2019年8月31日土曜日

風土(7)

河村たかし 名古屋市長

――どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの。いかんと思う――

”表現の不自由展・その後”の慰安婦像展示に対するこの発言から爆発的な炎上が始まりました。

結果として”表現の不自由展・その後”の展示中止のきっかけになりました。中止という結果そのものには異を唱えるつもりは何らありません。

ただ、抽象的、主観的な”心を踏みにじる”をその理由とすることには同意できません。理性的に公益を害し不適切という論立てを採るべきでした。抗議も市長の立場という”上から”の形でしたから、”権力者による検閲”と批判に晒されました。

稚拙な印象は否めません。旗を降って市民や納税者の意見、抗議を集約し、あくまでその代弁者という体にしておけば”権力者が...”という批判は受けなかったと考えます。

で、河村たかし 名古屋市長といえば、最近計画未達が確定した名古屋城復元事業です。主観的な立場からですが自治体が取り組む事業として、この事業の適格性に疑問を持っています。この部分で自治体の事業に対する河村たかし市長の姿勢を支持していません。

名古屋城の復元を含めた、自治体の手がける古城の復元事業については以前のエントリで記しました。

補遺すれば、城址で十分と考えます。勿論、そこにどのような城が在ったか、という記録は必要です。ただ、城址になったことこそが歴史です。必然性のないまま復元したからといって完全な再現ではありません。当時の社会状況、時代背景が城の必然性を生み出したのであって、必然性なく復元しても所詮レプリカで忠実に再現されるわけではありません。

建築基準法、衛生設備に加え、誰が登城できるのかを鑑みれば明らかです。それが歴史上のそうだったと既成事実化してしまうと、ある意味歴史修正に該当するのではないでしょうか。

超々後世から見た時、城は特定の権力者階級のみ登城が許される象徴なのか、地域住民、観光客が気軽に訪れることができる観光施設なのか曖昧になりかねません。

韓国の日本大使館前、世界中の公園に件の少女像が設置され、その撤去を巡って日韓で摩擦が生じています。観光施設として復元された名古屋城の城門前に件の像が設置されでもしたら怒髪天を衝くだろうなと。その時点で特定国からの観光客は登城禁止にでもするのでしょうか。

朽ちものは朽ちたままがいい。それが当に”歴史を刻む”ことではないのか、これは私見です。

ところで、河村たかし市長は、あいちトリエンナーレ実行委員会会長代行の職責にありました。会長代行の重責にありながらも開催まで”表現の不自由展・その後”の展示内容を知らされていなかったのでしょうか。知ろうとしなかったのか、或いは隠蔽されていたのか...

知ろうとしなかったのなら職務怠慢の気がしますが。知らなくて済む職責であるならば、会長代行の意義を改めて問うべきです。飾りなのか?

他方、巧妙且つ意図的に知らされていなかった、蚊帳の外に置かれていたのであれば、実行委員会側は炎上を確信していたことになります。意図的に隠蔽されていたならば、会長代行が展示内容を見抜けなかったのも無理からぬ話かもしれません。

その辺りは”あいちトリエンナーレのあり方検証委員会”で精査されなければならない話です。内輪のお手盛り検証で有耶無耶な幕引きにならないことを願って止みません。


は大村秀章愛知県知事です。

2019年8月30日金曜日

風土(6)

表現の自由について

以前も記しましたが、表現の自由は公益を害さない範囲で許容される権利と捉えています。ここでいう公益とは日本(社会)利益とするのが自然な解釈です。日本という国のために制定された憲法の条文で規定されていますから。

で、「表現の不自由展・その後」での慰安婦像展示は不適切であるという判断に、”公益を害するから”との理由には合理性がある、という立場をとっています。

ここで、”公益を害する”を外し、全てにおいて表現の自由は優先される、としてみると、捏造、虚偽、誹謗中傷、盗用、模倣、エログロも容認されることになります。ここで日本の法令に照らし、著作権侵害、名誉毀損、侮辱、公然猥褻の罪に該当するとして、それらの表現物は除外することになるのでしょうか。こちらも公益を害するという理由になるわけですが。更に、これらの罪を規定する著作権法や刑法の根本には憲法があります。

従って、法に抵触するからという理由で表現物の公開を制限するのであれば、”表現の自由”はあくまで法治主義の枠内にある自由に過ぎないことになります。この法治主義の目的はやはり公益ですから、公益を害する表現の自由は法治主義の枠外にあります。表現の自由は法治主義を優越するのか? 人治主義の近隣国家で表現の自由が制限されている現状を鑑みれば明かです。表現の自由は法治主義の下でのみ認められる自由です。

