2012年12月24日月曜日

斟酌

この乳児とその保護者の旅客機への搭乗で生ずる周囲の乗客との摩擦の例は、電車、バスといった公共交通機関への乳児の搭乗、更には、公共の場を利用する各々のモラルやマナーの問題へと拡張して考えることができます。

新幹線や高速バスのような運行が長距離となる交通機関への乳児の帯同、混雑する通勤列車内へのベビーカー持ち込み、飲食店への乳幼児の同伴、酔客、宴会客や女性グループ客との飲食店での遭遇、喫煙が特に制限されていない飲食店での喫煙等、具体例は枚挙に暇がありません。

いずれの例でも偶々その場に乗り合わせたり居合わせたりした、面識のない何者かから迷惑を被る、若しくは逆に不快感を与えてしまう恐れがあるという点は共通しています。

こういった互いに見知らぬ不特定多数の人々が会する公の、或いは、公に準ずる場でのマナーについて、ネット上では喧々諤々の論争が繰り広げられています。しかしながら、論者各々の価値観が異なるだけでなく、想定している事例、議論の前提条件が揃えられていないこともあり、明解な結論に辿り着くことなく収拾がつかないままの場合が多いようです。

上述の、旅客機内で乳児が泣き叫び続けた例では、周囲の乗客は我慢すべき、否、する必要はなく、保護者には乳児を泣き止ませる義務があり、そもそも乳児を連れ込むべきではない等、さかもと氏を批判したり、支持したりと二分しています。

二分とはいえ大勢は批判的な意見ですが、明確には割れていないようです。いずれかの立場を頑として譲れないという主張は実は少数で、大方は条件次第で翻意し得るのではないかとみています。

いわば条件付容認でしょうか。私はここに含まれます。泣き叫んで周囲の乗客に不快感を与える恐れが予見される、乳児の機内への同伴は避けるべきが本来であると考えます。

泣き止ませる術なく乳児はむずがることがある、少なくとも私はそう思っています。加えて、搭乗中、乳児の体調に異変があった場合の対処のし易さも考慮すれば、乳児同伴の移動手段としての空路の利用は優先度の高い選択肢にはなり得ません。

従って、長距離の移動は上記問題を考慮して手段を選ぶ必要があり、空路以外に選択の余地がないならば、場合によっては移動そのものの断念も選択肢の一つです。

ただ、現実的には、乳児と同行して空路を利用せざるを得ない特段の移動目的があることも理解しています。特定の冠婚葬祭や海外からの帰国等が目的であれば乳児を帯同しての搭乗もやむを得ないのでは、と考えます。勿論、判断は個人の価値観によるのでしょうが、私は乳児帯同の搭乗を一律に差し控えるべきといった主張には与しません。

乳児を同伴した公の場での行動について保護者が上述の認識を持っている、即ち、乳児を帯同しての旅客機への搭乗は本来避けるべきであると自覚しているかが容認の前提です。この前提の下、それでも空路を利用せざるを得ない必然性があるならば、乳児帯同の搭乗は妨げられないと考えます。勿論、ことさらに乳児を同伴した乗客が搭乗前に移動の事由を申告したり、他の乗客に周知したりする必要はありません。

このような乗客がよんどころのない事情により、旅客機に同伴した乳児が泣き続けた場合、保護者は内心穏やかではないはずです。たとえ保護者のそういった心苦しさが周囲に伝わらずとも、或いは、泣き止まぬ乳児を宥めようとする姿勢が窺えなくとも、上記前提が成り立っているならば斟酌して容認すべきと考えます。

尤も、この謙譲の前提条件を潜在的に共有できているならば、保護者の切迫感や途方に暮れた心情、呵責の念は十分酌み取れるのではないでしょうか。

こういった前提が曖昧なまま、泣き続ける乳児とその保護者を許容するか否かについて論じることには意義を見出せません。

その場に居合わせたわけでなく、状況の把握が不十分なまま、己の見識を嵩に一方的に是非を断じようとする姿勢には違和感を禁じ得ません。当事者意識を伴った丁寧で詳細な議論が望まれます。

(続)

