2019年9月27日金曜日

続・風土

以前も記しましたが、さっさと住民投票の準備を進めるべきです。一般の市民、納税者の意志が蔑ろにされている印象です。納税意識が格段に減退しています。市民の意志が尊重される正当な行政手続きの実施を求めます。
あいトリ補助金「中止」、撤回求める署名に3万4000筆 参加アーティストら文化庁に訴え
ただそれに先立って、先日【あいちトリエンナーレのあり方検証委員会】が実施したアンケート結果が公開されて然るべきと考えます。

2019年9月21日土曜日

方便

関東で豚コレラが発生したことを受けてワクチンを接種することになったようです。

江藤拓農林水産相は20日、家畜伝染病「豚コレラ」のまん延を防ぐため、養豚場の豚にワクチンを接種する方針を正式に表明した。養豚の一大産地である関東で発生したことを踏まえ、接種を見送ってきた従来の方針を転換する。これにより、日本は国際ルールで定める「非清浄国」となる見通し。復帰には時間がかかる可能性が高く、豚肉の輸出などに影響が出そうだ。農水相、ワクチン接種表明=各知事が判断-豚コレラ対策
豚へのワクチン接種を開始すると、国際的に”ワクチン接種が必要な国”との位置付けとなり輸出する豚肉の商品価値が毀損する...豚コレラが中部地方の広い範囲で発生し、養豚産業に深刻な被害をもたらしているにも拘らず、政府がワクチン接種を認めなかった理由は、豚肉輸出の打撃になるため、そう理解していました。

では一体、日本の豚肉輸出量、輸出額はどの程度だろうか、というのは自然な疑問です。
農林水産省の、
平成29年農林水産物・食品の輸出実績 (品目別)
によれば、H.29年で約2,300トン(約10億円)とのこと。

一方、日本国内の豚肉生産量は、豚肉需給表によればH.29年度で897,000トンです。えーと、本当に全生産量の約0.25%程の輸出を守るためにワクチンの接種をしなかったのか?養豚業者に壊滅的被害が生じているのを座視していたのだろうか、俄には信じ難い話です。

上記に何か誤りがあって合理的理由によりワクチン接種をしなかったと受け止めたい処です。ただ、全く上記通りならば、行政に対する不作為の謗りは免れないと考えます。

ヒトの感染症であれば行政は迅速に対応するでしょう。輸出量、輸出額の点から豚肉が重要な輸出品目で、商品価値を毀損してしまうという理由でワクチン接種を躊躇したならば理解できないわけではありません。

ただ、巷間、スーパーを始めとする量販店で米国産やカナダ産の輸入豚肉が溢れる中、国産豚肉にどこまでの輸出競争力があるのか疑問を持って検索してみるとこの有り様です。

初動を謬ったのは間違いありませんが、ではなぜ謬ったのか。

推測してみると、
1)豚コレラの脅威を甘く見ていた。被害が拡大する中、行政の無謬性もあって、謬りを自認できず輸出云々を理由に置き換えた。
2)豚コレラの発生地とその周辺の地域単位でワクチン接種を行うと、当該地域で生産された豚肉にはワクチン接種豚のレッテルが貼付される。このことは国内での当該地域産の豚肉の商品価値を毀損してしまい競争力を減退させる。ざくっと言えば、ワクチン接種に由来する、国内他産地との競争敗退、売上減を避けたかった。
3)豚肉輸出関連業者からの圧力。
といったところでしょうか。結局被害地域が拡大し、現在に至ったわけです。

まず3)ですが上記0.25%程度の輸出量で圧力をかけられるとは考え難く、まあ、ないだろうと。不正な口利きがあれば別でしょうけど。

2)は理由としては合理的です。ワクチン接種実施を国が判断するわけです。大きな被害が生じている中部地方では、例え豚肉の商品価値を毀損させたとしても更なる被害拡大を抑えるために接種の実施を要望する立場かと考えます。豚コレラの発生していない関東の有力産地は接種に反対の立場でしょう。自分たちには被害が及んでいないわけですから。で、ワクチンを接種していない豚肉を出荷できるわけですから接種した豚肉より競争上有利になります。従って、国が中部地方のみワクチン接種という判断を下すならば、特段反対の声は上がらないように思えます。これが九州も含めて全国一律となると反発は必至でしょうけど。つまり、豚コレラが発生した地域限定でワクチン接種を実施とすれば、もっと迅速に被害を抑えることができたのではないかと。では何故その判断が下されなかったのか?