”表現の不自由展・その後”の中止以降、”表現の自由を守れ”を訴えて展示再開を求めるデモや集会が行われていますが、
守るべき表現の自由はそこにはない
という見方をしています。先述したように、単に”慰安婦像を衆目に晒す自由”を求めているに過ぎず、そしてそれは支持できるものではない、ということです。

真に表現の自由が許された社会の実現を目的として、表現の自由が制限されている現状を示す意図ならば、”表現の不自由展・その後”は全く不適当です。表現の自由の保障という憲法の威を借りて、より優先したい他の目的があるとしか思えません。

第一義に訴求したい目的を、表現の自由が保障された社会の実現とするならば、やはり観覧者から共感、支持を得ることが必要です。そういった作品をもってして該社会への実現へと進んでいく話であり、反感を抱かせ、展示中止が求められる作品では却って逆効果です。

過去に該慰安婦像が撤去された不満を示し、”該像を衆目に晒す自由”を求めているに過ぎないとしか受け止められません。

この”表現の不自由展・その後”では、不自由展実行委員会と芸術監督である津田大介氏の間で展示作品の選別があったことが明らかになっています。
展示内容に幅を持たせるため、近年の話題になった公立美術館での「検閲」事例――会田誠さんの《檄》や、鷹野隆大さんの《おれとwith KJ#2》、ろくでなし子さんの《デコまん》シリーズなども展示作品の候補に挙がりました。しかし、会田さんの作品は不自由展実行委によって拒絶されました。鷹野さんの作品は、一度警察から責任者が逮捕直前まで行った事情に鑑み、そのまま展示することはコンプライアンス的にハードルが高く、とはいえ、完全な状態で展示できないのなら作家に失礼であろうという判断で、展示しないこととしました。ろくでなし子さんの作品は、不自由展実行委が展示したい作品をスペースを優先的に取っていったときに、展示スペースの都合で、候補リストから落ちました。 あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告
なんだか消去法で慰安婦像の展示が決まったようです。他作品に比し展示する必然性が不明です。当初から展示ありきで、他作品を不採用とするための理由付けといった印象も否めず、政治的思惑があるとの勘ぐりを招くのも当然です。

ちなみ芸術作品ではありませんが、”表現の不自由展・その後”の中止騒動と同じ時期に、出版の自由に関して物議を醸した例です。
幼児向け図鑑に「戦車」は不適切? 講談社「はたらくくるま」増刷中止に疑問の声も
図鑑「はたらくくるま」問題の本質 〜 誰が言論の自由の脅威者か
おそらく、”表現の不自由展・その後”の中止騒動と、政治的に対極の関係にあるであろう事例です。偏向することなく、両者のような作品を並列に採り上げ、各々の政治的な影響を相殺させるべきです。そうすることで表現や出版の自由のみを論点として切り出すことができると考えます。


議論のきっかけ


この”表現の不自由展・その後”の開催の理由として、”議論のきっかけになれば”といった声があります。
表現の自由を巡る状況に思いを馳せ、議論のきっかけにしたいという趣旨の企画です。
あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告
換言すれば炎上を起こして注目させたい、ということでしょうか。であれば目論見通りです。

で、問題はきっかけの必要性です。この類の騒動はこれまで幾度となく起こっていて、それで”その後”となっているわけですが、きっかけはその都度あって、議論が巻き起こり議論が収束することなく時間と共に冷めていく、その繰り返しです。以前から何か前に進んだのか?

きっかけはもう腹いっぱいです。きっかけばかり与えられても前進している、賢くなっている感はなんら得られません。必要なのはきっかけではなく議論して前に進むための仕掛けです。

先日、京都府警から京アニ放火事件被害者の実名が公表されました。公表にあたって遺族全員の同意が必ずしも得られていないにも関わらず、です。

NHKのニュースでは、
NHKは事件の重大性や命の重さを正確に伝え、社会の教訓とするため、被害者の方の実名を報道することが必要だと考えています。そのうえで、遺族の方の思いに十分配慮をして取材と放送にあたっていきます。
京アニ被害者の「実名報道」。テレビと新聞はどう報じたかより転記)
との文言の下実名が公表されたわけです。社会の教訓...どのような教訓を念頭に置いて、それに被害者全員の実名の公表がどう寄与するのか理解できません。遺族の意向に優越する、報道されない自由が蔑ろにされた理由も説明不足です。”遺族の思いに十分配慮”って...どう配慮したのか不明のままでは配慮したか否かすら判らず、口先だけの弁明との印象も払拭できないままです。

