2013年12月3日火曜日

王道

以前、生産性について言及されているブログを拝読しました。 

「生産性の概念の欠如」がたぶんもっとも深刻 

このエントリの内容に対する所感も含め、”生産性”について思ったところを記します。

該エントリの指摘は全くご尤もなわけですが、総論的というか表面的といった感が否めません。現状についての問題は説明されているものの、個別具体的な解決策の提案や米国での事例に欠けています。

”ホワイトカラーの生産性向上”が叫ばれるのは今に始まったことではなく、過去十年、二十年、更にそれ以上古くから延々指摘され続け、未だ未解決の問題です。

残念ながら上記内容にも目新しいものを感じませんでした。実の所、製造と単純事務処理部分以外で、即ち、いわゆるホワイトカラーの業務部分で合理的に生産性は上げられるのだろうか、懐疑的にみています。

確かに、情報の収集、処理といった業務の生産性は向上してきました。しかしながら、これらは上記業務の主幹であろう創造と判断の周辺作業に過ぎません。創造と判断の生産性向上を図るのは相当難題かと考えます。

後はせいぜい、不要な資料作成、根回し、結論の出ない会議、承認を得るための御説明、打合せと称される雑談を排除する、といったところでしょうか。

生産性を、生産された価値に対する投入資源量の割合とします。製造や単純事務処理作業の現場ならば、これら生産性は評価可能であり、比較的容易に向上の方策も見出せます。

投入資源は人、時間、設備、原材料、ユーティリティであり、費用への換算は容易です。生産された価値は、製造業務であれば、製品の経済的価値で、単純事務処理作業ならば処理件数で評価できます。

即ち、生産された価値を単位投入資源当たりの生産額に換算できる業務ならば、生産性という概念を意識できますし評価指標もありますから、向上を図るといった動機も生まれ実行に移せます。 

経済的価値に換算可能ならば時間でも処理件数でも、数値化できれば構いません。で、この経済的価値が営利企業の利益に結びつき個々人の給与に反映されていくわけです。

ところが、ホワイトカラーの業務部分の生産性となると生産された価値の評価が困難かと考えます。恣意を交えずに、たとえ企業内だけの相対評価であっても客観、公正、中立にできるものなのでしょうか。

勿論、営利企業であれば最終的には会社の利益に収斂させることになりますが、生産された価値をどのように換算すべきでしょうか。よくわかりません。

そういった部分を例示することなく”ホワイトカラーの生産性...”について言及されるのも如何なものかと思うところです。

かつて首までどっぷり漬かっていたメーカーの研究、開発、生産技術といった技術部門で考えてみます。

該エントリでは、製造の「コストを3%下げる」、「コストを3割下げる」といった目標に対し、
”3%の方はこまごました改善の積み重ねで達成し、3割下げるほうは、設計思想とか組み立て工程を抜本的に見直したり、調達先を国内から海外に移す、もしくは、系列以外からも調達するとか、どーんと発想を変えることで実現する。”
と述べられています。ここで、混同しやすいのですが上記はあくまで製造部門の生産性向上です。決して、設計や生産技術、調達購買、事業企画といった各部門の生産性が向上している訳ではありません。

製造部門での生産性を上げることを目的に上記各部門の業務が遂行されます。従って、各部門の生産物はこの目的を達成し得る施策ですから、該部門の生産性向上はこの企画立案の効率化に他なりません。

製造部門で製品のコストダウンを達成する方策の生産性を向上させるということです。この方策の生産性がホワイトカラーの業務部分の生産性に相当します。該生産性は製造部門での生産性向上効果から類推できるものの間接的なものに留まり、正確には評価し難い部分があると考えます。

製造から更に距離がある研究業務の生産性についてはどうでしょうか。民間の営利企業であれば将来の会社の利益に貢献する新技術、新製品の研究開発が研究部門の一般的な目的です。社会貢献、技術力アピールといった広報的な役目もないわけではありませんが決して主目的たり得ません。

御指摘頂ければ有難いのですが、民間企業において研究業務の生産性を評価するにはどういった指標が適切なのでしょうか。論文や学会発表、特許出願、登録の件数なのか、或いは、それらの質なのか、果たしてこういった指標で研究業務の生産性が評価し得るのか、それらは研究の生産性向上にどの程度寄与するものなのか、手放しで首肯できない部分が多々あります。

大学を始めとする公的な研究機関ならば、上述の成果の公開以外、術はありません。それでも質をどう評価するかの課題は残るわけですが...学術界という公正、客観的であろう第三者機関による相互評価に頼らざるを得ないわけです。

近年、かつて企業内研究者であった方々の、在職中に発明者として登録された特許に関し、経済的対価を巡って訴訟にまで発展する事例が見受けられます。珍しくはなくなってきましたが、とても全ての企業内研究者に適用できない、未だ稀な事例と考えます。 

確かに裁判所に判断を委ねるのも一つの手法かもしれませんが、評価作業の生産性を考えれば非現実的であるのは明らかです。一般的、定常的に適用できる手法ではありません。

研究成果も含め、直ちに経済的価値に換算できない生産物の評価に対しては、なんとなくといった要素を排除し得ない、裁量を含む総合的評価が実情ではないでしょうか。で、評価の正当性を裏付けたり、説得性を持たせるために成果の公表件数で修飾、或は虚飾すると...

そもそも公開可能な研究成果は当該企業にとって最重要ではないか、過去の記録のはずです。真に利益に貢献する重要で最新の成果ならば特許を除き社外秘、場合によっては部外秘が当然と考えます。

おそらく、社内、或は部内の評価者と被評価者間で研究テーマの価値観が共有され、曖昧ながらも、これを元に進捗、成果に対する評価の合意形成がなされているのではないでしょうか。

客観性、定量性に欠け、暗黙的というか内輪の評価と言われればその通りで密室性も否定できません。食べログや食べ歩きのブログで見られる点数評価ほど偏向的、主観的ではないにしてもそういった要素を排除し得ません。

従って、価値観が共有されていないと合意形成に時間がかかりますし、下された評価に異論が生じるわけです。希有でもなく至極日常的な話です。

斯様に製造を除く技術部門、研究開発、設計のみならず、生産技術、品質、設備、特許技術安全衛生、環境といった管理部門において、業務の生産性は合理的、客観的に評価し難いものがある、と捉えています。生産性の評価手法が定まらない一方で生産性の向上が叫ばれても、空論に聞こえてしまうのも当然ではないでしょうか。