理由はやはり1)でしょうか。中央省庁からすれば、中部で大きな被害が出たとしても、関東の有力産地や九州の有名産地に被害が及ばない限りワクチン接種は不要としていたのかもしれません。それで結局初動が遅れ、現在の状態に至ったと。
このワクチン接種の実施について大村愛知県知事は、
――地域限定でやればそこの養豚業が成り立たない――
とか、全国一律など広域での接種について
――消費者までの関係事業者の合意が得られればありだと思う――
とコメントしています。ただ、地域限定でもワクチン接種しなければそこの養豚業は壊滅してしまうのでは?と思います。全国一律など広域での接種ならというのも、”豚コレラが発生していない地域で豚肉の商品価値を毀損するワクチン接種を受け入れるはずがない”わけで、結局話が纏まらず被害が拡大、という恐れがあります。

何か的外れではないかと。知事の職務はワクチン接種を拒否したり、自分たちの地域だけでなく他地域にも接種を要望することではないはずです。ワクチンが接種された豚からの豚肉の安全を訴え風評被害を防いで販売促進に努め、収束後一刻も早く清浄国に復帰すべくロビー活動を行うことこそ本来の役目ではないかと思った次第です。

2019年9月17日火曜日

風土(11)

「表現の不自由展・その後」の中止騒動が勃発する直前に京アニ放火事件が起きました。先述しましたが、被害者遺族の中には実名の公表を拒否された方もいました。それにも関わらず、NHKは”実名を報道することが必要”と考え、”遺族の方の思いに十分配慮をして”、実名を公表しました。

しかしながら、必要な理由の具体的説明、遺族に対する配慮の内容は依然明らかにされていません。こちらも議論のきっかけを投げかけた状態で止まっています。NHK側としては既に結論が出ているとして議論するつもりはないのかもしれません。
公正中立な放送を行うNHKが必要と判断したのだから遺族が望まなくとも、拒否したとしても実名を公開する
この姿勢に全く独善的な意志を感じます。実名公表を報道の使命と責任に依るものと位置付けているのはNHK側の論理であって、見方を変えれば弱者の意向を無視したNHKというメディアの力を背景にした強者の傲慢な姿勢に映ります。

この場合、NHKを実名公開へと駆り立てたものは報道の使命と責任ということですが、報道の自由を制限されることへの反発もあったのでは、という勘ぐりを捨て切れません。率直に言えば、
いちいち取材先の意向を聞き入れていたら自由に報道できない
そういった業務が制限されることへの組織防衛や、それまで認められてきた報道の自由の幅が狭められることへの危機感の現れのような気もします。

翻って「表現の不自由展・その後」です。9月5日のNHK クローズアップ現代でこの騒動が取り上げられていました。
「表現の不自由展・その後」 中止の波紋
視聴した処、番組製作側の著しい偏向姿勢を感じました。抗議や脅迫で展示中止に至った経緯が説明され、”中止の判断は誤り”という批判へと続く流れでした。で、「表現の不自由展」の実行委員会側からはインタビュー映像が放送されました。展示中止の決定が批判されています。他、表現の自由を主張し展示を求める側はスタジオにゲスト出演して意見を開陳したり、番組向けにコメントが伝えられました。その一方、展示中止を主張する側については河村市長の会見映像を切り取って放送するなど過去の素材の使い回しでした。展示中止を求める側の理由に関してはは全く取り上げられていません。

