2019年7月1日月曜日

着想

これはちょっと書き留めておかねば、といった思いで記しておきます。

釜揚げのシラスという食材は、季節を問わず年中スーパーの塩干コーナー辺りに陳列されています。あまりに身近というかありふれた加工食品であるのは間違いありません。で、その食べ方と言えば、大根おろしと合わせるか、白飯に載せたり混ぜ込んだり、玉子焼きやお浸しの具材として混ぜたりと、まぁ、そんな処が一般的でしょうか。

これからの季節、白飯の上にたっぷり載せて飯とシラスを共に掻き込む、或いは、シラスを混ぜ込んだ握り飯を頬張ってみれば、その旨さを通じて日本の食というものを実感します。

しかしながら、シラス丼を例に挙げれば、白飯の上にいくら分厚くシラスを載せても、シラス丼はシラス丼であってその域に留まっているわけです。驚きの少ない、想像できる旨さということです。勿論、旨さを否定するつもりは毛頭ありません。

ところが、最近、とある筋から入手した情報によるシラス丼で、望外の旨さを感じました。冒頭の文言はこの旨さに端を発したものです。

盛夏であってもこのシラス丼と冷やしたゴーヤチャンプルーなら食が進みます。特筆すべきは、そんな料理を品書きに載せている飲食店はない、ことに尽きます。

では、一体釜揚げシラスをどうするのか、と問われれば、何のことはない、”多めの荏胡麻油で和える”だけです。通常、釜揚げシラスを口に含むと、ややパサつきを感じることがあります。味そのものも何となく一味足りない気がして、醤油、酢、その他ドレッシングを加えたりするわけです。まぁ、それが釜揚げシラスと言われればその通りなんですが。

ところが、荏胡麻油で和えたシラスでは、それだけで風味に格段の変化が生じました。パサつき感はなくなりしっとりした舌触りとなり、加えて、元々シラスの持つ塩味や旨味が増幅されました。余計な調味料で隠されていたシラス本来の味が露になって、余すことなく伝わってくる、そう感じた次第です。

先日、オリーブオイルではどうだろうと試してみましたが、荏胡麻油のようなわけにはいきませんでした。シラスの風味を引き立てるどころかオリーブオイルの苦味というかえぐみが気になりました。オリーブオイルが偶々常備していた安価品だったせいかもしれませんが。

いずれココナッツオイルやごま油でも、と思っていますが共に強い風味がありますから果たしてどうでしょうか。(その後、よくある薄茶色のごま油で試してみましたが、ごま油の風味ばかりが前面に出て、シラスの味に記すほどの変化は感じられませんでした。荏胡麻油の場合のような驚きはなかった、ということです。)

さて、釜揚げシラスに荏胡麻油を合わせるという調味ですが、この組み合わせは思い浮かびませんでした。顧みれば、スーパー店頭で陳列されている、或いは、外食チェーンで使用されているネギトロは、植物性や動物性の油を鮪赤身のミンチに添加した加工食品であり、端緒が全くなかったとは言えませんが、ここからの類推は困難です。とても考えが及ばないというのが率直な処です。

この理由はおそらく、釜揚げシラスの食味を”まぁ、こんなものか”と固定化し、且つ、その味で満足していたことに依るものです。これまでの経験に基づいて、自分の中にある味覚の物差し上のある定位置に置かれ、その食味に不満がなければ、自ら新しい創意工夫を試みようとする動機が生じないのも道理です。

未だ引き出せていない潜在的美味しさの存在を確信/推察/想像していて、更なる美味しさを求める姿勢なしでは難しい話です。この姿勢、即ち、目的を持たない限り、創意工夫どころか、試行錯誤ですら実行に移せません。

それは全くその通りなんですが、ただ、シラスという極めて日常的な食物で、もっと、もっとと神経を尖らせあれこれ考えるのもどうなんでしょうか。疲れてしまいます。シラスだけに留まらなくなれば、他の食物についても考えを及ぼさなければなりませんし。
――ボーっと生きてんじゃねーよ!――
と叱られても、シラス位ボーッと食わせてくれよ、とも素直に思います。特段、シラスという食物を軽んじる意図はありませんけど。

そういった中思いがけない美味しさとの遭遇は一体どのような状況で起こり得るのでしょうか、ちょっと考えてみます。

上述のように、更なる美味しさを求めようとする姿勢の下、工夫や試行で得られる美味しさは想定内の美味しさのはずです。最大限見積っても、”思った以上に美味しい”であって思いがけないとか想定外の美味しさではありません。その一方、不満がなくいつも通りボーッと口にしていても、想定外の美味しさに巡り会えないのも、また確かです。

では、思いがけない美味しさを感じるのはどういった場合でしょうか。まず、新たな手順や材料の採用、操作や材料、分量の誤りも含む変更、といった従前とは異る変化が加えらていて、それが特筆すべき食味の向上を生み出していることが必要です。で、これらの変化が、例えば、端折った、代替材料を使った、取り敢えず、なんとなくといった、食味の向上以外の目的で加えられたものである時、想定外の美味しさとなるわけです。食味の向上を企図したものの間違えた、というのも想定外に結びつく一例です。

独創ではないものの、それが理由で、集合知の活用も想定外の何かに繋がることが期待できます。具体的には、”ネットで拾った情報を疑いながらも試してみたら思いの外美味しかった”とか。

つまり、思いがけない美味しさは想定外の手段で得られるものであって、”もっと美味しく”を意図した方法では想定の範囲内に留まる結果しか得られないことになります。この相反する関係がある中で、想定を越えた美味しさを得るための方策はどう見出されているのか...

この相反を両立させる合理的な説明は思い当たりません。現時点では、セレンディピティという確証のない理屈?、恣意的というか感覚的な説?に頼らざるを得ないのかもしれません。
セレンディピティー:求めずして思わぬ発見をする能力。
いや、まぁ、その通りなんですが、それではその能力は一体?となるのは必定です。上記リンク先にはセレンディピティが見出せる代表例として、自然科学における著名な功績が挙げられています。錚々たる科学者ばかりでノーベル賞受賞者も少なくありません。

このセレンディピティーには”構えのある心”が必須のようです。
幸運は用意された心のみに宿る
とのこと。

思いがけない美味しさとの遭遇にも果たしてそれが該当するのだろうか、そんな思いを巡らしながら今日も又、ボーッと釜揚げシラス丼を頬張っている次第です。

セレンディピティーについては別エントリでもう少し考えてみようかと。

0 件のコメント:

コメントを投稿