2019年7月25日木曜日

珍説

件の吉本興業所属芸人の反社会組織からの現金収受事案について思う処を少し。

働き方改革、ブラック企業、やりがい搾取、優越的地位の濫用、働きアリの法則といった語が想起されます。”水清ければ魚棲まず”などと反社会組織の存在を容認するつもりは毛頭ありません。ただ、働きアリの法則のように、
社会には一定割合で反社会的な構成員が存在し、これら反社会的構成員を排除したとしても、残りの社会的な構成員の一部が反社会的構成員に鞍替えしてしまう。社会全体における反社会的な構成員の割合は一定に保たれる。
のであれば、根絶するのは難儀な話だなぁと。

古今東西、芸能を含む文化だけでなく政治や経済だって反社会組織との関わりは続いていて、未だ排除できていません。働きアリの法則が真ならば、さもありなんといった話です。衆目の目に晒される機会が多い芸人絡みの事案であったため偶々露見したに過ぎないんじゃないかと。反社会組織に利益供与し相応の対価を得た、類似の話は枚挙に暇がありません。

本事案について特段驚きはなく、今更感を払拭できないのが正直な印象です。
どうでもいい
と片付けておきます。 

不問

昨日、7月24日は、東京オリンピック開催まであと一年という記念すべき日のようでした。記念すべきというか、記念すべきかもしれない、記念を強いられた、記念を押し付けられた、といった形容のほうが適切な気もしますが。

で、NHKを筆頭にテレビやラジオ等の各メディアでは特番や五輪イベントの実況が放送され、記念日的な印象付けがてんこ盛りでした。
――この日を境にオリンピックに纏わる不祥事や問題はオリンピック後まで不問に付します――
メディアが一丸となって開催に向かう気運を盛り上げる、換言すればネガティブな情報の統制を始める、そう宣言した日との認識が適切な処ではないかと考えます。

2019年7月2日火曜日

鉱脈(進行中)

前のエントリでセレンディピティーの語を用いました。
セレンディピティー:求めずして思わぬ発見をする能力。
自然科学の分野で、社会を変革するような卓越した、想定外の発見が生まれることについての一つの説明です。

自然科学だけでなく、ある何らかの行為によって想定外の素晴らしい結果が得られた時、それは何に起因するのだろうか、という話です。通常、結果を想定しない行為はあり得ません。何かをすれば、その何かに依る結果が生じるわけで、結果を想定しない行為はもはや行為ではないだろうと。

ただ現実には、結果を予測して及んだ行為が、想像だにしなかった別の優れた結果を生み出した、という事例は少なからずあります。

ペニシリン発見のエピソードは真っ先に挙げられるほどのセレンディピティーの
代表例ですし、現代の、
ポストイット(3M)
導電性高分子(ポリアセチレン)の発見(筑波大名誉教授 白川英樹博士)
サーマルインクジェット技術(キャノン(株))
レーザーイオン化質量分析技術((株)島津製作所シニアフェロー 田中耕一氏)
青色LED成功の端緒となった高品位のGaN単結晶(名古屋大学 天野 浩教授)
の実現に纏わる話もよく知られています。

ペニシリンは、ブドウ球菌の培養中に意に反して混入し、増殖した青カビから発見されました。ポリアセチレンは、意に反して触媒濃度を処方の1000倍にして合成されたことが端緒になりました。

サーマルインクジェット技術は、インクの入った注射器の針に高温のハンダゴテが接触し、針の先から微小なインク滴が飛び出しことが開発のきっかけのようです。意に沿う/反するという話ではありませんが、目の当たりにした想定外の現象が着想の元になっています。

貼って剥がせる付箋であるポストイットは、”強力な接着剤を開発する”という目的で作られた接着剤が、”極めて弱い接着力だった”ことから生まれました。意に反した結果を他の目的に転じた例です。

他、意に反してアセトンの代わりにグリセリンにコバルトを混合したことが、タンパク質等の生体高分子をレーザ照射で分解することなくイオン化できるイオン化補助剤の開発に結びつきました(レーザーイオン化質量分析技術)高品位のGaN単結晶作成技術においても、そのために必要なサファイア基板上の低温AlN緩衝層は、意に反して炉を所定の温度に達せられなかった状況から見出されました。

サーマルインクジェットやポストイットのケースを除けば、期待した結果を得る意図で行った行為に、誤り、アクシデント、勘違いや過失、機器の不調といった意図せざる要素が入り込み、該行為が想定通りに実行されなかったことによって想定外の結果が生じたわけです。

サーマルインクジェットやポストイットは意図せざる操作による結果ではありませんが、着想や結果に想定外の要素が含まれていました。

で、これらの偶発的要素と卓越した功績を結びつけるためにセレンディピティーの語が用いられるわけですが...後講釈的な感は否めない、というのが率直な処です。

2019年7月1日月曜日

空振

どうにも、我慢の限度が...