自由についての議論のきっかけは至るところに在ります。今必要なことは、偏向した議論のきっかけではなく、公正で論理的な議論の場と、前に進むための議論の深化です。


次のエントリから、私見を交えて各々のキーパーソンの姿勢を批判していきます。

2019年8月29日木曜日

風土(5)

では、この一連の中止騒動を回避するにはどうすべきだったかについて記します。展示する/しないではなく騒動の回避です。

この騒動は元々非公式な抗議や不当な恫喝が原因です。又、キーパーソンは実行委員会、芸術監督、愛知県知事、名古屋市長あたりですが、企画と実行における権限と責任が分散していて透明性にかける感もありました。事前に強い意思決定者として住民、若しくは納税者を参画させていたならば、該騒動は起きなかったと考えます。

”表現の不自由展・その後”の展示後であっても、公式に意志を反映させる、賛否を問う仕組みを取り入れていれば、刑事事件にまで至る前にめでたく中止と相成ったのではないでしょうか。

これはある種の住民投票です。こういった公共事業に対する賛否に住民や納税者が直接関わる公的な仕組みあって然るべきです。従来、住民投票は地方議会の解散請求、首長・議員の解職、条例の制定などを想定していてその実施に高い障壁がありました。このハードルを下げてもう少し個別の案件毎に地域住民、納税者の意志を具現化する、公が実施するアンケートであっても一定の効果は期待できます。

先般、横浜市長が賭場を誘致に乗り出すにあたって、
住民投票するつもりはない
と宣われました。こちらも正当に是非を問うべきです。首長の解職といったクリティカルな話ではありません。トリエンナーレや”表現の不自由展・その後”実施の是非とか芸術分野への公金歳出の承認といった、個別の案件で民意を汲みいれた適切な対応をとっていれば、日本のみならず国際的に注目されるような騒動には至らなかった、ということです。

従来、こういったアンケート、民意の集約を効率的に実施することは困難でした。しかしながら、昨今のIT、特にネットワーク技術を活用すれば十分確度のある民意の具現化が可能です。週間文春のアンケート
74%が反対「慰安婦少女像」の芸術祭展示問題アンケート結果発表
はその実現性を示す一例です。風呂敷が拡がったまま放置されているマイナンバーをこういうところに使ったらどうなんだ?とも思います。

――――――――――――――――――――――――――
――表現の自由です――
――政治的背景はありません――
――こちらは何も問題がありません――
――見る側が何か受けとったなら、それはそこで議論していただいたらいい――
真偽は定かではありませんが、トリエンナーレの窓口(おそらく実行委員会)に架電した際の応えのようです。抗議や苦情に対してこういった応答で封じ込めようとすれば、炎上は必至です。こういった一切の苦情を跳ねつけるような対応は県の職員、いわゆる役人のものとは思えません。上記の”ヒグマ駆除への抗議に苦慮する札幌市”のような板挟みの立場に置かれるのが通常ではないかと。おそらく、知事や芸術監督から企画、実行の委嘱を受けた実行委員会の意向なんだろう、と推測しています。

特定の思想信条、それは政治的であったり宗教的であったりするわけですが、ある集団の中で特定の思想信条を持つ人物の割合が閾値を超えると、その集団が即ち該思想信条を持つ集団へと変貌してしまうことがあります。

県営、市営の公営住宅は、政治思想や宗教と切り離されていなければならない共同住宅です。本来、賃貸住宅に済む居住者であること以外に共通点はないはずです。せいぜい通勤、通学に至便なため勤務先や学校が同じ、といった程度でしょうか。

ところが、そこで特定の思想信条を持つ居住者の割合が増大すると、政治活動や宗教活動が始まります。その割合が高じれば集会所のような共同のスペースであっても特定の思想信条のための活動に利用されるようになっていきます。その過程で勧誘や感化によって、元々そうでなかった居住者がその思想信条を持つ集団の一員になったり、或いはなじめず結局退去したりという話を聞いたことがあります。純化が起こっているわけです。飲み込まれないようにと思っていても空気が醸成されそこに囲い込まれてしまうと、なかなか抗うことは大変な気がします。

芸術や文教の領域にそういった感化と排除による純化の作用が働いていないか、ちょっと懸念しています。杞憂であれば結構なことですが。



次のエントリに続けます。

2019年8月26日月曜日

水油

予め尤もらしい結論を用意して、それに向かって形式的に検証し、滞りなく有耶無耶にしたかったのでしょうけど。
河村氏、不自由展の県検証を批判 「別組織で解明を」
芸術祭の実行委では大村秀章知事が会長、河村氏が会長代行を務める。同氏は「(委員が)なぜ選ばれたのか何の相談もない。挑発的、暴力的に進めるのは(知事の)独断だ」と批判した。
仲が悪いにもほどがあるなぁと。会長代行の職務って一体...