尚、総務、人事、庶務、法務、財務経理、広報、購買情報システム、海外事業となると、全く門外漢で私にはわかりません。ただ、根幹で類似した合理性に欠く、不明確な部分があるものと想像します。

いわゆるホワイトカラーと称される職種において、各業務の生産性評価は上述の如く容易ではありません。しかしながら、評価の内輪性は否定し得ないとしても、評価者と被評価者間で業務の目標設定の合意と価値観の共有、いわゆる摺合わせは最低限なされるべきかと考えます。

創造と判断の生産性に対する評価基準が明確ではなく、評価が一義に定められない環境では、共通の価値観を持つグループ内に限られた相対評価にならざるを得ません。

先述の”学術界という公正、客観的であろう第三者機関による相互評価”はその典型です。逆に、近年しばしば生じているノーベル賞受賞者への後追いの文化勲章授与などは、評価基準が不定だったり、輪の外からの評価なため、国内では正当に評価され得ない一例ではないでしょうか。で、ノーベル賞受賞という明らかな成果、功績への文化勲章の授与といった印象です。

いずれにせよ、創造と判断の生産性評価はこの限定された相対評価が限界です。それすら行われていない組織では、いくら生産性向上が叫ばれても掛け声倒れに終わってしまうのは言うまでもないことです。尤も、例え評価制度が設けられていたとしても、内輪の相対的なものであることに気がつかず、公正な評価システムが機能していると勘違いしている組織では、真に生産性を向上させることは難しいかと考えます。 

そういった、生産性についての個別具体的、現実的な施策に触れることなく、直面する問題には目を瞑ったまま、聞き心地のいい概論を展開する...

ちきりん「ネット上では議論をしません。する意味ないから」宣言に見る、マッキンゼーらしさ

正にコンサルタントの王道を未だ踏み外すことなく歩み続けていらっしゃるなぁ、と改めてその無責任さに感じ入った次第です。


上記内輪の評価についてもう少し考えてみます。

2013年11月13日水曜日

山本

少し酒が入っています。

山本太郎さんと山本一太さん、やまもといちろうさん(山本一郎さん?)の区別ができません。もう、何がなんだか...

この際、山本一太郎さんとして集約し、山本一太郎A、山本一太郎B、山本一太郎Cとして頂ければありがたいのですが...

だれがA、だれがB、...とするのも大変ならば、正義の山本、悪の山本、中庸の山本でも、まともな山本、だめな山本、おかしな山本でも構いませんから、もう... 


(追記)
一人の山本一太郎さんに刃物入りの封筒が届いたそうです。他の山本一太郎さんの身を案じています。 

2013年11月10日日曜日

相好

浦安 政丸水産のあさりしぐれ煮、機会がある度に購入しています。

子供時分、田代の鰻のタレだけで大盛りの飯を頬張っていた私には堪えられないものがあります。(地下の鰻屋、宮前の鰻屋と言った方がわかりやすいかもしれません。)

この佃煮を炊き立ての飯に混ぜ込めば、それはもう...
笑みがこぼれます。

2013年11月9日土曜日

傾向

さて、初七日法要も葬儀当日に執り行われました。法要の後の法話で、

――されば朝には紅顔ありて
夕には白骨となれる身なり――              

について伺いました。思ったところを記します。

全くもって浅学ですが、仏教はあらゆる苦しみ、悲しみからの解放のため解脱を目指す宗教であると理解しています。

古来、最も大きな悲しみの一つとして、身内の死があり、その悲しみを悼むために葬儀が執り行われてきました。この点は仏教以外の宗教であっても概ね外れてはいないかと思っています。

一方で今日、医療や科学技術の進歩により、特に日本社会は非常に長寿の社会になりました。勿論、総じてです。

未だ、理不尽非業な死という最期もあるわけですが、社会の長寿化と共に死への恐れが薄まってきているように感じます。 

かつてほど死を恐れず、逃れられない事実として受け止める社会になってきたのではないでしょうか。本人の責に依らない痛ましい死、亡くなる順序が親子で逆転、といった話は未だ見聞しますが...近年、この死に向き合う姿勢は顕著に変化してきた気がします。

このことを鑑て、相対的にですが葬儀における仏教を含む宗教的なもの、理不尽な事実を受け入れるための精神的な拠り所となるものの必要性が低下しつつあるのでは、と思いました。

極論すれば百才以上長寿の方の葬儀に死を悼むための宗教がどこまで必要だろうか、ということです。生と死に一線を引き、あちらへ送るための別れの儀式には必要と考えますが...勿論、そうでない悲痛な別れについては、宗教には依然として担うべき重い役割があるでしょう。

直面する事実を現実として抗うことなく受け入れられるよう社会は進歩し、宗教の意義が薄れていく、そういった傾向をなんとはなしに感じました。


ところで、東日本大震災の直後、ありとあらゆるスポーツの、選手本人に加え、メディアでも増幅されて”絆”、勇気元気”、”がんばろう”が盛んに叫ばれ、強い違和感を抱いた記憶があります。

被災者全てにスポーツが必要であるかのごとく喧伝され、あたかも”スポーツ万能教”的印象を受けました

自分の責務を自覚し、粛々と復旧、復興に取り組んでいる人々にとって果して”スポーツで・”は必要だったのでしょうか。復旧、復興に向けての真摯に取り組む人々の姿こそが讃えられるべきで、励みになったのでは、と考えます。 
上述宗教への社会的期待が薄まったという点では、相応して社会は賢くなったかの思いが一時脳裏に浮かびました。しかしながら、未だスポーツにある種の宗教的役割を、しかも国家を挙げて担わせている事例を考えれば、前言を翻さざるを得ません。

更に言えば、一層享楽的というか現世利益を求める風潮が強まったように感じてしまいます。






2013年11月8日金曜日

演出

先日、姻戚関係に当たる親戚の葬儀に参列して思ったところを記します。当事者ではない第三者の身勝手な放言です。

自宅から遠方の葬儀だったこともあり、地域、或いは、葬儀社が異なるためか、葬儀の細かな部分に自分がこれまで参列した葬儀との違いを感じました。

この時、葬儀葬祭業という事業は、正に典型的なサービス業であると改めて認識しました。葬儀社の力量は、葬儀を厳粛、丁寧に進めていくことは当然ですが、別れを如何に演出できるかにあると考えます。

適切な表現ではないかもしれませんが、故人と最後の対面に際し、参列者の悲しみを誘い、別れを惜しませる演出をどのように組み立てるか、ということです。

これについて是非を言及する意図はありません。ここでの別れが辛く悲しい程、現実と直面し”前を向くことができる”という一面も否めないわけですから...

