2015年10月25日日曜日

ビラ

公職選挙法の寄附行為にあたるのでしょうか。
島尻安伊子
ポスターとしての価値がマイナスなのでカレンダーの価値で相殺しているとみれば、問題ないのかもしれません。まだマイナスかも...

かつて、団扇としても使えるかもしれない、討議資料、ビラの配布騒動を思い起こしました。選挙管理委員会の証紙付きであろうとなかろうとどうでもいいんですが。
蓮舫さんが「うちわ問題」で勝利したワケ
この時もですね、
”討議資料としての価値がマイナスなので、団扇で損失の補填を図りましたが埋め切れませんでした。”
と応じるのが適正ではなかったかと思った次第です。

ちなみに

看過

連日、杭打ちデータ改竄による横浜市のマンション傾斜問題に関する報道が巷を賑わせています。
横浜市のマンション傾斜問題
こっちの問題を覆い隠さんばかりです。
「盟主」巨人から賭博選手がボロボロ出てくる 「平成の黒い霧になるのか」疑心暗鬼のプロ野球界
絶好のタイミングです。そういった力が働いているのでしょうか。

それはさておき、件のマンション傾斜問題で、どうにも腑に落ちない疑問が思い浮かびました。問題の発端は、マンションの棟と棟を繋ぐ渡り廊下の手すりに2cmの段差が床には1.5cmのズレが生じていたことのようです。で、市建築局が確認、三井不動産レジデンシャルが52本の杭を調べた結果、虚偽データを使用した施工不良が明らかになったと。

このズレが生じた部分は、電車に例えるならば連結部に相当するのでは、と思ったわけです。マンション各棟に生まれる応力や歪を吸収するといった役割は全くなかったのでしょうか。ズレが生じたことを肯定するという意味ではなく、杭の上に建築された棟の、居住部分の傾きとの関係はどうなんだろう、ということです。

杭の施工不良で棟が傾斜してしまったのであれば、居住部分の床も相応して水平がずれてしまっているような気がします。ただ、住民の方々の居住部分や棟内の共用部分についてのズレや傾きは報道されていないような...

そういった意味で、件の手すりの段差や床のズレは、果たして、杭の施工不良によってのみ生じたのだろうか、よく判りません。杭の施工不良と渡り廊下の手すりの段差、床のズレの間の関係について説明が不十分なような気がします。

又、該杭の施工不良は杭打ち作業の現場管理人?責任者のずさんな施工、施工データの改竄によるとされています。杭の長さが足りなかったと...支持層に到達しなくとも打ち込めるだけ打ち込んで届いたことにしようと...

 設計に基づいて資材を用意していたなら、通常資材は余らないのでしょうか。その時点で異常に気づけたんじゃないかと。杭の太さ、長さといった規格、打ち込む本数、位置、深さが設計され、設計に基づいて用意された資材を指示通りに施工した...

元々の設計ミス、支持層までの距離の見積り不足の可能性も否めない...素人の勘ぐりです。用意された資材で指示通りに施工した、それを杭の打ち込み不足と非難されても...確かに支持層に到達したことの確認作業を怠った責任はあります。

しかしながら、この確認作業で打ち込みが不十分、且つ資材も不足といった事態に直面した時、
どういう対応をすべきか
それは現場の判断のみで十分か
責任の所在は何処に求めるか
そういった危機管理というか、トラブルシューティングの仕組の不備こそが問題の根幹であると考えます。元請けや設計会社に施工不良の原因があっても、下請けの施工会社がその責任を負わされるのか、といった話です。
建て替えとなった場合は、販売会社の三井不動産レジデンシャルや施工会社の三井住友建設と費用負担を協議する
旭化成側の発言ですが、この辺りに”一方的に責任を求められても...”と元請けや販売会社の押し付け体質に対する反発が滲んでいます。と記していた処、
マンション傾斜の発端は三井住友建設のミス…短いくい発注
といった記事が...本問題は発覚した一例ですが、氷山の一角のように思えてなりません。

2015年10月20日火曜日

障壁

時流に乗ってTPPについて少し記してみようかと。門外漢ですが...

