さて、NHKについて記してみます。
NHKの事業姿勢、番組内容を通じ、NHKの公共性についてです。
果たしてNHKは公共放送なのか、その公共性はどのように担保されているのか、本来公共とは何か、に関心を持っています。
長くなると思います。雑然とした批判、疑問が続くばかりで、有意な結論に至らない気もしなくはないですが...幾つかの事象に対して抱いた印象から、公共放送としてのNHKの姿勢、意義を問うてみたいと思っています。
まず明らかにしておきます。既に、NHKの公共放送としての適格性に疑義を抱いていることは否定しません。先入観に因るものかもしれません。
以前のエントリで記しましたが、携帯電話を保有しているだけでNHKとの受信契約の義務が発生する、という事実があります。たとえテレビそのものは保有していなくとも、ワンセグ放送が受信可能な携帯電話、いわゆるガラケー、或いはカーナビを所有しているなら受信契約を結ばなければならない、というのがNHKの姿勢です。
契約の自由の適否については触れるつもりはありませんが、テレビの視聴など目的外で、通話、通信、目的地への行路情報の取得こそが本来の目的で所有する携帯やカーナビに、好むと好まざるに拘らずワンセグ受信機能が付加されていることで義務が発生してしまいます。
カーナビについてはよく知りませんが、ガラケーの場合、ほぼ全ての機種にワンセグ受信機能が組み込まれてしまっています。
視聴するに値しない番組ばかりだからテレビは保有しないがコミュニケーションのために携帯を利用している、といった層にもNHKとの受信契約が迫られる現状にあり、不愉快この上ないわけです。
この強圧的姿勢に公共性や公正性が感じ取れないのです。
巷間、”みなさまのNHK”という語を耳にしますが、みなさまの中に入ることを望まない人々までみなさまの中に繰り入れようとする、こういった姿勢に公共放送を担う適性が認められるのだろうか、ということです。
(続)
このブログを始めるきっかけとなった、 ”唇からナイフ もしくは余計なお世話” を運営されているルキウスさんに感謝致します。 示唆に富んだ記事により、”思考する”機会を私に与えて頂きました。
2014年9月28日日曜日
2014年9月27日土曜日
進歩
晩春から初夏にかけて鮮魚店の店頭に稚鮎が並びます。
で、稚鮎なら勿論天ぷらだろうと。いや、甘露煮も捨て難いんですがね。
いずれにせよ、天ぷらなら稚鮎か穴子、メゴチ、鱧と続き、海老なら小海老でしょう。鱚も悪くはりませんが、鰯、烏賊、かしわ、竹輪の方が好みです。
私が蕎麦屋でほとんど天ざるを注文しないのはこの辺りが理由かと自認しています。
これみよがしに大きな海老天より稚鮎の天ぷらです。稚鮎の天ぷらですとやはり天つゆより塩ですし、稚鮎の腹のほろ苦さが蕎麦とは合わないような気もします。
そもそも稚鮎の天ぷらを出す蕎麦屋を知りません。
ところで、稚鮎と小鮎は異なるようで、稚鮎は遡上前に河口域で漁獲される正に稚鮎で、小鮎は成魚であっても小さなままの、琵琶湖に特有な個体とのことです。
話が逸れっぱなしでした。
今時分になると養殖はもとより天然物も十分な大きさに成長した鮎が店頭に並びます。
養殖、天然に拘らず、こういった大きさの鮎で一夜干しを作り、焼いてそのままは勿論、更に、鮎の炊き込みご飯として堪能しています。
ところが、ある程度の大きさの鮎になると、どうしても頭や中骨が気になります。上手に焼けば頭や骨もいけるのかもしれませんが、なかなか...
頭や肋骨、小間切れになった中骨が口内で鬱陶しく気に障るわけです。
今季、ふと思いついて該一夜干しを唐揚げに、更に一部を南蛮漬けにしてみました。
検索してみても、小鮎や若鮎の姿揚げ、南蛮漬けの料理例はあるものの、成魚の一夜干しを使った調理例は見当たりません。まぁ、鯵での例を参考に...適当ということです。
で、稚鮎なら勿論天ぷらだろうと。いや、甘露煮も捨て難いんですがね。
いずれにせよ、天ぷらなら稚鮎か穴子、メゴチ、鱧と続き、海老なら小海老でしょう。鱚も悪くはりませんが、鰯、烏賊、かしわ、竹輪の方が好みです。
私が蕎麦屋でほとんど天ざるを注文しないのはこの辺りが理由かと自認しています。
これみよがしに大きな海老天より稚鮎の天ぷらです。稚鮎の天ぷらですとやはり天つゆより塩ですし、稚鮎の腹のほろ苦さが蕎麦とは合わないような気もします。
そもそも稚鮎の天ぷらを出す蕎麦屋を知りません。
ところで、稚鮎と小鮎は異なるようで、稚鮎は遡上前に河口域で漁獲される正に稚鮎で、小鮎は成魚であっても小さなままの、琵琶湖に特有な個体とのことです。
自宅で口にしているのはおそらく小鮎です。スチロールケースに琵琶湖の文字がありますから。
初夏を迎えれば塩焼きですが、頭も余さず喰らえる若鮎サイズが好適かと思っています。
話が逸れっぱなしでした。
今時分になると養殖はもとより天然物も十分な大きさに成長した鮎が店頭に並びます。
養殖、天然に拘らず、こういった大きさの鮎で一夜干しを作り、焼いてそのままは勿論、更に、鮎の炊き込みご飯として堪能しています。
ところが、ある程度の大きさの鮎になると、どうしても頭や中骨が気になります。上手に焼けば頭や骨もいけるのかもしれませんが、なかなか...
頭や肋骨、小間切れになった中骨が口内で鬱陶しく気に障るわけです。
検索してみても、小鮎や若鮎の姿揚げ、南蛮漬けの料理例はあるものの、成魚の一夜干しを使った調理例は見当たりません。まぁ、鯵での例を参考に...適当ということです。
結果、唐揚げ、南蛮漬け共に頭も中骨も余すことなく美味しく頂きました。
この夏の収穫の一つです。
2014年9月26日金曜日
我儘
飲酒後心地良くなると、出汁を啜りたくなるわけです。
お茶漬け、雑炊だったり、ラーメン、うどん、蕎麦、コーンスープ、味噌汁、豚汁、蕎麦湯といったところでしょうか。
自宅では殆ど汁物です。いい年なんで...
偶にカップそばを啜ることがあるのですが、その度に適当な製品がないなぁ、という思いを禁じ得ません。
蕎麦そのものや、汁の風味の話ではありません。鈍舌の上に既に御機嫌になっていますから、蕎麦の繊細な味わいなどわかりませんし、元々それほど期待していません。
常々、具材というか種が余分だなぁ、という印象です。後は分量でしょうか、ただこれは個人に依るので多くは申しません。
店頭でみかけるカップそばは全て具材入りです。圧倒的に多い具材はかき揚げというか、まぁそういった類の円盤状の揚げ物です。他には刻み揚げ、キノコ、変わったところでは鴨だしやら豚ねぎのそばで相応するかやくぐらいでしょうか。
で、具材が邪魔なんです。かけそば状態にして常備してある炙り海苔、必要に応じて鰹節を載せ、七味を振ってズッーと啜れれば十分です。
これが思うようにいきません。具材のないカップそばが入手できないのです。(調べた所、明星食品からかけそばでっせという製品が上市されているようですが、店頭で見たことがありません。)
やむを得ず、かき揚げ様の種が別添で袋入りになっている
日清のどん兵衛 天ぷらそばから具材を取り出してかけそばにしています。具材が別添で袋入りとなっている態様はこの製品しか見つかっておらず、他は全て
不便というか、大きなお世話なわけです。
カップそばで単なるかけそばを望むのは我儘なんでしょうか。
ついでに言えば量はやや控え目のこれぐらいで...飲んだ後で軽く啜るには手頃かなぁと。商品化を願っています。
お茶漬け、雑炊だったり、ラーメン、うどん、蕎麦、コーンスープ、味噌汁、豚汁、蕎麦湯といったところでしょうか。
自宅では殆ど汁物です。いい年なんで...
偶にカップそばを啜ることがあるのですが、その度に適当な製品がないなぁ、という思いを禁じ得ません。
蕎麦そのものや、汁の風味の話ではありません。鈍舌の上に既に御機嫌になっていますから、蕎麦の繊細な味わいなどわかりませんし、元々それほど期待していません。
常々、具材というか種が余分だなぁ、という印象です。後は分量でしょうか、ただこれは個人に依るので多くは申しません。
店頭でみかけるカップそばは全て具材入りです。圧倒的に多い具材はかき揚げというか、まぁそういった類の円盤状の揚げ物です。他には刻み揚げ、キノコ、変わったところでは鴨だしやら豚ねぎのそばで相応するかやくぐらいでしょうか。
で、具材が邪魔なんです。かけそば状態にして常備してある炙り海苔、必要に応じて鰹節を載せ、七味を振ってズッーと啜れれば十分です。
これが思うようにいきません。具材のないカップそばが入手できないのです。(調べた所、明星食品からかけそばでっせという製品が上市されているようですが、店頭で見たことがありません。)
やむを得ず、かき揚げ様の種が別添で袋入りになっている
日清のどん兵衛 天ぷらそばから具材を取り出してかけそばにしています。具材が別添で袋入りとなっている態様はこの製品しか見つかっておらず、他は全て
――さぁ、お湯をかけて下さい――と言わんばかりに既に具材が麺の上に載せられてしまっています。
不便というか、大きなお世話なわけです。
カップそばで単なるかけそばを望むのは我儘なんでしょうか。
ついでに言えば量はやや控え目のこれぐらいで...飲んだ後で軽く啜るには手頃かなぁと。商品化を願っています。
謝意
以前、様々なサイト管理者から配信される、不正アクセスに対する注意を喚起し、パスワードの変更を促すメールについて記しました。
その後も、依然として各方面から”重要なお知らせ”が届きます。
そういった中、五月頃の話です。一難去ってまた一難とでも言えばいいのでしょうか。
Gmailが、
ヘルプによればこのエラーは、
しかしながら、半日以上経過しても解消されず途方にくれました。アクセスするPC、OS、ブラウザを変えた所、別のPCから当該アカウントからでも、或いは当該PCでも他のアカウントからならGmailにアクセス可能であることが分かりました。
結局、OSのアップグレードを試みたのですが、失敗。バックアップを取ってクリーンインストールに至りましたが、エラーは解消されました。
ところが、翌々日だったでしょうか。再び、
幸いなことにこの時は確か数十分程度でエラーは解消されたのですが、メールを受信すると...