つまり、主張が対立する両者の意見を公平に取り上げず、表現の自由を主張する側を偏重した構成になっていたわけです。まぁ、それ以前に議論すべきは、”表現の自由”が認められる条件は何かであって、果たして「表現の不自由展」はその条件を満たしているか否か、です。そのあたりの議論が深まらないように避けて、ただ”表現の自由”を声高に求めるという番組内容もどうなんでしょうか。底が浅いと言わざるを得ません。

上述した京アニ放火事件被害者の実名公開の場合と同様に、自由が制限されることへの防衛本能でも働いているのだろうか、とさえ思ってしまいます。視座によっては独善的、身勝手にも見える報道ですら可能にする報道の自由が脅かされることなく、既得権として護持したい、そんな思惑が垣間見える気がします。

それだけではなく、「表現の不自由展」で掲げられた慰安婦像の説明と、番組で放送された該像の作者の作品説明との食い違いも指摘されています。
英語の解説文には、「Sexual Slavery」(性奴隷制)という言葉があり、「性奴隷」の象徴としてこの少女像が存在していることがしっかり記されていた。
説明書きを読んでみると〈1992年1月8日、日本軍「慰安婦」問題解決のための水曜デモが、日本大使館で始まった。2011年12月14日、1000回を迎えるにあたり、その崇高な精神と歴史を引き継ぐため、ここに平和の碑を建立する〉と書かれている。
(略)
しかし、クローズアップ現代には少女像の作者が登場し、「(これは)反日の象徴として語られていますが、私たちは平和の象徴と考えています。(戦争の)悲しみと暗い歴史を語る象徴なのです」というインタビューが放映された。
クロ現「表現の不自由展」特集で痛感した「NHKという病」より
真偽は判りませんが、事実であればあからさまな印象操作です。こういった視聴者を誤認させる印象操作を行う自由も護持しておくためにも、”自由”の必要性を訴える番組構成を企図したのかもしれません。

公平で中立を装って、その実、偏向した番組を放送するというのは悪質です。(池上彰氏がよく口にする)注意して視ていないと知らず知らずの内にそれが”正しい”と刷り込まれてしまいます。油断も隙もあったもんじゃない、というのが該番組の素直な印象です。


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いずれにせよ、愛知県とか名古屋市が文化とか芸術事業に手を出すとロクなことにならないわけです。向いていないことを実感します。下手に迎合するすることなく、都市ブランドイメージ調査の、最も訪れたくない、魅力ない街の座を守ってほしいものです。愛知県や名古屋市が果たすべき都市や地域の役割、機能はそんな処にはありません。ヨソ者を受け付けない排他的な地域、観光客に厳しい都市といった評価を一層高めてほしいものです。

2019年9月15日日曜日

風土(10)

「表現の不自由展・その後」実行委員会

未だ、上記実行委員会の言動について不可解な部分が多く丁寧な説明を求めたい処です。

9月15日現在、「表現の不自由展・その後」の再開を求める運動や集会が継続して行われているようです。

「不自由展」再開求める声、今も 芸術祭は残り1カ月
ただ、津田大介 芸術監督が言及してきた、”議論のきっかけにしたい”という展示の目的は既に十分達成できているのではないでしょうか。今必要なことは展示の再開を求める活動ではなく議論を始めることです。

尤も先述したように、議論する意志があるのならば既にこれまで散々機会はあったはずです。そういった機会に真摯に議論することなく「表現の不自由展・その後」が企画されているわけですから、一体何時になったら議論がはじまるのか?、議論するつもりはあるのか?、そんな思いにかられます。これでは、展示が再開されたとしても議論など始まらないだろうと。

そうなると、今展示の再開を求めて活動している人々の、展示の目的は一体何だろうか、よく解りません。

彼ら彼女らが求めている「表現の不自由展・その後」展示再開のその先というか、根底にある目的について少し考察してみます。

思いつくままに列記してみると、
1)表現の自由が保障された社会の実現
2)自分達の作品が展示中止になったことへの反発
3)日韓で軋轢の続く慰安婦問題で日本の立場を妨害
4)他者からの介入で本意ではない中止を強いられたことへの反発
5)展示再開如何を問わず反体制的な活動そのものを偏好
1)については先述しましたが、慰安婦像である必然性はありません。そういった社会の実現に向けて社会の多くが共感できる作品でなければ無意味です。従って、1)を目的とした展示再開の要望には合理性がありません。

