2021年7月27日火曜日

放言

カーボンニュートラルとか宣う前に、

弁当捨てるな!

と強く批判しておきます。 

五輪開会の陰で・・・弁当大量廃棄も (2021/7/24)
五輪の弁当大量廃棄 発注数の変更はあったのか?JOC(日本オリンピック委員会)関係者の情報を入手した
圧倒的に制御可能な弁当の発注すら抑えられない組織体に、二酸化炭素排出を抑えるアタマがあるとはとても思えませんが...

まぁ、二酸化炭素排出量削減が原発稼働の大義名分であるならば、削減より稼働が優先ですから削減の可否は問題ないのかもしれません。

2021年7月17日土曜日

総意

此処の処、総意、世論、みんな、といった語にひっかかりを感じています。何を見聞してのことだったか定かでない部分もありますが、総意はおそらく憲法第一条

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。

を目にしてのことだったかと。世論は、”軍部の暴走に加担した戦前の世論...”といったような文言だったかもしれません。

で、まぁ、みんなの意志総意≒世論という関係があるのですが、勿論、国民全員の意志が全く同じであることは有り得ないわけです。民主主義国家では、意志を同じくする国民の和が多数を占める該意志が総意となります。この国民の和とは、全ての有権者に等しく付与された意思表示の権利が行使された結果です。様々な意志がある中、同じ意志を持つ国民を定量的に比較し総意が決定される仕組みです。いわゆる”数の力”による支配です。

では、この”数の力”、特定の意志を持つ多数派はどのように形成されるか、考えてみます。総意は数による結果ですが、そのプロセスにおいて数を支配する正体は何か、何が世論を形成するのか、という話です。

非常に単純に考えれば、日本の総人口1億2547万人(令和3年6月1日現在の概算値)の過半数62735001人の意志が日本国民の総意となります。ただ、実際には意志を反映できるのは有権者で、その中で意志を表明した有権者の過半数によって総意が決まります。日本全国共通の総意を示す場として最高裁判所裁判官国民審査を例にすると、平成29年10月22日に執行された衆議院議員総選挙・最高裁判所裁判官国民審査では、

有権者数:105991138人

投票者数:56539788人

でしたから、その過半数(56539788人/2)+1=28269895人で日本の総意が決定されたわけです。実際には無効票もありましたから、有効票のみで計算すれば(54819748/2)+1=27409875人です。つまり、この場では

(27409875/125470000)*100=21.8(%)

総人口の21.8%の意志が日本の総意になった、言い換えれば約二割の日本国民によって日本の総意が決定されたということです。

果してこれは総意の語に符合する意志なんでしょうか、直ちに頷けないものを感じるわけです。

単純化するため直接民主制を取り入れた最高裁判所裁判官国民審査を取り上げました。現在の日本の殆どの意思決定を占める間接民主制の場合については別途考えます。

上記は総意が決定される際の数字の話です。現実には該数字に影響を与える、言い換えれば世論を形成する有形無形の力が存在していて、該力が総意の決定に強く働きかけています。総意にはこれを支配する力があって、この力が多数派の形成を経て総意として一人歩きを始める、こんな処でしょうか。

その最たるどころか、”数の力”すら蔑ろというか圧して総意らしきものが形成された例がこの度の東京オリンピックです。

ここ二、三ヶ月NHKから放送されている、東京五輪開催への誘導があからさまな、国民の総意を装った同調圧力番組に辟易しています。その一方で、毎月報道される世論調査で、東京五輪開催の是非を問うた世論調査の報道が脳裏に残っていて、なんとも違和感を抱いていました。確か、該世論調査では東京五輪の中止と再延期が大勢を占める選択だった覚えがありましたから。

そこで、遡って調べてみました。下図はNHKの2021年1月の世論調査からの引用です。






開催すべきとの声は前月、前々月より減少し、中止すべきと再延期すべきとの意見が合算で77%です。七月に入ってもこの印象はそのままでしたから、上記の東京五輪PR番組との整合性に疑問を感じたわけです。みなさまのNHKであるにも関わらず、みなさまの意向を蔑ろにした、某様のNHKへと変貌してしまったと。

ところが、東京五輪開催の是非についての世論調査は2021年1月までで、翌月以降は東京五輪をどう開催すべきか、という設問に変わってしまっています。

字面は、2021年1月が”東京五輪パラは開催すべきか”で2021年2月は”東京五輪パラはどうすべきか”ですが、用意されている選択肢が前者は[開催すべき/中止すべき/さらに延期すべき/わからない・無回答]であるのに対し、後者では[これまでと同様に行う/観客の数を制限して行う/無観客で行う/中止する/その他/わからない・無回答]となっています。明らかに開催ありきの世論形成の意図が窺えます。1月の”さらに延期すべき(今年は開催しない)”という意見の層を2月の調査で”観客の数を制限して行う/無観客で行う(条件付で開催する)”層へと誘導しているわけです。下図がその調査結果です。