泡食って再設定したのは言うまでもありません。
今更ではありますが、Google アカウント チームの方々に御礼を申し上げる次第です。
ありがとうございました。
で、その後も、相変わらず各方面から警告メールが届いています。
先のGmailへの不正アクセスに関連してか、アカウントを保有している海外のサイトからも
銀行やカード会社からはパスワードや認証番号表の情報を詐取する不正画面の注意喚起メールも届きました。
直近では新興のポータルサイトで不正アクセスが確認されたとのこと。自サイトからの流出は検知されていないが、パスワードを変更しろと...
不思議なことに、物販系サイトからはこういった注意喚起メールを受け取っていません。大手の数サイトを利用しているのですが、最近というかこれまでの所、該メールを受信した記憶がありません。
物販サイトに移るポータルサイトからならありますが...
セキュリティが強固に保たれているのか、不正アクセスによる被害が表沙汰になっていないだけなのかは存じません。支払い方法がクレジットカードの利用者ならば、真の被害者はカード会社であるということも理由の一つなのでしょうか。
興味のあるところです。
その後も、依然として各方面から”重要なお知らせ”が届きます。
――不正アクセスがありました。パスワードの変更をお願いします。――同一サイトからではありませんが、断続的というか、定期的と言っていい頻度です。
そういった中、五月頃の話です。一難去ってまた一難とでも言えばいいのでしょうか。
Gmailが、
"一時的なエラー"と表示され利用不能に陥りました。
ヘルプによればこのエラーは、
Gmail にログインする際に「一時的なエラー」というメッセージが表示される場合は、メールが一時的に使用できなくなっています。通常、これらのエラーは数分以内に自動的に解消されるので、少し経ってから再度試してみてください。Gmail にアクセスすることはできませんが、メールや個人情報は安全に保護されています。とのことでした。
しかしながら、半日以上経過しても解消されず途方にくれました。アクセスするPC、OS、ブラウザを変えた所、別のPCから当該アカウントからでも、或いは当該PCでも他のアカウントからならGmailにアクセス可能であることが分かりました。
結局、OSのアップグレードを試みたのですが、失敗。バックアップを取ってクリーンインストールに至りましたが、エラーは解消されました。
ところが、翌々日だったでしょうか。再び、
"一時的なエラー (500)"との表示に頭を抱えてしまいました。
幸いなことにこの時は確か数十分程度でエラーは解消されたのですが、メールを受信すると...
"不正なログインがブロックされました"という件名でGoogle アカウント チームからメールが届いていました。一部を引用します。
****** 様、Google をご利用いただきありがとうございます。
最近、他のユーザーがあなたのパスワードを使ってあなたの Google アカウント(********@gmail.com)にログインしようとしました。このユーザーは、メール クライアントなどのアプリケーションや携帯端末を使用していました。
Google では、このアカウントへのアクセスが不正使用のおそれがあるため、このログインをブロックしました。ログインの詳細について、以下の情報をご確認ください:
2014年5月13日 22時45分27秒 UTC IP アドレス: 120.43.58.111 場所: 中華人民共和国 福建省 寧徳市
このログインに心当たりがない場合は、他のユーザーがあなたのアカウントにアクセスしようとした可能性があります。今すぐアカウントにログインして、パスワードを再設定してください。冷や汗が...
泡食って再設定したのは言うまでもありません。
今更ではありますが、Google アカウント チームの方々に御礼を申し上げる次第です。
ありがとうございました。
で、その後も、相変わらず各方面から警告メールが届いています。
先のGmailへの不正アクセスに関連してか、アカウントを保有している海外のサイトからも
”cyberattackがあったんでパスワードの変更を”を受信しました。いくつかのサイトのパスワードを変更しました。
銀行やカード会社からはパスワードや認証番号表の情報を詐取する不正画面の注意喚起メールも届きました。
直近では新興のポータルサイトで不正アクセスが確認されたとのこと。自サイトからの流出は検知されていないが、パスワードを変更しろと...
不思議なことに、物販系サイトからはこういった注意喚起メールを受け取っていません。大手の数サイトを利用しているのですが、最近というかこれまでの所、該メールを受信した記憶がありません。
物販サイトに移るポータルサイトからならありますが...
セキュリティが強固に保たれているのか、不正アクセスによる被害が表沙汰になっていないだけなのかは存じません。支払い方法がクレジットカードの利用者ならば、真の被害者はカード会社であるということも理由の一つなのでしょうか。
興味のあるところです。
(追記)
上記を書き進めている矢先、
JALで情報流出、マイレージ会員情報など最大75万件の可能性も
との報道がありました。
以前のエントリでも触れましたが、サイトの脆弱性が露見したり、不正アクセスが明らかになった後、”安全宣言”に類するメールを受信したことがありません。
前回の不正アクセスが未だ記憶に新しいにも拘らず今回の流出です。
”安全宣言”を出すなど夢のまた夢かもしれません。
2014年9月22日月曜日
不憫
時折道を尋ねられることがあります。その事自体は何でもなく、知り得る範囲で応えています。
ただ、離れた車中から声をかけ、降車するわけでもなく、
当然、尋ねる側、情報を望んでいる側が近寄ってくるべきと思っていますので違和感を感じます。いい気分でないのは確かです。
そういった台詞を何の躊躇なく、平然と言い放つその感覚、理解に苦しみます。
いずれも団塊の世代辺りの、いわゆるいい年をしたおばさんなんですが...礼儀という程でもない、常識を期待する方が間違いなんでしょうか。
その年までそういったことは指摘されなかったのか、だとしたら気の毒なことです。
ただ、離れた車中から声をかけ、降車するわけでもなく、
”こちらに来て教えて”と要求するのはどうなんでしょうか。一度ならずとも経験があります。
当然、尋ねる側、情報を望んでいる側が近寄ってくるべきと思っていますので違和感を感じます。いい気分でないのは確かです。
そういった台詞を何の躊躇なく、平然と言い放つその感覚、理解に苦しみます。
いずれも団塊の世代辺りの、いわゆるいい年をしたおばさんなんですが...礼儀という程でもない、常識を期待する方が間違いなんでしょうか。
その年までそういったことは指摘されなかったのか、だとしたら気の毒なことです。
2014年9月15日月曜日
余談
生来の鈍舌ですから、以前のエントリに挙げた店、蕎麦ツユが気になった店に加え、
平針 菊丸
瀬戸 百姓庵
尾張旭 そば清
長久手 安江(瑞穂区の店は知りません)
門前町 一八
いずれの蕎麦も美味しく啜っています。
各々の蕎麦の違いについて言及する意図はありません。
で、全ての店の天ぷらを口にしているわけではありませんが、長久手 安江の海老天と蕎麦香露がいいかなと...
火が通り過ぎていない小海老が気に入っています。
天丼やかけ蕎麦に載せるなら、衣たっぷりのよくあるサイズの海老天ですが。
かやくご飯の用意があるのも嬉しいところです。
蕎麦とは関係ない話です。
平針 菊丸
瀬戸 百姓庵
尾張旭 そば清
長久手 安江(瑞穂区の店は知りません)
門前町 一八
いずれの蕎麦も美味しく啜っています。
各々の蕎麦の違いについて言及する意図はありません。
で、全ての店の天ぷらを口にしているわけではありませんが、長久手 安江の海老天と蕎麦香露がいいかなと...
火が通り過ぎていない小海老が気に入っています。
天丼やかけ蕎麦に載せるなら、衣たっぷりのよくあるサイズの海老天ですが。
かやくご飯の用意があるのも嬉しいところです。
蕎麦とは関係ない話です。
欺瞞
最近、原発の再稼働に絡み”ゼロリスク”という語をよく目にするようになりました。例えば、
特に、BLOGOS内を”ゼロリスク”で検索してみると、池田信夫氏が執筆された多くのエントリが抽出されます。
上記リンクの中、最後のリンク以外は、共通して、
と主張されています。
これが、以前のエントリで記した、
このことを否定するつもりはありません。極当たり前の話で、それ以外の答は有り得るのでしょうか。”みんな”で決めて、負担や危険、責任は将来に先送り、といった正に民主主義の本質を外すことなく象徴しているなぁといった思いです。おそらく、次の重大事故発生時には決定を下した世代は存命ではないでしょうから...
原発を推進したとされる新聞社の社主は既に故人です。本人の意思は確認できませんし、了承も得られません。従って、故人が存命中に下した判断は動かし難い既定事項となってしまっています。
ただ、”ゼロリスクの否定”は素直に支持できる話ではありません。
過去、原発が推進されていた時代、政府、電力事業者、立地自治体、地域住民の間で果たして、ゼロリスクについての共通認識、ゼロリスクを求めないことについて合意があったのか疑問です。”ゼロリスク”、”原発”というキーワードを2011年03月10日までの間グーグル検索してみました。
関連度順、日付順に検索してみたのですが、政府、電力事業者からの、原発に対し”ゼロリスクを求めるな”を重視した情報は見い出せませんでした。2002年の、
この資料は高速増殖炉もんじゅの事故(1995年)、JCO臨界事故(1999年)後のものですが、こういった事故を受けた後の行政側の姿勢が窺える部分を引用します。真偽は定かではありませんが...