会長が職務を続けられなくなった時、初めてお鉢が回ってくる役職なんでしょうか。補佐でも副でも代理でもなく文字通り代行か。補欠のほうが解りやすいかもしれません。

それでも騒動前後の情報を流さないというのは組織として体をなしていないと考えます。密室とか私物化との指摘を燃料に、更なる炎上でも目論んでいるのでしょうか。

風土(4)

といった見出しが踊っています。(リンク切れになるかもしれません)

こうした報道を見聞していると、様々な思い、疑問が生まれ、邪推すらしてしまいます。”表現の自由”以外にこの語をスローガン、題目にした作意的な姿勢を感じてしまいます。

上記活動は、美術家、出展作家、おそらく芸術に関わる有識者が中心となったものですが、お手盛り感が否めません。かつて、個人情報保護法改正の際、メディア各社は報道の自由が制限されるとして、反対の姿勢を鮮明にしました。消費税増税の際も新聞への軽減税率適用を、当に真赤になって訴えていた覚えがあります。そういった自らが関与する活動が狭められる、換言すれば既得権が制限されることへの反発という部分で同じ印象を抱きます。

2万6千筆超の署名が集められたとのことですが、愛知県の納税者数に比し圧倒的に少数です。多くの県民が該慰安婦像の展示に反対の活動をしていないからといって、それは展示を支持しているわけではないとみています。デモや集会ではなく、法的に拘束力のある仕組みによって納税者、若しくは有権者の意志が定量化されれば、抗議や展示再開を求める圧力は大きなものではないことが明らかになります。

ところで、気になるのは上記の署名者の属性です。美術関係者が一定の割合を占めているであろうことは容易に想定できますが、その人々の国籍は全て日本なんだろうかと。事実として該慰安婦像の作者は韓国籍です。ソウルの日本大使館前を始め世界各地に設置されていて、未だ収束していない慰安婦問題のシンボルとされていることも周知の事実です。韓国では日本に対し謝罪と賠償を求める運動が続いています。不可逆的解決を目指して、日韓合意に基づき設立された「和解・癒やし財団」は解散せしめられ、収束の兆しすら窺えなくなりました。

そういった状況下、該慰安婦像の展示は上記運動を支援し、韓国を利するものであることは明白です。単に2万6千筆超という数字のみに留まらず、署名者属性の精査、分析の必要性を感じます。慰安婦問題についての日韓の諍いを有利に進めるといった政治的な動機に由来する署名はやはり排除されるべきです。

表現の自由について考える際改めて記すつもりですが、純粋に表現の自由を訴えるためだけに慰安婦像の展示再開が叫ばれているとは思えないのです。反対し難い”表現の自由”を盾に、該慰安婦像を衆目の目に晒して韓国に都合のいい印象を来場者に抱かせる、そんな意図を勘ぐってしまいます。

表現の自由を訴える作品が該慰安婦像でなければならない必然性が理解できないということです。表現の自由を最優先に訴えたいのであれば、慰安婦問題を巡る政治的意図をかんじさせない他の作品を展示すればいいわけです。その選択が採られていない処に、単に”慰安婦像を衆目に晒す自由”を求めているに過ぎないとの印象を抱きます。そしてそれが目的であるならば、上述の如く公益を害するという理由で展示再開を認めないことには十分な合理性があると考えます。

少数であっても声を大にして、政治的意図を窺わせる要求をゴリ押し、表現の自由を盾に、その裏側にはそんな姿が在るように思えてなりません。

”表現の不自由展・その後”を中止に至らしめた脅迫犯は8月7日に逮捕されました。それを受けて展示再開を求める運動も活発になっているようです。ただ、それなら再開を、という話にはならないだろうと。約5500件の脅迫や抗議の中で危険なというか、展示中止の理由にできる一件の脅迫者を取り除いただけですから。展示を再開して安全を確保し続けることができるかは別の話です。

