚しました。

これはドコモ口座を、ドコモの携帯電話契約者のみの開設に留めず、メールアドレスを保有している不特定多数の開設まで間口を広げたことが原因です。ドコモとしては他者の携帯電話ユーザーにもドコモ口座の開設、利用を開放することで、キャッシュレス決済等の金融サービス事業の拡大、新規契約者の誘引を目論んだのだろうと、容易に推測できます。自社の携帯電話契約、契約の名義変更には厳格な本人確認を求める一方、自社利益の足がかりになりそうなドコモ口座開設には匿名での開設を許可するという...ユルユル感が否めません。

これを受けてドコモ口座の本人確認がオンラインで始まるようです。
オンラインで本人確認?...これができて契約の名義変更がオンラインでできないわけがありません。単なる怠慢です。ドコモ口座云々以前に根本の携帯電話の契約に関わる本人確認をとっととオンライン化するべきです。

自社の損害が発生すれば迅速に対応、契約者の名義変更の本人確認には書類や押印を要求...って、全くもって顧客の利便性軽視、ユーザー視点の欠如です。

果たして契約の名義変更といった、これまでドコモショップの予約、来店が求められた手続きのオンライン化が進むのでしょうか。少なくとも、名義変更や口座開設に拘らず、本人確認の厳格化は間違いありません。

今後再び、名義変更の必要が生じた際、当事者以外手続き不可とか、そもそも名義変更を認めないという、オンライン化されないままの本人確認厳格化、つまり間抜けな対応に陥る恐れがあることを示唆しておきます。

アベノマスク配布、Gotoキャンペーン、レジ袋有料化といった春先からの疑問符のつく施策に通底したチグハグ感を禁じ得ません。

昨今、新たに役所を作ってデジタル化とか、行革相が押印廃止とかブチ上げているわけですが、半信半疑、というか懐疑的、胡散臭い目でみています。その施策は社会の効率化、利便性向上に寄与するのだろうかと。なんだかデジタル化、押印廃止自体が目的化して生産性は上がるどころかかえって低下、そんな結末が脳裏を過る今日この頃です。

2020年10月12日月曜日

適法

学生の頃、 人文系の科目で、

――あの教官は飼育している猿に成績を決めさせている――

とか、

――答案用紙で紙飛行機を折ってよく飛んだ順に成績をつけている――

などといった噂が飛び交う科目がありました。まぁ、学生の戯言ですが、それくらい評価基準が不明瞭だったということです。ただ、これが事実であっても適法なわけです。

翻って、日本学術会議の会員候補の任命拒否を巡り、
――適法に行われたと承知している――
と官房長官は説明し
――推薦段階の名簿は見ていない――

と首相は発言しているわけです。では、99人の任命名簿か、6人の任命拒否名簿か、何を見て判断したのかもよく解りません。

任命拒否の理由は未だ開示されないままですから、

――総合的、俯瞰的活動を確保する観点から猿が決めました。猿に聞いて下さい。それでも適法です。――

と、そんなところかもしれません。

基準

 未だ収束しない学術会議の新会員任命拒否問題ですが、最近で学術会議に対する批判も噴出し始め、民営化論、解体論も散見されるようになってきました。

興味深いのは、この解体論を提唱している論者がコロナウィルス対策、原発再稼働案件ではゼロリスクを否定し、リスク許容を主張していることです。経済の損失を抑えるためには一定の感染者発生を容認して経済活動を止めるべきではないとか、日本社会の維持存続にはリスクを許容し原発を再稼働すすることが必要とか、まぁ、そんな論調です。

メリットとデメリット、ベネフィットとリスクを通算した結果、メリット、ベネフィットが上回るため、コロナ対策としてのロックダウン的な規制を否定、原発を再稼働という主張は理解できます。

ただその一方で、学術会議を解体するべきという意見が同じ視座から出されているのであれば、どうにも得心できないわけです。問題の多い学術会議を解体する(=消滅させる)ことは、例えばリスクをゼロにするため原発の稼動を認めないことと通底しているように映ります。

学術会議については上述の通算の結果、メリット、ベネフィットなしとされたのでしょうか。勿論、社会や市民にとってです。

何かが在るということは自動的に何らかのデメリットやリスクを伴うことに他ならないと考えます。このマイナス分とメリット、ベネフィットとの差分が有用であれば、それこそがその何かの存在理由です。

その上で消滅を求めるということはこの差分がマイナス、つまり学術会議は社会に損失を与えているという理屈になります。学術会議を消滅させればそのデメリットやリスクはゼロになりますから、ある意味ゼロリスクを要求しているわけです。

福島原発の事故が起こっても尚原発の稼動を求める、新型コロナウィルスの感染が警戒されている中、コロナ禍前の経済活動求める、こういったリスクを許容して差分のメリット、ベネフィットを追求するという姿勢を理解できないわけではありません。しかしながら、その一方で学術会議のゼロリスクを求めて解体・消滅を提案するというのも整合性が欠けています。

ダブルスタンダードとの印象は払拭できませんが、同一人格の中で、リスクを許容する事物とゼロリスクを求める事物、両者を何が隔てているのか、興味深い処です。

2020年10月10日土曜日

損益(2)

先のエントリからの続きです。

 2)二極化とレッテル貼り

昨今の新型コロナウィルスを巡るゼロリスク要求側と否定側の論戦を観察していると、立場を二極化して批判合戦を繰り広げているように見受けられます。

ゼロリスク要求側は文字通りリスクの完全な撲滅を追求し、周囲や社会全体からの支持を得るべく、その活動や意見をSNSなどで公開しています。リスク許容側は、このゼロリスク要求側を、ゼロリスクが実現不可能なものと批判し、それをやはり公開していて、そこにはリスク許容の支持を増やそうという姿勢が窺えます。

両者共に相手の意見を否定して自身の主張を押し通そうと、批判の域を越えた罵倒合戦に発展してしまっている場合もあります。更に、自身がゼロリスクを要求する、リスクを許容する意見を開陳するだけに留まらず、他者や社会にも同調圧力をかけ支持を求める、それが適わなければ対極側を支持しているとレッテルを貼付する、そんな印象すら抱くことも少なくありません。

セロリスクの実現が不可能であることに論は待たないが、前述の1)の理由から直ちに諸手を上げて支持するには違和感を覚える層を、ゼロリスクを要求する側からはリスクを盲目的に許容する側に、リスクを許容側からはゼロリスク信者として見做す独善性が行間に漂っている、ということです。