我欲

今更さかもと未明氏の話題を取り上げるのは遅きに失しており、辟易されるかもしれません。

しかしながら、乳幼児を連れた旅客機への搭乗に代表される、公共交通機関、広くは公衆の場への乳幼児の帯同についての賛否は、以前から連綿と燻ぶり続けてきた関心事です。

この問題には、むずがることがある乳児、騒ぐ幼児、同行している保護者の対応、ベビーカー等の付随する用具、場の責任者の管理、当事者や周囲のモラル、身勝手さを含む価値観等、実に多くの考察すべき点が内包されています。

更に、ネットワーク、即ち、さかもと氏のツイッターを通じて上記話題が衆目を集めた、という経緯からも考えるべき部分があることを付け加えます。

観点が多く整然と言及できないのですが、忘備録の意味も含め雑感、憶測、勘ぐりを羅列してみます。

常々日本人の我欲を非難している件の暴走老人がその場に居合わせたとしたらどう行動したでしょうか?真っ先に母子を責めるような気もしますし、逆にさかもと氏に対し怒声をあげるかもしれません。少なくとも窘めるという見識ある態度はとらないような気がします。

巷間、御子息が総理大臣に就くことを待望していると噂されるほど子煩悩な方ですから、この気質がどう行動に現れるか。乳児を気に障る騒音源とみなすのか、我欲にかられた身勝手な苦情から母子を守ってやるのか。

架空の話ですが、興味を持っています。
残念ながら、御老人はエコノミークラスには搭乗されないでしょうから起こり得ませんが...

さて、この騒ぎは今注目を浴びているLCCでも起こったでしょうか?

低価格だから乳児の泣声など我慢して当然ということではないでしょうが、それも含めて価格相応にやむを得ないとという意識が、忍耐を強いるような気がします。むしろ価格の低さが耐えることを容易にさえしてしまうのではと思います。

それでは、ビジネスやファーストクラスでも同様な騒ぎの可能性はあるのでしょうか。

乗客は、いわゆるオプション料金を支払うことで、より上質な快適性を得ようとこれらクラスを選択しています。従って、泣き止まない乳児とその母親にはより厳しい目が向けられるのではと思います。

尤も、それ以前に周囲の乗客に不快感を与えることが予見される母子に対しては、ビジネスクラスのような上級クラスの利用には制限が設けられているのかもしれません。利用できるのであれば、運行責任者である航空会社職員は、母子と周囲の乗客各々に不快感を抱かせぬよう、搭乗中のみならず搭乗前と降機後も含め、より真摯に細心の注意を払って対応するような気もします。

乳児の泣声ですからよい結果となるか否かは不明ですが...

(続)

2012年12月12日水曜日

突出

――ロースはどこへ行った――

食べログ愛知始め、食べ歩きのブログから、名古屋のビストロのような店のランチメコースを見てみると、チキンソテー、ローストポーク、牛ホホ肉の煮込みがよく提供されているようです。最も高額なコースに牛ホホ肉の煮込みが含まれています。

煮込み料理であればテール、タン、スネ、ネック、スジ肉でもいいはずですが、妙にホホ肉率が突出しているような気がします。ホホ肉の煮込み一辺倒に近いものを感じます。

余計なお世話ですが、ロース、カタ、バラ、モモといった他の部位が余すことなく利用されているのか不思議です。こういった部位はビストロではなく焼肉店やステーキハウス行きで、結果として飲食店全体で効率よく消費されているということなのでしょうか。

2012年12月9日日曜日

凋落

選挙戦も真っ盛りの今、テレビの報道番組では各政党の党首、或は、幹事長クラスの政治家がとても討論とは形容し難い舌戦を繰り広げています。

その中で、他の出演者の発言中、発言を妨害するかの如く割って入る、「はい」の連呼。不快です。

少数政党の党首ですから発言の機会がそれほど与えられないのは理解できますが、機会が与えられた時の発言は、口数ばかり多く鬱陶しいだけで全く心に響かない

該政党が凋落した要因の一つには党首のこういった姿勢があるのでは、と改めて思いました。

私は勿論支持しませんが、これでは仮に主義、主張が賛同できたとしても、支持者は離れていくのだろうな、と。

実はこれがメディア側の狙いなのかと思うのは勘ぐり過ぎでしょうか。

下賜

国家、国民に寄り添い、その将来を我国で最も案じておられる、象徴というか、正に御自身が日本そのものであられるあの方から原発に対する考えを賜われれば、と思っています。

勿論、おくびにもお示しにはならないでしょうし、だからといって諸手を上げて盲従するわけではありませんが....