TPP環太平洋連携協定)による関税撤廃品目の全容が明らかになりました。
TPP重要5項目 3割174品目の関税撤廃
TPP「関税」撤廃するモノ 残るモノ
(TPP協定)における工業製品関税 - 経済産業省
驚いたのは11年後とはいえ、革靴の関税撤廃が決まったことです。国内事業者保護の名の下、30%又は4300 円/1足という税率が撤廃されるとは思ってもみませんでした。

この理不尽な高税率は様々な事情によるもので、撤廃には至らないかも、とみていました。

撤廃までの11年、又撤廃以降も保護、競争力育成、振興、対策、合理化といった名目で無駄な国費が投入されないことを願うばかりです。

ガット・ウルグァイ・ラウンド合意で徒費した農業合意関連国内対策事業費(6兆100億円)の轍を辿らないという理由が見当たらないのです。規模はともかくとして。

で、TPPと言えば取り敢えず農業が俎上に上がるわけです。安価な輸入農産物が国内農業を壊滅に追いやる、と。

農業については不案内で傍観者の立ち位置から記すことになりますが、素朴な疑問を少し。


自由主義経済社会にとっては、自由な物品の交易こそが生命線です。モノの動きの駆動力は、原則として需給と価格、機能、品質といった競争力のみに依るべきであって、保護主義に基づく関税制度は円滑な流れを阻む抵抗以外のなにものでもないとみています。

そういった理由で例えば繊維製品、陶磁器などかつて隆盛を誇った産業が衰退の道を歩みつつあるのではないでしょうか。電気、電子製品も競争力が低下しつつある現在、その今後が安穏とできる状況とは言い難いのは明らかです。

では、農業を特別扱いして、国内産業保護が声高に叫ばれる理由は何かと考えれば、やはり就労人口や、食料安全保障に関わる自給率が想起されます。農業従事者の生計のみならず、国民全体の健康や生命に影響を及ぼす事態が生じかねないということなんでしょう。

この辺りが例えば他の産業に対する見方と異なるというのは十分理解できます。ただ、だからといって関税や補助金によって国内農業を保護すべき、という論に手放しの支持はできないでいます。保護の農政は即ち既得権も維持されるという事であり、国全体の生産性低下を意味します。

一方、農業国である米国やフランスでもあっても、食料安全保障や競争力維持のため、補助金が拠出され農業従事者の所得補償に充てられていると漏れ聞きます。

大雑把には、輸出国の農業従事者は大幅にダンピングして農産物を輸出し、輸入国の購入者は輸出価格に関税が課税された農産物を購入していると受け止めています。

農産物輸出国の農業部門の国庫は赤字で、輸入国の農産物にかかる関税による税収は黒字ということでしょうか。後者に該当する、例えば日本では該黒字は国内農業への補助金や所得補償に廻されていくのでしょう。では、前者に該当するフランスや米国では赤字をどのように埋め合わされているのか、何がダンピングの原資となっているのか、興味のある処です。

これは例えば、大規模量販店がある商圏に進出、不当廉売で当該地域の小規模店舗を壊滅させた後、市場を独占する、そういった構図に似たものを感じないわけではありません。日本国内ではシャッター商店街としてよくある話です。まぁ、誤算だったのは高齢化、人口減少に伴う購買力の低下と物流技術進化に伴う通販の増加でしょうか。今日、大規模量販店であっても不採算店の撤退が盛んに報じられています。
ヨーカドーもアピタも…大型スーパー“冬の時代” 店舗閉鎖ラッシュ、消費者ニーズに対応しきれず
この不採算店の撤退の話も含めた、そういった自由主義経済の仕組を農産物貿易にそのまま当て嵌める、これを是とするのは躊躇を覚えます。
”ことさら国内農業を保護する必要はない。競争力のない国内農業から撤退して安価な外国産農産物を輸入すればいいじゃないか。”

そういった声があがるであろうことは承知しています。国際秩序が保たれている状況ならば合理的な話です。しかしながら、国際間に経済的、政治的な摩擦が予想される場合、食料は外交上の取引材料として使われ得ます。水産物、農産物といった食料が、エネルギー(石油、天然ガス)鉱物資源(鉄、銅、アルミ)に続く戦略物資であることは間違いありません。

輸出国による補助金に与って、日本の食料供給は割安価格の輸入に傾倒していく、TPP合意でこの流れが更に加速していくのは明らかです。ここで、食料という戦略物資の供給をどこまで他国に委ねられるだろうか、依存してしまっていいのだろうか、といった疑問が生じるわけです。

需給が緩い時、買い手市場の場合、いわゆる平時ならば問題ありません。しかしながら、気候変動による不作や災害、輸出国との関係悪化や紛争といった不可避の要因によるタイトな市場、売り手市場になった場合、食料輸入国は該市場の緊張に対する備えを持ち得だろうか、という話です。

不作や戦乱などで食糧危機が起こった時、農作物の価格は高騰しますし、又、自国優先で輸出制限もするだろうことは十分予想できます。この時、自国の食料供給を割安な農産物の輸入に頼り切った国家は、高騰した価格を甘受せざるを得ないわけです。おそらく、自国農業は衰退しきっていて食料供給に関わる扇の要を押さえられていますから。