この演出が特段、遺族から望まれているわけではないと思いますが、葬儀社社員の丁寧、厳かというか慇懃な進行になんとはなしにそういった思いが頭を過りました。


個々人の立場、感覚によるでしょうが、そういった、ある意味過剰というか虚飾性を感じてしまう儀式への参列が度重なると、演出性を下げたい、拒みたい、遠慮したいという意識が発現してくるような気がします。

昨今、葬儀を親類縁者、或は、家族のみで執り行うといった規模の縮小、簡素化が進んでいます。少子高齢化、核家族化、親類縁者の故郷からの離散に加え、虚礼から距離を置きたいという意識もその一因かもしれません。 


ここ最近のホテルや百貨店内の飲食店、食品売場で問題が続いている食材の誤表示だか、偽装表示騒動と併せて考えてみます。

この騒動は周知の部分もあったとはいえ、ホテルや百貨店の信用を大きく失墜させました。飲食部門以外を含むホテル、百貨店といった業態全体にも不信の目が向けられるのは当然です。

率直に言えば、客観的に判断して偽装表示と受け止められかねない、一連の問題をあくまで誤表示で押し通す姿勢、こういった姿勢が業界全体の根底にあるのではないか、という疑念が生じています。

誤表示でしたとか、表示に規定されていないから問題はないという以前に、ホテル、百貨店という業態への不信感に繋がります。割高だが信用できる、間違いがないといった意識が、割高なのに信用できない、品質相応の適正価格なのか、といった疑いへと大きく振れてしまいます。

偽りの付加価値で嵩上げされた事例を目の当たりにすれば、いくらホスピタリティだのお・も・て・な・しだの宣われても本音はどうなのか、白々しく空虚に聞こえてしまいます。

今回の葬儀参列について、特に誤表示、偽装表示に気がついたわけではありません。しかしながら、一連の食材表示騒動の舞台となったホテルから感じた欺瞞性、虚飾性に相通じる印象を同じサービス業である葬祭業からも抱いた次第です。

(参考)グローバル化の中で日本の宗教を意識できないと負ける



(続)

2013年11月7日木曜日

追加

ランコントというパンの店を訪れました。千種区に開店してそれほど時間は経っていないようです。

ライ麦入りパンカンパーニュ、ヨーグルトライ、他をこれまで購入しました。

カンパーニュはきめ細かく密な感じで、風味がありパテと共に美味しくいただきました。

ヨーグルトライは更に密になって、風味が増すと共にしっとり感が強くなります。こちらもハム、ベーコン、といった畜肉加工品と共に食べるのに向いているかと思います。

自宅から便利な位置にある訳ではありませんが、以前挙げたパンの店に加え、新たにライ麦パンを入手できる立ち寄り先が見つかったのは嬉しいことです。

2013年11月6日水曜日

線引

かなり間が空いてしまいましたが、前のエントリから引き続き、飲食店内で撮影した料理写真をブログで公開する行為について考えてみます。

北海道 上富良野町5本の木(嵐の木)、美瑛町哲学の木を撮影する観光客の余りの心無い態度、マナー違反が話題となったのは二、三ヵ月前でしょうか。

又、別のエントリでも触れていますがSNSのバカ発見器としての性能は依然低下することなく、その後も、王将、しまむら、ピザーラ、スシローと猛威を奮っています。

他にもUSJやTDLでの学生の迷惑行為等も記憶に新しいところです。

では、飲食店で料理の写真を撮影してブログで公開する行為は上記と何が違うのでしょうか。

ネットワークで公開された迷惑行為は、炎上を引き起こし、周囲から非難を浴びると共に個人を特定され、挙げ句には損害賠償請求に至ったり、威力業務妨害、強要罪として被害届けを出されたり逮捕されたりもしています。

ただ、これらはあくまで迷惑行為に対するしっぺ返しであり、実は写真撮影に駆り立てる動機は同根ではないかと考えています。

線引きは単に法令に抵触するか否か、他者に迷惑か否かに過ぎず、写真を撮影して公開するという行為に違いはありません。

勿論、両者には分別という溝があるわけですが...

上記エントリでも触れましたが、溝のあちら側に迷惑行為をする輩が元々存在しています。単にSNSで写真を公開して共感を得るという強烈な動機、デジカメによる撮影の容易化、情報の拡散性の大きさと高速化が彼等彼女等を顕在化させたということです。

では、こちら側の人々が溝を渡って向こう側に行ってしまうことはないのでしょうか。

従来、この溝は幅広で深く、彼我段差もあったと思います。ところが、上記要因に加え、個性の尊重というか、個人主義、放任自由主義の高まり、規範意識やモラルの低下、飲食に関わる衛生管理に対する過剰な要求と疑念、こういった諸々が溝を埋め段差を縮めているようにもみえます。

根底にある動機が同じであることに加えて、個人の価値観の多様化は軽々とブロガーをあちら側に連れ去り、或は、気がつけばあちら側にいた...溝が埋まったことで起こり易くなっています

こちら側に思い留まらせる、引き留めるのは分別という錨ですが、モラルハザードが起こり易い構造であるのは否めません。

例えば、食べログを覗けば至る処にそういった兆候が窺えます。(炎上する前に削除されるなり管理されていますが...)
 
実際あちら側の人々を定量的に推し測ることはできませんから、確証も根拠もありません。なんとなくです。メディアに踊らされているだけかもしれないこと否定しません。

上述のアルバイト従業員が引き起こした問題行動が何件も露見した時、”「うちら」の世界 - 24時間残念営業”というブログ記事が話題になりました。既に削除されています。

大雑把には、情報リテラシーは学歴に相応し、低学歴層はネットワークを介した向こう側の存在を理解できない、ということのようです。で、向こう側とリアルの自分の仲間(=うちら)を同等に捉えてしまい、問題行動を公開してしまうと...