これまで大過なく安全だったことで安全神話に囚われてしまっていることを容易に想像させます。想定できてもそこまでは不要だろう、リスクはあってもコントロールできている(=安全神話)ということかと...
原発の立地地域を決定し、全国に建設を進めていた時代にはリスクのリの字も口にせず、ひたすら”絶対安全”のお題目で危惧を封じ込め、上述のもんじゅとJCOの事故を経て”(安全だから)リスクがあることを認識しろ”と、で、福島事故以降は”ゼロリスクを求めるな”と、原発を巡る空気は変遷してきたのではないでしょうか。
原発を建設する際、果たして、リスクがあること、そしてゼロリスクの達成は適わないことについて誠実な説明が行われ、理解が得られていたとは思えません。
”絶対安全”の語と、いわゆるアメと鞭でなんとなく納得させられてきたというのが実状だったかと憶測しています。
そういった経緯を背景に、原発が建設され、稼働し、過酷な事故が起こってからゼロリスクを求めるなと言われても釈然としないものを感じるわけです。
今更とか、後出しじゃんけんといった印象を拭えません。原発というものが存在する以上、本来あり得ないゼロリスクを、政治的な力で歪曲し絶対安全であるかの如く粉飾していたとみています。当時、そうしなければ原発の建設などとても適わなかったことは理解できますが、だからといって容認されることではありません。
ここで絶対安全というボタンの掛け違いが始まり、事故が起こるまで一人歩きしてしまったと。否定できないまま...原発の必要性を認める科学者であっても絶対安全のお題目に疑問を呈すことは憚られていたのではなかったかと想像します。
むしろ、真実に従順で、合理性に依拠して判断、行動する科学者であっても、金と力はなかりけりですから、絶対安全と粉飾する片棒を担がされていた可能性は否定できません。絶対安全を断言しないまでも印象操作、誤認への誘導があったであろうことは十分考えられます。
以前のエントリで記しましたが、科学者は自身の研究分野を除けば、総じて常識的、保守的だろうという印象があり、であれば、政府方針には協力的とみるのが自然でしょう。
加えて、科学者はあきらめないわけです。問題が生じてもなんとか解決して、前進することを選択します。ですから、非常な困難に直面しても、当事者には中止しようとする自律的な力は生まれ難く、中止の判断も遅れがちになりやすいかと...いや、問題が解決に至ることが望ましいのは勿論で、そういった場合は脚光を浴びるのでしょうが、その影には中止の判断が遅きに失した研究テーマの山があるのでは、と勘ぐっています。
いずれにせよ、リスク≠ゼロという本来の姿を絶対安全へと捻じ曲げてしまうといった、合理的判断に民主主義の力、政治的判断が介入する事例は珍しくはありません。
例えば、いわゆるアベノミクスと称される政策(金融緩和、公共投資、成長戦略)は果たして合理的だったのでしょうか。
開門しても制裁金、開門しなくても国に制裁金が課せられる諫早湾水門の開門に関する矛盾した司法判断は公共事業の著しい非合理性を示す典型かもしれません。
一方、我が国は法治国家のはずなのですが、国の基本原理・原則を定めた法規範である憲法ですら遵守されていない現状にありますし、解釈改憲も容認(?)されています。
政治的思惑による客観的事実や正論の歪曲、違憲、違憲状態の放置がまかり通っている現在、”実は絶対安全ではなかったから、ゼロリスクを求めるな”と尤もらしく宣われても不信感は禁じ得ないわけです。いや、”ゼロリスクを求めるな”は当然であり、これは間違いのないところです。
行政がリスクを管理する力に疑義があるということです。果たして客観性、合理性を損なわない、厳格なリスク管理が所管の政治家や官庁に可能なのでしょうか。
おそらく、事故の発生確率と想定される被害の大きさを基にしたリスクの算出、このリスクに対する許容基準の設定といった、科学的で緻密な予測に基づいて策定されるべき法令やガイドラインでリスク管理が行われるのでしょう。
ここに民主主義的妥協、政治的意図、ポピュリズムが入り込む恐れを排除できないのでは、と考えます。百年、千年、或いはそれ以上の超長期に渡る安全確保のためのリスク管理が当初に設計されたとしても、時間の経過と共にというか、喉元過ぎれば規制や許容基準を緩めようとする力が働き出してくるのは明らかです。
将来の大義名分は、
利用手段は、[暫定/特別/激変緩和]措置で、必要条件の十分条件へのすり替えかと...
元々、当初の時点でどこまで緻密で合理的な策定ができるかも疑わしいわけです。科学的に十分とみなせる規制や基準の策定は相当困難である一方、厳しい期限での策定が迫られるはずです。そういった状況下で、例えば再稼働ありきを前提とした政治的意図が介入すれば、緩い規制、甘い基準に偏向してしまいます。
実施可能でかつ当面の事故を回避できる程度に仮(?)策定して、問題は次世代に引き継ぎ、といった意識が生まれてしまうのでは、と憶測します。で、関係者が任を外れるなどで、いつの間にか責任の所在が雲散霧消して安全神話が一人歩きを始めると...
いっそ、不確定な長期に渡る安全確保を関係者間で継代するより、安全が確保されたとして担保できる期間、地域等の責任範囲を最小に限定し、後世に継承(実際には押し付けであり、先送りですが)した方が危機意識が保たれるのかもしれません。
即ち、完全なリスク管理は不可能であることを自覚しておくべきである、ということです。ゼロリスクがあり得ないことと同義です。
上述した、事故の発生率と想定される被害の大きさを基にしたリスクの算出、このリスクに対する法令やガイドラインによるリスク管理に関する論述は容易に目にすることができます。これまで、結論は出ずとも、事故の発生率についての議論はありました。原因として原発の設備機器としての機械的寿命や故障、地震や津波、果ては隕石の落下といった自然災害、或いは、テロや戦争といった人為的攻撃などが言及されています。
で、妥当性はともかく、科学的に推定できる原因の中で、天文学的に低い発生率が明らかな原因に対しては除外しよう、目を瞑ろうという考え方、これが”ゼロリスクを求めるな”の趣旨と捉えています。確かに科学の範囲内に限るなら首肯できない話ではありません。
しかしながら、重大事故に至らしめる大きな要因の一つであるリスク管理そのものも含めて鑑みれば、天文学的に低い発生率が無視し得ない発生率に増幅されてしまう恐れがあるわけです。これが”ゼロリスクを求めるな”に抗う理由です。
既存の科学的知見を用いて算出されたリスクに対し、法令、ガイドライン、マニュアルが策定され、これらを遵守することでリスク管理が行われます。その時点で科学的知見が不十分で、そのことによる算出リスクの不完全性があったとしても、最大限合理性、客観性が熟慮されたものであれば、不完全な部分はやむを得ないと、一定程度容認されているのではないでしょうか。
”ゼロリスクを求めるな”に同意できるのは科学の範囲内に限ってのみということです。
実は、”ゼロリスクを求めるな”に関しより重視すべきはリスク管理と運用であり、ここで重大事故の発生率は増幅されてしまうと考えています。
リスクの算出に当り科学的知見は確かに不十分ですが、科学が完全ではないことは十分知られています。しかしながら、該算出リスクに対して策定された法令、ガイドライン、マニュアルの不完全性は果たして意識されているのでしょうか。更に、そういったリスク管理もどこまで完全に運用されるのか疑問が残っています。
例えば、我国憲法は憲法として問題はないのか、そしてその憲法は完全に遵守されているか、といった話です。交通事故は自動車それ自体より交通法規や運転に原因がある場合が多いのではないか、ということです。
設備、機器といったハードウェアのトラブルより、リスク管理とその運用というソフトウェア部分に由来する不備、欠陥、非合理性の齎す不信感が”ゼロリスクを求めるな”を拒絶せしめていると考えています。
福島原発の事故は津波によるものでしたが、更に言えば、津波に起因する外部電源喪失が原因とされています。ここにリスク管理と運用の不完全性を感じます。安全神話に囚われた状況下、経済性を優先したために安全確実に機能する外部電源を用意しなかった...
正に問題の根幹はハードウェアではなく、システムとその運用にあるわけです。
科学的な部分については必ずしも信頼性が十分でなくとも、そのことが顕在化しています。しかしながら、リスク管理とその運用についてその不完全性は潜在化してしまっており、実はこの不完全性が極めて大きいのではないかと考えています。
地道に突き詰めた科学的な部分の精度、確度を無意味にしてしまうような大きな不完全性が、リスク管理とその運用という人為的部分の根幹に潜在化したままになっているということです。
複数kの過酷事故nについて各々の事故発生率をpnとすると、安全な確率Pkは、
法令、ガイドライン、マニュアル等のリスク管理システムの不備sn、運用の不完全性cnを加味すれば
pnが天文学的に小さくとも人為的部分の不完全性sn、cnによって、信頼できるPkが得られないのではないか、これが”ゼロリスクを求めるな”に対する不信感の根元かと勘ぐっています。
街中を自動車で走っていると、信号のない交差点の近くに愛知県警のパトカーが潜んでいて、一時停止違反の取締りをしているのをしばしば見かけます。何時間の取締りかは存じませんし、その間に何人の違反者が切符を切られているかも知りません。
ただ、一定時間、一台のパトカーと二人の警官を貼り付けさせているわけです。生産性が低いなぁという思いを禁じ得ません。公務なんでその低生産性を指摘する輩は少ないでしょうが...
