2019年7月1日月曜日

空振

どうにも、我慢の限度が...

耳に入る度に強い違和感が催されます。
――なつよ、…来週に続けよ――
現在NHKで放送中の朝ドラ”なつぞら”で、ドラマの最後にナレーションとして挿入されるお決まりのフレーズです。主人公、なつへの亡くなった父親からの声という体裁で、内村光良氏によるナレーションで番組が終了するわけです。

この時、”なつよ”と呼びかけ、むにゃむにゃあって、”来週に続けよ”と。”明日に続けよ”の場合もあります。これは一体、日本語の用法として適切なんでしょうか。

誰かに呼びかけ、その後”続けよ”となる文言を使ったことも使われたことも記憶にありません。視る側の心中にある、
(物語が)続く
のか、
なつが(物語を)続ける
 の、いずれかへと辿り着かせる表現のつもりかもしれませんが、こちらの意識は発散して漂っています。言語について全く詳しくないためか、詳しくないにも関わらずか、もやもやが続いています。

”続けよ”は、”続く”の命令形”続け”に終助詞”よ”がついたものと認識しています。字面だけであれば、”出発せよ”、”始めよ”といった上から目線の強い命令表現も”続けよ”となりますが、ナレーションの口調からこれは違うだろうと。では、終助詞”よ”の役割はというと、発言内容を聞き手に言い聞かせたり、念を押すことのようです。

つまり、”(物語が)続け”という命令の形で願望を表現し、それを念押ししている、と理解しました。では、この意図を誰に向けて伝えているのか、よく判りません。”(物語よ、)続けよ”の意味ならば、その前の”なつよ”が宙に浮いてしまいます。なつに続けさせるならば、”なつよ、(物語を)続けろよ”が適切ではないかと。
”線路は続くよ、どこまでも”
とあって、

”線路よ、続けよ、どこまでも”
と、
”工夫よ、(線路の敷設作業を)続けろよ、どこまで
も”
は理解できますが、
”工夫よ、続けよ、どこまでも
は意味が解らない、ということです。

何か文学的意図があって”なつよ、…来週に続けよ”としたのか...であれば空振りです。整合性のなさというか、噛み合わせの悪さから生じる、もやっとしたものしか伝わってきません。

NHKの組織内には放送文化研究所が設けられていて、ことばについての調査や研究が行われているはずです。自らのコンテンツ内で使われている文言は校閲されないまま放置なんでしょうか。働き方改革で、再放送と総集編ばかりを放送し、番組を新たに制作する余裕すらないのであれば、とても校閲まで手が回らず、雑なコンテンツになってしまうのも腑に落ちないわけではありませんけど。

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