耳に入る度に強い違和感が催されます。
――なつよ、…来週に続けよ――
現在NHKで放送中の朝ドラ”なつぞら”で、ドラマの最後にナレーションとして挿入されるお決まりのフレーズです。主人公、なつへの亡くなった父親からの声という体裁で、内村光良氏によるナレーションで番組が終了するわけです。

この時、”なつよ”と呼びかけ、むにゃむにゃあって、”来週に続けよ”と。”明日に続けよ”の場合もあります。これは一体、日本語の用法として適切なんでしょうか。

誰かに呼びかけ、その後”続けよ”となる文言を使ったことも使われたことも記憶にありません。視る側の心中にある、
(物語が)続く
のか、
なつが(物語を)続ける
 の、いずれかへと辿り着かせる表現のつもりかもしれませんが、こちらの意識は発散して漂っています。言語について全く詳しくないためか、詳しくないにも関わらずか、もやもやが続いています。

”続けよ”は、”続く”の命令形”続け”に終助詞”よ”がついたものと認識しています。字面だけであれば、”出発せよ”、”始めよ”といった上から目線の強い命令表現も”続けよ”となりますが、ナレーションの口調からこれは違うだろうと。では、終助詞”よ”の役割はというと、発言内容を聞き手に言い聞かせたり、念を押すことのようです。

つまり、”(物語が)続け”という命令の形で願望を表現し、それを念押ししている、と理解しました。では、この意図を誰に向けて伝えているのか、よく判りません。”(物語よ、)続けよ”の意味ならば、その前の”なつよ”が宙に浮いてしまいます。なつに続けさせるならば、”なつよ、(物語を)続けろよ”が適切ではないかと。
”線路は続くよ、どこまでも”
とあって、

”線路よ、続けよ、どこまでも”
と、
”工夫よ、(線路の敷設作業を)続けろよ、どこまで
も”
は理解できますが、
”工夫よ、続けよ、どこまでも
は意味が解らない、ということです。

何か文学的意図があって”なつよ、…来週に続けよ”としたのか...であれば空振りです。整合性のなさというか、噛み合わせの悪さから生じる、もやっとしたものしか伝わってきません。

NHKの組織内には放送文化研究所が設けられていて、ことばについての調査や研究が行われているはずです。自らのコンテンツ内で使われている文言は校閲されないまま放置なんでしょうか。働き方改革で、再放送と総集編ばかりを放送し、番組を新たに制作する余裕すらないのであれば、とても校閲まで手が回らず、雑なコンテンツになってしまうのも腑に落ちないわけではありませんけど。

老後

働き方改革のせいか何か分かりませんけど、NHKでは、地上波、BSに関わらず以前にも増して、やたらと再放送が繰り返されています。夜通し朝ドラ”おしん”が垂れ流されたり...

本編だけでなく、本編を編集した特別編、総集編の再放送も...一日の全番組中、予算を投じて新規に制作された番組は一体どれだけあるのか、あまりの再放送の多さに辟易しています。ニュースやクロ現、BSスペシャル、BS世界のドキュメンタリー等の報道系番組も例外ではありません

そんな中、朝ドラシリーズの再放送には目に余るしつこさを感じています。先日はひよっこ特別編の再放送でした。時代としては1964年に開催された東京オリンピック前後のドラマです。

現在放送中のなつぞらが日本アニメの創成期にアニメーターを目指すヒロインの物語ですから、話の濃い時代は1950〜1970年辺りでしょうか。

まぁ、両者共にザクッと言えば、高度経済成長の時期、”今日より豊かな明日”が信じられ、又、実際そうであった頃のドラマなわけです。

で、前のエントリを記す際、少し調べたのですが、国民皆年金は1961年あたりに制度化されました。とすると上記ドラマのヒロインは現在、年金受給世代に該当するでしょうか。当時、国民皆年金が制度化されるにあたって、”今日より豊かな明日”を延長した”豊かな老後”が国から提示されたであろうことは想像するに難くありません。薔薇色の老後を想定して、不安も恐れも、怒りもなく豊かさを求めて年金制度に加入していったのだろうと。何せ、スポンサーは後の世代ですから。

昨今の”二千万円足りない”などといった話など、制度化された際には、その片鱗すら現れていなかったはずです。そういった世代間扶助方式の持つ将来の不確実性を指摘する声が、例えあったとしても抑えられていたのかもしれません。

民主主義の本質の一つである、”未来への負担先送り”が具現化したにすぎないとすれば、それはその通りです。年金制度そのものが設計を失敗した欠陥制度ですから、制度自体を是正しない限り、負担の付け回しが延々と続いていくのは避けられないだろう、とみています。