通信と画像記録技術の進歩と低コスト化が進んだ今日、交差点にカメラを導入して同時多点記録を導入すれば生産性が向上するはずです。
では、何故導入が進まないかと考えれば、やはり不信感が導入を阻んでいるのでしょう。記録された映像が何に利用されるかわからない、改竄されないとも限らない、といった恐れです。
証拠捏造や隠滅、誤認逮捕、別件逮捕、不当勾留、冤罪、情報漏洩、或いは不作為等のキーワードで検索される警察の不祥事は毎日のように見聞します。
こういった事件に端を発する行政に対する不信感と同様の、行政の公正で合理的な行動に対する信頼性の欠如こそが”ゼロリスクを求めるな”を首肯させない根源ではないか、と考える次第です。
分かりにくい原発の安全目標 背景に「ゼロリスク文化」
原発の“ゼロリスク”追求政策は愚の骨頂 「停止リスク」の増幅こそ本当のリスク
工学者が見る大飯原発差し止め判決の誤り - 奈良林直
「大飯原発判決」これだけの誤り - 澤昭裕
なぜ原発だけ「ゼロリスク」を求められるのか
ゼロリスクなど求めていませんなどです。
特に、BLOGOS内を”ゼロリスク”で検索してみると、池田信夫氏が執筆された多くのエントリが抽出されます。
上記リンクの中、最後のリンク以外は、共通して、
ゼロリスクを求めるな
と主張されています。
これが、以前のエントリで記した、
結果として原発が稼働を続ける限り、短期はともかく超長期のスパンにおいて事故の発生は回避し得ないと考えます。我国の原子力技術開発を担ってきた優秀な科学者、技術者、及び、原発を推進してきた賢い(?)為政者が、このような当然の考えに至らないはずがありません。この考えが誤りであるのか、或は、この考えの先には更なる結論があるのか、是非、有識者層がどのような”合理的”な認識を有しているかを知りたいと願っています。の答に相当するものと受け止めています。一定の確率、特に重大事故の発生確率は天文学的に低いかもしれませんが、零ではない確率で発生することへの容認を求めているわけです。
このことを否定するつもりはありません。極当たり前の話で、それ以外の答は有り得るのでしょうか。”みんな”で決めて、負担や危険、責任は将来に先送り、といった正に民主主義の本質を外すことなく象徴しているなぁといった思いです。おそらく、次の重大事故発生時には決定を下した世代は存命ではないでしょうから...
原発を推進したとされる新聞社の社主は既に故人です。本人の意思は確認できませんし、了承も得られません。従って、故人が存命中に下した判断は動かし難い既定事項となってしまっています。
ただ、”ゼロリスクの否定”は素直に支持できる話ではありません。
過去、原発が推進されていた時代、政府、電力事業者、立地自治体、地域住民の間で果たして、ゼロリスクについての共通認識、ゼロリスクを求めないことについて合意があったのか疑問です。”ゼロリスク”、”原発”というキーワードを2011年03月10日までの間グーグル検索してみました。
関連度順、日付順に検索してみたのですが、政府、電力事業者からの、原発に対し”ゼロリスクを求めるな”を重視した情報は見い出せませんでした。2002年の、
「リスクをめぐる専門家たちの"神話"」で原発も含めた記述がされている程度でしょうか。
この資料は高速増殖炉もんじゅの事故(1995年)、JCO臨界事故(1999年)後のものですが、こういった事故を受けた後の行政側の姿勢が窺える部分を引用します。真偽は定かではありませんが...
いわゆる「原発震災」を懸念している静岡県の浜岡の住民グループと、当時の科技庁の原子力安全委員(?)との討論会の一場面だ。さっきも書いたように、95年のもんじゅ事故以来、原子力業界も「原子力にもリスクはある」ということを公言するようになってきているわけだが、この討論会でもそうだった。科技庁の専門家曰く、「皆さん、どんなものにもリスクはあるんです。それを認めないことには対話は成り立ちません。」傍聴していた筆者は、「何、今更、寝ぼけたこというとんねん?それこそ運動側がずーっと言ってきたことやないかい」と内心ツッコンでいたら、案の定住民グループから「それこそわれわれが言い続けてきたことであり、『絶対安全だ』と言いつづけてきたのはあんたらじゃないか」というツッコミ。これが、例えば
「非常用ディーゼル2個の破断も考えましょう、こう考えましょうと言っていると、設計ができなくなっちゃうんですよ」
「ちょっと可能性がある、そういうものを全部組み合わせていったら、ものなんて絶対造れません」
(2007年 斑目春樹 元原子力安全委員長)に繋がっていき、リスクがあることを認識しながらも、リスク最小化が図られなかったわけです。
これまで大過なく安全だったことで安全神話に囚われてしまっていることを容易に想像させます。想定できてもそこまでは不要だろう、リスクはあってもコントロールできている(=安全神話)ということかと...
原発の立地地域を決定し、全国に建設を進めていた時代にはリスクのリの字も口にせず、ひたすら”絶対安全”のお題目で危惧を封じ込め、上述のもんじゅとJCOの事故を経て”(安全だから)リスクがあることを認識しろ”と、で、福島事故以降は”ゼロリスクを求めるな”と、原発を巡る空気は変遷してきたのではないでしょうか。
原発を建設する際、果たして、リスクがあること、そしてゼロリスクの達成は適わないことについて誠実な説明が行われ、理解が得られていたとは思えません。
”絶対安全”の語と、いわゆるアメと鞭でなんとなく納得させられてきたというのが実状だったかと憶測しています。
そういった経緯を背景に、原発が建設され、稼働し、過酷な事故が起こってからゼロリスクを求めるなと言われても釈然としないものを感じるわけです。
今更とか、後出しじゃんけんといった印象を拭えません。原発というものが存在する以上、本来あり得ないゼロリスクを、政治的な力で歪曲し絶対安全であるかの如く粉飾していたとみています。当時、そうしなければ原発の建設などとても適わなかったことは理解できますが、だからといって容認されることではありません。
ここで絶対安全というボタンの掛け違いが始まり、事故が起こるまで一人歩きしてしまったと。否定できないまま...原発の必要性を認める科学者であっても絶対安全のお題目に疑問を呈すことは憚られていたのではなかったかと想像します。
むしろ、真実に従順で、合理性に依拠して判断、行動する科学者であっても、金と力はなかりけりですから、絶対安全と粉飾する片棒を担がされていた可能性は否定できません。絶対安全を断言しないまでも印象操作、誤認への誘導があったであろうことは十分考えられます。
以前のエントリで記しましたが、科学者は自身の研究分野を除けば、総じて常識的、保守的だろうという印象があり、であれば、政府方針には協力的とみるのが自然でしょう。
加えて、科学者はあきらめないわけです。問題が生じてもなんとか解決して、前進することを選択します。ですから、非常な困難に直面しても、当事者には中止しようとする自律的な力は生まれ難く、中止の判断も遅れがちになりやすいかと...いや、問題が解決に至ることが望ましいのは勿論で、そういった場合は脚光を浴びるのでしょうが、その影には中止の判断が遅きに失した研究テーマの山があるのでは、と勘ぐっています。
いずれにせよ、リスク≠ゼロという本来の姿を絶対安全へと捻じ曲げてしまうといった、合理的判断に民主主義の力、政治的判断が介入する事例は珍しくはありません。
例えば、いわゆるアベノミクスと称される政策(金融緩和、公共投資、成長戦略)は果たして合理的だったのでしょうか。
開門しても制裁金、開門しなくても国に制裁金が課せられる諫早湾水門の開門に関する矛盾した司法判断は公共事業の著しい非合理性を示す典型かもしれません。
一方、我が国は法治国家のはずなのですが、国の基本原理・原則を定めた法規範である憲法ですら遵守されていない現状にありますし、解釈改憲も容認(?)されています。
政治的思惑による客観的事実や正論の歪曲、違憲、違憲状態の放置がまかり通っている現在、”実は絶対安全ではなかったから、ゼロリスクを求めるな”と尤もらしく宣われても不信感は禁じ得ないわけです。いや、”ゼロリスクを求めるな”は当然であり、これは間違いのないところです。
行政がリスクを管理する力に疑義があるということです。果たして客観性、合理性を損なわない、厳格なリスク管理が所管の政治家や官庁に可能なのでしょうか。
おそらく、事故の発生確率と想定される被害の大きさを基にしたリスクの算出、このリスクに対する許容基準の設定といった、科学的で緻密な予測に基づいて策定されるべき法令やガイドラインでリスク管理が行われるのでしょう。
ここに民主主義的妥協、政治的意図、ポピュリズムが入り込む恐れを排除できないのでは、と考えます。百年、千年、或いはそれ以上の超長期に渡る安全確保のためのリスク管理が当初に設計されたとしても、時間の経過と共にというか、喉元過ぎれば規制や許容基準を緩めようとする力が働き出してくるのは明らかです。
将来の大義名分は、
過去の反省を踏まえ、技術開発が十分に進められた結果、過去に定められた規制や基準は過剰に厳格であり、緩和すべきである。
福島原発の事故以来、深刻な事故は発生しておらず、その予測技術は十分進歩している。
今日の技術を活用すれば、事故対応は万全である。といったところでしょうか。
利用手段は、[暫定/特別/激変緩和]措置で、必要条件の十分条件へのすり替えかと...
元々、当初の時点でどこまで緻密で合理的な策定ができるかも疑わしいわけです。科学的に十分とみなせる規制や基準の策定は相当困難である一方、厳しい期限での策定が迫られるはずです。そういった状況下で、例えば再稼働ありきを前提とした政治的意図が介入すれば、緩い規制、甘い基準に偏向してしまいます。
実施可能でかつ当面の事故を回避できる程度に仮(?)策定して、問題は次世代に引き継ぎ、といった意識が生まれてしまうのでは、と憶測します。で、関係者が任を外れるなどで、いつの間にか責任の所在が雲散霧消して安全神話が一人歩きを始めると...