2)に関し、自分達の作品が展示中止にされたということは、該作品が展示に値しない、若しくは害を及ぼすと位置付けられた、ということです。少なくとも日本の社会において価値のないもの、有害なものと評価されているわけで、まぁ作家としての誇りを傷つけられた、ということなんでしょう。このことに対する反発、存在意義の主張のために展示再開を要求する、というのは理解できます。が、この場合、徒に展示再開を要求しても事態の好転は見込めません。自尊心を傷つけられたとしてもその評価を甘受するか、或いは、そのような評価となった理由を顧みるべきです。

3)を目的に、日本国憲法で保障されている表現の自由を持ち出すのも理解に苦しみます。こちらも先述していますが、ほぼ公益に等しい日本の国益を毀損せしめる行為を日本の憲法が容認するのか、といった話です。憲法の存在意義を考慮すれば、3)を目的とすることは根本的に誤りです。

特段、指揮下にあるわけでもないにも関わらず第三者から自身の言動を制限されるのが不快であることは心情的に理解できます。4)は、大村知事の展示中止決定に対する単なる反発解消を目的に展示の再開を要求するというものです。邪魔をされたから反発するというのも大人気ない話です。展示の中止、即ち邪魔をされたのなら、その理由に思いを至らすことができないのか...現状は、”私達は悪くない。悪いのは中止決定を下した知事だ。”そういった感が強く伝わってきます。安全上の問題だけではなく、それなりの理由に依拠して「表現の不自由展・その後」に対する抗議が行われたわけですから、やはりそういった考えに真摯に正対すべきです。観覧側が見たくない、見せてほしくないと思っているものを公の場で展示するという行為は容認されるのか、表現の自由はどこまでの範囲で保障されるべきか、そういった問いに答えが用意されないまま展示の再開を要求するのも正当とは思えません。再開と中止が繰り返されるだけです。

5)については言及しません。活動することそのものが目的ですから。

現在愛知県は、”あいちトリエンナーレのあり方検証委員会”でアンケート調査を実施しているようです。
【あいちトリエンナーレのあり方検証委員会】アンケート調査を実施します
 遅きに失した感は否めません。開催前の早い時期に、公式に県民の意見を集約すべきでした。尤も、秘密裏に「表現の不自由展・その後」の開催準備が進められていればそんな調査はできなかったわけですが。

これに対して実行委員会から
「不自由展への評価集計は、そのまま展示への圧力に直結する」
と抗議の声が上がっているようです。県民、納税者といった社会の総意で”見たくない”とか”展示すべきでない”という結果は圧力でもなんでもありません。むしろそれでも展示再開を要求する立場の根拠の理解に苦しみます。

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やはり、根幹は”表現の自由が及ぶ範囲”に対する認識の相違に帰結する話です。被表現者、つまり表現の受け手が傷ついたり、望まない表現や、公益を害する表現さえも、制限されることなく自由に表現できるのか、といった問題もここに含まれます。この隔たりが埋まらない限り、燃料投入の度に騒動は繰り返されていきます。永遠に解決しません。

「表現の不自由展・その後」の展示再開を要求する人々も徒に権利としての表現の自由を主張するのみで、その適用範囲について真摯に正対することを避けているかに見えます。

そうなると、
”エルサレムでコーランを破く
”6月4日に天安門広場をくまのプーさんの着ぐるみ着用で散歩する”
”赤の広場でプーチンの肖像写真を焼いてみる”
”英国で捕鯨の写真展を開催する”
については合理性のある答えを用意できているのか、用意があるとしてどういった思想的礎に依拠したものなのか、問い質したい処です。


次のエントリでは、おまけでこの騒動のNHKの取り扱いについて記してみます。

2019年9月12日木曜日

風土(9)