以下は2011年03月11日まででゼロリスクについて検索された資料からの引用です。遺伝子組み換え農作物に着目したリスク・コミュニケーションにつての資料ですが、
2.4 一般の人々は非現実的な「ゼロリスク(絶対安全)」を要求しているのか? 
• 「どんなものにも多かれ少なかれリスクはある」、「リスクの削減は便益とのバランスの上で考え なければならず、多少のリスクは許容しなければならない(リスク便益原則)」、さらには「リスク を恐れては何もできない」等々の決り文句による恫喝 
• しかし、実際には人々は必ずしもゼロリスクを求めているわけではない(Marris et al., 2001; Wynne, 2002; STAFF, 2000)。
i) 求めているのは、ゼロリスクなどありえない世界の中で専門家たちが果たすべき「責任」が 十分に果たされること。
ii)リスクとベネフィットのつりあいではなく、無知・不確実性と、理由・目的の正統性、責任 のつりあいが重要。 ~「新しい技術は、自分たちを不確実性に曝すほど重要な目的をもっているか、どうしても 必要なものなのか、代替策はないのか、責任体制は十分なものか?」
iii) 「参加」の要求: 目的・必要性について、自分たちで判断したいという欲求不確実性・価値・公共性をめぐるリスクコミュニケーションの諸問題 ― リスクガバナンスの非公共化に抗して ― 平川秀幸 (京都女子大学現代社会学部)
ゼロリスクを要求しているわけではないが、行政や事業者側の施策、計画を盲目的に支持しない層の存在が示唆されています。実は社会の中でこの層は、当時も現在もいわゆるサイレントマジョリティとしてかなりの割合を占めているとみています。おそらく自分もこの層に含まれます。

福島原発の事故以前、ゼロリスクの実現は不可能であることを承知しながらもリスクを許容することに躊躇を覚える、モヤモヤ感を拭えない層についての言及が既にされていたことは特筆しておくべきことです。

しかしながら、そのような問題提起があったとしても、社会全体に蔓延していた、”今まで大過はなかった”とか、”寝た子を起こすな”、”日本の原発が重大事故を起こすはずがない”的雰囲気の中に社会的関心はかき消されていました。

これはその後の福島原発の事故を受けてもう少し議論が深化して然るべきですが、依然足踏み状態にあるように見受けられます。

該事故の前から提起されていた、行政の無謬性などのリスクコミュニケーションの問題は依然として未解決のままです。その状態で、ゼロリスクの要求とか、リスクを許容すべきとかで対立するのもなんだか不毛だなぁ、という印象です。事故はゼロリスクについて関心を深め、上述の信頼社会の構築に向けた生産的な議論へと進める原動力になり得るはずなんですが...

なかなかそういった方向に進まないのは、技術の進歩に相応するほど社会が賢くなっていない所為かもしれません。


次のエントリに続けます)

2020年10月8日木曜日

客引

 Go To Eatでひと騒動起こっているようです。

なんだかよくわかりませんが、ディナーの時間帯の予約で一律1000円分のポイントが付与されることを利用して、店を予約、1000円以下の料理を注文することを繰り返して差額分のポイントを貯めていくのだとか。

ご苦労様です。現在は既に是正されているようですが、鳥貴族という焼き鳥のチェーン店を例にすれば、この店のメニューは原則税込み327円で、店を予約してこのメニューを一品注文して退店、673円分のポイントを貯めると。

この行為そのものについて云々するつもりはないのですが、上記予約はいわゆるグルメサイトからのみ有効で、飲食店は予約一件につき200を送客手数料として該サイトに支払わなければならないようです。

上記例では、結局店側の売上は98円(=税別298-200)に留まってしまい、一体どこが飲食店支援のキャンペーンなんだ、という声も聞こえるわけです。

飲食店支援を謳って、ほくそ笑んでいるのは飲食店の紹介屋、手配屋であるのは明かです。古今東西、水商売は遣手とか元締めが利を貪る仕組みになっています。

飲食店は紹介屋に加盟金とか協賛金というみかじめ料を支払って、ある意味傘下に入らないと客の紹介を受けられません。客も紹介屋に登録する必要があります。

紹介屋は労せず飲食店の加盟、客の登録を促すことができるわけです。この梃子というか販促キャンペーンがGo To Eatということです。国庫使って何やってんだ?

紹介屋に頼らず営業をしてきた、非加盟店にとっては明らかに逆効果で支援になっていません。むしろ営業を圧迫しています。集客費という贅肉を既に営業コストに含めている飲食店への支援にはなりますが、味と価格という飲食店の根本に重きを置き、自店の力のみで集客を続けてきた店にとってはかえって邪魔でしGo To Eatかありません。

家族経営で人件費を抑え、宣伝広告費、集客費を削って、材料にコストをかけた料理を提供する、そういった飲食店の存在を鑑みれば、Go To Eatという政策の不公平性を如実に感じます。

2020年10月7日水曜日

新報

 前のエントリに関連した、学術会議の新会員任命拒否についての話です。

総合的・俯瞰的活動を確保する観点から判断した結果、日本学術会議が推薦した新会員候補のうち6人の任命を拒否した、と。

何だそれ?、というのが率直な処です。未だ個々の理由は開示されないままです。これって、換言すれば”何を推測されても否定しない”ということではないでしょうか。

今こそあることないこと勘ぐって憶測で報道できる絶好の機会です。総合的・俯瞰的活動の説明がない限り受け止める側で推測するより他ありません。例えば、

”独裁社会化を進めるための総合的・俯瞰的活動を確保する観点から判断した”

”邪魔者を排除するための総合的・俯瞰的活動を確保する観点から判断した”

”学術会議を御用組織化するための総合的・俯瞰的活動を確保する観点から判断した”

”軍事研究を学術界に委託しやすくするための総合的・俯瞰的活動を確保する観点から判断した

”反論する学者をスケープゴートにするための総合的・俯瞰的活動を確保する観点から判断した”

”反体制分子を一人残らず粛清するための総合的・俯瞰的活動を確保する観点から判断した”

”学術会議を解体するための総合的・俯瞰的活動を確保する観点から判断した”

今なら、どう報道しても虚報ではありません。ある意味サンドバック状態です。想像、憶測、勘ぐりを伝えて政権から否定されれば改めて詳細な見解を求めればいいのではないかと。否定がなければそれを事実として一人歩きさせるわけです。

脱力タイムス、虚構新聞に続く、憶測新報という新メディアの登場を待望しています。


顛末

 猛暑になるといろいろ壊れます。

自分自身も壊れつつある中、ノートPCが動作不良陥りました。現在、ようやく復旧に至りましたがその過程を備忘録として記します。

復旧に際し、先行事例を検索しましたが見つけられませんでした。同様の例も検索した処、

該ノートPCはThinkPad Edge 14でOSとしDebianを使用しています。購入後、真っ先にインストール済みのWin7を削除、Debianをインストールして使ってきました。このPCではDebian 6.0 (Squeeze)から、Debian 7 (Wheezy)→Debian 8 (Jessie)へとアップグレードしていますから、それなりに酷使してきたことになります。