経済成長や物質的豊かさに重きを置くのではなく、別次元からの、私達の根幹になければならない精神的礎に依拠した規範について示唆が得られるような気がします。

なぜでしょうか。おそらく、現在の天皇制が経済合理主義に立脚した制度ではないためだろうと考えています。




2012年12月4日火曜日

推進

このところ”原発推進”といった語がメディアから消えたような気がします。意図的に使用を避けているような印象を持っています。

一部政党が提唱する、
”安全が確保されれば原発を再稼働”は、
”安全を確保して原発を再稼働”を経て、
”安全を確保したことにして原発を再稼働”へと流される恐れはないのでしょうか。

これは正に表現を代えた原発推進です。

この”安全”という語ですが定義が極めて曖昧で漠然としています。

”今後どの程度の期間に渡って、どういった事態が、どれ位の確率で発生するか”
が全く不明です。

評価は原子力規制委員会等の専門組織に委ねるにしても、それを私たちに公正、客観的に説明する義務が行政側にあるはずです。

再稼働の判断以前に”安全”の定義を明確にすべきではないでしょうか。これまで上記発言者の口から、安全についての理念や姿勢、定義といった詳細説明がなされた憶えがありません。

専門組織の評価結果を盾に、為政者自らの言葉で説明することなく、上っ面の”安全性が確保された”を私達に押し付けるのは全くもって無責任であると考えます。


2012年11月25日日曜日

選出(続々)

――無党派層は寝ていてくれればいい――

かつて、元首相の森氏は衆院選の際、こう失言して批判を浴びました。(尤も、実際にはこの発言には前後があり、メディアによって御本人の意図が誇張、もしくは、歪曲されてしまったようです。)当時、与党自民党の人気下降し続けており、立場的、心情的に理解できないわけではありませんが、民主主義下の政治家として支持できる発言ではなく、いずれにせよ、軽率の誹りは免れませんでした。該発言やこれに先立つ”神の国”発言の頃からメディアの恣意が込められた報道が顕著になったように感じています。なんとなくですが...

さて、意図に関わらず、”無党派層は寝ていてくれればいい”発言からは、統治者サイドの無党派層に対する身勝手な解釈、或は、上からの物言いといった印象を含む強い違和感を持たざるを得ません。

代議士の本分の根幹である、”できるだけ多くの有権者から支持を得て、民意を代弁する”、といった意思が感じられないのです。このことこそが代議士たらんとする発意の源泉なのではないでしょうか。獲得した支持の多さこそが議員の矜持であり、”民意に選択されている”という議員が持つべき自覚と”無党派層は寝ていてくれればいい”という思いとは相容れるものではないと考えます。

冒頭の発言からは、おそらく政治に対し無関心、若しくは、思慮が浅いであろう無党派層がそうである責は彼等自身に帰する、といった誤認へ誘導しようとする意図を感じてしまいます。勿論、無党派層自身の責を否定するものではありませんが、関心の目を逸らすことで無党派層を生み出した責任は議員サイドにはないのか、その活動は幅広い有権者から関心が持たれるものなのか、活動について十分な説明責任を果たし理解を得ようとしているのか、民意の代弁者たる議員には自省を促すと共に自責の念を持って頂きたいと存じます。

これまで、数少ないながらも代議士の国政報告会等で講演を拝聴したことがありましたが、講演会ですから意思の伝達は一方向であり、双方向性は全くありませんでした。出席者の関心と講演内容が合致しているならば双方向性は不要ですが、殆どの場合、隔たりが生じているものです。

ブログについては多くの代議士が記されていますが、御自分の売り込みに終始しているといった感が否めず、読者からのコメントに真摯に応えるどころか、炎上を危惧してかコメント欄が閉ざされていることもよくあります。 

こういった状況の中で、現在の所、橋下大阪市長のツイッターを介した発言は最も高い双方向性を伴った情報の発信の一つでしょう。残念ながら、短文での発信ですから系統的な理解に手間がかかったり、政策を支持できなかったりするわけですが...いずれにせよこういった動きは、一方で、例えばツイッターのバカ発見器としての働きも期待しつつ、更に拡がるべきだと考えます。