ネットワークの向こう側を想定する力は、学歴というか学習の結果も一要因であることは否定しませんが、それのみに依存する、主要因であると私自身は考えていません。 

例えば、愛知県とか、名古屋市の飲食についてのブログを考えます。ブロガーの方々は県内、市内の飲食店を訪問し、店や料理の写真をブログで公開してレビューしています。

こういったブログの読者は、全てではないにしても、ブロガーと行動範囲が重なる、自分も当該飲食店を訪問可能な属性に偏るのは当然でしょう。これまで愛知県や名古屋市と関わりがあった、或は、今後関わりがありそうな読者を除けば、九州や北海道、東京、大阪、アメリカ、 ロシア、ブラジル、オーストラリア、イタリア、ケニアの読者は少なくて当り前です。

逆に、行動範囲が重なる読者はブログの情報を元にリアルの世界で追体験をして情報の共有が蓄積されていきます。物理的な距離も小さいわけですから場合によってはネットワークを介さない、リアルの世界での顔合わせもあるでしょう。

即ち、相互のコミュニケーションがネットワークを介してのみに依存する場合より、地域に限定された飲食のブログの場合では、ブロガーと読者の間に濃密な関係が形成されていくことになります。

ブログを含むSNS自体にも、
――気に入った人だけに閲覧してもらい共感を得たい―― 
意識があるわけですから、集まった読者は賛同者、支持者(=仲間)であり、 
本質的に”うちらの世界”を形成し易い条件が備わっていま
す。


結局、うちらが形成される順序は異なるかもしれませんが、ローカルのテーマを取り上げたSNSには上述の情報リテラシーを欠いたうちらの世界と共通の土壌があると捉えています。

尚、飲食店を訪問して提供された料理の写真を何のコメントもなく羅列して公開するだけのブログ、料理写真を羅列して公開しているにも拘らず御自分の備忘録である旨宣言しているブログが存在します。

こういったブログの目的、動機、意図を含む真意は未だ図りかねています。いずれ理解したいと思っています。

2013年11月3日日曜日

鈍舌

以前のエントリでかき揚げについて記しました。該エントリでは、何軒かの蕎麦屋を挙げているのですが、蕎麦屋といえば蕎麦湯です。

店によって各々差異はあるものの、出された蕎麦湯は残しません。全て頂いています。場合によっては同席者の分までも...

蕎麦切りも勿論好物なのですが、蕎麦湯は一旦飲み始めると何故か止まらないのです。

さて、世の中には蕎麦というか蕎麦フリークとも言える人々が存在し旨い蕎麦を求めて西へ東へ東奔西走されています県内は勿論、岐阜、長野、静岡と遠方にまで赴いて各地の名の知れた店蕎麦を食べ歩かれています。

特段、否定する意図も批判するつもりもありませんし、難癖をつけるわけでも茶化す気もないのですが、その原動力に驚いています。

一体、東奔西走させる力は何か、何が満たされていないのか、不思議です。未だ理想の一杯に出会えていないということなのか、では理想の一杯とはどういった蕎麦なのだろうか、理解できていません。

香りが強い、味わいが濃いといっても蕎麦は蕎麦であり自ずと限りがあるわけですが、その足りない部分を埋めようと更なる味わいを求めてのことかもしれません。 

毎日でも蕎麦湯を口にしたい立場からすると余りに効率が低いなぁといった印象拭えません大きなお世話なんですが...

”元祖 十割そば(東京かじの)”という乾蕎麦があります。乾蕎麦としてだけでなく外で口にする蕎麦と較べてそれほど遜色があるとは感じません。それが最高でないのは勿論、蕎麦が評判の専門店に及ばないことも重々承知していますが、学食、社食、駅蕎麦始め、品書きの一つとして”蕎麦もあります”的な蕎麦湯が出されない店の蕎麦より確実に優っています。

原材料の玄蕎麦か蕎麦粉はおそらく国内産ではないでしょう。思い立った時、自宅で手軽にそこそこの蕎麦を喰することができるという点で重宝しています。何より蕎麦湯を延々と飲み続けられます。

自宅でなら、この蕎麦湯に醤油を垂らして、鰹や鮪の削り節、がごめ昆布、ととろ昆布、麩、油麩、揚げ、葱、天かす等、具材によっていろいろ楽しめます。

外食で蕎麦を口にすることがなくなったわけではありませんが機会は減りました。訪れるのはかき揚げだったり、鴨汁、鰊目当てといっていいかもしれません。

この蕎麦に対するやる気のなさと味わいの違いに対する鈍さでは、とても蕎麦通にはなれないなぁと改めて実感している次第です。

ところで昨今(11月2日)というか、今に始まったことではありませんが、料理や食材を巡る誤表示だの、偽装表示だのの問題があらゆるメディアで取り沙汰されています。

偽装表示と取り上げられた料理として、例えば”芝エビとイカのクリスタル炒め”、”芝エビのチリソース煮”があります。芝エビを使った様々な料理を食べ馴れているわけではなく、確固たる芝エビの味を知らない私ならばおそらくバナメイエビとの味わいの違いなどわかる由がありません。

上述のように蕎麦の風味についての味覚も怪しいわけですから...

で、
――芝エビなのかバナメイエビなのか区別できないからどちらでも構わないじゃないか。いずれにせよ活のアカシャエビで作った方がもっと美味しい気がする。あ、活のアカシャエビなら唐揚げで十分か。――
といった印象です。

味わいに違いがないならどちらでも構わないわけですが、芝エビとバナメイエビの味に優劣があるとして、調理人の腕がその差異を際立たせられないのか、調理人の腕でバナメイエビを芝エビの味にまで引き上げたのかどちらなんでしょうか。(芝エビ>バナメイエビとしてです。)

私自身は活のアカシャエビとバナメイエビで十分なんで”芝エビの...”などと謳う店には近寄るつもりはありませんが...

ついでに”芝エビとイカのクリスタル炒め”について思うところを付け加えます。

何がクリスタル”なのかは今更問う気も起きません。クリスタル”は誤表示や偽装ではないということなのでしょうか。

で、イカなんですが”イカ”という表記です。イカならスルメイカ、タルイカ、ケンサキイカ、ヤリイカ、スミイカ、アオリイカ、モンゴウイカ、アカイカ、ホタルイカ、ソデイカといった様々なイカが食べられていますが、イカなら何でも構わないということなのでしょうか。

どのイカを使っても誤表示でも偽装でもないのでしょうが、スルメイカとアオリイカホタルイカでは大きな差異があります。どのイカが提供されても間違いではない、とされても腑に落ちないのですが...