戦後日本の、米食からパン食への食習慣の移行もその一例かとの見方も否めませんし、先々、捕鯨に対する規制というか締め付けの取引材料とされかねないことも容易に想像できます。

構図は、ほぼ全量を輸入に依存している原油や天然ガス、その他レアアースの場合と類似しています。相違は輸入依存度と自給可能性の多寡でしょうか。そういったエネルギー資源、鉱物資源に乏しいことは、かつてのオイルショックで実感させられた通りです。依然として、為替や産出国の思惑に右往左往させられ、資源獲得競争の真っ只中にいる状況には変わりありません。

数年前、石炭、鉄鉱石等、資源価格高騰の頃、円高基調であったにも関わらず周辺国に買い負け、といった話題も記憶に新しいところです。

こういった経緯から、日本は工業立国を志向する上で最重要の資源問題に比較的地道に取り組んできたと思っています。それは備蓄、資源国からの利権買取や共同開発、資源探査、新エネルギー研究、省エネ技術の開発であり、当時の是非の判断の正当性はさておき、原子力の利用もその一つです。

自然エネルギー(太陽光、地熱、風力...)の発電への利用、高速増殖炉、核燃料サイクルの開発、核融合の実証は勿論、工業製品の小型、軽量化、高耐久、高効率化、全て資源問題の改善へと帰結していくわけです。


(続)

三択

テレビからタレ流される情報バラエティ番組で、実に常套的な手法として、三択のクイズ形式があります。

例えばNHKあさイチで、料理、健康を含む生活に関わる様々な小ネタ、裏ワザ、ちょっとしたコツといった、何か目新しい情報を伝えるのに多用されています。

この時、三択のクイズ形式ですと、必要な情報一つに二つの誤りが付随してきます。最初に正しい情報が示され、その理由を問う形であっても二つの不要な情報が示されるわけです。

情報の希釈による、電波、時間といった資源の甚だしい浪費を思わせます。一分で伝えられる情報に何故五分も費やすのか、不思議です。もう少し要領よく、記憶に留め置けるようなやり方はないのでしょうか。

尤も、視聴者が明確に記憶してしまうと、類似した内容の焼き直しが難しくなりますから、適度に忘れるような伝え方を選んでいるのかもしれませんが...

一つの小ネタを拡げ、他番組(あさイチ↔ためしてガッテン)で使い廻す...更には再放送して時折総集編を制作すると。制作側からすれば少ないリソースによる効率的な番組制作ということでしょう。

ただ、視聴者側からすれば、無駄が多くて実になる部分が少ないなぁ、というのが正直な印象です。もう少し何とかならないものでしょうか、公共の福祉のために。

2015年10月19日月曜日

学習

漫然と民放、特に民放のBS放送を眺めれば、放送内容はテレビ通販ばかりです。特段珍しくもなく、健康食品絡みの通販がかなりの割合を占めていることにもさほど驚きはしていません。いずれ記すかもしれません。

ただ、先日思ったのですが、やたら流れているような気がします。フライパンの通販が...

よくわからないのですが、世の中、それほどまでにフライパンが欲しがられているのでしょうか?不思議でなりません。

大方のセールスポイントが焦げ付かない、油不要とか、手入れの容易さだったりします。そういった機能を付与するコーティングの耐久性もセールスポイントでしょうか。

で、アマゾンや楽天といった通販サイトのレビューを見ると怨嗟の山が築かれているわけです。
”購入後数ヶ月の使用でこびりつくようになった”
これが代表的なコメントです。であれば、1年2年と経過していくに従い、こびりつくフライパンが幾何級数的に増殖していくのでしょう。重量比にすれば極僅かな、おそらく表面数〜数十μmのコーティング層の劣化、損傷がフライパンとしての機能を死に至らしめ、金属屑、ガラクタの山を築いていくと。

となれば、次のこびりつかないフライパンを探す必要に迫られます。”そういうもんだ”と、消耗品として購入→使用→廃棄の逃れられないサイクルに囚われてしまっていくということです。
料理道具のプロが語る!メーカーが絶対に教えないフライパンの売り文句の真実②
フッ素樹脂加工したフライパンのテスト
フライパンの磨耗テスト
鉄のフライパンを使い続けていて買い換えたことがない側からすれば、一般に、どの程度の耐久期間があれば不満が出ないのか、興味深いところではあります。

併せて、何故そこまで表面加工されたフライパンに拘るのかも不思議でならないわけですが...