又、選挙後の投票率の低さを示して、有権者の政治に対する無関心を嘆く政治家の声を私達はしばしば耳にしてきました。上記”寝ていてくれればいい”や”投票率の低さ”は、”棄権してくれればいい”、”棄権した有権者が多い”ことを意味するものです。では棄権した有権者は無党派層であったり政治に無関心な層だけなのでしょうか。勿論、無関心を理由として選挙を棄権というか、無視する層は含まれていますが、しかしながら、実は、政治に重大な関心を寄せ熟慮した結果棄権する、全ての候補者が投票に値しないと考える層がかなりの割合で存在しているのではないでしょうか。

無批判、盲目的、或は、義理人情で候補者を支持し賛成票を投じる層がいる一方で、その対極として全ての候補者に対し不支持の意思表示をするために棄権する層も十分存在し得ます。特に近年の選挙における選択の動機は、当たりクジなど入ってないことを承知し、その上で消去法によって如何にマシな外れクジを選ぶか、といった印象を強く感じます。

11月下旬現在、メディアに取り上げられている政党、候補者は数多あるにも関わらず、主義、主張、政策が賛同できないだけでなく、資質が欠如していたり、器量、能力不足だったり、人格として?だったりで、諸手を挙げて支持できる政党、候補者が不在であることが不思議でなりません。何故これほど人材に欠くのでしょう。

選挙の最も優先されるべき目的は民意(=全ての有権者の意思)の政治への反映です。従って、圧倒的最大与党である「無党派党」の一部として、上記外れクジを避けるために投票を棄権した有権者層の潜在的な意思、声なき声も選挙の結果に含まれなければならないと考えます。

こういった意思を伝える手法として適任者を一人選択する単記投票方式への不信任、不支持投票、或は、バーチャルな政党、候補者の追加はできないものでしょうか。この仮想候補については機会があれば記してみたいのですが、ネットワークの功績の一つである集合知によって、たとえ実在しなくとも民意が理想とする候補、ベンチマークとなる候補を創造し、この候補を含めた選挙の結果から顕在化されるであろう、理想と現実の乖離を政治にフィードバックできないのだろうかと思っています。

現在の所、おそらく、各メディアによる世論調査が漠然とその任を担っているのでしょうが、積極的に自浄、自律を迫るには公的で公正中立なシステムが必要ではないでしょうか。

このエントリを書くに当たって、
”民意が正当に反映された為政者、議員と、国家、国民にとって有益な人材は一致するのか否か、「又は」なのか「かつ」なのか?”
”国家の利益と国民の利益の関係は?必ず一致するものなのか?”
といった疑問が生じました。
いずれの機会に改めて考えてみたいと思います。

2012年11月24日土曜日

手筈

興行師、アドバルーン屋、若しくはマッチポンプだと思っていた石原前東京都知事。実は放火犯であったことに遅ればせながら気付きました。
 

”用意周到、準備万端、先手必勝”を念頭に置いての行動でしょうか。故瀬島龍三氏とは面識があったはずと想像するのですが...

幻想

衆院選の騒ぎにすっかり紛れてしまっていますが、先の竹島の帰属に関わる韓国との諍いについて、その解決を国際司法裁判所に委ねようという声があるのを御存知でしょうか。

あまつさえ、中国との尖閣問題の解決も国際司法裁判所に任せてしまおうと...

国際司法の公正性という曖昧な判断基準に過度の期待というか、幻想が抱かれている気がします。

国際司法裁判所の下す判断の公正性は何によって担保されているのか、又、判断如何に依らず私達はその決定を受諾できるのか。更に、該裁判所はどこの機関に属しており、そしてその上部機関の現事務総長はどこの国の出身なのか。上記はそういった状況も念頭に置いた上での提案なのでしょうか。


国際社会の判断、決定の公平性に疑問符がつく事例は枚挙に暇がありません。古くは東京裁判が、ここ最近の記憶に新しい例ではイラクに対する国連決議が挙げられます。オリンピックやサッカーワールドカップの開催地決定、及び、該競技における審判の判定やいわゆる芸術点の採点、或は、ノーベル賞、特に平和賞、文学賞受賞者の選定においても各国の利益衝突や恣意が生じているであろう例を見ます。