いっそ、不確定な長期に渡る安全確保を関係者間で継代するより、安全が確保されたとして担保できる期間、地域等の責任範囲を最小に限定し、後世に継承(実際には押し付けであり、先送りですが)した方が危機意識が保たれるのかもしれません。
即ち、完全なリスク管理は不可能であることを自覚しておくべきである、ということです。ゼロリスクがあり得ないことと同義です。
上述した、事故の発生率と想定される被害の大きさを基にしたリスクの算出、このリスクに対する法令やガイドラインによるリスク管理に関する論述は容易に目にすることができます。これまで、結論は出ずとも、事故の発生率についての議論はありました。原因として原発の設備機器としての機械的寿命や故障、地震や津波、果ては隕石の落下といった自然災害、或いは、テロや戦争といった人為的攻撃などが言及されています。
で、妥当性はともかく、科学的に推定できる原因の中で、天文学的に低い発生率が明らかな原因に対しては除外しよう、目を瞑ろうという考え方、これが”ゼロリスクを求めるな”の趣旨と捉えています。確かに科学の範囲内に限るなら首肯できない話ではありません。
しかしながら、重大事故に至らしめる大きな要因の一つであるリスク管理そのものも含めて鑑みれば、天文学的に低い発生率が無視し得ない発生率に増幅されてしまう恐れがあるわけです。これが”ゼロリスクを求めるな”に抗う理由です。
既存の科学的知見を用いて算出されたリスクに対し、法令、ガイドライン、マニュアルが策定され、これらを遵守することでリスク管理が行われます。その時点で科学的知見が不十分で、そのことによる算出リスクの不完全性があったとしても、最大限合理性、客観性が熟慮されたものであれば、不完全な部分はやむを得ないと、一定程度容認されているのではないでしょうか。
”ゼロリスクを求めるな”に同意できるのは科学の範囲内に限ってのみということです。
実は、”ゼロリスクを求めるな”に関しより重視すべきはリスク管理と運用であり、ここで重大事故の発生率は増幅されてしまうと考えています。
リスクの算出に当り科学的知見は確かに不十分ですが、科学が完全ではないことは十分知られています。しかしながら、該算出リスクに対して策定された法令、ガイドライン、マニュアルの不完全性は果たして意識されているのでしょうか。更に、そういったリスク管理もどこまで完全に運用されるのか疑問が残っています。
例えば、我国憲法は憲法として問題はないのか、そしてその憲法は完全に遵守されているか、といった話です。交通事故は自動車それ自体より交通法規や運転に原因がある場合が多いのではないか、ということです。
設備、機器といったハードウェアのトラブルより、リスク管理とその運用というソフトウェア部分に由来する不備、欠陥、非合理性の齎す不信感が”ゼロリスクを求めるな”を拒絶せしめていると考えています。
福島原発の事故は津波によるものでしたが、更に言えば、津波に起因する外部電源喪失が原因とされています。ここにリスク管理と運用の不完全性を感じます。安全神話に囚われた状況下、経済性を優先したために安全確実に機能する外部電源を用意しなかった...
正に問題の根幹はハードウェアではなく、システムとその運用にあるわけです。
科学的な部分については必ずしも信頼性が十分でなくとも、そのことが顕在化しています。しかしながら、リスク管理とその運用についてその不完全性は潜在化してしまっており、実はこの不完全性が極めて大きいのではないかと考えています。
地道に突き詰めた科学的な部分の精度、確度を無意味にしてしまうような大きな不完全性が、リスク管理とその運用という人為的部分の根幹に潜在化したままになっているということです。
複数kの過酷事故nについて各々の事故発生率をpnとすると、安全な確率Pkは、
Pk= Π (1-pn)ですが、実際にはリスク管理とその運用も考慮する必要があります。
法令、ガイドライン、マニュアル等のリスク管理システムの不備sn、運用の不完全性cnを加味すれば
Pk = Π (1-pn)(1-sn)(1-cn)です。
pnが天文学的に小さくとも人為的部分の不完全性sn、cnによって、信頼できるPkが得られないのではないか、これが”ゼロリスクを求めるな”に対する不信感の根元かと勘ぐっています。
街中を自動車で走っていると、信号のない交差点の近くに愛知県警のパトカーが潜んでいて、一時停止違反の取締りをしているのをしばしば見かけます。何時間の取締りかは存じませんし、その間に何人の違反者が切符を切られているかも知りません。
ただ、一定時間、一台のパトカーと二人の警官を貼り付けさせているわけです。生産性が低いなぁという思いを禁じ得ません。公務なんでその低生産性を指摘する輩は少ないでしょうが...
通信と画像記録技術の進歩と低コスト化が進んだ今日、交差点にカメラを導入して同時多点記録を導入すれば生産性が向上するはずです。
では、何故導入が進まないかと考えれば、やはり不信感が導入を阻んでいるのでしょう。記録された映像が何に利用されるかわからない、改竄されないとも限らない、といった恐れです。
証拠捏造や隠滅、誤認逮捕、別件逮捕、不当勾留、冤罪、情報漏洩、或いは不作為等のキーワードで検索される警察の不祥事は毎日のように見聞します。
こういった事件に端を発する行政に対する不信感と同様の、行政の公正で合理的な行動に対する信頼性の欠如こそが”ゼロリスクを求めるな”を首肯させない根源ではないか、と考える次第です。
2014年9月7日日曜日
主客
新守山にかどふくという蕎麦を推している元(?)きしめん屋があります。以前のエントリでも数点の蕎麦屋を挙げながらも蕎麦については触れずにかき揚げのことを記しました。
蕎麦について云々する程の舌は元々持ち合わせがありませんし、実際、この時は蕎麦を口にしていないので何も記せません。
蕎麦湯は蕎麦粉を追加していないさらっとしたものでした。こちらも分かりません。捨て置きます。
で、蕎麦つゆのわけです。節の出汁を強く感じます。葱と共に蕎麦湯に少し加えるだけで後を引く旨さです。同席者に供された蕎麦湯を全て頂きました。
不思議なのは蕎麦つゆをそのまま口に含んでも醤油の辛さをそれほど感じなかったことです。一般より醤油の割合を低めにしているか、辛さがきつくない醤油を使っているのでしょうか。それを補うかのように相当濃厚な出汁を合わせている、そういった印象を持ちました。
蕎麦つゆを頂きにまた伺いたいのですが、機会があれば、付近を通りがかればといった辺りに留めておきます。
蕎麦について云々する程の舌は元々持ち合わせがありませんし、実際、この時は蕎麦を口にしていないので何も記せません。
蕎麦湯は蕎麦粉を追加していないさらっとしたものでした。こちらも分かりません。捨て置きます。
で、蕎麦つゆのわけです。節の出汁を強く感じます。葱と共に蕎麦湯に少し加えるだけで後を引く旨さです。同席者に供された蕎麦湯を全て頂きました。
不思議なのは蕎麦つゆをそのまま口に含んでも醤油の辛さをそれほど感じなかったことです。一般より醤油の割合を低めにしているか、辛さがきつくない醤油を使っているのでしょうか。それを補うかのように相当濃厚な出汁を合わせている、そういった印象を持ちました。
蕎麦つゆを頂きにまた伺いたいのですが、機会があれば、付近を通りがかればといった辺りに留めておきます。
油断
鯛飯やら鮎飯、筍ご飯、秋刀魚飯、穴子散らし、キノコご飯といった炊き込みご飯や混ぜご飯の類が好きでよく食べます。勿論、手軽な炊き込みご飯の素もしばしば利用します。
鯛飯や鮎飯など大きな具材を米と炊き込む場合には土鍋を使いますが、刻んだ具材の場合にはIHの炊飯器で炊きこんでいます。やはり、手軽なので。
で、このIHの炊飯器で炊き込みご飯を作る場合ですが、炊飯器によって最大の炊ける量が違うようです。例えば、自宅の炊飯器では白米なら最大一升炊けますが、炊き込みご飯では六合がせいぜいです。
以前、目一杯炊いて失敗しました。十分に炊き上がらないまま炊飯完了になってしまい、米粒半ばまでは吸水し過ぎでベチャッとし更に、真ん中には芯がある、それはもう筆舌し難い不味さでした。具材が何だったか覚えてませんが、旨い炊き込みご飯を頬張ろうと抱いていた期待感があっただけに、相当落胆しました。
この悲しみに二度と遭遇したくない、そんな思いで調べた所、IHの炊飯器の場合、電磁誘導で内鍋全体を加熱して炊くのですが、炊き込みご飯の場合、具材の割合、大きさによって炊飯中の具材と米の対流が不十分なことがあるようです。この対流が不十分だと加熱された具材、米が局所的に滞留してしまい、炊飯器内臓の温度センサがその局所的に過熱した温度で炊飯プロセスを進めてしまうわけです。
結果、炊き込みが不十分なままプロセスが完了してしまい悲劇が始まります。
あるメーカの炊き込みご飯の素を使用した時のことです。メーカ指定の米の量、三合に一合追加し、調味料を調整して炊きました。炊き上がりに不安などあるはずがありません。米の量は六合以下ですし、誰もが手軽に作れる炊き込みご飯の素ですから... 極上の一食など期待しているわけではなく、日常の、ごく普通の一食です。
肩を落とし、悲しみに打ちひしがれながらも該炊き込みご飯の素のメーカお客様相談室に尋ねてみました。商品名を告げた後、
蒸し直したって不味いものは不味いわけです。美味しくリカバーできたならこの話を記すはずもありません。釈然としないまま、故障の可能性も考えて、炊飯器メーカーのお客様相談室に架電しました。
担当の女性の方にその悲しさをとうとう訴えた所、やはり注意点として挙げられたのは、
炊き込みご飯の素も炊飯器も悪くない、悪いのは炊いた自分なのか?