津田大介 あいちトリエンナーレ2019 芸術監督

当初は、大村知事と同様に、”表現の不自由展・その後”に対する展示中止の圧力を、表現の自由を理由に撥ねつけようとしました。
行政はトリエンナーレのいち参加作家である表現の不自由展実行委員会が「表現の自由の現在的状況を問う」という展示の趣旨を認めているのであって、「展覧会内で展示されたすべての(個別の)作品への賛意」ではないという立場です。その前提に則りお答えすると、行政が展覧会の内容について隅から隅まで口を出し、行政として認められない表現は展示できないということが仕組み化されるのであれば、それは憲法21条で禁止された「検閲」に当たるという、別の問題が生じると考えます。「表現の不自由展・その後」について津田大介芸術監督が会見を行った際に配布したステートメントです(2019年8月2日)
ところが、騒動が大きくなるに従い、芋引いて知事の中止決定を支持し、一転、”実現は難しいと伝えたが実行委員会から拒絶された”と釈明しました。
あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告
で、騒動勃発以前に遡ってざっと検索してみた処、「表現の不自由展・その後」についての情報は7月下旬まで殆ど見つかりませんでした。箝口令でも敷かれていたのか、後戻りできない時点まで内々で準備が進められていたとの印象です。河村たかし会長代行にも知らされていなかったようですから。”意図して秘密裏にことを運んだ”とみるのが合理的です。

これは、実行委員会に言わせれば、検閲を受けて改変や中止を迫られることを避けるためということなんでしょうが、言い換えれば物議を醸す、騒動が起きる可能性を十分認識していたということです。秘密裏に進めて開催日さえ迎えてしまえば展示を続けられるといった腹づもりだったのか...向き合い方が幼稚というか、そうまでして展示を強行させる実行委員会の独善性が不思議です。手放しの表現の自由を求めることの正当性は一体何に依拠しているのか、そこまでの利己的姿勢を形成せしめる行動原理の正体は何か、それはそれで気になる部分です。

数少ない公開情報としては、

”津田大介と東浩紀による「あいちトリエンナーレ2019が始まってもないのに話題沸騰してるけどその裏側を語る...”
あたりでしょうか。現在は公開終了になっていますが、
東「天皇が燃えたりしてるんですか?」(略)津田「2代前だし歴史上の人物かな、みたいな」 津田大介氏と東浩紀氏のあいちトリエンナーレ対談動画で国会参考人招致を求める声も
から断片的に内容を窺い知ることができます。これはおそらく観測気球で、「表現の不自由展・その後」の内容を小出しにして巷間の反応を見てみたわけです。この時にはそれほどの支持も抗議もなく、”大丈夫なんじゃないか”と気にすることなく展示に踏み切った結果、御存知の騒動と相成ったわけです。

まさかここまでの騒動になるとは想定外だった、たかをくくっていた、ということだったのでしょう。それは7月上旬のインタビュー、
やりたいことをかなり自由にやらせてもらっています。ほかの芸術祭と違って、あいちは事務局50~60人が全て県職員。普通はイベント制作会社や広告会社に投げることが多いはず。県職員の毎回3分の2が入れ替わる分、芸術監督に与えられている権限は大きい
や、 掲載写真の説明文
大きなイベントを手がけるのは初の経験。「自分にはイベントをプロデュースする適性はあるなと思った」と話す津田大介・芸術監督<金曜カフェ>ジャーナリスト・津田大介さん あいち芸術祭 監督としてより)
といった自信たっぷりの発言からも明かです。ある程度の物議、騒動は予想してというか、むしろ期待して開催してみたわけです。自分たちが「表現の不自由展・その後」の意図を説明すれば騒動は想定の範囲内に制御可能だろうと。ところが、いざふたを開けてみると名古屋市長まで参加して展示中止一択の爆念状態になったしまいました。この状態までは想定してなかったはずです。瞬く間に中止に追い込まれ謝罪と弁明するはめに陥って今日に至っています。

これを見通しが甘すぎた、その任に能わずと断じてしまえば、事はそれで終りの話ではあります。しかしながら、上記のあいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告内にある、
《平和の少女像》の具体的内容や背景
の記述内容を読んでみて、ここにはむしろ、炎上するべくして炎上した理由、或いは、意図的に炎上させる仕掛けが在るのではないか、と思料しました。ちょっと考えてみます。