理性的、科学的知見を無視し、資源量回復に依らず、未だ事態が好転していない捕鯨も最たる例です。

こういった先例を鑑みれば、竹島や尖閣の帰属問題について国際司法に判断を委ねさえすれば”日本の望む公正な判断”が下されると考えるのは、全くもって自分達に都合の良い、甘い妄想であると言わざるを得ません。

国家間の問題に対し国際機関、国際組織が判断を下す場合、歴史的な正当性、信憑性、公正性はどこまで考慮されるのでしょうか。判断基準はむしろ、如何に国際社会の利益に貢献するか、更に言えば、如何に審理し決議する各国の利に適うかにあると考えます。

かつて、日本は国連の常任理事国入りを求め国際社会に強く働きかけたものの、実現しませんでした。経済援助を含めた支持を得るための多数派工作より加入阻止の動きが勝ったのでしょう。上記国際司法裁判所での係争も同じ構図です。

この時の轍を踏まぬよう、歴史的事実の上に安穏とあぐらをかくことなく、経済援助始め、手段を選ばない活動で国際世論を誘導することが肝要ではないでしょうか。(歴史的事実はあくまでも私達の知る事実です。経済援助は極論すれば買収ですが、それさえ厭わない万難を排する覚悟が必要でしょう。)

2012年11月21日水曜日

パン

朝食としてハム、ベーコン、ソーセージ、リエット、パテといった畜肉加工品を添えてパンをよく食べます。

こういった食肉加工品と共に食べるには風味が強いパンの方が適しているようで、主にライ麦入りのパンを好んで食べています。

個人経営ブーランジェリー?から、スーパー内のベーカリーまで自宅周囲にはパン屋は少なくありません。極端に言えばコンビニでも様々なパンを購入できます。

ところが、気に入るライ麦入りパンはなかなか気軽に入手できないのです。そもそもこの種のパンを販売している店があまり見つかりません。

名古屋市、或いは、名古屋市近郊にお住まいの方なら御存知かもしれませんが、メゾンカイザー、ブランパン、ポルカ、モンタナベーカリーから調達しています。

(もう少し薄めスライスしてあると嬉しいのですが、)ブランパンのヴァイツェンスライスやメゾンカイザーのトゥルトを気に入っています。

またまた、御存知の方しか分からない訳ですが、上記パン屋は位置的にばらばらです。(ポルカは日常的にライ麦パンを焼いていないのですが、自宅から最も近くその他のパンが美味しいので伺っています。)

手前勝手な言い分ですが、パンの購入のみを目的に上記パン屋(除ポルカ)を訪れるにはかなり距離があり、所用の際、立ち寄って購入するのですが煩わしさを感じています。

単なる朝食用パンを入手するのに自動車で30分以上かけてパン屋に行く、気に入ったパンを入手するという行為はそんなに手間がかかることなのかと思ってしまいます。

パンの製造については全く無知なのですが、美味しいライ麦パンというものはそれ程店頭に並び難いものなのでしょうか。

一方で、ひょっとしたら私自身が実はパンという食物を好きではないのかもしれません。米飯では全くと言っていい程選り好みすることがないのです。

特定の食材が持つ味わいの差が気になる、感じられるのは該食材が実は本質的に好きではないからこそ、といった面もあるような気がします。

2012年11月7日水曜日

選出(続)

ここ最近、衆目を集めている政治家の一人である橋下徹大阪市長ですが、市長のインタビューやツイッターによる発言から非常に頻繁に”民意”という語を見聞します。現在、この単語を日本で最も口にする為政者ではないでしょうか。

さて、先のエントリで単記投票による選挙で民意は正当な結果として反映されているのか、否か、或いは、該投票が果たして有用な人材を選出する最適な手法たりえるかについて疑問を呈しました。

例えば、橋下市長や、同様に動静が注目されている石原慎太郎前東京都知事には相当数の支持がある一方で、その大きさに相応して反橋下、反石原の声もあるはずです。しかしながら、単なる単記投票ではこの不支持の意思は投票結果には現れません。

選挙の結果を示して、錦の御旗のように”民意が選んだ”という文言が声高に叫ばれますが、あくまで、現行の投票ルールの下での結果に過ぎません。この結果と有権者の意思の間には小さからぬギャップがあるように思えてならないのです。