全ての作業はDebian上のGUI(KDEデスクトップ)で行っています。以前、ラズパイを弄った際もKDE上で起動したターミナルエミュレータから接続していました。

このPCの動作不良の状況はフリーズでした。電源投入で Linuxに続いてX Windowが起動、GUI環境へのログイン画面が現れます。ここからKDEデスクトップ環境にログインするわけです。KDEデスクトップ環境へのログインまではできるのですが、そこから何か操作するとカーソルがフリーズします。そうなるとPCのタッチパッド操作もキーボードからの入力も不可能となります。

フリーズする操作は特定できませんでした。個人のプロファイルを読み込むウォレットへのパスワード入力、WiFiルータとの接続、Chromeの起動といった、GUI環境へのログイン後の様々な操作でフリーズが発生しました。

一旦フリーズが起きるとにっちもさっちも行かなくなります。Xの再起動([Ctrl]+[Alt]+[Bs])、OSの再起動([Ctrl]+[Alt]+[Del])も実行不可能でした。[Ctrl]+[Alt]+[F1/F2/F3...]でもCUIによる仮想端末にも切り替えられず...結局、マジックSysRqキー([Ctrl]+[Alt]+[PrtSc]+[B])で強制再起動する以外に手段を見い出せませんでした。この操作は、リセットボタンによる強制的な再起動をソフトウェアスイッチで行うに等しく、できれば避けたい対処です。

実際、該操作で再起動を行うと起動時にファイルシステムのチェックfsckが行われます。このノートPCを使う以前、ファイルシステムはext2でした。当時、こういった強制再起動でfsckがかかるとファイルが破損していることが時折ありました。その後、ext3、ext4と開発が進むに従い修復不可能な破損に遭遇することはなくなりました。が、そうは言っても稼働中のPCのコンセントを引っこ抜くようなものですからファイル破損の恐れを考えれば躊躇する操作であるのは間違いありません。

で、ここからの復旧を試みたわけです。

まず、最初に排熱ファンの異常を疑いました。というか決めつけてしまいました。これは、”Linuxではフリーズは殆ど起こらないはず”、”GUI環境へのログインでフリーズする”から原因はハードウェアにある、と判断したことによります。(結果としてこの推察は誤りで復旧まで遠回りすることになりました。今振り返れば、LinuxがフリーズしないというのはCUI環境での話であり、排熱ファンの異常であればフリーズではなく、CPUの熱暴走で電源が落ちるか強制再起動がかかったと思われます。

勿論、”ThinkPad”、”フリーズ”、”Linux”、”KDE”辺りの語で検索しましたが、有用な事例は見つからず、そのまま排熱ファンの交換へと進みました。

検索してみるとThinkPadの排熱ファン交換は、全く同じ機種ではないもののいくつかの先行事例がありました。下写真はそれらを参考にPCの裏蓋、続いてファンユニットを取り外した状態です。

ファン・アセンブリーの取り外しと取り付け - ThinkPad Edge 14 および 15


下写真は取り外したファンユニットです。




引っくり返すとファンだけ取り外すことができました。このファンだけ手配できれば入手、交換してできあがり、という目論見でした。ファンには”Panasonic UDQF2ZH82FQU DC5V 0.21A 1201M2"と記してありました。この品番や、ThinkPad edge 14 CPUファンで調べてみた処、Panasonic製は入手不可能のようですが、互換品としてDelta KSB06105HA-AG35が入手できるようです。


うーん、これは純正部品としてLenovoに採用されている部品なんでしょうか。そのまま交換して問題ないのか否か...検索してみるとデルタ電子という台湾の電子部品メーカ製のようです。自分が知らないだけで、真っ当なメーカのようです。純正部品かは不明ですが、まぁ、大丈夫だろうと判断して購入、交換しました。

互換品ですから何ら支障なくファンの交換は完了し、下写真のようにファンユニットをPCに組戻しできました。
ただ、取り外したPanasonic製ファンの埃を取り除いて見た処、ファンが全くスムーズに回転するのが少し気掛かりではありました。無駄な作業だったか?

ともあれ、PCを元の状態に戻し、電源投入、OS起動、ログイン画面からデスクトップ環境にログイン...

フリーズ

...ファン交換は徒労でした

その後、無線LAN部分のハードウェア的な異常を疑い、有線LANで接続するもデスクトップ環境にログインでフリーズ...

残るはHDDの物理的な破損かと、データのバックアップ、HDD交換、システムの再インストールを考え始めた際です。もう少し不具合についての情報が何か得られないかと少し弄ってみました。

その結果、どうやらCUI (キャラクター・ユーザー・インターフェース)なら使える、電源投入時に古いバージョンのkernelを選択すれば(フリーズしないわけではないが)多少はマシ、ということが判りました。

で、まぁ、新しいHDDを手配しても届くまで少し時間がかかるだろうし、Debianのアップグレードを試してみるのも全くの無駄骨ではないだろうと。

ここから涙目の作業に入っていきます。

流れとしては、これまで使用してきたDebian 8 (Jessie)をまず最新の状態にして次バージョンのStretch、更にはBusterにバージョンアップしていくわけですが、現在のバージョンからは不可能です。フリーズするわけですから。

それならばと、古いバージョンのkernelで起動してデスクトップ環境にログイン、X window上の端末から

#apt-get update

#apt-get upgrade

#apt-get dist-upgrade

#apt-get autoclean

#apt-get autoremove
を行った後、

#vi /etc/apt/sources.list

で編集へと進みました。sources.list内でjessieと記されている部分を全てstretchに置換。再度、

#apt-get update

#apt-get upgrade

を行うと。順当に進めばこの操作だけでDebian Stretchへのバージョンアップが完了するはずなんですが...そうは簡単にバージョンアップさせてもらえないわけです。

パッケージの依存関係を保持する範囲内でのアップグレードである、#apt-get upgradeまでは問題ありませんでした。

#exit

に続けてOSの再起動後もデスクトップ環境へのログインが可能でした。

その後パッケージ構成の変更、つまり、新規にDebian Stretchに採用された、或いは外れたパッケージ追随した依存関係の変更を伴うアップグレードである、#apt-get dist-upgradeを行った処...

