2015年10月11日日曜日

伝統

もう少し慮った呼称はなかったのでしょうか。端から物議を醸すことを狙ってのことか、と勘ぐってしまいます。
首相「1億総活躍社会の実現を」 第3次改造内閣が発足
未だ”1億総...”といった表現を選んでしまうあたり、政権から滲み出る国家主義的なものが伝わってきます。換言すれば、
学校はなぜ「巨大組体操」をやめられないのか
に通底した日本の伝統、大本営的な同調圧力を感じるということです。

いっそ、国民総活躍社会として説明の端々に”火の玉”とか”一丸”といった語を散りばめればセンスが際立ったかもしれません。
炎上すること、請け合いです。

確かに、何も決まっておらず、単にキャッチフレーズに過ぎない、批判は当たらないという声もあります。しかしながら、戦後尚も脈々と受け継がれてきている精神論偏重、これを未だ国家が担いでいるんじゃなかろうか、そういった見方を払拭できないでいます。

ところで、日本の人口約1億2千6百万人余りに対し”1億”という物言いはどういった含意があるのでしょうか。

キリのいい数字で端折った?一寸雑なんじゃないかと。

2千6百万人余りの国民は活躍できない?元々、生産年齢人口(15~64歳)は7千9百万人程度(H.25.10.1)ですし...

”活躍”についてもう少し丁寧な説明が必要です。

2千6百万人の側からの記述でした。ちなみに、テレ朝の報道ステーションでよく耳にする文言、
――ともすると我々は...――
この”我々”の中に括られることも拒否します。

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