有権者の意思をより正確に選挙結果に反映させる、真に最も有能な人材を選出するための一つの考え方として、好ましい候補者に投票する単記投票と、拒否、除外したい候補者への投票との組み合わせはあり得ないのでしょうか。潜在的な不支持の意思も顕在化して選挙結果に込めることが本来望ましいのでは、と考えます

支持票と不支持票の差分で、或は、比で判断するべきかはまだ考えていません。ただ、(差分の場合で)極端には100人に支持され不支持者が0人の当選者と、200人の支持がある一方で不支持者も100人存在する当選者では有権者からの支持の質(?)、重み(?)、意味(?)が異なるはずです。

もう少し投票方法について続けます。

(続)

選出

石原慎太郎氏が知事職を投げ出し、老骨にむち打って国政にしゃしゃり出ると言ってみたり、未だ”近いうち”や”近い将来”の定義について言い争ってみたり、ここのところ解散総選挙に纏わる話題で喧しい毎日が続いています。

特に次期衆院選については、いわゆる第三極を巻き込んだ政権争いに加え、最高裁から違憲判決が下された一票の格差の取扱にも焦点が当てられています。果して格差是正のために議員定数の削減は実現されるのか否か不透明な状況です。

勿論、一票の格差は是正されて当然で、こんなことは司法の判断以前に立法府が自発的に正すべき問題のはずです。違憲判決が下されるまで率先して矯正しない、できないといった姿勢に我国立法府の自律性のなさが如実に露呈しています。とっとと是正を進めたらいかがでしょうか。

ところで、この格差是正のための手法として議員定数の削減が挙げ
られています。これは、一票の価値が高い選挙区の議員定数を削減することで価値の均等化を図ろうとするものです。

ただ、この方向で議員定数を削減しても、議員一人当たりに費やされる国費
(歳費を含めた経費)が減るわけではありません。一票の格差を是正することが目的ならば、一票の価値が小さな選挙区の議員定数を増するという選択肢もあり得ます。この方向に議論が進まなかったのは、当事者である議員と私達の間に横たわっているであろう、一人当たりの議員(活動)に費されている国費過大である、といった共通認識によるものと考えます。この認識が定数を削減してせめて議員全体の総額を抑えることになったのでしょう。これは裏返せば、議員(活動)の成果が大したものではなく、費されている国費と見合っていないということを意味します。従って、更なる議員定数削減を望む声は、格差是正後も(一票の重さの均等性を保つことを前提として)依然止むことなく増大し続けていくと思います。

実は私達が重視すべきは、議員(活動)のコストパフォーマンス、即ち、議員活動で費された国費でどれだけの国益が得られるか、どれだけの利益を国民にもたらせるかではないでしょうか。国家、国民にとって有用な人材で、国富を増大せしめることに秀でた議員ならばいくらでも定数を増員したって構いません。一方、コストパフォーマンスの低い、率直に言えば無能な議員ばかりの集団ならばいくら定数を削減しても何の効果もありません。

選挙の目的は、理想的には、民意が正当、忠実に反映された為政者や代議員の選出であるのは勿論ですが、それだけに留まらず、国家、国民にとって有用な人材の選出も選挙の担う重要な役割だと考えています。この選挙ですが私達は通常、各々が最も適任と考える候補者に一票を投ずる、いわゆる単記投票で当選者を選出しています。例外としては最高裁判所裁判官国民審査ぐらいしか直ぐに思い浮かびません。

果して、この投票方式による選挙は民意の正当、忠実な鏡として、及び/或は、有能な人材の選出方法として最適なのでしょうか。

本来、この選出方法について記したかったのですが長くなりました。次に続けます。


(続)

2012年11月2日金曜日

安全


先のエントリでは、安全性が確認されたとして大飯原発が再稼働決定に至ったことを記しました。

では、この安全性が確認された大飯原発は、過酷な事故が発生しないことが確約された原発でしょうか。私には、過酷事故の発生確率が確実に0%である原発とは信じられないのです。

おそらく、大飯原発という特定の原発に関し、原発の耐用年数を原則40年として、残余の稼働期間中は
――まあ、大丈夫なんじゃないか。過酷事故が発生しないまま逃げ切れるんじゃないか。――
といった、時間、空間が限定された条件下での安全を宣っているのではないでしょうか。