一件の脅迫が”表現の不自由展・その後”展示中止の原因ですが、元々の”表現の不自由展”でも脅迫、抗議、或いは主催者の判断で中止に追い込まれました。それはかなり根深い嫌悪感を抱かせているわけで、軽々に展示再開を要求する姿勢にも疑問を抱きます。これは催事自体の是非とは切り離しての話です。
テロや暴力には屈しない
かつて、ISIL(イスラーム過激派組織)の支配地域ISで日本人二人が拉致されました。身代金として2億ドルが要求されたものの、最終的に殺害された事件です。上記の展示再開を求めるデモや集会関連の報道に接した時、この拉致事件が想起されました。

”表現の不自由展・その後”の展示再開の要求に応えた結果、上記脅迫犯とは別の人物によって観覧者に危害が加えられた場合を考えます。この時、展示再開を求めてデモをし、或いは署名を提出した人々は、果たして事件発生の責任を一片でも感じるものだろうか、その心情を推し量りかねています。元々そんな場合など想定だにせず展示再開を求めていたのかもしれませんし、事件が発生したとしても警備の不備を批判するだけかもしれませんけど。

どこまでの覚悟をもって、観覧者が危険に晒される恐れのある美術展の再開を要求しているのか、気になる処ではあります。

上記ISILによる日本人の拉致、殺害事件では、自らの意志で危険地域に侵入した二人の日本人が、”テロや暴力には屈しない”という根本原理に則った結果殺害に至ったわけです。自己責任といった語は公的には出ませんでしたが、巷間にはやはりその語は漂っていたはずです。

本件では、美術展を再開した場合の、身体、生命が危険に晒される恐れを排除できていないわけです。京アニ放火事件の凄惨さが鮮明な中、”自己責任で来場して下さい、テロや暴力には屈しません”といった姿勢を貫けるのでしょうか。
――電話で抗議すれば中止に追い込めることを知らしめてしまった。――
との声も上がっていますが、該慰安婦像の展示再会を来場者の身体、生命の安全より優先しようとする姿勢には疑問を抱きます。

同じ頃、
ヒグマ駆除に道外中心批判200件 札幌市対応に苦慮
といった報道がありました。似たものを感じます。”ヒトは他人の苦痛には鈍感”という事実を改めて実感した次第です。


次のエントリに続けます。

2019年8月25日日曜日

主謀

横浜市の市長が二年間の雌伏を待って賭場の誘致に乗り出すとこと。これを受けて反対の声が上がりちょっとした騒動になっています。
横浜市がカジノ誘致を正式発表 「これまでにない経済的社会的効果」
二年前の市長選の際には争点化を避けるためか賭場の誘致について”白紙”宣言しておきながら、”誘致に前向き”へと一転したことが、更に反対の声を高じているようです。

この転向を騙し、欺き、裏切りと指摘することが適当かどうかは判りませんが。

不思議なのは市長だけが前面に出て、賛成、推進の実体が見えてこないことです。市長は、
住民投票するつもりはない
と明言し、住民の声に耳を傾ける姿勢すらないようです。ただ市長がパペットというか傀儡にしか見えないのですが。今後、サンドバックと化し、袋叩きにあって退陣という事態も想定できなくはないのですが、新たな傀儡が登場と...

真に鉄火場を望む主体が一体どこに在るのかよく判りません。土木、建設、観光業界あたりでしょうか。

いずれにせよ、見世物小屋をでっち上げて人を集めてぼったくるという、貧者の産業の中で賭場は最たるものです。日本社会の将来を見据えての産業育成策とはとても思えないのですが。もう少し真っ当で品格のある都市デザインができないものか、品性、見識を疑います。

2019年8月24日土曜日

風土(3)

公的な資源が投じられた催事で、少女像と称される慰安婦像を展示することの適否

前のエントリと重複しますが、公益に資するか否かという視点から、例え私的な場であっても該慰安婦像を衆目に晒すことは好ましくない、という立場です。日本国憲法は公益に寄与するために制定されているとの前提で、場合によっては公害を生む、野放図な表現の自由が認められているわけではない、という認識です。その公開を阻止する法的権利を第三者が有しているかどうかは別の話としてです。

では、公的な資源が投じられた場ではどうでしょうか。公的なヒト、カネ、モノといった資源の原資は税金に他なりません。これを鑑みれば、納税者の利益(=公益)に資することが、私的公開の場合以上に求められて当然です。そんなこと予め行政の内部で判断できないものか、というのが率直な思いです。

この騒動が勃発した際、週刊文春が慰安婦像展示の賛否についてアンケートを実施しています。
74%が反対「慰安婦少女像」の芸術祭展示問題アンケート結果発表
あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」中止騒動
それによれば810人の回答者の中、74%が展示に反対という答えでした。”展示に反対”は即ち、慰安婦像を見たくない、見せたくないということです。74%の納税者が、という表現は正確ではありませんが、この結果から、見たくない”、”見せたくない”との意志を持つ納税者が過半数以上存在しているであろうことは妥当な推測です。