”中止する”は1月、2月共に38%ですから、選択肢を変えることで、再延期を求める層を条件付き開催の層へと移行させた、とみることができます。

7月の調査では設問は、1都3県の会場を無観客として開催することの評価で、完全に開催ありきという総意が形成されています。それでも”中止を求める”声が30%を占めている上、無観客での開催を適切とする割合が39%ですから、中止か、”(手放しでの開催の)拒否”が実際の総意ですが、斯くの如く国民の総意で”東京五輪パラは開催する”が仕立直しされました。下図は7月の調査結果です。

実際、NHKの2021年5月10日の報道、

組織委に若者が提言 オリンピック・パラリンピック 発信強化を

に引用されている”東京大会のことしの開催について”の調査結果を見れば、調査対象の範囲は異なりますが、依然として”中止してほしい”、”再延期してほしい”といった意見が高い割合(70.5%)を占めていることがわかります。

当初は、前記した、日本の総意を決定する約二割の日本国民に影響を与える力について記すつもりでした。その一例として東京オリンピックを上げたのですが、世論の誘導というより操作ともいえる実例に遭遇するとは思いもよりませんでした。検索してみると一連の調査は既に疑問視されてもいるようです。

このように、世論調査の結果から形成される総意は、総意≒世論でもなく、むしろ総意≠世論と感じます。その総意はみなさまのNHKによるものですから、誰を指してのみなさまなんだ?と改めて疑問が擡げます

さて、それではこの似非総意を造り出す正体は何か?という話になるわけですが、それは例えば前に示した、2021年1月の世論調査において”開催すべき”と回答した16%のグループに他なりません。

素直に考えれば、この”開催すべき”グループは、五輪開催で利益を享受する、少なくとも利益>損失となる属性を有する層です。開催に関わる政府組織、地方自治体は勿論ですが、立場の統一性から直接には関係せずとも開催支持の姿勢かと。医療に関わる公的組織・機関は積極的支持ではないかもしれませんが。出場選手の属する競技団体を含むスポーツ関係の組織・団体も”開催すべき”の立場であるのは間違いない処です。自らの存在意義に関わりますから。


追記していきます。

2021年7月12日月曜日

推賞

一部界隈で好評の松崎しげるカバーの「グッド・バイ・マイ・ラブ」ですが、

アン・ルイス「グッド・バイ・マイ・ラブ」covered by 冨田麗香

はこれに優るとも劣らないカバーでした。冨田麗香の歌唱力、もっと衆知されて然るべき、と絶賛致します。

自分が知らなかっただけかもしれません。今更かもしれませんが。

2021年7月6日火曜日

引力

どこが?と問われても上手く説明できないのですが、見入ってしまい、幾度となく見ている動画です。


2014年のブルース・スプリングスティーンのコンサート中の一場面です。YouTubeにアップされています。ブルース・スプリングスティーンがファンの女性をステージに招いて、"ラストダンスは私に(Save the Last Dance for Me)"を、女性の手を取りながら唱っています。

彼女の驚きと戸惑い、そして僅かな躊躇が入り混じりつつ、嬉しさが溢れ出ている映像です。夢が現実になった幸福感が真っ直ぐに伝わってきます。

それが何故好印象を抱かせるのかよく解りません。ただ、"Save the Last Dance for Me"で同時に検索された、リチャード・ギアの映画"Shall We Dance?"の一場面より心惹かれたのは確かです。


元々、較べることがおかしいとの指摘はその通りですが、あえて考えてみますと現実感の差でしょうか。視覚や聴覚を含む五感に伝わってくる誰かの幸福感は、受け止める側の心をも動かすだろうと。ただやはり、その幸福感のリアリティの差異は、動かす力の大きな差として現れるわけです。それがまさしく事実の力です。事実と創作、現実と虚構、ノンフィクションとフィクション三次元と二次元では、心情に働きかける力は比較になりません。

その力を利用して、折々に事実を織り込んだ創作の典型がNHKの大河ドラマだったり、山崎豊子作品だったりするわけです。

それが何か?と問われて、云々返す意図はありません。しかしながら、創作者の技巧によって虚実が逆転して虚が実として一人歩きを始める、これには危うさを感じます。これは実は、創作者にとっては冥利に尽きる話かもしれませんが、制する力、阻む力が不在というのも問題ではないかと考えます。