このどうしようもない炊き込みご飯と相対するのを避けるが如く、些末な質問を続けた矢先です。当方からの、
ここで、
対策は、
で、再度〇〇社に架電。
やはり、上手く炊けないという問い合わせがそれなりにあったようです。ちょっと、イラッとしました。誠実さに欠けるなぁと...単に、同じ轍を踏まないためと、更に”どうすんだ、これ。”をリカバーする情報を入手したかったという思いだけでした。
ただ、こういった対応が続くと、
対策は同じで、
確かに、箱裏面の作り方には
2白米と同じ水加減をし、よくかき混ぜます。
とあり、”よくかき混ぜます。”は赤い文字になっています。
しかしながら、文字の大きさに変化もなく、これでは注意の喚起力が全く弱いわけです。失敗して、問い合わせて初めて気付く程度です。とても失敗を未然に防ぐ表現ではありません。
結局、
不信感がなかなか拭い切れないないため、積極的な食指は動きませんが、機会があれば当該製品を再度購入して試してみるつもりでいます。”どうすんだ、これ。”が繰り返されるようならば〇〇社を明らかにしようかと思っています。
何故、市販の炊き込みご飯の素で熱くなってんでしょうか。自分は...
前のエントリにも記した、”起こってはならないことが起こってしまった”、”できて当然のことができなかった”失望感に由来しているのでしょう。
(追記)
偶々、
未開封なので味はわかりませんし、薦めるつもりもありません。
ただ、裏面にはしっかりと赤い背景に白抜き文字で
鯛飯や鮎飯など大きな具材を米と炊き込む場合には土鍋を使いますが、刻んだ具材の場合にはIHの炊飯器で炊きこんでいます。やはり、手軽なので。
で、このIHの炊飯器で炊き込みご飯を作る場合ですが、炊飯器によって最大の炊ける量が違うようです。例えば、自宅の炊飯器では白米なら最大一升炊けますが、炊き込みご飯では六合がせいぜいです。
以前、目一杯炊いて失敗しました。十分に炊き上がらないまま炊飯完了になってしまい、米粒半ばまでは吸水し過ぎでベチャッとし更に、真ん中には芯がある、それはもう筆舌し難い不味さでした。具材が何だったか覚えてませんが、旨い炊き込みご飯を頬張ろうと抱いていた期待感があっただけに、相当落胆しました。
この悲しみに二度と遭遇したくない、そんな思いで調べた所、IHの炊飯器の場合、電磁誘導で内鍋全体を加熱して炊くのですが、炊き込みご飯の場合、具材の割合、大きさによって炊飯中の具材と米の対流が不十分なことがあるようです。この対流が不十分だと加熱された具材、米が局所的に滞留してしまい、炊飯器内臓の温度センサがその局所的に過熱した温度で炊飯プロセスを進めてしまうわけです。
結果、炊き込みが不十分なままプロセスが完了してしまい悲劇が始まります。
どうすんだ、これ。爾来、分量、具材の大きさ、割合に注意して今日まで大過なく過ごしてきました。先日までは...
あるメーカの炊き込みご飯の素を使用した時のことです。メーカ指定の米の量、三合に一合追加し、調味料を調整して炊きました。炊き上がりに不安などあるはずがありません。米の量は六合以下ですし、誰もが手軽に作れる炊き込みご飯の素ですから... 極上の一食など期待しているわけではなく、日常の、ごく普通の一食です。
炊飯器が故障したと思いました。特筆すべき不味さです。どうすんだ、これ。が再来しました。上述の炊けてない状態です。手軽な炊き込みご飯の素なのに...初めての経験です。
肩を落とし、悲しみに打ちひしがれながらも該炊き込みご飯の素のメーカお客様相談室に尋ねてみました。商品名を告げた後、
まともに炊けなかった。何故か?
他からは同様な問い合わせはなかったか?
このどうしようもない炊き込みご飯をリカバーする方法は?といった内容で問い合わせをしました。返事は、
炊けないはずはない。
他からそのような話はきていない。
蒸し直してみて下さい。とのことでした。
蒸し直したって不味いものは不味いわけです。美味しくリカバーできたならこの話を記すはずもありません。釈然としないまま、故障の可能性も考えて、炊飯器メーカーのお客様相談室に架電しました。
担当の女性の方にその悲しさをとうとう訴えた所、やはり注意点として挙げられたのは、
米の量
具材の大きさ
具材の割合で、これらは既知事項で原因となり得ないことは確認できました。故障の可能性については、
これまで白米が正常に炊けていたならば故障は考え難い
炊き込みご飯の炊飯部分(?)だけ故障というのはあり得ないとのことで原因不明のまま暗礁に乗り上げかけました。
炊き込みご飯の素も炊飯器も悪くない、悪いのは炊いた自分なのか?
このどうしようもない炊き込みご飯と相対するのを避けるが如く、些末な質問を続けた矢先です。当方からの、
他からは同様な問い合わせはないのでしょうかといった問に対し、
問い合わせはありますが、上記を注意すればうまく炊けるはずとの回答。
ここで、
作り方に従って、炊いているし、市販の”素”なので具材の大きさや割合が原因とも考え難いのですが、ところで、炊飯器発売にあたって当然いろいろの”素”で試されますよね。問題はなかったのですか?との質問に、
勿論、試しています。ただ、全てではありませんし、炊飯器発売後の新製品は試せません当然の回答ですが、この後のやり取りで原因が明らかになりました。
ところで炊き込みご飯の素の商品名は?と先方から問われ、
〇〇社のXXという商品ですと答えた所、
〇〇社ですか....詳しく聞いた所、〇〇社の素については他社製品に比べ問い合わせ、苦情が多いとのこと。どうも当該メーカの素は他社製品に較べ調味液中の油分の割合が高いようです。仕込み時に米、水、素をよく混ぜないと油水が分離し、炊飯時の具材、米の対流が不十分になると。結果、上述と同様な”どうすんだ、これ。”ができ上がってしまう、とのことでした。
対策は、
よくかき混ぜてくださいでした。
で、再度〇〇社に架電。
今、炊飯器メーカに問い合わせた所、実際、御社製品で上手く炊けないという問い合わせの割合が高いとのこと。先ほどの問い合わせで、上手く炊けていないのは当方だけ、というのは事実なのか?と確認を求めました。
やはり、上手く炊けないという問い合わせがそれなりにあったようです。ちょっと、イラッとしました。誠実さに欠けるなぁと...単に、同じ轍を踏まないためと、更に”どうすんだ、これ。”をリカバーする情報を入手したかったという思いだけでした。
ただ、こういった対応が続くと、
”どうすんだ、これ。”を送るから喰ってみろ
開発者ちょっと呼んでこい。家に来て喰ってみろといった心情が生まれてしまいます。口にするには至らなかったわけですが...大人なんで。
対策は同じで、
よくかき混ぜてくださいでした。
確かに、箱裏面の作り方には
2白米と同じ水加減をし、よくかき混ぜます。
とあり、”よくかき混ぜます。”は赤い文字になっています。
しかしながら、文字の大きさに変化もなく、これでは注意の喚起力が全く弱いわけです。失敗して、問い合わせて初めて気付く程度です。とても失敗を未然に防ぐ表現ではありません。
結局、
注意の喚起力が不足。他社製品だって仕込み時ある程度かき混ぜる。
”よくかき混ぜる”の”よく”ってどれくらい?五分なのか十分かき混ぜればいいのか、はたまた三十分なのか。よくかき混ざったじょうたいはどうやって判断すればいいのか。
かき混ぜ方が不十分だとどうなるか、目を引くような表示がない。こういった旨を指摘し、作り方の表示に改善を求めて電話を切りました。改善されるか否かは知りません。それは当該メーカの購入者に対する誠実さの程度に依るものですから。
不信感がなかなか拭い切れないないため、積極的な食指は動きませんが、機会があれば当該製品を再度購入して試してみるつもりでいます。”どうすんだ、これ。”が繰り返されるようならば〇〇社を明らかにしようかと思っています。
何故、市販の炊き込みご飯の素で熱くなってんでしょうか。自分は...
前のエントリにも記した、”起こってはならないことが起こってしまった”、”できて当然のことができなかった”失望感に由来しているのでしょう。
(追記)
偶々、
AJINOMOTO社製 クノール 冷たい牛乳でつくる じゃがいものポタージュというカップスープが手元にあります。
未開封なので味はわかりませんし、薦めるつもりもありません。
ただ、裏面にはしっかりと赤い背景に白抜き文字で
※水やお湯、温かい牛乳でつくるとおいしくできません。と 目を引く表示がありました。件の〇〇社も是非参考にして頂きたいと願っています。
2014年9月6日土曜日
相反(追記)
前のエントリを記していた時、以前から拝読していたブログに
以前から直接、間接に論争されてきた、小保方氏がSTAP細胞の再現実験に参加することの是非についてです。
科学のコミュニティに属している、教育者や研究者、科学者と称される方々、おそらく、同分野か近い分野だがSTAP細胞騒動に直接には関与されていない方々が、互いの批判も含めた激しい論戦を続けてきました。今尚、燻ってもいます。
素直な印象です。
科学者という論理性、合理性、真実性を重視する方々が何故一つの判断に帰結できないのだろうか、理解できませんでした。で、”あぁ、これは価値観の衝突なんだ”と解せば得心がいったわけです。
小保方氏の「再現実験に反対」と主張してきた人へといったエントリが公開されました。
以前から直接、間接に論争されてきた、小保方氏がSTAP細胞の再現実験に参加することの是非についてです。
科学のコミュニティに属している、教育者や研究者、科学者と称される方々、おそらく、同分野か近い分野だがSTAP細胞騒動に直接には関与されていない方々が、互いの批判も含めた激しい論戦を続けてきました。今尚、燻ってもいます。
素直な印象です。
科学者という論理性、合理性、真実性を重視する方々が何故一つの判断に帰結できないのだろうか、理解できませんでした。で、”あぁ、これは価値観の衝突なんだ”と解せば得心がいったわけです。
STAP細胞問題は錯誤、思い込みに依るところが大だと私自身は推測していますが、悪意の有無に拘らず研究不正という語で小保方氏の科学者としてのモラルについて論評されています。
この科学者としてのモラルをどう捉えるかで再現実験参加の是非が割れていると考えています。もはや科学の議論ではなくなってしまっているということです。科学者の方々も自身の研究テーマから離れた主観の話になってしまうと、一つの結論に至らないのも頷けます。
件の研究不正と称される問題は、確かに研究者倫理からの逸脱、理研の内規違反の可能性はあるかもしれませんが、刑法に代表される、我が国の法令に抵触したわけではありません。
であるにも拘らず、科学のコミュニティ、メディアは該問題で当事者らを厳しく糾弾、場合によっては誹謗中傷し、遂には稀有の科学者の一人を自死に至らしめました。
ここに研究者倫理に対する各々の認識の乖離を強く感じます。上記の人々は、研究倫理を法令以上に尊重され、厳格に遵守されるべく規範として、神聖視しているように思えてなりません。正に、法令化するまでもなく従って当然の規範であり、外れることなど想像だにし得ない、ということです。
代議士や政府要人の不祥事が発覚した際、党首や任命権者がしばしば口にする、”起こってはならないことが起こってしまいました”に似た立場でしょうか。こちらは倫理面のみならず、法令違反も多々あるわけですが...
