2015年2月25日水曜日

失望

民主主義の下では意思決定に時間がかかるとのことです。

一国の宰相自らが、誤った情報に基づく野次を飛ばして予算委員会の質疑を紛糾させていれば時間がかかるのも当然です。

これが日本の民主主義の姿ということですか。そうですか。この耐え難い非生産性を受け入れろと...
前原誠司氏が安倍晋三首相のヤジ追及で激昂「情けない」と捨て台詞
ご尤もなんですが、 そういった政権を誕生させてしまった一因は前与党の情けなさにもあるのではないかと思うわけです。

ところで、安部首相は、
――日教組!日教組どうすんだ!日教組!――
といった野次を説明する答弁を、後日になって、
――私の記憶違いにより正確性を欠く発言を行ったことは遺憾で訂正する――
と述べられています。”遺憾”という語の意図も理解できないのですが、”(そういった答弁をした自分に対して)遺憾だった”、ということなのでしょうか。

いずれにせよ、何をどう訂正したのかもよくわかりません。正確性を期した上で、訂正された答弁、野次を改めて示してもらえないものかと、期待している処です。

2015年2月21日土曜日

黙過

前のエントリに続けてです。

――曽野さんのことにについてはコメントするは控えたい。あの一昨年の十一月に教育再生会議をやめておられる方ですから.... ――
件の曽野綾子コラムに関する、ロイター記者の質問に対する菅官房長官の回答です。 (首相官邸で7分40秒~)

賛否を明言しないということですか。積極的平和主義は声高にアピールしても、人種差別とも受け止められる発言を積極的に批判することはしないと...

差別撤廃に向け毅然とした姿勢を示さないということは、消極的差別主義とも受け止めれてしまいます。政府として。

2015年2月20日金曜日

失格

――アフリカ共和国の実情を知って以来、私は居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった。――
産経新聞に掲載された作家曽野綾子氏のコラムの問題部分です。

素直に受け止めて、人種隔離アパルトヘイト)推奨以外の何物でもないわけです。

で、批判に対して、
――個人の経験を書いているだけ――
 と弁明し、
――私は文章の中でアパルトヘイト政策を日本で行うよう提唱してなどいません――
と反論しても作家としての資質が疑われるに過ぎません。

少子高齢化に伴う日本の労働力不足、その対処法として移民を取り上げることも、更に移民政策について論じるに当り南アフリカ共和国の事例を持ち出すことも思慮不足の感を否めません。

率直に言えば、頭悪いなぁ、オピニオンリーダなどと持て囃して大丈夫か、ということです。正に老害の典型かと。

移民政策云々に講釈垂れる前に、そういった日本に至らしめた年長者としての自省、責任といったものを微塵も感じさせない身勝手さにただ驚くばかりです。

丁度、戦時下のシリーズが放送中の朝ドラ、”マッサン”で描写されている、軍や警察?、特高?の姿勢に似たものを感じます。
省みない、考えない、想定しない
これまでの失敗、苦難を経ても日本は相変わらずということでしょうか。賢くなった、という実感を持てないでいます。

いずれにせよ曽野綾子氏については、自らの意図を読者に忠実に伝える能力が欠如しているのか、或いは、本質的にそういった思いがあった、ということかもしれません。

発言を読むほどに、自らの文章が読者にどのように受け止められるかを、想像しない、することのできない作家の傲慢さが伝わってきます。

本を読もうというモチベーションを減退させます。まぁ、元々それ程の意欲は持ち合わせていませんが...

この話題はルキウスさんも言及しているわけですが、
――日本人とくに小市民の事なかれ主義をくすぐるように煽る老人の醜悪さが滲み出ている――
自身の独善性を”尤もらしさ”というオブラートで包み、それを恰も正論の如く押し通す...うんざりです。 

2015年2月17日火曜日

難癖

利益が出た時は素知らぬふり、損失が出れば提訴、ということなんでしょうか。
デリバティブで損失、南山学園が提訴 ドイツ銀などを
難癖だなあ、と思うわけです。 まぁ、学校側にしてみれば、形式的にでも欺かれた形にして提訴でもしなければ責任を問われますし。

提訴で責任を回避して内々の和解で学校側の体面を保ちつつ損失は確定、といった所が落とし所でしょうか。

額面通りに受け取れば、証券会社の甘言に乗せられ欺かれたということなんでしょう。ただ、精査も理解もすることなく、勧誘されるがままに巨額な資産運用を任せた学校側が間抜けだったというのが実の処かと。

経済、経営、法学部を擁する愛知県、中部地方のトップ文系私大という認識がありますが...中部の早稲田、上智は手前味噌の過大評価としてもです。複雑な金融商品の理解ができなかった、或いは、法人資産(他人資産)なので責任感が希薄だったの
でしょうか