納税者の過半が拒否している該像の展示を、行政がその権限を行使して中止しないのであれば、展示が納税者の利益に資することを説明する義務が行政に課せられます。

見たくないと思っているものを”アナタのためです。だからアナタのお金で。”と、見せつける合理的な説明を愛知県が持ち合わせているとはとても思えません。


シャルリー・エブド襲撃事件が脳裏を過ります。フランスの風刺新聞がムハンマドを描写した風刺画を掲載したことが発端になった、新聞関係者、警察官の殺害事件です。事件後、フランスでは表現の自由を訴えるデモが起こったわけですが、ムハンマドの描写がイスラム教徒にとっての禁忌であることは周知だったはずです。当時、表現の自由は、して欲しくない、してはいけないと考える特定の人々の価値観をも優越するのか、と違和感を抱きました。

前述に加え、納税者の意向に沿ったものか疑義があるといった理由で、愛知県が公的資源を投入して該像を展示することは不適切であると考えます。この状況で該像の展示が肯定されるのであれば、愛知県の過剰な権限の行使であり横暴です。


次のエントリに続けます。

2019年8月18日日曜日

風土(2)

まず、全てに先んじて、脅迫や恫喝で自らの要求を強いる行為は断じて容認しないことを明記しておきます。

「表現の不自由展・その後」の展示は8月3日で中止されています。大村愛知県知事の会見によれば、
――サリンとガソリンをまき散らす――
――県内の小中学校、高校、保育園、幼稚園にガソリンを散布し着火する――
――県庁職員らを射殺する――
などといった脅迫メールが770通、電話やファックスを合わせれば計約5500件の脅迫や抗議が殺到していることを受けて、
「これ以上エスカレートすると、安心して楽しくご覧になることが難しいと危惧している。テロ予告や脅迫の電話等もあり、総合的に判断した。撤去をしなければガソリン携行缶を持ってお邪魔するというファクスもあった」
が理由とされています。最前面に、京アニの放火事件を想起させ”来場者に危険が及ぶ”が押し出されました。尤も、別に理由があったものの、最も反発を最小化するのに合理的な理由を採ったという見方できますが...これは現時点では判断を留保しておきます。

ともあれ、卑劣な脅迫や恫喝の否定は全ての記述において不変です。強い憤りと共に一切肯定しませんし、嫌悪感をも抱きます。

ただ、だからといって、該展示を支持するつもりはなく、8月7日に脅迫犯が逮捕されて以降も、再展示の要求は拒絶されるべきと考えています。


平和の少女像と題された慰安婦像は芸術作品なのか?

この”表現の不自由展・その後”において騒動の原因となった展示物は「平和の少女像」です。勿論、この語は言葉通りに受け止められず、未だというか半永久的に解決しないであろう慰安婦問題を象徴するものです。この問題における慰安婦を想起させる像を、「平和の少女像」と変換して展示すればそれだけで炎上は確実です。その変換手法の陰湿さも問われて然るべきと記しておきます。

で、最初に、この慰安婦像は芸術作品なのか、について考えてみます。芸術作品に該当しないのであればそもそも国際芸術祭という場に展示すること自体が誤りだったということになります。であれば、芸術作品ではないものを詐称して芸術祭で展示するという行為に及んだことを指摘し、出品者やあいちトリエンナーレ実行委員会の責任を質していけばいいわけです。

しかしながら、この像は芸術作品ではないと断じるにはかなりの無理を感じます。

上記ファクス、電話による抗議には”芸術ではない”という声が上がっているようですし、
慰安婦像は芸術ではない。これはただの政治活動の象徴だ。芸術でもないものを芸術だと見なすのは、根源的な間違いだ。(慰安婦像は芸術なのか?)
といった意見もありました。しかしながら、Wikipediaやコトバンクに記されている芸術の定義に則るならば、
芸術:表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動。
芸術:他人と分ち合えるような美的な物体,環境,経験をつくりだす人間の創造活動,あるいはその活動による成果をいう。
該慰安婦像が芸術に該当しないことを説明するのは困難です。表現者、鑑賞者でも、或いは第三者でも”これは芸術だ”と主張すれば芸術になってしまうわけです。いわゆる芸術的価値が小さくとも、美的でなくても、そういった評価から主観性を完全に排除することは不可能であって、それらを以って芸術でないことの理由付けはできない、ということです。