で、起こってはならないことを起こすことは、重大な背信行為であり、検証の必要も無い程の許されざる重罪と受け止められるわけです。法令より優越する倫理に反した、科学の高潔性、誠実性を侵したわけだから、厳重な懲戒を処さなければならない、といった姿勢にみえます。
一方、我が国は法治国家です。多分。確かに研究者倫理からの逸脱、理研の内規違反が本問題に認められるかもしれません。しかしながら、この倫理や内規は法令の枠内にあり、当然、対応も法令を超えることは許されません。
研究者倫理を法令以上に厳守すべき規範と捉えるか、法令より厳格性が緩い規範とみなすか、この強制性に対する認識の差違が本問題の判断、ひいては小保方氏による再現実験参加の是非を分けているかに思えます。
科学者は法令以上に研究者倫理の厳守が求められているのでしょうか。科学者、即ち、善人、人格者とは受け止めていない私には、そもそも科学者を一般社会人以上にことさら高潔、誠実であると特別視するのも無理があるのではと思っています。
科学者自らが”我々は絶対的に不可侵の、高潔な倫理観を持たねばならない”、そう謳われるのも、ある意味傲慢というか、選民意識のようなものを感じてしまいます。
まぁ、それが周知徹底しているなら上記論争など起こらないはずですが。
しばしば、ウェブ上で話題となる、”なぜ人を殺してはいけないか”という問いがあります。
果たして一つの解に結論付けられるのか定かではないこの問いに対し、いくつかの理由が挙げられています。その中に、二つの考え方を見ることができます。
1.”ならぬものはならぬ”というか、性善説的理由です。人の本性は本質的に善であり、善に基づく倫理観、道徳観が生来備わっているはずである。で、人を殺してしまうことは人の本性に由来する行為ではなく、能動的に殺すなどあり得ないと...ならぬこと、あり得ないことを引き起こしたわけですから、起こってしまった場合の対応はそもそも十分に考慮されていない。殺してしまうことなど許されるべきではなく、厳しく責められなければならない。
2.戦争の場合、共同体内の場合などいくつかの条件下での議論がありますが、実は、いけない理由はない、という立場です。で、共同体内に法治主義を導入し、人を殺すことを法令の枠組み内の行為の一つと規定、罰則という抑止措置を定めておく。つまり、不正は起きるものとして捉え、法令の下で対応、規制しようとする姿勢です。人を殺すことや不正が起きることを許容しているわけではないが、起こり得る事実に目を背けることなく向き合おうという姿勢でしょうか。
これらの見方は科学を離れた直感的、心情的なものではないかと思っています。STAP細胞の再現実験への小保方氏参加に対する、容認、拒絶の判断にはかなりの割合で反射的な要因が含まれているかと...
冒頭のリンク先で述べられている、
本騒動を見聞し、”科学技術の進歩に相応する程、果たして社会は賢くなったのだろうか”、といった問が改めて脳裏を過ぎった次第です。
この科学者としてのモラルをどう捉えるかで再現実験参加の是非が割れていると考えています。もはや科学の議論ではなくなってしまっているということです。科学者の方々も自身の研究テーマから離れた主観の話になってしまうと、一つの結論に至らないのも頷けます。
件の研究不正と称される問題は、確かに研究者倫理からの逸脱、理研の内規違反の可能性はあるかもしれませんが、刑法に代表される、我が国の法令に抵触したわけではありません。
であるにも拘らず、科学のコミュニティ、メディアは該問題で当事者らを厳しく糾弾、場合によっては誹謗中傷し、遂には稀有の科学者の一人を自死に至らしめました。
ここに研究者倫理に対する各々の認識の乖離を強く感じます。上記の人々は、研究倫理を法令以上に尊重され、厳格に遵守されるべく規範として、神聖視しているように思えてなりません。正に、法令化するまでもなく従って当然の規範であり、外れることなど想像だにし得ない、ということです。
代議士や政府要人の不祥事が発覚した際、党首や任命権者がしばしば口にする、”起こってはならないことが起こってしまいました”に似た立場でしょうか。こちらは倫理面のみならず、法令違反も多々あるわけですが...
で、起こってはならないことを起こすことは、重大な背信行為であり、検証の必要も無い程の許されざる重罪と受け止められるわけです。法令より優越する倫理に反した、科学の高潔性、誠実性を侵したわけだから、厳重な懲戒を処さなければならない、といった姿勢にみえます。
一方、我が国は法治国家です。多分。確かに研究者倫理からの逸脱、理研の内規違反が本問題に認められるかもしれません。しかしながら、この倫理や内規は法令の枠内にあり、当然、対応も法令を超えることは許されません。
研究者倫理を法令以上に厳守すべき規範と捉えるか、法令より厳格性が緩い規範とみなすか、この強制性に対する認識の差違が本問題の判断、ひいては小保方氏による再現実験参加の是非を分けているかに思えます。
科学者は法令以上に研究者倫理の厳守が求められているのでしょうか。科学者、即ち、善人、人格者とは受け止めていない私には、そもそも科学者を一般社会人以上にことさら高潔、誠実であると特別視するのも無理があるのではと思っています。
科学者自らが”我々は絶対的に不可侵の、高潔な倫理観を持たねばならない”、そう謳われるのも、ある意味傲慢というか、選民意識のようなものを感じてしまいます。
まぁ、それが周知徹底しているなら上記論争など起こらないはずですが。
しばしば、ウェブ上で話題となる、”なぜ人を殺してはいけないか”という問いがあります。
果たして一つの解に結論付けられるのか定かではないこの問いに対し、いくつかの理由が挙げられています。その中に、二つの考え方を見ることができます。
1.”ならぬものはならぬ”というか、性善説的理由です。人の本性は本質的に善であり、善に基づく倫理観、道徳観が生来備わっているはずである。で、人を殺してしまうことは人の本性に由来する行為ではなく、能動的に殺すなどあり得ないと...ならぬこと、あり得ないことを引き起こしたわけですから、起こってしまった場合の対応はそもそも十分に考慮されていない。殺してしまうことなど許されるべきではなく、厳しく責められなければならない。
2.戦争の場合、共同体内の場合などいくつかの条件下での議論がありますが、実は、いけない理由はない、という立場です。で、共同体内に法治主義を導入し、人を殺すことを法令の枠組み内の行為の一つと規定、罰則という抑止措置を定めておく。つまり、不正は起きるものとして捉え、法令の下で対応、規制しようとする姿勢です。人を殺すことや不正が起きることを許容しているわけではないが、起こり得る事実に目を背けることなく向き合おうという姿勢でしょうか。
これらの見方は科学を離れた直感的、心情的なものではないかと思っています。STAP細胞の再現実験への小保方氏参加に対する、容認、拒絶の判断にはかなりの割合で反射的な要因が含まれているかと...