学校法人運営の杜撰さ、不透明さを垣間見た気がします。

2015年2月16日月曜日

真偽

前のエントリに続けてですが、
r(資本収益率)>g(経済成長率)
が成立するならば、日本の現状の資本収益率、例えば銀行の貸出金利では、経済成長率は低いまま頭打ちとなります。低い資本収益率に経済成長率が抑えつけられて経済成長できないわけです。

金融緩和の継続、追加の緩和は資本収益率増加とは逆方向に作用しますから、経済は一層減速する、といった理屈になります。

こういった状況下で打ち出される成長戦略に、果たして実効性はあるのでしょうか。画餅に過ぎないのではと斜めに見ています。

成長戦略が功を奏して経済成長率が増加、これによって資本収益率が押し上げられ,再び経済成長率が増加する...そういった正帰還は果たして起こり得るものでしょうか。緩和マネーが資本収益率の上昇を抑えているのに

一方、資本収益率の増加によって経済成長率を引き上げ、再び資本収益率増加、経済成長率上昇というサイクルも想定し難いわけです。金融緩和を続けていて何故資本収益率が増加するのかという疑問が生じます

卵が先か鶏が先かという話と共に、冒頭の不等式が普遍であるならば、経済成長率増加に向けての動的変化を思い描くのもなかなか難題だなぁ、と思った次第です。

2015年2月14日土曜日

露呈

今尚、小売店で年寄りが、”年金暮らし”を口実に商品の値引きを要求する場面に遭遇します。目前の店員を含む現役世代の負担で己の年金が支えられている、そういった事実を未だ理解できていないのでしょうか。

現行の年金受給者、いわゆる引退世代が現役世代、更に言えばその子世代、孫世代
に較べどれほど恵まれているか...思いが及ばないのか、或いは、意図的に目を逸らしているのかもしれません。

まぁ、これまで年金制度についての情報提供、教育が不十分だったことにもよるのでしょうが、それにしても身勝手さを実感した次第です。

で、若年層への情報提供も未だ不十分のままです。それが行政の狙いかは存じません。ただ、世代間の格差は縮まるどころか、着実に拡がり続けていくのは間違いない処です。

問題の先送りと未来への債務の押し付け、紛うことなく民主主義が実現されています。

さて、時流に遅れまいとトマ・ピケティ教授を持ち出して騙ってみます。勿論、『21 世紀の資本』といった難解な著作は読んでいません。聞きかじった上っ面による知ったかぶりの話です。
トマ・ピケティ氏、「民主主義は闘争。誰もが関わらなければならない」と日本の若者にメッセージ

「1970年代以来、所得格差は富裕国で大幅に増大した。特にこれは米国に顕著だった。米国では、2000年代における所得の集中は、1910年代の水準に戻ってしまった――それどころか、少し上回るほどになっている」
「私の理論における格差拡大の主要な力は、市場の不完全性とは何ら関係ない…その正反対だ。資本市場が完全になればなるほど、資本収益率 r が経済成長率 g を上回る可能性も高まる」
理想的な資本主義下では、
r(資本収益率)>g(経済成長率)
が成立し、投資による収益の上昇率は経済成長率を常に上回るとのことです。従って、投資家は、労働賃金の上昇以上に増大した利益を得るわけですから、所得格差は拡大する一方ということになります。

で、上記インタビューによれば、行き過ぎた格差は民主主義にとって好ましいものではなく、又、該格差、不平等を是正する戦いこそが民主主義であると。

確かに是正を志向する姿勢は民主主義由来するものかもしれません。ただ一方で、民主主義を絶対視して、是正のために民主主義の手法が無条件に適用されてしまうことには抵抗を覚えます。

民主主義の本質の一つでる、”みんな”の同調圧力と個々人の責任意識の希薄化を懸念しています。更に、”みんな”の中には将来世代は含まれていませんから、”みんな”が決めてしまえば、問題の先送り、未来への負担の押し付けを押し止める力が働きません。

例え民主主義に基づいた決定であったとしても、上記格差や不平等を是正する原資を将来世代に求めることは不当ではないか、と考えます。既に、消費税や国債、賦課方式の年金といった形で、将来世代に現役世代のツケを回しているわけですが...

一億総中流
これはバブル経済以前までにはよく耳にしていた言葉です。国民の7割以上が自分の生活水準を中流と意識していた、意識できた頃の話です。現在もこの意識が高い割合で保たれ続けているのか、否かは存じません。

実は、この言葉が使われだした当時から、格差や不平等は相当程度あったのではないかと思っています。相当程度とは行き過ぎた、看過できない、民主主義社会にとって好ましくない、といった程度です。容認できる一定の格差というのもまた難しい話ですが...