この問題は、例えば賦課方式から積立方式に年金制度を変更することで解決できるわけですが、一時的に膨大な財源が必要となります。そのための負担を誰が担うのかとなると、仮に国庫から支出するにせよ、結局国民負担に行き着くわけで、拒絶されるのは必定です。積立方式を採用した年金システムを新たに制度設計し、賦課方式から積立方式への移行スキームを構築できる人材もいませんし、決断し旗を振れるだけの度量のある為政者も思い浮かびません。同一の(行政)組織が、ガチガチに固まった旧来の制度を否定し、自発的に新制度へと移行することは極めて困難です。自らが設計した制度の失敗を認めることが出発点になりますから、高い障壁が立ち塞がり移行を阻むであろうことは明かです。

ただ、財源については、最近話題に上がっている現代貨幣理論、これが正しいのであれば充当する財源を用意、というか膨大な財政赤字を恐れることなく年金債務を抱え込めるのかもしれません。
「財政赤字のフリーランチ」はいつまで続けられるか
によれば、
ゼロ金利が続くかぎり政府は借金したほうがいい
長期金利が名目成長率より低い(r<g)状態では、財政赤字の財政的コスト(fiscal cost)は発生しない。
とのこと。その正当性は判りませんけど。政府が旗を振ることなく、つまりこれを認めることなく債務を積み上げている現状を鑑みれば、その延長として年金制度を積立方式に変更することの実現可能性もあるのではないかと。

不作為のまま、手を挙げる誰かが現れないことのほうがより深刻な問題に思われます。

それはさておき、前述のような高度経済成長の時代を背景にした話を見聞していると、件の二千万円問題など当時は全く想定だにしなかった、できなかったのだろうというのは間違いありません。不確実さに対する不安を微塵も感じさせない、”今日より豊かでステキな明日”を手放しで信じる社会が描かれているわけですから。違和感は勿論抱きますけど。

それを能天気で無責任と批判するつもりはありません。四十年後、五十年後に二千万足りなくなる欠陥制度と声を上げても誰も取り合わなかったでしょうし。それでもやはり、当時の社会にその旨が伝わっていたらという思いはありますし、謬りを検証する必要性を強く感じます。

”謬りはなかった”、”選択は適切だった”、”合理的な判断だった”、”議論を尽くした結果である”、”社会全体、みんなの総意である”、”想定することはできなかった”との文言により、過去の意思決定を正当化することこそ避けるべきです。愚を繰り返さないための糧にしないと社会は少しも賢くなりません。同じ轍を辿ることになります。

なんだか、かつて旧日本軍に蔓延していた空気、この空気が年金制度の周辺にも漂っていないでしょうか。異論が封じられ、撤退どころか転進すら認められず、身動き取れないまま破綻へと向かわせる、そんな空気による支配が進んでいるようにも見受けられます。

果たして、この空気を能動的に排除することはできるのか、甚だ疑問です。未だ前の敗戦について公式に検証できていない国家に、”もっと自律を”と求めるのも過大な願いではあります。失敗を失敗と認めるにあたり、それを阻む高い障壁が立ちはだかります。

空気の研究に続く、障壁の考察”を待望している今日この頃です。

着想

これはちょっと書き留めておかねば、といった思いで記しておきます。

釜揚げのシラスという食材は、季節を問わず年中スーパーの塩干コーナー辺りに陳列されています。あまりに身近というかありふれた加工食品であるのは間違いありません。で、その食べ方と言えば、大根おろしと合わせるか、白飯に載せたり混ぜ込んだり、玉子焼きやお浸しの具材として混ぜたりと、まぁ、そんな処が一般的でしょうか。

これからの季節、白飯の上にたっぷり載せて飯とシラスを共に掻き込む、或いは、シラスを混ぜ込んだ握り飯を頬張ってみれば、その旨さを通じて日本の食というものを実感します。

しかしながら、シラス丼を例に挙げれば、白飯の上にいくら分厚くシラスを載せても、シラス丼はシラス丼であってその域に留まっているわけです。驚きの少ない、想像できる旨さということです。勿論、旨さを否定するつもりは毛頭ありません。

ところが、最近、とある筋から入手した情報によるシラス丼で、望外の旨さを感じました。冒頭の文言はこの旨さに端を発したものです。

盛夏であってもこのシラス丼と冷やしたゴーヤチャンプルーなら食が進みます。特筆すべきは、そんな料理を品書きに載せている飲食店はない、ことに尽きます。

では、一体釜揚げシラスをどうするのか、と問われれば、何のことはない、”多めの荏胡麻油で和える”だけです。通常、釜揚げシラスを口に含むと、ややパサつきを感じることがあります。味そのものも何となく一味足りない気がして、醤油、酢、その他ドレッシングを加えたりするわけです。まぁ、それが釜揚げシラスと言われればその通りなんですが。