冒頭のリンク先で述べられている、
つまり、文科省のガイドラインは、「 不正の疑惑を持たれた人に対して、実験記録等からその疑惑を自ら晴らす義務を負わせると共に 、その一方で、疑惑を晴らすための再現実験の権利も認める」という極めてバランスの取れたものだったということだ。は、例えば、性善説、性悪説のように各々の主観により判断が割れてしまうかもしれない、そういった問題の幕引きをするには、何らかの判断基準が必要である、と受け止めました。基準の適否はともかくとしてです。
本騒動を見聞し、”科学技術の進歩に相応する程、果たして社会は賢くなったのだろうか”、といった問が改めて脳裏を過ぎった次第です。
2014年9月1日月曜日
相反(8)
知が共有される広さを一つの指標とするならば、研究の卓越性を被引用数をもって量ることも合理性はあります。この場合、前のエントリにも記しましたが、例えば、自らの、或いは公的なウェブサイトを通じて関心を持つ訪問者に成果を直接公開することで、科学誌のフィルタによる影響を排除できるのではないでしょうか。
おそらく、直接に非難、批判が寄せられ、或いは称賛、無視されるかもしれませんが、研究の質に相応した忠実な評価が与えられるのでは、と期待します。公開した成果に対するアクセス数やコメントは、即ち知が共有された広さや深さを示す、特定の意図を含まない無作為の指標とみなせます。
ネットワーク上の多くのブログメディアがそうであるように、フリーでオープンなコミュニケーションが可能となりますから、玉石混交の、場合によっては悪意を込めたコメントが寄せられるかもしれません。しかしながら、閉鎖的、ブラックボックスを経る仕組みには優るかと。
研究の質評価を、受け入れる側全体、理想的には社会全体が直接的に醸成する集合知としていくことが望ましいのではないか、ということです。
しかしながら、今後果たして、研究の質評価がそういった方向に進むだろうかという問に対しては、残念ながら簡単ではないというのが率直な印象です。
手前勝手に記すならば、科学者の根本にある行動原理は、”自身の興味に対して知らないことが許せない”、或いは、”己の関心事が未解明であることが我慢できない”、といったところかと考えます。”人の役に立ちたい”、”社会貢献”は実は第一義の動機ではないと思っています。
最優先されるのは自身の知的興味を満足させる研究成果であり、それを公開する手段は重視していない。画期的な知見を日々求めているが、それを公開するのは従来の枠組みの中で十分事足りる、としているのではないでしょうか。興味の対象ではないわけですから。
ただ、以前も記したように、獲得した新たな知を効率的に活用しようと、確立された既存の枠組みにあえて抗わず、科学誌の権威を利用して余得を得るという行動も合理的ではあります。
自身の研究に対しては極めてアグレッシブな科学者だが、それ以外の部分では実に常識的、保守的ではないだろうか、と想像しています。
勿論、総じてであるのは言うまでもないことです。
いずれにせよ、議会自身による定数削減やインターネット活用に代表される選挙制度是正、行政機関自らによる、例えば教育、税、社会保障、警察の合理化、効率化、こういった例えそれが公益に資するとしても、自らの立場を危うくする恐れのある変化からは目を逸らそうとする姿勢、いわゆる組織防衛の障壁が現れるように思えてなりません。
さて、被引用数に並ぶ、或いは置き換え得る、研究の質、卓越性の評価指標についてです。そういった指標が有り得るか否かすら定かではありませんが、少なくとも科学のコミニティからの提唱だけでは不十分です。科学者は自身のテーマを中心とした個別具体的な範囲内ならば、知見の重要性を理解し、大抵の研究について質を評価できます。
それでも、前のエントリでも触れているように、
又、雇用や予算獲得との絡みもあるのかもしれませんが、科学者は夢を語ります。場合によっては、自身の研究の最終ゴールがとんでもなく壮大で、もはや想像の域だったりします。見方によっては無限に拡がった広大な大風呂敷といった印象を抱くことすらあります。
やはり、自然科学に留めず少なくとも人文科学、社会科学を含めた科学界で、理想的には社会全体で議論を進め、社会における知の位置付け、意義、認識をどう捉えるかが明らかにされなければならないと考えます。
人文科学、社会科学の分野でも新たな知見は見出され、当然、該知見の合理性や真実性、重要性が評価されるわけです。知についての一般的な考察はむしろ、社会科学のテーマかもしれません。
科学は良くも悪くも社会に変化をもたらします。例えば、医療技術の進歩は平均寿命を伸ばし高齢化社会を生み出しました。IT技術は既存メディアによる情報の独占を阻み多様な価値観に依る情報の入手を可能にしました。通信、輸送、金融、農業、食品、エネルギーの各分野でも技術の進歩による社会の変革は実感できます。
本来、科学研究の質評価は、こういった社会の変化が反映される社会指標(人口、平均寿命、エンゲル係数、犯罪や事故の発生件数等)や経済指標(GDP、貿易収支、為替、株式時価総額、失業率等)による評価が理想です。
評価に至るまで相当の時間を要し、現実的ではないのは理解していますが、新たに獲得した知が社会にどういった変化をもたらしたか、或いは、もたらす可能性があるか、そういった視点からの質評価が検討されてもいいのではないでしょうか。
こういった豊かな社会の実現といった物質面、実利的な目的と共に、科学には社会の多くが関心を寄せる疑問や未解決の問題の解明、解決といった意義もあります。
後者の意義は決して否定されるべきではない、これは揺るぎません。ただ、その必要性を理解しているか、との問に応える合理的根拠を持ちあわせていません。なんとなく肯定しているというのが実の所で、侵スベカラズと崇高なものとみなしているだけかも、といった思いも過ぎらないわけではありません。
宇宙、素粒子、生命についての疑問や未解決の問題の解明に対し、果たして社会の共通認識はどうなっているのか、社会全体でどこまでの合意が形成されているのか、関心のあるところです。
率直に記せば、例えば宇宙の有り様を解明することを必要とする理由が社会の共通認識としてあるのか、その認識は社会全体から支持されているのか、ということです。
果たして、自然科学の進歩に相応する程、社会そのものは賢くなっているのでしょうか。
(続)
おそらく、直接に非難、批判が寄せられ、或いは称賛、無視されるかもしれませんが、研究の質に相応した忠実な評価が与えられるのでは、と期待します。公開した成果に対するアクセス数やコメントは、即ち知が共有された広さや深さを示す、特定の意図を含まない無作為の指標とみなせます。
ネットワーク上の多くのブログメディアがそうであるように、フリーでオープンなコミュニケーションが可能となりますから、玉石混交の、場合によっては悪意を込めたコメントが寄せられるかもしれません。しかしながら、閉鎖的、ブラックボックスを経る仕組みには優るかと。
研究の質評価を、受け入れる側全体、理想的には社会全体が直接的に醸成する集合知としていくことが望ましいのではないか、ということです。
しかしながら、今後果たして、研究の質評価がそういった方向に進むだろうかという問に対しては、残念ながら簡単ではないというのが率直な印象です。
手前勝手に記すならば、科学者の根本にある行動原理は、”自身の興味に対して知らないことが許せない”、或いは、”己の関心事が未解明であることが我慢できない”、といったところかと考えます。”人の役に立ちたい”、”社会貢献”は実は第一義の動機ではないと思っています。
最優先されるのは自身の知的興味を満足させる研究成果であり、それを公開する手段は重視していない。画期的な知見を日々求めているが、それを公開するのは従来の枠組みの中で十分事足りる、としているのではないでしょうか。興味の対象ではないわけですから。
ただ、以前も記したように、獲得した新たな知を効率的に活用しようと、確立された既存の枠組みにあえて抗わず、科学誌の権威を利用して余得を得るという行動も合理的ではあります。
自身の研究に対しては極めてアグレッシブな科学者だが、それ以外の部分では実に常識的、保守的ではないだろうか、と想像しています。
勿論、総じてであるのは言うまでもないことです。
いずれにせよ、議会自身による定数削減やインターネット活用に代表される選挙制度是正、行政機関自らによる、例えば教育、税、社会保障、警察の合理化、効率化、こういった例えそれが公益に資するとしても、自らの立場を危うくする恐れのある変化からは目を逸らそうとする姿勢、いわゆる組織防衛の障壁が現れるように思えてなりません。
さて、被引用数に並ぶ、或いは置き換え得る、研究の質、卓越性の評価指標についてです。そういった指標が有り得るか否かすら定かではありませんが、少なくとも科学のコミニティからの提唱だけでは不十分です。科学者は自身のテーマを中心とした個別具体的な範囲内ならば、知見の重要性を理解し、大抵の研究について質を評価できます。
それでも、前のエントリでも触れているように、
中には最初誰も注目しなかったのに5~10年と次第に評価が上がる論文もあります。
ノーベル賞は「誰も考えなかったことを発見した人」に与えられる場合が多いが、「考えつかないことを考えつく」ことは論理的には不可能であり、それゆえ「無知による誤解から考えついた実験」や「いいかげんな実験」が必要なのだ。と述べられている科学者の方もいますから、例え近い分野に属する科学者であっても他者の研究を適正に評価することは容易ではないわけです。
又、雇用や予算獲得との絡みもあるのかもしれませんが、科学者は夢を語ります。場合によっては、自身の研究の最終ゴールがとんでもなく壮大で、もはや想像の域だったりします。見方によっては無限に拡がった広大な大風呂敷といった印象を抱くことすらあります。
夢の若返りが実現できるかもしれないSTAP細胞発表時の小保方氏の発言が典型かと...それは決して一方的に批判されることではないとしても、適正な研究評価を歪曲せしめる一因となる懸念は否定できません。
やはり、自然科学に留めず少なくとも人文科学、社会科学を含めた科学界で、理想的には社会全体で議論を進め、社会における知の位置付け、意義、認識をどう捉えるかが明らかにされなければならないと考えます。
人文科学、社会科学の分野でも新たな知見は見出され、当然、該知見の合理性や真実性、重要性が評価されるわけです。知についての一般的な考察はむしろ、社会科学のテーマかもしれません。
科学は良くも悪くも社会に変化をもたらします。例えば、医療技術の進歩は平均寿命を伸ばし高齢化社会を生み出しました。IT技術は既存メディアによる情報の独占を阻み多様な価値観に依る情報の入手を可能にしました。通信、輸送、金融、農業、食品、エネルギーの各分野でも技術の進歩による社会の変革は実感できます。
本来、科学研究の質評価は、こういった社会の変化が反映される社会指標(人口、平均寿命、エンゲル係数、犯罪や事故の発生件数等)や経済指標(GDP、貿易収支、為替、株式時価総額、失業率等)による評価が理想です。
評価に至るまで相当の時間を要し、現実的ではないのは理解していますが、新たに獲得した知が社会にどういった変化をもたらしたか、或いは、もたらす可能性があるか、そういった視点からの質評価が検討されてもいいのではないでしょうか。
こういった豊かな社会の実現といった物質面、実利的な目的と共に、科学には社会の多くが関心を寄せる疑問や未解決の問題の解明、解決といった意義もあります。
後者の意義は決して否定されるべきではない、これは揺るぎません。ただ、その必要性を理解しているか、との問に応える合理的根拠を持ちあわせていません。なんとなく肯定しているというのが実の所で、侵スベカラズと崇高なものとみなしているだけかも、といった思いも過ぎらないわけではありません。
宇宙、素粒子、生命についての疑問や未解決の問題の解明に対し、果たして社会の共通認識はどうなっているのか、社会全体でどこまでの合意が形成されているのか、関心のあるところです。
率直に記せば、例えば宇宙の有り様を解明することを必要とする理由が社会の共通認識としてあるのか、その認識は社会全体から支持されているのか、ということです。
果たして、自然科学の進歩に相応する程、社会そのものは賢くなっているのでしょうか。
(続)
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