ただ、当時既にあった格差や不平等は、将来世代に負担を押し付ける民主主義的手法によって、見かけ上埋め合わせられてきたのではないか、と憶測しています。

潜在的には格差、不平等は大きかった。この格差を、税制、国債の起債、社会保障の保険や賦課方式といった未来からの借入で補填して存在を霞ませてきたのでは、ということです。

拠出分以上の利益を現役世代が享受していれば、債務は累積されていき将来世代に重くのしかかるのは当然です。利息や配当といった時間の効果では解消不可能なほど債務が積み上がっているわけです。

民主主義の名の下、こういった手法で実質の格差を覆い隠し、持たざる者の反発を抑えこんできたのが実の処ではないかと勘ぐっています。

この手法による累積債務が巨額となり、制度疲労が進み、システムの破綻が露呈しつつあることが、格差、不平等を顕在化させているのではないでしょうか。

過度の格差や不平等の是正は民主主義の目指すところの一つであり、又、民主主義社会の実現と安定のために必要であることに異論はありません。

しかしながら、
その場のみんなで合意して、そこに居合わせぬ誰かに負担を押し付ける
のも民主主義の一面です。次世代への責任の転嫁と負担の
強要、これが是正のための民主主義的手法として正当化され
独り歩きしてしまう、そういった民主主義の独善性に
危うさ、儚さ、愚かさを感じてしまいます。

再掲
――実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた、他のあらゆる政治形態を除けば、だが。 (ウィンストン・チャーチル)――

2015年2月6日金曜日

格差

連日、様々なメディアが、ISISによるジャーナリストの後藤健二氏殺害について報道しています。

この残虐なテロ行為に痛ましさと共に、憤りを覚えるのは勿論です。”哀悼”以外の言葉が見つかりません。

ただ一方で、一連の報道を発信しているメディアの姿勢に疎ましさを感じています。メディアによる、電波を私物化したお手盛り報道ではないのか、といった印象を拭えません。

ジャーナリストは、メディアへの記事や情報の提供といった役割を担っており、メディアあってのジャーナリストのわけです。メディアの一部と捉えてもあながち外れてはいないかと...で、特に大手メディアの閉鎖性は、例えば記者クラブの事例で明白であり、そういった内輪の村社会的体質の一端を件の報道姿勢に垣間見たような気がします。

メディアによる自画自賛報道でジャーナリストの神格化を目論んでいるのでしょうか。ジャーナリズムに殉死したとでも...

誤解を恐れずに記せば、イスラム過激派が少年少女達に自爆テロを迫る動機付け(=殉死)に相通ずる姿勢を感じてしまいます。穿ち過ぎでしょうか。

犯罪や事故も含めた理不尽な死は、日々、至る処で発生しているわけですが、一人の殺害事件についてこれほどまでに突出して執拗に報道されるのはかなり稀ではないかと。

まぁ、ジャーナリストが被害者の場合、その報道姿勢にうんざりする程、過剰とも思える報道が続くのは珍しいことではありません。

確かに事件の重大性を慮った結果、優先的に報道が続けられているのかもしれません。しかしながら、時として被害者がジャーナリストか、否かによって、人命や人格に格差があるかのような扱いにも見え、如何なものだろうかと思う次第です。メディアの中立性、客観性に不信感を覚えます。
――何が起こっても、責任は私自身にあります。どうか、日本の皆さんもシリアの人たちに何も責任を負わせないでください.....まぁ、必ず生きて戻りますけどね――
後藤氏がISIS入りする前にビデオ映像に残したメッセージですが、自らの意思でそれなりの覚悟を持ってISISに赴いたと推察できます。
後藤さん、3回も渡航自粛要請されていた 危険地域での取材の是非改めて問われる
翻って、先日、かぐらスキー場で男女3人のスノーボーダーが遭難しました。

明暗を分ける結果となりましたが、ネットワーク上ではやたらと”自己責任”の語を目にしました。

前者は自覚した上で自らを危険に晒したわけです。一方、後者は、危険を認識していない、言わば無知、無自覚が招いた遭難事故だったかと。

各々の行為の確信性を鑑みれば、同列に”自己責任”を云々することは適切ではない、と考えます。行為の尊さはともかくとしての話です。確信的危険行為と無自覚の危険行為、故意と過失、自己責任が問われる場面において、確信的危険行為にはより大きな責任が伴って然るべきということです。

ただ、無知こそ最強となると、それはそれで釈然としませんが...