大飯原発が無事故のまま寿命を迎えた時、過酷事故の発生率は結果として0%となります。しかしながら、各国各地の新旧全ての原発でたとえ大飯原発と同等の安全性が得られ、各々の原発で過酷事故の発生率が0%と見積もられたとしても、それらの総和は決して0にならないと考えます。

”安全性が確認された大飯原発”にはこの文言を利用して”安全性が裏付けられた原発は存在可能”へと普遍化しようとする意図が見え隠れし、強い不信感を憶えました。

勿論、安易な
――無事故のまま逃げ切れるんじゃないか。逃げ切りたい。――
も容認できないことを申し添えておきます。

2012年10月30日火曜日

再発

――安全性が確認された――と、活断層存在の可能性が指摘されているにも拘らず、依然、大飯原発は稼働中です。大間原発は建設工事が再開されました。 

泊原発は冬場の北海道の電力不足解消を理由に運転再開が経済団体から要請されています。更に、柏崎刈羽原発も再稼働の機会が窺われているようです。

福島原発事故の収束が遅々として進展せず、廃炉に向けての技術的見通しが不透明な中原発推進への動きが着々と進行しています。

ヒトが(他)人の痛みを共有できないとしても、あまりにあからさまな感が私には拭えません。


こういった、なしくずし的な原発推進への動きに対し、原発の運転中止や再稼働反対といった反原発運動が続けられています。(一時期ほど運動の勢いが衰えてきたのか、以前程メディアは取り上げなくなったような気がしますが...)



反原発運動の行動原理であろう原発事故の再発に対する不安、恐れが解消されない限り、この運動は止まないのでしょう。では、事故の再発に対する不安を取り除くことは可能なのでしょうか。

この問いに対し、一体どのような答えが用意されているのか、私自身も知りたいと願っています。果して今後将来、過酷な原発事故が再発する可能性は全くないのでしょうか。

福島での事故後も尚、原発の建設、運転再開といった原発推進を目論む方々に是非考えを伺いたい所です。

以前、元原発設計者であった学識経験者の方が”完全に事故のない原発の設計、運用こそが我々の責務”といったことを宣っていらっしゃるのを見ましたが、”技術者、研究者の驕り”を強く感じました。中身如何によらず、設計、運用、管理について最高の安全性が達成できたとしても100%の安全はあり得ない、とするのが技術者、研究者の姿勢ではないでしょうか。

過去を無視した将来の予測はあり得ません。将来を予測するには過去を基にせざるを得ないことになります。過去に事故が発生していれば未来永劫事故は起こらないと断言できる根拠はなくなってしまいます。


”原子力”という技術が見出され、実用に至った今日までの五十年以上の間、勿論大なり小なりの事故は原発を保有する各国で起こってきました。これまでの事故を教訓に今後も指数関数的に事故の発生確率は低減されていくでしょう。現在の1/10,1/100,1/1000...と、但し絶対に0%にはなり得ないはずです。

一方、核燃料の最終廃棄物は安全なレベルに下がるまで数万年とも10万年とも言われる間、地中深く保管し続けることになっていますが、事故の発生確率が0%より大きい場合、この超長期の間無事故を継続できる技術的根拠、確率的根拠があるとは思えません。事故の都度、技術は進歩するでしょうが、現時点で既に1/10(年)ではないにせよ1/100(年)以上の確率で深刻な事故が発生しています。


結果として原発が稼働を続ける限り、短期はともかく超長期のスパンにおいて事故の発生は回避し得ないと考えます。我国の原子力技術開発を担ってきた優秀な科学者、技術者、及び、原発を推進してきた賢い(?)為政者が、このような当然の考えに至らないはずがありません。この考えが誤りであるのか、或は、この考えの先には更なる結論があるのか、是非、有識者層がどのような”合理的”な認識を有しているかを知りたいと願っています。

今後、原発の是非について様々な立場から議論、要求、運動、圧力が続く間、少なくとも事故再発の可否に対する認識の共有はしておくべきではないかと考えます。共通の認識を踏まえ、その上で更なる議論へと深化していかなければ、永久に非生産的な対立が解消されず、時間、ヒト、モノ等の社会的資源が浪費され続けることになってしまいます。


(続)