このイカの表記について言及されている報道を見ていません。食材についての曖昧というか、幅広い、アソビのある表記ならむしろ容認されるというのもおかしな話です。

いずれにせよ、表示がされていないからと、イカの種類については問うこともなく、一方で、違いが判り難い芝エビとバナメイエビの誤表示だが偽装だかを批判するのも片手落ちでは、といった印象です。

イカの種類について関心、興味がない、差異を気にしていない、判らないなら、芝エビとバナメイエビの違いを気にすることに意味があるのだろうか、ということです。

特段、誤表示や偽装を追認する意図はありません。ただ、食材の表記を含めたメニューの表示は、飲食する客側にとってどこまで意味があるのでしょうか。とことんまで具体的に表示するべきというのも違うような気がしてなりません。

この事例では、総じて食材そのものの風味の違いは判らない、気にしない場合が通常ではないでしょうか。

勿論、今回の芝エビとバナメイエビの誤表示、偽装は容認されるべきではありません。むしろ各々のエビの背景にある、養殖、輸入、冷凍、汎用(=バナメイエビ)といったイメージを隠蔽し、天然、国産、生鮮、希少(芝エビ)へと連想させようという作意が窺われます。故意か過失かはともかく、結果として誤認へ誘導されてしまいます。

この誘導は最終的には利益に収束させるためかもしれません。ただ、食材コスト以前の問題として、食材の持つイメージを利用した誤認への誘導は、不当な付加価値を上乗せする、料理の価値を嵩上げする、といった点で強く批判されてしかるべきであると考えます。

2013年10月29日火曜日

空気

――この国に本当の意味で平等なんてないしもっといえば民主主義なんて無いんですよ。若者は不当に差別されており、抑圧されている。こんな状態で子供なんて増えるはずが無いですし、起業だって活性化するはず無いですよね。――

(略)
――一票の格差を是正することでこの社会保障全体主義体制を修正して、健全なる民主主義国家をこの国に打ち立てることを僕の人生の目標にしたいと思っています。――

元官僚の方が御自身のブログで言及されています。
 

この国に平等なんて無い 〜脱・社会保障全体主義体制〜

仰る通りで、異論はないのですが、傍観者の立場から”健全なる民主主義”という語について思ったところを記します。

上記”一票の格差”はさっさと是正されるべきです。法治国家を名乗るならば...

ただ、是正されたとしても前半部の問題が解決するとは思えないのです。”若者は不当に差別されており、抑圧されている。”ことこそ民主主義の本質ではないでしょうか。

”みんな”という責任が曖昧で漠とした実体のない空気に重要な判断を委ね社会が動かされていく、
個々人は”みんな”に責任を転嫁する、
蔓延するみんなという”空気”が媒体となって個人同士を牽制し同調圧力をかけあう、

といったところが民主主義の避けられない根幹と考えます。で、この時、解決が困難な、或は、不可能な問題に直面した時”空気”はどう判断するでしょうか。

これまでの事例を鑑みれば、多くの場合、”空気”は未来、次世代への問題の先送り、負担のツケ廻し、責任の転嫁を選択していると考えます。

上記”若者は...”は、この絶えまなく継承されてきた空気の流れの一断面にしか過ぎません。若者は又、次世代に負担をツケ廻していくことになります。

例えば、
――先日NHKの番組で18歳の若者が「消費税増税に反対の大人は、借金のツケを次世代に回そうとしている」と批判していました。――
といった意見をどこかで目にしたのですが、この18歳の若者は、次世代の、更に言えば未だこの世に生まれ出ぬ将来世代に、自分達の分も含めた負担を消費税という形でツケ廻していることに気付いていないのでしょうか。

新生児が出生する、いや仮に死産であっても実在し、呼吸する、生きている、存在していただけで既存のルールに従わされて消費税が課税される、本人に帰すべき責があるとは思えません。

理不尽だとは思いますが、これも民主主義の本質が体現された一例でしょう。

こういった姿勢は例えば原発量的金融緩和からも窺い知ることができます。


――実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた、他のあらゆる政治形態を除けば、だが。  (ウィンストン・チャーチル)――

は有名な言葉ですが、この頸木から未だ解き放たれていないように感じます。

私、政治、社会、経済といった人文系は全く門外漢です。(勿論、他も怪しいです。)

民主主義を越える選択肢は存在しない”は確立された大前提として世の中の共通認識なのでしょうか。よく分かっていません。

民主主義の現状は道半ばであり、理想、目標へと未だ進展し続けているのだろうか、といった疑問も依然として残っています。

そういった点も含め、健全なる民主主義、民主主義理想について説明頂ければ幸いです。

連鎖

全ての責を母親のみに負わせ難い、自身の生い立ちに引きずられた抗えない力を感じてしまいます。

杉山春「ルポ虐待——大阪二児置き去り死事件」
【読書感想】ルポ 虐待: 大阪二児置き去り死事件

ノンフィクションとして
”永山則夫 封印された鑑定記録”
(堀川 惠子 岩波書店 2013年)
と照らせば強い類似性を感じます。

本来、親の養育によって形成される子の人格(気質、性格、個性)には、親世代自ら生育履歴そのものは反映されないと信じていますし、信じたいと思っています。

しかしながら、
 ――親自身の幼少時の生育環境が自分の子の養育に
及ぼすことを排除し得ない――
上記事例は、そういった疑問を想起させます。

例えば、”虐待”、”連鎖”といった語で検索してみると、何件もの相談、告白があり、又、公的機関からの情報、報告も見つかりました。

「虐待かな?」と思ったら・・・。 東京都福祉保健局
児童虐待における世代間連鎖の問題と援助的介入の方略:. 発達臨床心理学的視点から(久保田まり 季刊社会保障研究 Vol.45 No.4 2010 国立社会保障・人口問題研究所
(木本, 美際, 岡本, 祐子 広島大学心理学研究 : Hiroshima Psychological Research no.7 page.207-225 (20080331))

