2015年2月6日金曜日

格差

連日、様々なメディアが、ISISによるジャーナリストの後藤健二氏殺害について報道しています。

この残虐なテロ行為に痛ましさと共に、憤りを覚えるのは勿論です。”哀悼”以外の言葉が見つかりません。

ただ一方で、一連の報道を発信しているメディアの姿勢に疎ましさを感じています。メディアによる、電波を私物化したお手盛り報道ではないのか、といった印象を拭えません。

ジャーナリストは、メディアへの記事や情報の提供といった役割を担っており、メディアあってのジャーナリストのわけです。メディアの一部と捉えてもあながち外れてはいないかと...で、特に大手メディアの閉鎖性は、例えば記者クラブの事例で明白であり、そういった内輪の村社会的体質の一端を件の報道姿勢に垣間見たような気がします。

メディアによる自画自賛報道でジャーナリストの神格化を目論んでいるのでしょうか。ジャーナリズムに殉死したとでも...

誤解を恐れずに記せば、イスラム過激派が少年少女達に自爆テロを迫る動機付け(=殉死)に相通ずる姿勢を感じてしまいます。穿ち過ぎでしょうか。

犯罪や事故も含めた理不尽な死は、日々、至る処で発生しているわけですが、一人の殺害事件についてこれほどまでに突出して執拗に報道されるのはかなり稀ではないかと。

まぁ、ジャーナリストが被害者の場合、その報道姿勢にうんざりする程、過剰とも思える報道が続くのは珍しいことではありません。

確かに事件の重大性を慮った結果、優先的に報道が続けられているのかもしれません。しかしながら、時として被害者がジャーナリストか、否かによって、人命や人格に格差があるかのような扱いにも見え、如何なものだろうかと思う次第です。メディアの中立性、客観性に不信感を覚えます。
――何が起こっても、責任は私自身にあります。どうか、日本の皆さんもシリアの人たちに何も責任を負わせないでください.....まぁ、必ず生きて戻りますけどね――
後藤氏がISIS入りする前にビデオ映像に残したメッセージですが、自らの意思でそれなりの覚悟を持ってISISに赴いたと推察できます。
後藤さん、3回も渡航自粛要請されていた 危険地域での取材の是非改めて問われる
翻って、先日、かぐらスキー場で男女3人のスノーボーダーが遭難しました。

明暗を分ける結果となりましたが、ネットワーク上ではやたらと”自己責任”の語を目にしました。

前者は自覚した上で自らを危険に晒したわけです。一方、後者は、危険を認識していない、言わば無知、無自覚が招いた遭難事故だったかと。

各々の行為の確信性を鑑みれば、同列に”自己責任”を云々することは適切ではない、と考えます。行為の尊さはともかくとしての話です。確信的危険行為と無自覚の危険行為、故意と過失、自己責任が問われる場面において、確信的危険行為にはより大きな責任が伴って然るべきということです。

ただ、無知こそ最強となると、それはそれで釈然としませんが...

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