ところが、荏胡麻油で和えたシラスでは、それだけで風味に格段の変化が生じました。パサつき感はなくなりしっとりした舌触りとなり、加えて、元々シラスの持つ塩味や旨味が増幅されました。余計な調味料で隠されていたシラス本来の味が露になって、余すことなく伝わってくる、そう感じた次第です。

先日、オリーブオイルではどうだろうと試してみましたが、荏胡麻油のようなわけにはいきませんでした。シラスの風味を引き立てるどころかオリーブオイルの苦味というかえぐみが気になりました。オリーブオイルが偶々常備していた安価品だったせいかもしれませんが。

いずれココナッツオイルやごま油でも、と思っていますが共に強い風味がありますから果たしてどうでしょうか。(その後、よくある薄茶色のごま油で試してみましたが、ごま油の風味ばかりが前面に出て、シラスの味に記すほどの変化は感じられませんでした。荏胡麻油の場合のような驚きはなかった、ということです。)

さて、釜揚げシラスに荏胡麻油を合わせるという調味ですが、この組み合わせは思い浮かびませんでした。顧みれば、スーパー店頭で陳列されている、或いは、外食チェーンで使用されているネギトロは、植物性や動物性の油を鮪赤身のミンチに添加した加工食品であり、端緒が全くなかったとは言えませんが、ここからの類推は困難です。とても考えが及ばないというのが率直な処です。

この理由はおそらく、釜揚げシラスの食味を”まぁ、こんなものか”と固定化し、且つ、その味で満足していたことに依るものです。これまでの経験に基づいて、自分の中にある味覚の物差し上のある定位置に置かれ、その食味に不満がなければ、自ら新しい創意工夫を試みようとする動機が生じないのも道理です。

未だ引き出せていない潜在的美味しさの存在を確信/推察/想像していて、更なる美味しさを求める姿勢なしでは難しい話です。この姿勢、即ち、目的を持たない限り、創意工夫どころか、試行錯誤ですら実行に移せません。

それは全くその通りなんですが、ただ、シラスという極めて日常的な食物で、もっと、もっとと神経を尖らせあれこれ考えるのもどうなんでしょうか。疲れてしまいます。シラスだけに留まらなくなれば、他の食物についても考えを及ぼさなければなりませんし。
――ボーっと生きてんじゃねーよ!――
と叱られても、シラス位ボーッと食わせてくれよ、とも素直に思います。特段、シラスという食物を軽んじる意図はありませんけど。

そういった中思いがけない美味しさとの遭遇は一体どのような状況で起こり得るのでしょうか、ちょっと考えてみます。

上述のように、更なる美味しさを求めようとする姿勢の下、工夫や試行で得られる美味しさは想定内の美味しさのはずです。最大限見積っても、”思った以上に美味しい”であって思いがけないとか想定外の美味しさではありません。その一方、不満がなくいつも通りボーッと口にしていても、想定外の美味しさに巡り会えないのも、また確かです。

では、思いがけない美味しさを感じるのはどういった場合でしょうか。まず、新たな手順や材料の採用、操作や材料、分量の誤りも含む変更、といった従前とは異る変化が加えらていて、それが特筆すべき食味の向上を生み出していることが必要です。で、これらの変化が、例えば、端折った、代替材料を使った、取り敢えず、なんとなくといった、食味の向上以外の目的で加えられたものである時、想定外の美味しさとなるわけです。食味の向上を企図したものの間違えた、というのも想定外に結びつく一例です。

独創ではないものの、それが理由で、集合知の活用も想定外の何かに繋がることが期待できます。具体的には、”ネットで拾った情報を疑いながらも試してみたら思いの外美味しかった”とか。

つまり、思いがけない美味しさは想定外の手段で得られるものであって、”もっと美味しく”を意図した方法では想定の範囲内に留まる結果しか得られないことになります。この相反する関係がある中で、想定を越えた美味しさを得るための方策はどう見出されているのか...

この相反を両立させる合理的な説明は思い当たりません。現時点では、セレンディピティという確証のない理屈?、恣意的というか感覚的な説?に頼らざるを得ないのかもしれません。
セレンディピティー:求めずして思わぬ発見をする能力。
いや、まぁ、その通りなんですが、それではその能力は一体?となるのは必定です。上記リンク先にはセレンディピティが見出せる代表例として、自然科学における著名な功績が挙げられています。錚々たる科学者ばかりでノーベル賞受賞者も少なくありません。

このセレンディピティーには”構えのある心”が必須のようです。
幸運は用意された心のみに宿る
とのこと。

思いがけない美味しさとの遭遇にも果たしてそれが該当するのだろうか、そんな思いを巡らしながら今日も又、ボーッと釜揚げシラス丼を頬張っている次第です。

セレンディピティーについては別エントリでもう少し考えてみようかと。