これまでなんとなく伝え聞いてはいたのですが、実は広く認知されている問題のようです。ただ、これまで断ち切られることなく続いてきたであろう負の継承にも拘らず、公に周知されるようになったのは上記資料の公開年次を見ればここ十年以内でしょうか。 

そういった中、”封印された鑑定記録”は、公的な資料ではないものの、過去の具体的事実公開された、赤裸々な記録
す。 


幼少時に植え付けられた自己に対する周囲(=保護者)からの拒絶、嫌悪、敵意を自らの意識としてしまい、それが踏襲されてしまうのでしょう。

残念ながら私には論じるための知見もなく、いかんともし難い無力感を抱くのみです。己の責に依らない、避け得ない見えざる力に恐れさえ感じてしまいます。


虐待に関する事件の衝撃、悲痛さを過大に捉え、問題の本質を一律に論じたり、目を逸らす、覆い隠したりすることは避けるべきです。更なる統計的、客観的調査と論理的検証を進めることが必要かと考えます。

こういった作業を基にした、被虐体験を持つ親の深層に潜む自らの子に対する虐待の動機が明らかにされ、その対処法が見出されることを強く願います。

いずれにせよ、こういった問題に纏わる事件が引きも切らず報道され、明確な処方箋がないまま未だ根絶に至っていない、そういった社会は果して賢い社会なのでしょうか。

科学技術の急速な進歩に見合う程、果して社会は賢くなってきたのだろうか、疑念を抱いています。この問題も疑念の根拠の一つです。

2013年10月22日火曜日

行儀

以前、ルキウスさんが自分の隣の席に荷物を置く、寿司屋や割烹に設えてある白木のカウンターに余計な物を置くといった行儀が良くない所作について、幾度となく取り上げています。

医者にしちゃあ、ようでけた人だ 
スパゲッティ「コモ」にて
カウンターに物を置くな

大いに首肯できる指摘と思いながらも、果して、そういった無作法が正されていくことは期待できるかを考えれば、残念ながら、なかなか難しく、今後もそういった不快な場面に遭遇してしまう気がします。

自分が無意識にその当事者になってしまう可能性、自戒も込めて考えてみます。

上記エントリではメガネ、サンバイザー、カバンをカウンターに置いた出来事が示されています。カバンをカウンターには論外かと考えますが、当人に取ってはメガネ、サンバイザーの延長なのかもしれません。”メガネは良くてなぜカバンはダメなのか”と...衛生面や物理的スペースの面で論外と考えるわけですが、置く側にとってはそういう意識もないのかもしれません。

サンバイザーは帽子の類(=装身具、衣類)ですからカウンターに置くのは不適切です。この辺りから店と来店客のミスマッチが生じ始めると考えます。

極端にはクロークがあって手荷物、帽子、コートを預けることができ、それが当然の料理店のテーブルと、コートを着たまま、更には帽子も被ったまま飲食しても何ら違和感のない駅の立ち食い蕎麦屋や牛丼店のカウンターとを、同列に論じるのは無理があるということです。

これら飲食店の間に位置付けられる店も相当数に上ります。結局、設備とは無関係に来店客の手荷物、携行品に配慮できる店とできない店、飲食の際に荷物や携行品を程よく納めておきたい客と無頓着な客、各々の組合せで、品性に疑問符のつく場面に容易に出会してしまうのではないでしょうか。

これは、いわゆる高級店か否かには依りません。椅子の下に荷物を保管するカゴを置いている、或は、カウンターの下に棚が作られている、小体な街のラーメン店もあります。一方、それなりの店であっても、手荷物を直に置くことが憚られるような床があるのも事実です。総じて、傾向がないわけではありませんが...

さて、メガネをカウンターに置くことについてですが、私自身はほぼ置いてしまってます。無意識に...

で、もう少し広げてタバコとライター、昨今では、ケータイとなるとどうなんでしょうか。禁煙の飲食店が増え、喫煙者が減少する状況でカウンターに置かれたタバコとライターを見ることは少なくなってきたかもしれません。ただ、その一方でケータイはカウンターに溢れています。

手元になければならないのでしょう。皆さん防衛大臣だったり、救急病院の医師だったり、更には、日本経済や世界平和の命運を左右する重責を担っていますから。

第一、ケータイで出された料理の写真を撮らなければなりませんし、己の存在を確認するための大事な分身でもあります。

余計な話はさておき、やはりカウンターに無用品を置くという行為はなくならないでしょう。個々の客のカウンターに対する捉え方は千差万別であり、一方、店側の想定するカウンターの使われ方にも温度差があります。

育ちの問題と言ってしまえばそれまでですが、分別をつけて使い分けるのは困難です。駅の立ち食い蕎麦屋、牛丼屋、街場の中華屋、回転寿司のチェーン店、居酒屋、バー、カラオケスナックの訪問客が果して、割烹、対面の寿司屋の清潔な白木のカウンターに価値を認めたり、敬意を払うことができるのでしょうか、疑問です。勿論、客に一目置かれるカウンターが一体どれだけの飲食店にあるのか、といった疑問も同時にあるわけですが...

結局、そういったことを誰から教わるか、知らされるかに帰結するのではないでしょうか。

飲食店でいえば若き日の池波正太郎を注意した店でしょうがそういった僥倖に巡り会えることはなかなか稀でしょう。学生や新社会人ならともかくベテランの社会人に注意を促すのは店側からすれば勇気が要ることです。俺ルールを強いる店とは全く違いますし...

酒食を共にする先輩、上司、同僚、友人間の自然発生的な醸成くらいかもしれません。ただ、これとてどこまで期待できるか、疑問ではあります。

以前のエントリで、公共の場に乳幼児を帯同した場合のマナーについて触れました。他にも列車内の座席指定に纏わる不快な出来事事態に遭遇することも珍しくありません。

いずれにせよ、社会には、日常のごく普通の生活、行動、振舞、所作におけるマナー、モラル、エチケットについて教える、知らせる、或は、学ぶ、知る機会が圧倒的に欠けていることを痛感しています。

飲食店の主人、従業員、公共交通機関の駅員、車掌といった職員に責を負わせて解決が進む問題でもありません。

となると義務教育課程でしょうか。いじめ問題が注目され義務教育への道徳の教科化が検討されているようです。ただ、道徳教育は、個々の価値観に踏み込む部分もあり一律に教え込むのも如何なものか、といった印象を持っています。

道徳教育などと大上段に振り被る以前に、身近な社会の知識やルールを伝える責務こそを義務教育課程が担うべきと考えます。

優先すべきは明文化されていない、暗黙であるが故に曖昧な
社会のルール、マナー、モラルをその根拠と共に理解させることです。そういった個別具体的な事例を通じて初めて、道徳という観念を捉えさせ、考させることができるのではないでしょうか。

勿論、ここに飲食店のカウンターを含める必要はありませんが...