様々なエラーメッセージが表示されました。最初は、

”システムにサンドボックスユーザー「_apt」はありません。権限を削除できません”

が...全く心当たりがありません。検索して、

#adduser _apt --force-badname

で解決できました。どうやらStretchへのアップグレードに伴う変更のようです。

#apt-get update

して次は、

公開鍵を利用できないため、以下の署名は検証できませんでした

と表示されアップデート失敗。で、

#apt-key adv --keyserver keyring.debian.org --recv-keys PUBKEY_ID

とか、

#gpg  -keyserver keyring.debian.org -recv-keys PUBKEY_ID

とかやって、

#apt-get update

の後

#reboot

で再起動した結果、GUI環境にログインできなくなりました...どこかで下手を打ったようです。

抽象的には二歩進んで三歩目を踏み出そうとしたら、八歩後退といった状況です。ログイン画面は現れていますがログインすべきデスクトップ環境が消失しています...今振り返れば、#apt-get dist-upgradeでアップグレードに失敗してJessieで採用されてたデスクトップ環境関連のパッケージが消失したということなんでしょう。

にっちもさっちも行かなくなって立ち往生です。取り敢えず、[Ctrl]+[Alt]+[F1]でログイン画面を切り替えrootでCUI環境にログインしました。ログインはできるようですがネットワークには接続できないようです。

CUI環境で復旧、アップグレードするのか...久しぶりすぎて忘れています。GUI環境からホットプラグで接続するのが当たり前のようになっていましたから。

#ping google.com

も応答なしです。

#ifconfig -a

でネットワークインターフェイスの状態を確認しようとすると文字化け...えーと。

#printenv

で環境変数を確認して

#LANG=C

で言語を英語に設定と。再度、

#ifconfig -a

してみるとどうやらネットワークインターフェイスeth0が起動していないようです。

#ifup eth0

に続けて

#ping google.com

で応答がありました。どうやら接続できたようです。

#cat /etc/apt/source.list

でリポジトリがStretchになっているいることを確認して、

再び、

#apt-get update

で、今度はChrome関連でエラー....

W: 署名照合中にエラーが発生しました。リポジトリは更新されず、過去のインデックスファイルが使われます。GPGエラー: http://dl.google.com/linux/chrome/deb stable Release: 公開鍵を利用できないため、以下の署名は検証できませんでした: NO_PUBKEY.....

W: http://dl.google.com/linux/chrome/deb/dists/stable/Release.gpg の取得に失敗しました 公開鍵を利用できないため、以下の署名 は検証できませんでした: NO_PUBKEY ...

身に覚えがないエラーです。そもそも/etc/apt/source.listにdl.google.comを追記した記憶がありません。

#cat /etc/apt/source.list|less

でsource.listの内容を調べましたが、dl.google.comの記述はありませんでした。と、思ったら与り知らぬ内に/etc/apt/sources.list.dディレクトリが作成されていてそこにgoogle-chrome.listのファイルが自動で作成されていました。このファイル内に記述されていたhttp://dl.google.com/linux/chrome/debがエラーの原因のようです。検索して、

#wget -q -O - https://dl.google.com/linux/linux_signing_key.pub | apt-key add - 

で解決、再度、

#apt-get update

続けて

#apt-get update

#apt-get upgrade

#apt-get dist-upgrade

を実行。その結果は、

E: 未解決の依存関係です。'apt --fix-broken install' を実行してみてください (または解法を明示してください)。

というエラーが...指示通り

#apt --fix-broken install

を実行後

#apt-get update

#apt-get upgrade

#apt-get dist-upgrade

を繰り返しました。今度は

処理中にエラーが発生しました:
/var/cache/apt/archives/mariadb-server-core-10.1_10.1.45-0+deb9u1_amd64.deb

心が折れそうです。再度、上記エラーについて検索して、

#dpkg -i --force-overwrite /var/cache/apt/archives/mariadb-server-core-10.1_10.1.45-0+deb9u1_amd64.deb

を実行。そう言えば、DebianのバージョンがJessieからStretchへと移行する際リレーショナルデータベース管理システムがMySQLからMariaDBにパッケージが変更されたことを見たか、聞いたかしたような...定かではありませんけど。

もう一度、

#apt --fix-broken install

を指示され、

#apt-get upgrade

#apt-get dist-upgrade

を実行。あれっ。エラーが出ない...上手くいったようです。

これで

#reboot

した処、無事ログイン画面が表示され、KDEのデスクトップ画面にログインすることができました。ようやくJessieからStretchへのアップグレードが完了しました。めでたし、めでたし。

この後、StretchからBusterへとアップグレードしたわけですが、

#vi /etc/apt/source.list

でstretchをbusterに置換、

#apt-get update

#apt-get upgrade

#apt-get dist-upgrade

で全く滞りなく完了しました。

問題は元々の動作不良、フリーズですが、作業が完了した八月中旬以降十月初旬の今日まで前述したようなフリーズは起こっていません。不具合の原因はソフトウェアにあったのかもしれません。まぁ、取り敢えず落着ということで。

2020年10月4日日曜日

亡国

日本学術会議の新会員任命に際し、学術会議の推薦者105名のうち、6名の学者が任命されなかったことについて菅政権に各方面からの批判が集中しています。


憲法で保障された学問の自由への侵害とか、政府や社会に対し科学者の立場から様々な意見、提言を行うに当たってその独立性が損なっている、ということが批判の理由です。

前者については、”直ちに”侵害していることを示す実例が思い当たりませんのでさておきます。しかしながら、後者については明らかに該当していると考えます。学術会議を御用組織化して、政府の都合に合わせて科学者の権威を利用しよう、という菅政権の意図が明らさまです。

これに対しこの任命見送りは問題ではないという印象を抱かせる声も少なからず散見されます。例えば、
1.学術会議は国庫からの予算拠出による組織であるから行政府の長による任命権の行使は当然

2.学術会議側の会員推薦のプロセスや理由の不透明性

3.学術会議の存在意義や役割 

といった部分で任命見送りの妥当性が印象付けられています。このうち、2.と3.話のすり替えです。今回の新会員候補6名の任命見送りとは別の話であって、問題があったとしても別途議論されるべきです。

で、1.の任命権の行使は当然か、という話になります。ここで、それでは行政府の長は誰によって任命されるのかとなると、
〔天皇の任命行為〕
天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。
2 天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。(日本国憲法 
第六条
と定められています。では、任命権を持つ天皇は任命を拒否できるのかというと、
〔天皇の権能と権能行使の委任〕
天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。(日本国憲法 第四条)
とあって任命しないということは
あり得ないわけです。

翻って、本騒動の場合はどうでしょうか。日本学術会議法には、
日本学術会議は、二百十人の日本学術会議会員(以下「会員」という。)をもつて、これを組織する。
2 会員は、第十七条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する。
(日本学術会議法 第七条)

 とあって、

日本学術会議は、規則で定めるところにより、優れた研究又は業績がある科学者の うちから会員の候補者を選考し、内閣府令で定めるところにより、内閣総理大臣に推薦するものとする。(日本学術会議法 第十七条) 