以前、橋下徹氏が大阪市長だった頃、文楽への助成金削減を巡って紛糾しました。この時、作家の瀬戸内寂聴氏にから、
――世界の見るべき人が見て素晴らしいと言うのだから、それで十分でしょう――
――橋下さんは一度だけ文楽を見てつまらないと言ったそうですが、何度も見たらいい。それでも分からない時は、口をつぐんでいるもの。自分にセンスがないと知られるのは恥ずかしいことですから――
といった発言があったわけです。以前のエントリで記しましたが、”見るべき人が見て価値を感じればいい、それ以外の人は理解出来なくても構わない”という部分に選民思想、優越意識が伝わってきました。解らないことを解らないと意思表示すること、これを恥ずかしいこととして封じ込めようとする発言の中に、品性の卑しさを感じた次第です。これこそが、
”これは芸術です。解らない人は解らなくて構いません”
の典型です。特に、権威や権限のある、いわゆる声の大きな人物がそう発言すれば直ちに芸術になります。

この辺をあまり深堀りするつもりはありません。単に該慰安婦像の展示中止を求めるに当たって、芸術作品ではない(芸術性の否定)”は理由にはできない、ということです。

但し、あらゆる事物が芸術作品であるとしてもその価値は様々であって、価値がマイナスとなる作品が存在し得ることも確かです。この芸術作品の価値がマイナスという考え方を用いて、そういった作品は衆目に晒される必要はない、若しくは晒されるべきではない、と考えます。価値がマイナスの作品は、ある意味有害な作品でもあり、これは展示中止の理由として十分な正当性があります。

この時鑑みるべきは、何が作品の価値を決定するのか、即ち、価値が依拠するものです。それはおそらく普遍性、絶対性のない相対的な何かだろうとみています。評価者の声の大きさ、社会状況や時代背景で揺れ動く、主観性恣意性を含んだものだろうと。

従って、「表現の不自由展・その後」実行委員会が件の慰安婦像を展示に値する作品としてその価値を評価したことと、河村たかし名古屋市長が該像を日本国民の心を踏みにじる作品としてマイナスに評価したことは、符合します。
権威、権限といった声の大きな評価者が各々の価値観、視座から自身の主観を主張しているに過ぎません。ベクトルが異なるだけで評価の根幹には同質のものが横臥しています。

それならば、該慰安婦像の展示の是非を一体何で判断するか、という話になるわけですが、その指標には公益性を採るべきと考えます。

この場合、公益性とは日本の国益、日本社会、日本人全体の利益と同義になります。世界とか人類全体、日韓にまで広げての公益ではありません。該慰安婦像の展示が公益に寄与するか否かのみを考えれば是非は明らかです。公益にならない、という理由で展示は不適切と考えます。

展示、或いは再展示を求める側が、その理由として”表現の自由を守る”を掲げていることは承知しています。これは日本国憲法第21条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
に依拠しての主張なんだろうと。つまり、日本という国家の存在を踏まえた上で制定された憲法の一条文を根拠にしているわけです。
日本国憲法って日本のために制定されたんじゃないの?
日本のために制定された憲法の条文が日本に損失を与えるのでは矛盾が生じます。

この前提を伴う表現の自由は、本騒動の場となった公的な催事のみにとどまらず、責任は軽減されるものの私的な場にも該当するものと理解しています。

その辺りの認識が不十分なまま声高に、表現の自由とか憲法の遵守を叫ばれても、違和感を禁じえません。特に、先頭に立ち、表現の自由の旗を振った自治体首長の、展示中止を拒む発言には失望しています。

前エントリに”芸術とか文化的な活動には関与しないほうが賢明”と記した理由の一つです。


次のエントリに続けます。

2019年8月15日木曜日

風土

さて、”表現の不自由展・その後”の展示中止騒動も沈静化しつつある中、思う処を記してみようかと。

それでまず、あいちトリエンナーレ2019の公式サイトを覗いてみました。こういった公式サイトでは、重要な告知は最も目につく位置に置くべきなんですが...公式サイト内で、表現の不自由展・その後の展示は中止にします、といった旨の情報には容易に辿り着けませんでした。トップページからアーティストのリンクを辿って、
表現の不自由展・その後 【展示は中止しております】
という文言を見つけることができましたが、他の作品と同列に配置されていて、非常に目立たない中止の告知です。

展示の中止に至るまであれほど巷間を騒がせたわけですから、すぐに目につくようにサイトのトップページに実効委員会の見解と共に表示すべきです。

ことさら扱いを小さくして、この中止騒動を矮小化、隠蔽したい意図でもあるのか、と勘ぐってしまいます。この辺り、あいちトリエンナーレ実行委員会の姿勢については後ほどもう少し考えてみます。