2015年10月17日土曜日

去勢

――圧倒的な「第一党」は無党派層なのだが、国民の過半数を占める彼らを代表する政党が存在しない。これが日本の最大の不幸である。―― 
安倍首相はなぜきらわれるのかといったブログエントリにあった文言です。

で、以前のエントリに記したように、
近年の選挙における選択の動機は、当たりクジなど入ってないことを承知し、その上で消去法によって如何にマシな外れクジを選ぶか
といった状態から全く進展がありません。だからといって、選挙で票を投じないという行為には批判的な声もあるわけです。

例えば、
参院選迫る:投票したい人がいないから棄権、抗議の白票はイカン

選挙権のないひとりからのお願い、再び
といったブログエントリがあり、選挙にいかない奴は政治に参加していない、義務を果たしていないとか、投票しければ何も変わらない、といった声があるわけです。

――白票、棄権は白紙委任だ。最大政党に白紙委任したのと同じ。――
このことに異論があろうはずはありません。ただ、投票を棄権する有権者層は、政治に関心がない層とコミットする意思はあるものの意図的に棄権している層から構成されているはずです。白票を投じる有権者層からは勿論、政治に参加する意思が伝わってきます。

つまり、全有権者中に一定程度の割合で、政治にコミットする意思があるにも拘らず、無効票とされてしまう有権者が存在している、ということです。

無批判、盲目的、或いは、義理人情で候補者を支持し賛成票を投じる層がいる一方で、全ての候補者に対し不支持の意思表示をするために棄権、若しくは白票を投じる層は、その対極との見方ができます。

この時、両者の意思は、果たして平等に扱われているのか、公平に選挙結果に反映されているのかを問うてみれば、やはり片手落ちではないかと。

――不支持の意思は選挙結果に反映させない――

そういった不公平性が解消されないまま続いているのは、現行の選挙制度の不備であり、制度設計者、運営者の怠慢ではないでしょうか。賛成、支持、信任に対応した反対、不支持、不信任という選択肢がない制度は、実は公平性に欠いているのではないか、ということです。

”賛成”の対義語は”賛成しない”ではなく”反対”です。

やはりですね、もう少し漏れ無く、公平に民意を汲み取る制度設計が必要ではないかと考えます。

ただ、残念ながら、”誰が実行するか”の”誰”が見当たらないのです。この行き場がない民意の受け皿を設けようという姿勢は何処からも感じられません。

世界の中で日本の投票率が突出して低い、とするつもりはありません。独裁だったり、民主制だったりと、各国の国家運営の根幹や、元首や代議員の職責の重さ、といった政治体制が異なりますから。有権者の投票意識と投票率を結びつけた比較は困難です。

ただそれでも、少なくとも日本において、低い投票率に対し、
”有権者の意識が低い、政治についての関心が薄い”
と片付けることには違和感を禁じ得ません。

首長や議院を選出する選挙において、その制度の不備を疑うことなく低投票率のシステムを運営、維持し続けている、そういった現状に関し怠慢という認識は生まれないのでしょうか。政官学各々についての話です。

例えば、無党派層の意思を選挙結果に反映するといった、自らの不利益を顧みることなく、選挙制度を変革していこうとする政党、人材の出現を待望しています。

折しも、2016年の参議院選挙から、選挙権年齢を「18歳以上」に引き下げる改正公職選挙法が施行されます。それに伴い、高校生向け副教材「私たちが拓く日本の未来」が総務省と文部科学省から作成されました。学校現場における政治や選挙等に関する学習の内容の一層の充実を図るためとあります。
政治や選挙等に関する高校生向け副教材等について
高校生向け副教材「私たちが拓く日本の未来」について
こういった資料を利用した、高校生への政治や選挙についての指導、教育が、現状に対する問題意識を摘み取ってしまいかねないことを懸念します。

国家に限らず、組織、団体、個人は、自らの存在、行いを自発的に否定することはできないのです。自らは常に正当性を主張し、過ちを自認するには相当の困難を伴うわけです。

そういった無謬性を排除できない国家による教育は、自ずと現状を是認することに他なりません。”今は絶対的に正しい”、そういった認識下、政治に関する教育によって”現在が最良”と摺り込まれてしまうと、異を唱えたり、疑問を抱くことを封じる力が生まれます。

これは現体制にとっては好都合です。体制に抗わない従順な有権者層を拡大できますから。そういった思惑が意図されてか否かは存じません。ただ、現行の枠組みの正当性を尤もらしく騙って疑わせない、それを否定し超えていこうとする意思を抑圧してしまう、少なくともそんな方向にだけは進まないことを願って止みません。