記述内容には
《平和の少女像》は正式名称を「平和の碑」と言い、「慰安婦像」ではない、と作者が説明しています。
とあって慰安婦像であることを否定しています。ただ、慰安婦像を想起させ、慰安婦問題の象徴として日韓で受け止められていることは周知の事実です。全てではないにせよ、そう認識している多くの人々にとっては、”慰安婦像ではない”との説明があっても見方は容易には変わりません。むしろ、その実状から目を逸らし、あえて伏せている印象を抱きます。意図的だったとか、偶然、結果としてとかはともかく、実状に触れない説明では炎上するのも道理です。

上記説明が、東京 練馬で催された最初の展示会の説明としてならまだ理解できます。しかしながら、「表現の不自由展・その後」における《平和の少女像》の説明としては全く的外れです。撤去や拒否によって展示が中止となった理由や経緯の説明、つまり、”最初の「表現の不自由展」という場における《平和の少女像》の位置づけ”こそが「表現の不自由展・その後」における《平和の少女像》の説明となります。”慰安婦像を想起させ、慰安婦問題の象徴として利用されている”実態に触れないまま、最初の、元々の説明を繰り返しても無意味です。

上記説明で、《平和の少女像》展示に反感を持っている人々の理解を得るつもりだったとしたら、あまりにも思慮が足りないというか、間抜けです。そういう意味で、実は意図的にというか、いけしゃあしゃあと実状を伏せて”慰安婦像ではない”と説明すれば、確信的に炎上させたとの批判を浴びるのも当然です。

まぁ、元々”そんな説明などそもそも読まれない”から直情的な反発が抗議や恫喝という形で具現化したのでしょうけど。

上記の説明が、その説明で理解を得ることができるとした本意によるものか、或いは炎上の確信犯として用意した口上であるかは知る由がありません。過失か、故意か、いずれにせよ、このような場面では常套句である
そんなつもりはなかった
を取り入れた弁明が行われます。頻繁に耳にする文言です。イジメやハラスメントの加害者、失言をした大臣からなど、巷は”そんなつもりはなかった”で溢れています。新たな使用例が加わったわけです。

やはりこの時、
――もし、誤解を与えているとしたならば、私の不徳致す処です。お詫び申し上げます――
と定形の枕詞をつけて形ばかりの謝罪を行っても良かったのかもしれません。そうすることで炎上から批判、謝罪へと続く一連の演舞?形?を披露することができました。

ともあれ、当事者が”自由”についての確固たる姿勢、そして周囲を理解させる合理的説明を欠いたまま
――議論のきっかけになればいい――

で立ち止まっていれば騒動は避け得ず、まぁ別の誰かによっていずれ再発するんだろうなと、思った次第です。


次のエントリでは「表現の不自由展・その後」実行委員会の言動について記してみます。

2019年9月1日日曜日

風土(8)

大村秀章 愛知県知事

河村たかし 名古屋市長からの抗議をきっかけに、あいちトリエンナーレ2019”表現の不自由展・その後”は展示中止となり現在に至っています。その決定はあいちトリエンナーレ実行委員会会長である大村秀章 愛知県知事によって下されました。

ただ中止決定の理由は”日本人の、国民の心を踏みにじるもの”という河村市長の抗議ではなく、
――ガソリン携行缶を持ってお邪魔する――
といった京アニ放火事件を連想させるような、脅迫によるものとのことでした。