本騒動には、表現の自由、芸術の定義、公益を始め様々な論点が内包されています。それらを切り分けないまま関係者各々がポジショントークを繰り広げたため、混沌とした炎上状態になりました。

例えば、件の少女像が公金の投じられた催し物で展示されることの是非、表現の自由の定義、更に該少女像は果たして芸術なのか、そういった話は別個に考察されるべきです。展示の正当性を主張する側、不適切として中止を求める側各々が一方的に言い分を投げつけている現状では、事態の前向きな解決はとても期待できないなぁと。いっそちゃんと罵り合えばいいのに、とすら思います。
そんなこと事前に摺り合わせておけ
という点で、いずれにせよ、愛知県、当然そこには名古屋市も含まれますが、いわゆる芸術とか文化的な活動には関与しないほうが賢明ではないかと。

素養、見識、資質、力量を鑑みて、芸術とか文化的な活動に携わるだけの適格性に疑義を抱かざるを得ない、まぁ、不向きということです。国際芸術祭を開催して、そういった分野でイニシアティブを取ろうなど分不相応の感が否めません。

東京ほどではないにしても、他府県、他市町村と較べた時、愛知県、及び名古屋市はトヨタ他の製造業からの恩恵を受けて、会計に余裕がある自治体です。

この潤沢なカネを、”芸術とか文化に関わらせて大丈夫なのか?”、そんな疑問符がつく人物に持たせるとろくなことにならないわけです。本騒動でそれが垣間見えた気がします。

権威を誇示するためでしょうか、権力者は芸術とか文化の庇護者?パトロン?になりたがる、由来はそんな処にあって、古今東西よくある話です。その一例という見方もできないでもありません。
”カネは出すが口出しはしない。良きにはからえ。”
そんな調子で鷹揚な庇護者のつもりだったのかもしれませんが、その結果がこの有様です。

本件はこの権力者が自治体の首長であり、執行される予算の原資が公金である、という部分が関係各位からの燃料投下に繋がりました。誰からも消火剤が投入されなかったわけです。未だ完全に鎮火した状態にはなく燻り続けていて、風向きが微妙に変化したり、僅かに薪をくべるだけで再炎上する危険を孕んでいます。

次のエントリから騒動の細部について考えていきます。

2019年8月14日水曜日

異国

台風10号に関する気象庁の臨時の記者会見
台風10号、気象庁が警戒呼び掛け
台風第10号の今後の見通しについて(8月13日)
を受けて8月14日朝の民放各局は一斉に台風情報を放送しています。そんな中、NHKでは炎天下の甲子園大会が中継されていました。

選手には勿論、観戦者にも台風情報は到達しないだろうなぁと。届いたとしても入る余地などないかもしれませんけど。甲子園だけ異国なのか?

気象庁の会見における臨時の重みとその信頼性について考えさせられました。まぁ、毎日危険との予報が続く酷暑の中、甲子園大会は続いていますから、臨時も甲子園大会に較べれば軽いものという捉え方なんでしょうか。

2019年8月10日土曜日

支持

まぁ、内政干渉と反発されるのは目に見えているわけですが...
米、香港のデモ巡る報道受け中国は「暴力的な政権」と批判
香港デモ、82人逮捕
それでもコミットすべきです。政府が表立っての意思表明は難しいとしても、国会議員レベルで声が上がっていて然るべき話です。与野党揃って見てみぬふりで、黙して語らずというのも如何なものかと。外交関連の民間、或いは半官半民の外郭団体、大学、メディアも支持の姿勢を打ち出せないのならば、
民主主義とか自由について上から目線で語るな
と。外交の案件で、しばしば”価値観を共有する”といった文言を耳にするわけですが、一体誰の文言で、誰と何を共有しようというのか...

先日来騒動となっている、”表現の不自由展・その後”(あいちトリエンナーレ2019)の慰安婦像展示を巡る問題においても、やたら”表現の自由”が取り沙汰されています。ただ、表現の自由を守れと声高に叫んでいる勢力が香港デモについて言及している事例を知りません。

慰安婦像展示騒動を軽視するつもりは毛頭なく、思う処を記したメモは溜まりまくっています。いずれ言語化できればとは思っていますが、今より憂うべきは香港民主化運動の行方ではないかと。

ガンバレ!香港! 更に言えば、負けるな台湾!
香港デモが続くワケ。庶民のホンネは?~「まともな人ならデモに行っている!」