2015年10月12日月曜日

狭間

一寸フィクションの読み物について記してみようと思います。

先日、NHKスペシャル「作家 山崎豊子~戦争と人間を見つめて~」の再放送を何気なく眺めていた時のことです。

山崎豊子氏と言えば、
白い巨塔→大学医学部華麗なる一族
 山陽特殊鋼-倒産
 不毛地帯伊藤忠商事-瀬島龍三
大地の子中国残留孤児
沈まぬ太陽→日本航空-御巣鷹山
運命の人外務省-沖縄密約-西山記者
といった作品が思い浮かぶわけですが、同時に、モデルとなった実在の社会的事件、団体は勿論、個人までもが特定できてしまいます。

作者の構想のもとに作られた虚構の話である小説において、実在の事件、人物を題材にすることは読者に現実感を抱かせるには好適な手法です。

事実や史実、及びそれらに対し読者一般が抱いている先入観、そこに嵌合するように人間的魅力にあふれた虚像をはめ込んでいくと。で、虚実入り混じった、何処までが事実かがにわかに判別できないモザイクができてしまうわけです。

こういった手法は特段珍しくもなく、司馬遼太郎氏、松本清張氏始め、著名な数多の作家が創作に取り入れています。城山三郎、清水一行、高杉良、各氏経済小説の分野では至極当然というか欠くべからざる創作スタイルです。

百田尚樹氏海賊とよばれた男 」、「永遠の0」等が最近の該当例でしょうか。

上記作家らの著作について、勿論否定的評価が皆無ではないとしても、その発行部数から、総じて多くの読者からの支持を得ているのだろう、とみています。

ここで、事実を題材として脚色を加えた虚構の創作について云々するつもりは毛頭ありません。それが小説ですから。

ところが一方で、虚構であることが露見したことにより、激しい非難が浴びせられた読み物もあるわけです。

以前のエントリにも記したのですが、それは例えば「一杯のかけそば」であり、江戸しぐさが記載された道徳の教科書(p.58〜59)を含む江戸しぐさ推奨本です。

前者は上記Wikiに顛末が記され、後者については、
更に最近では、ネットワークを介して伝播している、真偽不明のいい話”にも批判的な目が向けられています。

例えば、
【感動注意】黒人が差別された飛行機に、ぼく、偶然乗ってました!
Facebookはバカばかり
またきたコレ・・・いくらでも作れる「いい話」。もう回すなって!!お願い
といった処でしょうか。ちなみに最近見聞したいい話は、
ファストフードの店員がお金の足りなかった男の子に小さな親切、50倍の恩返しが待っていた。
です。真偽はまだ不明です。

興味深いのは、上述全てが虚構であるにも関わらず、小説のについては風当たりが強くない、ということです。プライバシーの侵害、名誉毀損で関係者との訴訟に発展することはあっても、虚構を理由に非難された事例を知りません。

多くの事実を織り込んだ創作であっても、虚構との指摘がなされないということは、読者は端から虚構、フィクションであることを念頭に読み進めているということなんでしょうか。

読者が冷静で創作の世界に踏み込めないでいるのか、入り込ませるだけのリアリティが作品に欠けているということなのか...

「一杯のかけそば」、「江戸しぐさ」は、実話、事実として受け止められた後、捏造であることが発覚、この裏切られ感が怒りや非難の根源となったのかもしれません。そういう意味で、こちらの方が現実感に優っていたとするのが妥当という見方も、素直に首肯できないでいます。

実は、読み物の信憑性に対する読者の先入観が、創作物の虚構、虚偽といった印象を決定しているようにみえ、であるならばそれはそれで釈然としないものを禁じ得ません。では、作品それ自体の力は一体?、ということです。
というブログエントリ中に佐村河内騒動について触れている部分があり、
――涙を流すほど感動していたのに、事実を知ってショックを感じ、白けてしまった――
とのコメントが発覚時に寄せられていたそうです(伝聞の伝聞ですが)。

まぁ、この類の話かもしれません。虚構と虚偽の狭間は、創作物そのものの評価を左右しかねないわけです。

背景や権威といった周囲の環境によって容易に動かされてしまうこの狭間、危うさ、脆さ、曖昧さについてもう少し理解を進めたい処です。

ところで、上記虚構の読み物で、それが捏造であることが判明して以降も、肯定的に捉える声があります。

例えば、「一杯のかけそば」を「涙のファシズム」と批判する見方がある一方で、江戸しぐさについては、特に公教育関係のサイトからは依然として肯定的な姿勢が窺われたりします。
江戸しぐさ 京都しぐさ(京都市)
マナーアップ推進事業(守谷市)
道徳の時間や総合的な学習の時間などの学習で「江戸しぐさ」を取り上げており、礼儀やおもてなしなどにかかわる学習において取り扱う上では、特に問題はないと考えています。(板橋区教育長)
 歴史的事実として教えるものではなく、礼儀やマナーを考えるきっかけになればと作成した文科省)
ネットワーク上に蔓延るいい話についても、
話の「真偽」は、さほど重要では無い。大切なことは、この話から、なにを受け取るのかだ。
といった旨の意見を見聞します。