河村市長の抗議には、大村知事は当初、表現の自由の侵害で検閲に当たり、憲法違反の疑いがある、と反論しました。
憲法違反の疑いが極めて濃厚ではないか。憲法21条には、"集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。"、"検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。"と書いてある。最近の論調として、税金でやるならこういうことをやっちゃいけないんだ、自ずと範囲が限られるんだと、報道等でもそうことを言っておられるコメンテーターの方がいるが、ちょっと待てよと、違和感を覚える。全く真逆ではないか。公権力を持ったところであるからこそ、表現の自由は保障されなければならないと思う。というか、そうじゃないですか?税金でやるからこそ、憲法21条はきっちり守られなければならない。河村さんは胸を張ってカメラの前で発言しているが、いち私人が言うのとは違う。まさに公権力を行使される方が、"この内容は良い、悪い"と言うのは、憲法21条のいう検閲と取られてもしかたがない。そのことは自覚されたほうが良かったのではないか。裁判されたら直ちに負けると思う大村知事「河村市長の主張は憲法違反の疑いが極めて濃厚」…県には”京アニ放火”に言及した脅迫メールも

情けないことに、上記発言は言行不一致あったことが判明しています。後ほど触れますが、とりあえず該発言について言及します。

発言当初この発言は”愛知の誇りや!”などと称賛する声もありました。
【表現の不自由展】大村知事「河村市長の主張は憲法違反の疑いが極めて濃厚」
後に知事自身が梯子を外すわけですが、それに対しては口を噤んでしまっているようです。

これも表現の自由?/『愛知県の大村知事、 #あいちトリエンナーレ 関連のツイートを全削除しましたね』とネットユーザの証言
さて、上記発言についてですが、以前のエントリで触れた通りですが、別の事例で補遺します。

今回、”表現の不自由展・その後”が展示中止に至った理由は、
――大至急撤去しろ。さもなくばガソリン携行缶を持ってお邪魔します。――
という脅迫Faxによるものでした。

では、この脅迫文の文言は表現の自由として容認されるものでしょうか。実際に実行する意図はなかったとしてもFaxの送信者は威力業務妨害の疑いで逮捕されました。”容認されるものではない”というのが衆目の一致する処であるのは間違いありません。

この時、この文言と慰安婦像の展示には差異、隔たりがあるわけです。Faxの送信者が威力業務妨害の疑いで逮捕されたことから、その線引きは違法性の有無、つまり法が両者を隔てていることを示しています。このことは当に、表現の自由は法治主義の枠内でこそ認められているに過ぎない、ということです。

この法治主義はあくまで日本という国家の中で、その在り方を規定する原則であって他国に及ぶものではありません。表現の自由は日本の法治主義の下に在ります。憲法を国の根本的な基本法として、その下で国内法が体系化されて法治国家の枠組みが形成されていると理解しています。

日本国憲法の前文内には、

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。
とあって、国政の福利は国民が享受することは普遍の原理で、憲法はそのためのもの、ということです。換言すれば憲法は(日本の)公益のためであって、公益を害することを憲法の目的としていないのは明白です。

確かに、慰安婦像の展示は法に抵触する行為ではないかもしれません。しかしながら、公益を害することは明らかであって、これはそもそも憲法の目的に合致したものではないわけです。憲法で保障されているからといって、表現の自由を大上段に振りかざしても、元々憲法の目的ではない公益を害する行為は自由の対象外です。その視点に立てば、慰安婦像の展示が表現の自由云々以前に不適切であるのは記すまでもない、極当然のことです


その後、大村知事は8月13日知事記者会見の質疑応答で、6月半ばあたりに”表現の不自由展・その後”の内容を知らされ、
これ本当にやるのかということで、津田監督を通して、また津田監督にもそうだし、津田監督を通してですね、これについてはどうかと。この展示についてはやめてもらえんかとかですね、これはこうじゃないかとかですよ、例えば実物じゃなくてパネルにしてくれたらどうかとかですよ、これは中は写真は撮っちゃ駄目だと、見てもらうだけだということとか、いろんな強い要望、希望は申し上げましたよ。強い要望、希望。
と要望したことを明らかにしました。続いて、
だが、それはしかし、それを一線越えるとですね、越えると、だから、多分またその憲法21条の話になってしまうおそれがあるわけですよ。
と。”心を踏みにじる”といった文言はありませんが、河村名古屋市長と似たような要望を出されています。一線を超える超えないで憲法違反になるとかならないとか述べられていますが、その一線についての詳細は不明です。結局、
それだったらこの企画展全部やめるとかいうような話もされたりしてですね。そうなると、まさに憲法21条そのものの話になってしまうということなんですよね。
となって展示を容認したとのこと。会見内容が後講釈感で充満しています。騒動が勃発してから、”実は...本意ではなかった”と弁明するのは、トリエンナーレの最高責任者で最大の権限を持つ実行委員会の会長としてその適格性に疑義を抱かざるを得ません。勿論、首長としてもです。