と、推薦の規定が定められています。従って、”任命しない”は、即ち、”学術会議の推薦を認めない”ことを意味しますから、任命しない理由と推薦した理由の突き合わせははされて然るべきです。会議による選考の否定に他ならないわけです。

又、職務、及び、権限の章で、

日本学術会議は、独立して左の職務を行う。
一 科学に関する重要事項を審議し、その実現を図ること。
二 科学に関する研究の連絡を図り、その能率を向上させること。(日本学術会議法 第三条)

と定められていて、ここに”独立して”の語を認めることができます。この部分が、内閣総理大臣の指揮命令から独立して、とか、政府から独立して、を指しているとの理解です。一部報道にあるように”明示的”に記されてはいませんが、政府のドメイン(go.jp)下にある日本学術会議のサイトには、

日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信の下、行政、産業及び国民生活に科学を反映、浸透させることを目的として、昭和24年(1949年)1月、内閣総理大臣の所轄の下、政府から独立して職務を行う「特別の機関」として設立されました。(日本学術会議とは
とありますから、政府の公式見解です。

少し逸れますが、法文内の”独立して”には非常にあっさりした印象を受けました。そこで、政府から比較的高い独立性を有する他機関について調べてみました。
日本銀行の独立性
(日本銀行の自主性の尊重及び透明性の確保)
日本銀行の通貨及び金融の調節における自主性は、尊重されなければならない。(日本銀行法 第三条) 
(業務の公共性及びその運営の自主性)
日本銀行は、その業務及び財産の公共性にかんがみ、適正かつ効率的に業務を運営するよう努めなければならない。(日本銀行法 第五条)
とあるのですが、第四条で
(政府との関係)
日本銀行は、その行う通貨及び金融の調節が経済政策の一環をなすものであることを踏まえ、それが政府の経済政策の基本方針と整合的なものとなるよう、常に政府と連絡を密にし、十分な意思疎通を図らなければならない。(日本銀行法 第四条)
とあって玉虫色の印象を持ちました。

会計検査院の独立性
会計検査院は、内閣に対し独立の地位を有する。(会計検査院法 第一条)
しっかり明記されています。
人事院の独立性
(人事院)
内閣の所轄の下に人事院を置く。人事院は、この法律に定める基準に従つて、内閣に報告しなければならない。(国家公務員法 第三条)
上記法文内にある”内閣の所轄の下”は、
「所轄の下」とは、内閣に属する ものの、内閣の直接の指揮命令を受けず、独立してその職権を行使することをいいます。(内閣から独立した専門機関 ~人事院の位置付け~
とのことです。”内閣の所轄の下に”と日本学術会議法で規定されている、
日本学術会議は、内閣総理大臣の所轄とする。(日本学術会議法 第一条2)
の意味の違いがよく解りません。同じ意味なんでしょうか。
公正取引委員会の独立性
公正取引委員会の委員長及び委員は、独立してその職権を行う。(私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律 第二十八条)
日本学術会議法に記された法文に最も近い表現です。独立の説明は、
公正取引委員会は,この行政委員会に当たり,委員長と4名の委員で構成されており,他から指揮監督を受けることなく独立して職務を行うことに特色があります。(公正取引委員会の紹介

とありますから、学術会議の”独立”も”他から指揮監督を受けないこと”で間違いないはずです。

ちなみに上記、いわゆる独禁法には、
公正取引委員会は、内閣総理大臣の所轄に属する。(私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律 第二十七条○2)
との記述があり、前述の”所轄の下に”、”所轄とする
”、”所轄に属する”は各々別の意味で使われているのか依然不明ではあります。

話を戻して、以上の他の機関の”独立”を照らし合わせれば学術会議の独立とは、”他から指揮監督を受けないこと”とみるのが妥当です。で、今回の政府による任命見送りは学術会議の判断に対する指揮監督であり、日本学術会議法に抵触する行為に相違ない、と考えます。

但し、独立にはやはり責任は伴いますし、監査の義務付けは抜きにはできません。本来、事実と論理のみに従い、学者の良心に基づく合理的な判断、行動がなされることが理想ではあります。事実に反したり理不尽な行為には毅然と異を唱える姿勢を望みたい処です。ただそうは言っても、機関の自律性に対する過度の期待は抱くべきではないと考えます。やはり、暴走や過ちの恐れ、独善性を排除する機能、仕組みは必要です。

その辺り、学術会議も含めた独立性が付与された各機関の監査、生産性評価が未だ十分ではないような印象は否めません。


さて、ここから少し違った、斜め上を向いた視点から学術会議新会員の政府による任命拒否問題について記します。

社会に変革をもたらすような卓越した知は、自由から創出され、それが更に大きな自由の獲得に繋がっていく、と考えています。私見です。知に対する探究心は自由の追求心と根源的には通底している、と捉えています。

つまり、自由が制限された独裁国家では卓越した知は生まれない、ということです。いくつかの国が思い当たります。そしてそれは他国に限った話ではありません。

ここ数年間、
政府と日銀のアコード
検察官の定年延長
内閣法制局長官挿げ替えによる憲法解釈の変更
内閣人事局による人事院の独立性の毀損
法人化による予算面、運営面での大学の独立性の毀損
独立性を尊重すべき機関に対する政府の介入姿勢を目の当たりにし、今度は学術会議か、と。新たな知の創出に大きな足枷となってしまうことを危惧します。

2020年9月22日火曜日

法螺

――恐れ入りますが、お使いの利用環境ではご利用いただけません。――

一体何なのでしょうか、このオンボロシステムは...使えなさに呆れています。

国勢調査が始まりました。昨日、マスクを着用した調査員から調査票を受け取りました。調査票の提出は義務だとのこと。

日々、新型コロナウィルスの新規感染者が報告されていて、巷間ではテレワーク、オンラインとかリモートなんとかとか喧しいわけです。こんな御時世に調査票を手渡し?といったちぐはぐ感が否めません。感染の危険性を云々するつもりはなく、単に効率面から、せめて調査票のポスト投函位で十分事足りるんじゃないか、ということです。

で、今回の調査からインターネット経由での回答、紙の調査票を郵送で提出、又は調査員に提出と、回答方法の選択肢が拡がったようです。(前回の調査で既にネットでの回答は可能でした。認識不足でした。)

今回は対人接触を避けるネット回答が重視され、全回答に占める割合を50%(前回36.9%)に引き上げることを目指しているそうです。まぁ、ネットによる回答を特段避ける理由もなく、ネットで回答しようと始めた処、冒頭のメッセージです。

えーと、目標としている回答率を鑑みれば、ネットでの回答が望まれているのではないのでしょうか。その状況下で、”お使いの利用環境ではご利用いただけません。”はやる気を削ぎます。自分の利用環境はお呼びでない、と。回答そのものに対する意欲も減退し始めました。