史実と確認されていない虚構を道徳学習に採用する...真偽は重要でない...手放しで首肯するには抵抗を覚えます。

この部分について思いを巡らせてみると、その行き着く先には権威主義による管理と被管理といった語が朧気に見えてしまいます。

虚構の物語中に描かれた虚像を道徳、倫理、礼儀といった教育に利用する...広義には人格形成にも影響を及ぼしかねないそういった領域に虚像を挿入していくということです。それは言い換えれば、虚像の摺り込みでもあり素直には受け入れ難いものを感じています。

例えば、
故人の意思(真意の確認が困難)
専門家の意見(十分な理解が困難)
民主主義社会におけるみんな(民意)→(実体が不明)
に類した、虚像の一人歩き、極端には暴走の懸念を払拭できない、ということかもしれません。教育でも政治でも、ある意図の下創りだされた、管理側にとって都合のいい虚像、これが知らぬ間に絶対視され周囲に奉られてしまう、その結果醸成される無思慮な”...でなければならない”空気には反感を抱きます。

上述の「一杯のかけそば」捏造騒動における非難には、欺かれたことに対する怒りと共に、そういった虚像に振り回されたことへの反発も含まれていたのではなかったかと。

しかしながらその一方で、先述の著名な作家による小説に対しては、やはり虚構に対する抵抗は大きくないというか、むしろ虚構であるがゆえに受け入れられているとさえ、見受けられます。

そういった作品は、事実を作者の意図で脚色、歪曲した虚構ではなく、作者の意図を伝えるための創作に事実を織り交ぜている、というのがその理由でしょうか。判り難い話です。

文芸について思う処と共に、いずれ機会があれば記してみます。

2015年10月11日日曜日

伝統

もう少し慮った呼称はなかったのでしょうか。端から物議を醸すことを狙ってのことか、と勘ぐってしまいます。
首相「1億総活躍社会の実現を」 第3次改造内閣が発足
未だ”1億総...”といった表現を選んでしまうあたり、政権から滲み出る国家主義的なものが伝わってきます。換言すれば、
学校はなぜ「巨大組体操」をやめられないのか
に通底した日本の伝統、大本営的な同調圧力を感じるということです。

いっそ、国民総活躍社会として説明の端々に”火の玉”とか”一丸”といった語を散りばめればセンスが際立ったかもしれません。
炎上すること、請け合いです。

確かに、何も決まっておらず、単にキャッチフレーズに過ぎない、批判は当たらないという声もあります。しかしながら、戦後尚も脈々と受け継がれてきている精神論偏重、これを未だ国家が担いでいるんじゃなかろうか、そういった見方を払拭できないでいます。

ところで、日本の人口約1億2千6百万人余りに対し”1億”という物言いはどういった含意があるのでしょうか。

キリのいい数字で端折った?一寸雑なんじゃないかと。

2千6百万人余りの国民は活躍できない?元々、生産年齢人口(15~64歳)は7千9百万人程度(H.25.10.1)ですし...

”活躍”についてもう少し丁寧な説明が必要です。

2千6百万人の側からの記述でした。ちなみに、テレ朝の報道ステーションでよく耳にする文言、
――ともすると我々は...――
この”我々”の中に括られることも拒否します。

2015年10月4日日曜日

欧州(2)

さて、脱線からVW排ガス不正問題に戻ります。

特段、自動車に詳しくなく根拠のない所感です。

”クリーンディーゼル”の語を耳にしたのはトヨタのハイブリッド車プリウスが注目されて以降だったかと。プリウスが話題になる中、気がつけばヨーロッパではクリーンディーゼル搭載の自動車が席巻し主流になっていたと。素直にフォルクスワーゲン、メルセデス、BMWにルノーを加えたヨーロッパの自動車会社の技術の凄さには驚きました。

自動車の性能は軽量、高馬力、高トルクで決定され、軽量化、耐久性や信頼性向上には簡素な構造が好ましいのは当然ですから。

ハイブリッドのようにシステムを複雑化することなく、燃費や排ガスといった環境性能に優れた自動車が上市されたわけです。調べてみるとクリーンディーゼルの根幹を支えるコモンレールシステムはボッシュとデンソーから各自動車メーカーに供給されていました。

デンソーのシステムがクリーンディーゼルに採用されているなら、何故日本でディーゼルカーが販売されないのだろうか?作れるはずなのに...