2013年10月20日日曜日

浅慮

「少子化危機突破基金」って大丈夫なんでしょうか、そんなことで。

”取り敢えず何かやっとけ”感がべったりとこびり付いて拭えないのですが...更なる熟慮をお薦めします。


「少子化危機突破基金」の婚活支援に物申す~ネーミングセンスと本末転倒な経済効果試算はどうにかならないか? 

正しく本末転倒です。高齢化も伴う少子化対策に真摯に取り組んでいるとはみえません。

成熟した先進国で当然のように標榜されている、民主主義、市場経済社会の、抗がえない本質を見据えた提案を願いたいところです。

2013年10月19日土曜日

転嫁

時折、ブログに公開された天然鰻の料理写真を目にします。

鰻の現状など全く意に介すことなく、”あっさりしている”、”しつこくない”といった寸評が写真に添えられています。

私自身は、

食べられぬ心配だけで保護意識が無いウナギ報道
ウナギの乱食にブレーキをかけられるのは誰か?
ウナギをどう看取るか?
日本のウナギ根絶作戦が、ついに最終段階

と捉えているのですが...

更に天然鰻については、

“世界的ウナギ博士”からの提言 「ニホンウナギを守ろう!」
EASEC緊急提言(Final).pdf(日本語版)

と天然鰻の保護こそが将来の鰻資源回復に極めて重要な方策であると認識しています。

そういった現状を踏まえた上で、天然鰻の料理写真がブログにアップされているのか否か、私の知る所ではありません。ただ、平然と上記コメントを添えて写真を公開する行為には無神経さを感じます。

こういったブログの中には、飲食店のレビューを料理の写真と共に公開するに留まらず、社会性、公益性を意識した意見や問題提起をしているブログもあります。

例えば、食の安全については啓蒙しているつもりなのか、食品添加物の使用となると神経を尖らし、法令を遵守していても添加物を使用する食品メーカーを責め立て、攻撃し製品の不買を煽ったりしています。

或いは、飲食店内での喫煙については、店側が禁煙を定めているわけではないにも拘らず、居合わせた客の喫煙をブログ上で毒づき、非難したりしています。

その一方で、天然鰻を口にすることには寛容で、脳天気に天然鰻の料理写真をブログ上で公開する...独善的、利己的で傲岸不遜な姿勢に不快感を持ちます。


身勝手な俺ルールの合理性、公正性を疑わず、公益に資すると思い込む、で、そのルールの厳守を叫び、逸脱することを糾弾する、新興宗教の教祖、独裁集団の指導者と同根のものを感じてしまいます。

飲食についての蘊蓄をひけらかす人々ならば、鰻、特にニホンウナギが絶滅の危機に瀕していることは十分承知のはずです。

実は長良川の天然鰻をいくら消費しても国内の鰻資源量への影響はない、鰻資源枯渇の心配は杞憂に過ぎないとも思えません。


天然鰻の消費は鰻資源の回復に悪影響を及ぼすどころか、枯渇を助長しかねません。にも拘らず尚、どういった意識、動機が天然鰻口にさせるのかについて推してみます。鰻資源の現状について知識がない場合は除きます。

”鰻資源危機的状況から目を逸らして天然鰻口にる”は、

違法ではない実感がない関知する所ではないなんとかなる”といったところが理由として想定できます。

自重、自律といった姿勢の片鱗も見受けられません。

”今、自分達さえ口にできれば、その後鰻資源が枯渇しようと構わない。” 

総じて、根幹はそういった意識ではないでしょうか。”なんとかなる”は、やや意味あいが異なりますが、本質は、”自分以外の誰かが何とかしてくれるだろう”といった楽観的な他力本願の表れでしょう。責任感を欠いた依存の強さを感じさせます。

鰻の完全養殖の確立を目指し、研究が進められているのは事実です。しかしながら、未だ道半ばであり、実用化できる程の完成度には達していないようです。

天然、養殖に関わらず、鰻とみれば喰い漁る、そういった姿勢で果して、鰻資源が枯渇するまでに完全養殖実用化技術が間に合うのでしょうか、危惧しています。

いずれにせよ、鰻資源の回復を一方的に科学技術に頼ることは身勝手であり、野放図に鰻を喰い尽くすことが免責されるわけではありません。資源回復の責任を科学技術に負わせるというか、転嫁することで鰻を口にしていい理由付けをしているかにみえてしまいます。

単に、不確定の未来に責任所在を先送りしているだけではないでしょうか。

この鰻資源の問題は不確定の未来に責任所在を先送りする”といった、民主主義、市場経済社会の根幹にある責任の不透明性、刹那的な利己性を改めて確認させます。

未だ是非が紛糾している原発とその再稼働、破綻に向かう社会保障制度、崩壊から逃れ得ないバブル経済次世代への負債のツケ廻しである量的金融緩和と消費増税、こういった事例にも同様の動きが垣間見えてしまいます。

この抗えない本質を認識し自律機能を社会に組み込めるほど、果して私達は賢いのでしょうか


2013年10月16日水曜日

行進

引続き蛇足です。


2.思考の停止

先のエントリで引用させて頂いた、

3)ただひたすら「全ての戦争は回避すべき」と思い込む者は、歴史を正しく考察することもできず、正義も同胞も守ることができない。

についてですが、”全ての戦争は回避すべき”に平和行進と同根のものを感じています。

年6月中〜下旬頃、自宅前を平和行進の一団が通り過ぎていきます。行進の数日前には、その年に起こった核に纏わるトピックスを印刷したチラシがポストに投函されます。

――平和行進で生み出されるものは何か――

そのチラシを見ると毎年考えてしまいます。一団はなぜ歩くのでしょうか。核兵器の廃絶を目指しているのか、願掛け、お百度参りに似た行為なのでしょうか。或は、歩くこと、集団で歩く行進という行為が好きなのか。