とは言っても、踏みとどまりました。取り敢えず国勢調査コールセンターに問い合わせてみました。こちらの環境(Debian+Google Chrome)を伝え、OSは対応外だがブラウザは対応しているはずだと。こういったWebブラウザを通じてコンテンツにアクセスする場合、ブラウザさえ対応していれば適応できるのでは、と推測してのことです。その回答は、

――確かに使えない環境があるという報告はあります。ただ、対処法をアドバイスできるだけの知識を有する人材を用意していない――

とのこと。時間の無駄でした。

少し考えてみた処、国勢調査の回答に利用可能なPCの環境は、

OSがWindows 7以上でブラウザがInternet Explorer 11/Microsoft Edge 42以上/Microsoft Edge(Chromium) 81以上/Google Chrome 72以上/Mozilla Firefox 65以上か、
macOS 10.12以上でブラウザがSafari 12以上とありました。

ブラウザの条件Google Chrome 72以上は満たしています。ですから、後はOSがWindowsであるという識別情報を送ってやれば利用可能になるんじゃないかと。つまり、Windowsになりすましてアクセスするということです。

試しにブラウザ識別情報を容易に変更できるKonquerorで、”識別情報を送らない”設定にして国勢調査のオンライン回答サイトにアクセスしてみると、
――ただいま、システムが混雑しています。
一度ブラウザを閉じていただき、しばらく時間をおいてから、再度ログインして回答を行ってください。――

と表示されました。使えそうです。ただ、”しばらく時間をおいて...”の文言もやる気を萎えさせます。

その後Google Chromeの、その他ツール→デベロッパーツール→More tools→Network conditions→User agentで、IE 11に設定して上記回答サイトにアクセスしてみた処、つつがなく回答完了と相成った次第です。

この回答しようという気を減退させるシステムに対し、自分に鞭打って頑張りました。当に国民の鏡と言っても過言でもないような気がしないでもありませんが気のせいかもしれません。


さて、釈然としない点をいくつか。

この国勢調査オンラインのサイトには、

厳重なセキュリティ
回答いただいた情報は、厳重なセキュリティで保護されているので安心・安全です。
とあるのですが、OSやブラウザをなりすまして回答できたわけです。それがセキュリティ上どう危ういのかは存じませんが、大丈夫なんだろうかと。

又、オンライン回答の最後にパスワードの入力が求められます。後で修正が必要になった時のためだそうです。

次に果たしてログインするかどうか分からないようなサイトにパスワードを設定?

こんなサイトに他のサイトと共有のパスワードを使うことはリスキーです。以前にも記しましたが、国勢調査の事務局になりすましたフィッシングメールを受信し、ついアクセスしてしまい反射的に金融機関やショピングサイトで使っているパスワードを入力してしまったら目も当てられません。固有のパスワードを設定してそれを控えておくのも無駄です。

結局、適当な文字列をパスワードに設定しましたが...忘れました。メモにも残しませんでした。これでフィッシングメールを受信しても問題ないわけです。覚えてませんから。

ちなみに、配布書類の封筒には、

”インターネット回答は9月14日(月)から10月7日(水)まで”

と記してありました。その一方で配布書類内の質問には、

”11 9月24日から9月30日までの1週間に仕事をしましたか”

と未来のことを過去形で問う謎の質問がありました。質問として適切なんでしょうか。勿論、回答はテキトーです。

”あなたは9月24日から9月30日までの1週間生きていましたか?”

と9月20日に聞かれても、

”アタマ大丈夫ですか?そんなこと分かるか、バーカ。”

としか答えようがないわけです。それなら9月30日以降に修正すればいい、という話になりますが、修正する気もありません。

パスワードを覚えていませんから。



2020年9月20日日曜日

負担

――大臣が各省でやれば今頃はもう終わって、みんな寝ている。前例主義、既得権、権威主義の最たるものだ。こんなものはさっさとやめたらいい――

これは、菅義偉内閣の初閣議後行われた各閣僚の初会見での河野太郎新行政改革担当大臣の言葉です。新閣僚が官邸に待機して午後11時ごろからリレー形式で行われた会見方式に苦言を呈したわけです。

この発言に橋下徹元大阪府知事や田村憲久厚労相等から賛同の意見が表明されています。どうでもいい話なんですが、20人の新閣僚が各省で会見するならばメディア各社は現在の20倍の資源を会見の取材に投入しなければならなくなります。

メディア各社と合意できるのでしょうか。まぁ、行政改革が河野大臣の職務であって、行政組織を効率化した結果生じる負担はメディア各社に押し付けても構わないということかもしれません。メディアの効率化は大臣の職務外ですから。

トータルの負担軽減にどれほど効果があるか疑問です。

やはりですね、各大臣が自らの所信をブログなりユーチューブで開陳すれば最も効率化が図れるのではないかと。各大臣が会見動画を作成して公開すれば、所信はメディアを介さずとも国民に直接届きます。編集で内容が歪曲されるリスクも軽減されます。質疑は掲示板でもツイッターでも双方向性が確保されたツールで賄えます。

そうなると、メディアが不要になって社会全体の効率化が進むわけです。前例主義、既得権、権威主義の打破は行政組織の改革だけでは困難です。前例主義、既得権、権威主義を利用した持ちつ持たれつの相補的関係が厳然とあるわけで、一方を正せば相応して他方も正されるのか、或いは正そうとしても他方からの介入によって暗礁に乗りあげるのか、興味深い部分です。

逼迫

なんとなくの印象で確証があるわけではないのですが、僅かながら物資について需給のタイト感を抱かせる状況に遭遇しました。

食品、特に加工食品についてです。一時(3〜6月)は外食向け需要が消失し供給過剰でした。そのあたりの過剰な流通在庫が解消されちつ、家庭向け内食需要が増加したのかもしれません。内容は異なれど人口が変わらなければ、国全体の食品の総消費量はカロリーベーでは変わらないはずです。

その一方で、原材料を輸入に頼っていれば同期間の物流の逼迫、需要の急減で生産活動も縮小していたはずです。その頃の生産量減少が顕在化し需給のバランスを供給不足の側にシフトさせているのかもしれません。

流通在庫が戻るまでの一時的な話かとは思いますが、少し注視してみようかと。

知らんけど。

2020年9月18日金曜日

安住

先日、立憲民主の執行部人事の公表日だったかと思います。自動車の運転中、ラジオから、

"国民のために我々は国会で政府と論戦していきます。”

といったような立憲民主幹事長?の発言を耳にしました。それが我々の仕事/使命/役割/職務といったような言葉も。

論戦が野党の仕事なのか?失言の誘導、挙げ足取り、論難も含むそういったパフォーマンスでしか自身の存在理由を示せないということなんでしょうが...