”ああ、そうか。トヨタはハイブリッドカーを売らなきゃいけないからね。莫大な開発費を取り戻して大量生産大量販売でコストダウンを図るにはディーゼルカーは邪魔なんだろう。”
と、納得していました。その一方で、何故ヨーロッパではプリウスは支持されないのだろうか、との疑問を抱いていました。米国で俳優ブラッド・ピットやレオナルド・ディカプリオがプリウスに乗っている、と騒がれた頃だったでしょうか。

ハイブリッドとクリーンディーゼル、性能面で優るのは実の所どちらなのか、何故棲み分けができているのか不思議ではありました。

今にして思えば、トヨタのプリウスを脅威に感じ、自国自動車産業保護を目論んで、ヨーロッパではクリーンディーゼルを盾にハイブリッドを締め出したのではないでしょうか。

一方、産油国になりつつあった米国では安価な軽油を使うディーゼルカーで環境基準をクリアする必要性に乏しいわけです。自国の安価なガソリン車で環境基準を満足すれば十分で、クリーンディーゼルを開発する動機に乏しいと。必要なのは、やはり自国自動車産業保護のため、ディーゼルカーに厳しい環境規制を設けてヨーロッパからのディーゼルカーの進出を食い止めることだったのではないかと憶測しています。

そういった構図が腑に落ちてしまいます。根拠の無い勘ぐりであるのは勿論ですが。


さて、前のエントリでは、一事業者の不正による同業他社の逸失利益について触れましたが、これが賠償された事例を知りません。ただ、本不正事件でヨーロッパの同業他社やトヨタには利益の逸失それなりにあったであろうことは容易に推測できます。

こういった場合の賠償責任というものは法的裏付けが無い限り発生しないのでしょうか。特許制度では権利の侵害が認められれば損害賠償は極めて当然に請求が行われますが...よくわかりません。

で、この排ガス不正問題ですが、どういった形の幕引きになるのでしょうか。

VWの支払い能力の範囲内に収まれば課せられた制裁金も、損害賠償も支払えるはずですが、回収、修理命令が規制当局から出された場合、改修のために代替する技術があるとは思えないのです。

無効化したソフトを常時作動させれば、排ガスは基準値内に抑制できますが、所定の走行性能は満たせなくなります。デンソーのシステムに交換?難しいかと...

結局、最も現実的な落ち着き所として、メーカー、当局が一体となって、
目を逸らして時間による解決を待つ
という対応が想定できるわけです。言い換えれば、徳政令的に猶予、繰延、といった言い方が適切かもしれません。

ヨーロッパでは、時限的に排ガス規制の基準を緩和し、その猶予期間中に基準を満たす技術の開発を進めていくと...規制の先送りです。都合よくルールを変更するのはヨーロッパ諸国の伝統的お家芸です。そういった勘ぐりを否めません。

米国ではどうでしょうか。改修が困難という結論となれば、返品、返金に応じざるを得ないといった状況にも追い込まれかねない話です。

そうなると、排ガス規制の緩い国に転売、投げ売りする他、手段が見当たりません。どの程度の猶予期間が許容されるかは判りませんが、米国からVWのディーゼルカーの姿を消していく、そういった結末をも視野に入れざるを得ない話ではないでしょうか。当然、計り知れない損失がVWに生じます

ただ、少なくとも欧州において、VWはToo Big to Failな存在ですから、ルール変更という鎧に守られて存続するであろうことは確かかと。VWの米国撤退に併せて米国車の欧州からの締め出し、といった保護主義的状態がより顕著になることも予想に難くありません。

このVW排ガス不正の問題において、
EU、2年前にVWの不正把握か 規制運用問われる
と、EUの規制当局は座視していたようです。トヨタが抗議していたにも拘らず、それでも...