現住所に居住以来、平和行進を間近で見ているわけですが、その間にもパキスタン、インド、イラン、北朝鮮辺りで問題は頻発してしてきました。

本エントリを書いている丁度今、

――国連共同声明「核の不使用」署名へ 
安倍政権が方針転換(朝日新聞デジタル)――

という記事を見つけたのですが、これが平和行進の成果とも思えません。

この平和行進はある種のデモとみなせますが、果してデモは目的を達成する手段となり得るのでしょうか。例えば、平和行進についてのwebサイトを見ても、その行動がどういった論理で核兵器の廃絶に結びつくのか、理解できないのです。

デモという示威行為は、特定の主義や意見を主張すると共に、その意見を持つ人々が一定数存在していることを示す行為です。で、その行為が目標の達成にどう繋がっていくのでしょうか。

少なくとも共感を呼び、感化する、言い換えれば、扇動できなければ目標との距離は永遠に縮まらないと考えます。最終的、究極の姿として”核なき世界”に異が唱えられることは少ないはずです。核保有国の大統領もノーベル平和賞を受賞されてますし...

少なくとも国内において、核なき世界”が既に社会のほぼ共通した願いであるのは間違いのないところと考えています。 

問題はそ目標に至る目論みの欠如と直面する安全保障上の懸念に対する無策でしょう。行進で核兵器の廃絶を訴えるノボリを見る度、”取り敢えず何かしている”感というか、ある種の無責任さを感じてしまいます。表現が適切ではないかもしれませんが、子供が冷静に駄々を捏ねているかのような印象を拭えません。

これらの問題に解決の兆しが認められない限り、膠着したままの現状が続いていくと考えます。

私の理解が不十分なのでしょうか。であれば、毎年の行進によって核なき世界”にどれだけ近づいたのか、事態はどう好転したのか、或は、目標を達成する手段として行進は最適なのか、是非知りたいところです。

冒頭の”全ての戦争は回避すべき”には平和行進取り敢えず何かしている”感にも似た、澱んだ思考状態を連想させます。

ただこの状態は、当事者にしてみれば案外心地良いものなのかもしれません。

2013年10月14日月曜日

浸透

前のエントリの補足というか蛇足です。


1.漫画の功罪


”はだしのゲン”閲覧制限に関する一連の騒動を通じ、漫画というメディアの功罪を改めて実感しました。

絵と台詞で構成される物語で情報を伝達する漫画というメディアは、情報を伝える手法として効果的であると考えます。

私自身、漫画が低俗とみなされ軽視されていた時分から、それなりの位置付けが認められるようになった、なってしまった現在まで読み続けています。

情報それ自体の正当性、品性、信頼性、精度、充実度はともかくとしてですが漫画の読者への伝達力、浸透力は、新聞に代表される文字情報を主としたメディアより明かに優っています。

これは、単に漫画が絵と文字から構成され、伝えられた情報を想像し易いといった理由だけではなく、読者の目を強く意識した編集にも由来しているのではないでしょうか。

典型的な商業誌である漫画は、他の出版物に較べ発行部数に神経を尖らせており、読者目線でいかに理解、共感、支持させるか、即ち、人気を最優先して編集、発行されていると考えます。

読者プレゼントの不正をしてまで読者からの評判を掻き集めようとした秋田書店、そういった姿勢こそ、その証左です。

従って、事実を元にしたと称する漫画であっても、どこまで忠実に事実に即しているかは不透明です。読者からの人気を獲得するために、この根深い体質が事実を歪曲せしめた漫画に改変してしまう可能性容易に想像できます。

真実性を印象づけるため、事実を元にした漫画と標榜していても、果たして真に即した、基づいたとは限らず、創作や編集による省略、誇張、歪曲、捏造は排除し得ません。脚色、或は、演出といった語で表現されるのかもしれませんが...

建前上だけかもしれませんが、中立、公正、客観性を主張する新聞報道ですら偏向性、恣意性が窺われます。そういった姿勢を求める声が少ない漫画では、自ずと読者に理解、共感、支持させるために事実を改変する”行為に対する抵抗、躊躇は小さくなります。

つけ加えれば、漫画という分野は真実性や客観性より作品の独自性、創造性が尊重される一面も有していると思っています。

こういった特性は、中立性、公正性を保持すべく、事実からの乖離を抑止、抑制しようとする力にはなり得ず、むしろ逆方向へと促してしまいます。

作者の主観に支えられている漫画は、積極的、必然的に事実の変歪や捏造を生み出してしまう、と捉えるべきかもしれません。

歪曲や捏造(=脚色や創造)を制限する力が作用せず、又、自律性の弱い漫画というメディアに客観性を求めること自体、本質的に相当難題ではないかと考えます。

漫画のこの特性は、宣伝、印象操作、極端には洗脳の手段として容易に漫画が利用されてしまうことに結びつきます。

真実、中立、公正、客観を装いながら作者側の意図、作意を作品に織り込むことで、読者の無意識下に特定の主義、主張、思想、意見が浸透せしめられてしまいます。論理的で説得力のある、優れた漫画である程、違和感を感じさせず、尤もらしい、自然で、強い摺り込み作用が働きかけてくるわけです。

”美味しんぼ”、”課長 島耕作”に代表される一連のシリーズ、更には”ワンピース”といった人気漫画は上記特性を内包している典型と受け止めています。漫画ではありませんが、昨今衆目を集める、映画”風立ちぬ”もその一例かと...正否はともかくとしてです。

政治的、社会的問題を扱った漫画、食物、料理に代表される蘊蓄、知識を伝える漫画は、読者の知的好奇心を適度に刺激します。こういった漫画では、作品に埋め込まれた意図がより抵抗なく読者に浸透せしめられてしまうのではないでしょうか。

小説、映画と同様に漫画というメディアは、表現の自由、創造性を声高に叫びその尊重を要求してきます。同時に、事実に基づいていることを強調し、あたかもノンフィクションであるかの如く喧伝し誤認へと導く強い力も併存させています。

”はだしのゲン”の例を出すまでもありません。

漫画には読者、特に予断を持たない若年層に対する思想教育、印象操作に利用されかねない強い浸透力があります。しかしながら、それを拒絶する、疑問視する力は極めて弱いものでしかありません。

正対を避け斜に構えるのも、漫画と向き合う一つの姿勢かと考えます。


もう少し蛇足を続けます。