当に万年野党の気質極まれり、といった感があります。沁み付いたこの気質を拭い落とさない限り、野党の座に揺るぎなく安住し続けられます。良かった、好かった。

2020年9月11日金曜日

反復

1.合流新党の代表選出

2.敗残兵狩り

3.敗れた対立候補とその支持グループが冷や飯を喰わされ反主流派を形成

4.党議拘束を求める執行部支配に抗い、分党、若しくは解党

5.紆余曲折、いわゆる冷却期間を経て合流新党が結党

1.に戻る(以降無限ループ)

2020年9月7日月曜日

損益

 未だ収束する目処が見えないコロナ禍の中で、

――ゼロリスク(感染者、若しくは死亡者ゼロ)を求めるべきではない――

――社会は一定程度の被害は許容すべきだ――

――許容できる被害は受け入れて経済活動を続ける

べきだ――

或いは 

――経済活動を止めないためにある程度の被害はやむを得ない――

といった論調が目につくようになってきました。損益とか費用対効果、生産性の視点からは、この考え方には合理性、妥当性があるのはその通りです。

しかしながら、だからと言って諸手を挙げて支持するには至っていません。躊躇を覚える、というのが正直な処です。
それはおそらく、この合理的な考え方の中にいくつかの整合性のない部分、詳細を詰めていくと論理性を欠いている部分が窺え、そこにもやっとした違和感を覚えるのだろうと思料しています。

そういった部分に論理的で明解な説明が与えられることを願っているわけですが、未だ得心できる論考に遭遇できていません。自分自身の立ち位置は、上記考え方を否定する意図は毛頭なく、むしろ不明瞭な部分、首肯するに当たり引っかかる部分が解明、解消され、素直に該考え方を支持したい立場であることを
明確に記しておきます。

こういった話題の場合、しばしば、

――そんなことを言っていたら何もできない――
――それなら対案を出すべき――

的な意見を見聞しますが、これこそ非論理的な応答の最たるものです。論点を逸らすことで異論や疑問を封じ込め、自らの主張を不可侵にしようとする姿勢にはとても与することはできません。

例えば、太平洋戦争において、対米開戦を上奏した旧海軍、旧陸軍にも、米国との国力差を鑑みて”戦勝の見込みはない”という認識が少なからずありました(海軍軍令部条約派や陸軍主計課)。であるにも、対米開戦の口火となる真珠湾攻撃を仕掛け、その後は周知の通り敗戦に向かうわけです。

”短期の攻撃で早期講和に持ち込む。そこで有利な講話条件を引き出すために日本の戦力を誇示する。”

といった考えもあったようですが、結果は記すまでもありません。その目論見は勿論外れたわけですが、仮に真珠湾攻撃以降、局地戦での連勝があったとしても、

”あれっ!案外いけるんじゃないか?日本軍最強!”

といった勘違いが生まれ、敗戦の結果は相違しないであろうことは容易に想像ができます。本質的に軍隊という組織は拡大志向ですし。(既にそういった雰囲気は醸成されていたかもしれません。)

この開戦の意思決定の場にも、上述の

――そんなことを言っていたら何もできない――

という空気が主戦派から醸しだされていたのだろうと推察します。



さて、先述したもやっとした違和感を抱いている点について記します。このもやもや感が解消される合理的説明を未だ見出していません。

1)”ゼロリスク”なる語はいつから使われだしたか

以前も記したのですが、20〜30年前にはゼロリスクという語を耳にした記憶がありません。よく耳にするようになったのは福島原発の事故以降です。原発の再稼働を巡る議論のなかで頻出するようになったという認識です。この時は、Googleで2011年03月10日から遡ってゼロリスク”、”原発”というキーワードで検索してみたのですが、”原発のリスクがゼロではない”ことに触れたサイトは見つかりませんでした。

改めて、同期間の”ゼロリスク”という語の使われ方について検索してみますと、幅広い分野でこの語は使用されているようでした。概観してみた処、時は、食品添加物、遺伝子組み換え農作物といった食品の安全についてのゼロリスク云々が注目されていたようです。冒頭に記したようなワクチンのない感染症拡大期のゼロリスク信仰の否定して、感染者、重篤者、死亡者が一定程度発生することは許容すべきだ、といったより過酷な状況下での判断を論考したサイトはなかったと思います。

感染症関連では、
感染症でもゼロリスクを求めると、エイズや肝炎患者等の完全な差別につながる。かってのハンセン病患者の隔離もこれに無縁ではない。明治の伝染病研究所反対運動、昭和初期の荏原病院移転反対運動など、日本人が如何に感染症のゼロリスクを求めてきたか、と云う歴史のあることは 銘記してよい。 
第26章:安全性論議の補足とまとめ 微生物学講義録 前国立感染症研究所長 吉倉 廣 著 2004年3月19日)

や、ワクチンの副作用について言及、
ワクチンの副作用という目の前の小さなリスクに目を奪われ、病気というより大きなリスクを招き寄せるのでは何もなりません。不確定性原理のようなもので、リスクというものは全くのゼロにすることはできず、人が何かをする限り必ず何らかの形でリスクはつきまといます。エコナの件でもそうですが、実際にはありえないゼロリスクを目指してしまう過剰な傾向が、我々の暮らしに様々なデメリットを呼んでしまっている気がしてなりません。
ゼロリスク症候群  2009年10月1日)
はありました。

尚、原発とゼロリスクに関しては、検索されたPDFファイルについても調べてみた処、言及のある文書がありました。文書の公開当時、その内容が原子力行政や社会にどの程度影響を及ぼしたかは存じません。ただ、そういった言及ががあったにも拘らず、又、あったとしても、或いは、あったが故に、対策が不十分なまま福島原発の過酷な事故が発生したことは否定できない事実です。

2011年03月10日以前、原発とゼロリスクについてどういった言及があったか、公開日時順に少し引用しておきます。

リスクとのつきあい方 

•リスクは災害そのものではなく、その可能性の予測にすぎない

•したがって正しい予測をするためには、関連する状況を見通す想像力を必要とする

•またすべてのリスクは相互依存的である。一つのリスクが他のリスクによって相殺されることもあれば、 逆に相乗的に働くこともある。それに便益やコストとの関係も相互的である

