2014年9月1日月曜日

相反(8)

知が共有される広さを一つの指標とするならば、研究の卓越性を被引用数をもって量ることも合理性はあります。この場合、前のエントリにも記しましたが、例えば、自らの、或いは公的なウェブサイトを通じて関心を持つ訪問者に成果を直接公開することで、科学誌のフィルタによる影響を排除できるのではないでしょうか。

おそらく、直接に非難、批判が寄せられ、或いは称賛、無視されるかもしれませんが、研究の質に相応した忠実な評価が与えられるのでは、と期待します。公開した成果に対するアクセス数やコメントは、即ち知が共有された広さや深さを示す、特定の意図を含まない無作為の指標とみなせます。


ネットワーク上の多くのブログメディアがそうであるように、フリーでオープンなコミュニケーションが可能となりますから、玉石混交の、場合によっては悪意を込めたコメントが寄せられるかもしれません。しかしながら、閉鎖的、ブラックボックスを経る仕組みには優るかと。

研究の質評価を、受け入れる側全体、理想的には社会全体が直接的に醸成する集合知としていくことが望ましいのではないか、ということです。

しかしながら、今後果たして、研究の質評価がそういった方向に進むだろうかという問に対しては、残念ながら簡単ではないというのが率直な印象です。

手前勝手に記すならば、科学者の根本にある行動原理は、”自身の興味に対して知らないことが許せない”、或いは、”己の関心事が未解明であることが我慢できない”、といったところかと考えます。”人の役に立ちたい”、”社会貢献”は実は第一義の動機ではないと思っています。

最優先されるのは自身の知的興味を満足させる研究成果であり、それを公開する手段は重視していない。画期的な知見を日々求めているが、それを公開するのは従来の枠組みの中で十分事足りる、としているのではないでしょうか。興味の対象ではないわけですから。

ただ、以前も記したように、獲得した新たな知を効率的に活用しようと、確立された既存の枠組みにあえて抗わず、科学誌の権威を利用して余得を得るという行動も合理的ではあります。

自身の研究に対しては極めてアグレッシブな科学者だが、それ以外の部分では実に常識的、保守的ではないだろうか、と想像しています。

勿論、総じてであるのは言うまでもないことです。

いずれにせよ、議会自身による定数削減やインターネット活用に代表される選挙制度是正、行政機関自らによる、例えば教育、税、社会保障、警察の合理化、効率化、こういった例えそれが公益に資するとしても、自らの立場を危うくする恐れのある変化からは目を逸らそうとする姿勢、いわゆる組織防衛の障壁が現れるように思えてなりません。


さて、被引用数に並ぶ、或いは置き換え得る、研究の質、卓越性の評価指標についてです。そういった指標が有り得るか否かすら定かではありませんが、少なくとも科学のコミニティからの提唱だけでは不十分です。科学者は自身のテーマを中心とした個別具体的な範囲内ならば、知見の重要性を理解し、大抵の研究について質を評価できます。

それでも、前のエントリでも触れているように、
中には最初誰も注目しなかったのに5~10年と次第に評価が上がる論文もあります。
ノーベル賞は「誰も考えなかったことを発見した人」に与えられる場合が多いが、「考えつかないことを考えつく」ことは論理的には不可能であり、それゆえ「無知による誤解から考えついた実験」や「いいかげんな実験」が必要なのだ。
と述べられている科学者の方もいますから、例え近い分野に属する科学者であっても他者の研究を適正に評価することは容易ではないわけです。

又、雇用や予算獲得との絡みもあるのかもしれませんが、科学者は夢を語ります。場合によっては、自身の研究の最終ゴールがとんでもなく壮大で、もはや想像の域だったりします。見方によっては無限に拡がった広大な大風呂敷といった印象を抱くことすらあります。
夢の若返りが実現できるかもしれない
STAP細胞発表時の小保方氏の発言が典型かと...それは決して一方的に批判されることではないとしても、適正な研究評価を歪曲せしめる一因となる懸念は否定できません。

やはり、自然科学に留めず少なくとも人文科学、社会科学を含めた科学界で、理想的には社会全体で議論を進め、社会における知の位置付け、意義、認識をどう捉えるかが明らかにされなければならないと考えます。

人文科学、社会科学の分野でも新たな知見は見出され、当然、該知見の合理性や真実性、重要性が評価されるわけです。知についての一般的な考察はむしろ、社会科学のテーマかもしれません。

科学は良くも悪くも社会に変化をもたらします。例えば、医療技術の進歩は平均寿命を伸ばし高齢化社会を生み出しました。IT技術は既存メディアによる情報の独占を阻み多様な価値観に依る情報の入手を可能にしました。通信、輸送、金融、農業、食品、エネルギーの各分野でも技術の進歩による社会の変革は実感できます。

本来、科学研究の質評価は、こういった社会の変化が反映される社会指標(人口、平均寿命、エンゲル係数、犯罪や事故の発生件数等)や経済指標(GDP、貿易収支、為替、株式時価総額、失業率等)による評価が理想です。

評価に至るまで相当の時間を要し、現実的ではないのは理解していますが、新たに獲得した知が社会にどういった変化をもたらしたか、或いは、もたらす可能性があるか、そういった視点からの質評価が検討されてもいいのではないでしょうか。

こういった豊かな社会の実現といった物質面、実利的な目的と共に、科学には社会の多くが関心を寄せる疑問や未解決の問題の解明、解決といった意義もあります。

後者の意義は決して否定されるべきではない、これは揺るぎません。ただ、その必要性を理解しているか、との問に応える合理的根拠を持ちあわせていません。なんとなく肯定しているというのが実の所で、侵スベカラズと崇高なものとみなしているだけかも、といった思いも過ぎらないわけではありません。

宇宙、素粒子、生命についての疑問や未解決の問題の解明に対し、果たして社会の共通認識はどうなっているのか、社会全体でどこまでの合意が形成されているのか、関心のあるところです。

率直に記せば、例えば宇宙の有り様を解明することを必要とする理由が社会の共通認識としてあるのか、その認識は社会全体から支持されているのか、ということです。

果たして、自然科学の進歩に相応する程、社会そのものは賢くなっているのでしょうか。


(続)

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