欧州の身勝手、独善をまざまざと見せつけられたわけですが、しかし、まぁ、これまでの行状を鑑みればさもありなんと得心が行ってしまいます。

例えば、

『なぜ欧米人は平気でルールを変えるのか』 - 是非とも読んでほしい
といったブログエントリもありますし、独禁法(欧州連合競争法)絡みでは、
マイクロソフトの欧州連合における競争法違反事件
がよく知られています。 2015年でも、
欧州委がGoogleの正式提訴を決定か、競争法違反巡り

欧州委、アマゾン調査 電子書籍巡り独禁法違反の疑い
とEUが自らの正義を主張する事例には事欠きません。

確かに公正な競争の阻害は問題ですが、”不公正”を盾にした保護主義は双方にとって不利益であり、非生産的と考えます。EUという経済共同体を挙げた対外排除は、内なる変革を阻むと共に、周囲、外部の欺瞞、消耗に繋がるということです。

先日、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)交渉について
TPP大筋合意、巨大自由貿易圏誕生へ前進 米議会は懐疑的
といった報道を目にしました。TPP内部での貿易に関わる障壁を低減、撤廃する一方、EUの保護主義への対抗措置としての経済共同体の結成といった見方もできるのではないでしょうか。

欧州(余談)

ところで、今回のVW排ガス不正で例示される、企業の不正が発覚すると、当該企業には当局から罰金や制裁金が課せられたり、株主や顧客への損害賠償が求められたりします。

先日も、米ゼネラル・モーターズ(GM)がエンジン点火スイッチの欠陥を認識しながら10年以上も放置していた問題で、米司法省に制裁金を、集団訴訟の原告には和解金を支払うことが決定したようです。
米GM、欠陥放置問題1770億円で和解 司法省などと合意
 国内の場合、自動車を含めた、性能や機能について規制当局から認定を取得する製品では、東洋ゴム、ノバルティスファーマ、武田薬品あたりが昨今の改竄、捏造の事例でしょうか。

又、食品、衣料品の品質、産地、期限表示に関わる不正の事例は枚挙に暇がありません。
食品偽装問題
だまされないで!「カシミヤ偽装大国=中国」歯止めかからぬ不当表示…
不正競争防止法景品表示法に抵触する事案ですが、後を絶ちません。

で、不当表示、優良誤認、不当廉売といった、公正な競争を阻害する事案が発覚した場合、当該事業者は行政処分を受け、消費者には賠償を迫られるわけです。

更に最近では、広告である旨不記載の広告、事業者、或いは事業者から委託された宣伝業者が顧客を装って体験レポートを口コミサイトに投稿する、いわゆるステマに対する批判が強くなっています。
「ヤフージャパン一人勝ち」と「報道記事の買い叩き」がステマ横行の原因
なんでみんなテレビのステマは話題にしないのかなというと・・
勿論、民放の情報番組もステマの範疇ど真ん中ですが、厳密に言えばこういったステマも事業者間の公正な競争を阻害しているとみて間違いないわけです。

で、ある事業者の不正によって競合の他事業者が不利益を被った場合、その逸失利益に対する責任も当該不正事業者が負うべきではないだろうか、と思った次第です。

実際の処どうなんでしょうか。飲食でも、物販でも有名店や大規模チェーン店によって近隣の同業店が営業不振に陥り、撤退、廃業、倒産に至ったというのはよくある話です。B to Cの事業に限らず、B to Bの分野でも好業績のX社が不振になったY社を吸収合併する、といのも珍しい話ではありません。

不正を駆動力としてこういった結果が生じた場合、同業は明らかに不利益を被っているわけですが、賠償がなされたという話は寡聞にして知りません。そういった事例はあるのでしょうか。

上記例の後者で、X社によるY社の吸収合併後、不正が発覚、旧Y社の社員が希望退職迫られる...想像に難くない理不尽な話です。目も当てられないというのが率直な印象です。

該不利益には、不正発覚前の業績不振のみならず、発覚後の当該業種に対する信用の失墜や監督官庁による規制強化に伴う間接費の増大も含まれます。

この辺りは門外漢なので全くわかりません。社会の共通認識としてどう捉えるのが適切なんでしょうか。

少なくとも、不正による利益、不正が発覚した場合の賠償(不利益)、不正が発覚する確率、そういった要素を用いて費用便益を分析した時、
合理的選択として不正を働く
そういった条件が成立してしまう限り、不正の根絶は難題です。

”(永久に、ではないとしても)やった者勝ち”=”正直者がバカを見る”、そういった条件の是正に繋がる、公正な競争環境の整備が必要と考えます。

残念ながら、提言できるような材料は持ち合わせていません。”カルテル・入札談合に対する課徴金減免制度”が一つの示唆になるだろうか、といった程度です。
カルテル・入札談合に対する課徴金減免制度の新設の効果と課題
独禁法の課徴金減免制度、自主申告が半減 13年度50件
相互に監視、牽制、密告しないと不正を防止できないというわけで、自律性は全く期待されていないということです。何だか情けない話ですが、市場主義経済社会を象徴する本質のようで致し方ないのかもしれません。