•このようなリスクと付き合うためには、全体をシステムとして把握する広い視野を必要とする

付き合い方:つづき

•リスクには自分で回避ないし低減できるものと、そうでないものがある。

•自分で低減できるものは、自助努力するのがまず第一。例えば岩登り・ボクシングや飲酒・喫煙などは、 危険だと思えば自分で避ければよいし、またそれが可能である

•それには、まず事前に注意を払う、自己の能力をわきまえる、リスクを分散する、無理をしないなど、昔から伝わる手法は沢山ある

付き合い方:つづき2

•自分で低減できないリスク、例えば地震・食品添加物、原発などのリスクは、他者の力に依存するほかない

• そこから出てくるのが、信頼できる他者の存在である

•信頼できる相手が安全を保証した場合、私たちはそれを信用してリスク低減を相手にゆだねる

•ところがこれまで、リスク低減の主体となる行政や企業はあまり信頼されてこなかった

付き合い方:つづき3

•その最大の理由は、行政や企業が十分情報を開示せず、「知らしむべからず依らしむべし」「寝た子を 起こすな」といった政策をとっていたからである

•一方国民の方も十分な知識を持たないまま、素朴な感情論を展開していた

•これでは実りのある議論が展開されるはずがない。そこで必要なのが、関係者が問題を共考する技術である 

島根県の原子力防災関連資料 公開日時不明)

現実問題としてゼロリスクを達成することはきわめて困難である中で、原発の原子炉事故、核廃棄物とその処理についてゼロリスク要求が高いゼロリスク要求についての領域分類: 認知的特性の探索的研究 2002年、という報告もありました。

リスク認知の構造とその国際比較2002年リスク社会における判断と意思決定(2006年)ゼロリスク実現が不可能であることを踏まえて、リスクの認知構造やその理由についての分析、論考です。強いゼロリスク要求(=強い不安感)の典型例として原発が取り上げられています。
原子力発電所の危険性とその安全対策を合理的かつ定量的に評価するため、原子力安全 委員会ではリスクの考え方を取り入れ、確率論的安全評価に基づいた安全目標の考え方を 打ち出している。安全で安心な世界と社会の構築に向けて-安全と安心をつなぐ- 日本学術会議 2005年 P.36)

では”ゼロリスク”という語は用いられていないものの、”確率的安全評価”という語で原発のリスクはゼロにならない、ゼロリスクが不可能であることが認識されています。 

原子力は、きちんと扱えば安全でも危険だと思っている人がいる(食い違いあり)。原子力は確率的に安全であるのに、不安だと思われている。合意形成に結びつける技術としてリスコミが必要だといえる。談話会レポート「リスクとリスク認知」2009年6月18日)
は、ゼロリスク要求の解消のための、根本にある不安感を取り除く必要性と、その技術としてリスク・コミュニケーションの重要性が提言されています。ここでは原発は(確率的に)安全であることが前提になっています。
「1基当たりの炉心損傷頻度は年当たり1万分の1程度以下、1 基当たりの格納容器機能喪失頻度は年当たり 10 万分の1程度以下とし、両方が同時 に満足されること」リスクに対応できる社会を目指して 日本学術会議 2010年 P.7)
上記は、事故の発生確率が1/10000、1/100000とゼロでない目標が設定されている例です。ここでも確率的安全目標が用いられていて、前提がゼロリスク実現は不可能であることを窺わせます。

2011年3月11日までの時点ででも確かに原発に関連付けた”ゼロリスク”なる語の使用は確認できました。ただ総じて、ゼロリスク実現が不可能であることを揺るぎない事実として、それでもなぜゼロリスクを求めてしまうのか、といった分析や考察、講じるべき方策などについての論考、報告でした。これらは学識経験者からの報告や論文をPDFファイルの形式でネットに公開されていました。想定している読者が一般市民ではないことはほぼ間違いありません。

一方、2011年3月11日以降は、専門家向けではない、どちらかと言えば一般市民向けのより多くのwebサイトで、”ゼロリスクを求めるな”的な意見が目につくようになっています。

そして、冒頭に記した、ゼロリスク信仰の否定や被害を一定程度許容することに対する躊躇、違和感の原因についても該PDFファイルで得心しました。その一つは以前のエントリでも記した信頼性の欠如です。前の島根県の原子力防災関連資料から該当する部分を引用します。
ゼロリスクはあり得ない 
• 科学技術の急速な進歩によって、私たちは非常な便益を得た、自動車しかり、インターネットしかり、医 療技術しかりである 
• しかしその盾の反面として、それらの技術には、必ずリスクが含まれている。例外はない 
• 自動車もあの便利さの背後に、年間1万人近い人を殺す「走る凶器」の側面を持っている
 

ゼロリスク:つづき
• あらゆる科学技術にゼロリスクがあり得ないのは自明の理なのに、これまで関係者はそれを主張してきた 
• 例えば促進側の行政や企業は、 無 謬 むびょう 主義の立場から「事故は絶対に起こらない」と主張することが 多かった 
• 逆に反対派は、強硬に「ゼロリスク」を主張することが多かった
(略)

付き合い方:つづき2 
• 自分で低減できないリスク、例えば地震・食品添加物、原発などのリスクは、他者の力に依存するほか ない 
• そこから出てくるのが、信頼できる他者の存在である
• 信頼できる相手が安全を保証した場合、私たちはそれを信用してリスク低減を相手にゆだねる 
• ところがこれまで、リスク低減の主体となる行政や企業はあまり信頼されてこなかった

付き合い方:つづき3 
• その最大の理由は、行政や企業が十分情報を開示せず、「知らしむべからず依らしむべし」「寝た子を 起こすな」といった政策をとっていたからである
• 一方国民の方も十分な知識を持たないまま、素朴な感情論を展開していた
• これでは実りのある議論が展開されるはずがない。そこで必要なのが、関係者が問題を共考する技術 である


共考と合意形成の手法
• リスクに関係する人びと(stakeholder という)が実りある議論を交わし、リスクに対応するにはそれなりの 技術を必要とする 
• その技術は相手を説得することではなく、フェアな情報を共有し、相互に意見を交換し、共考する技術で ある 
• 具体的にはリスクコミュニケーション、コンセンサス会議、stakeholder dialogue、public participation など いろいろの手法がある 安全と安心のキーワード 
• 複雑で多様な構造を持つ現代社会において、すべてのリスク対象に対して正確な知識をもって対応せ よといわれても、現実問題として困難である
• 最低限の自助努力はもちろん必要だが、残る部分をカバーするのは相手への信頼である
• 安全と安心の社会を作るためには、何よりも「信頼社会」を作ることが先決である
認識しておくべき部分は、福島原発の事故以前でも、該資料で行政の無謬性、行政によるゼロリスクの明言の危うさは既に指摘されていて、しかしながら、それでも事故は防げなかったということです。事故以前は”日本の原発は安全です”といった断定的な姿勢と、”そんな(極小確率)のリスクなど考えていたら原発なんて作れなくなる”といった主張が大勢で、確率的な安全を絶対的な安全と誤認しました。それが本来防止できたはずの事故対策を怠った一因となり、後の重大事故発生に繋がっていったわけです。

次のエントリに続けます)