それと前後して、あいちトリエンナーレ関連のツィートを全削除されています。
大村知事はツイート削除、公式からは協賛・協力消える 殺到する「苦情」で続く余波
その理由は、
最近、私は過去のツイッターの一部を削除しましたが、これは 愛知トリエンナーレの展示の一部中止の件と関係のないお知らせの関係者に対し、同件に関する書き込みがなされ、ご迷惑をおかけする事態になったため、やむを得ず削除したものです
とのこと。これはこれで、隠蔽というか”なかったこと、関わっていなかった”ことにしようという疑いを持たれ、自ら燃料を投入してしまいました。

現在、”あいちトリエンナーレのあり方検証委員会”が設置され、”表現の不自由展・その後”の展示中止騒動等の問題が検証されているようです。ただ、それに先立ってトリエンナーレ実行委員会の会長が、迷走の記録を削除しているわけです。形式的な検証とか結論ありきの検証との疑いを呼ぶのも避けられないかと。検証結果が気になる処です。


さて、河村たかし 名古屋市長の肝いりが名古屋城復元事業なら、対抗する大村秀章 愛知県知事はジブリパークの開業です。

同じく私見を交えますが、これは公が手がける事業としての適切性に首を傾げています。ディズニーランドやサンリオピューロランドは民営です。民間のアニメ制作会社の名を冠するテーマパークに自治体が公共事業として関わる必然性を理解することに難儀しています。

少し調べてみますと、ジブリパークの目的は、
1)2005年に開催された愛知万博の理念を次世代へ継承
2)スタジオジブリの作品を将来にわたって伝え残す
とありました。

ここで、はっきりと明文化された文言が見つかりませんでしたが、愛知万博の理念とは、
自然や環境に配慮した技術と社会システムによって地球的課題の解決を進め、持続可能な社会の実現を目指す
と理解しました。これが、
ジブリの世界観は愛・地球博の理念に一致する。その世界を広げていくことが万博の理念の継承、レガシー(遺産)を進化させることにつながる(大村知事)
にどう結びついていくのかよく解りません。世界観とか理念といった語はふわっとしていて抽象的、主観的です。言われればなんとなく一致しているようにも思え、気を抜くと賛同してしまいそうです。

発案者である大村知事には、ジブリの世界観と愛・地球博の理念を客観的に明文化し、両者の何がどのように一致しているのかを説明する義務があると考えます。

尚、”持続可能な社会の実現”という上記理念については特段異論はなく、支持致します。ただやはり腐心すべきは、理念の下”前に進めるか”、或いは”進むために何を為すべきか”であって、理念の継承のみでは、”議論のきっかけになればいい”と同じです。

愛知万博が開催された2005年以降でも、今日まで幾つもの自然現象に遭遇し、益を受ける一方、害を被ってきました。2005年当時は地球温暖化対策としての環境保全と資源保護が重視されていた覚えがあります。燃料電池、風力や太陽光、化石燃料の使用抑制、排出CO2削減、再生可能資源(木材)の利用、家電やプラスティックのリサイクル辺りがキーワードだったかと。

今日枯渇が危ぶまれている水産資源、昨今多発している気候変動や自然災害に関して、当時の注目度はそれほど高くはなかったと思います。こういった当時予測し得なかった一連の自然現象に対し、果たしてどこまで上記理念を生かすことができたのか、疑念を払拭できません。特に、2011年の東日本大震災とそれに伴う原発事故について、該理念を踏まえて何か提言できただろうか、甚だ疑問です。

理念は具現化されているのか、愛知万博を経て少しは賢くなっているのか、そういった部分が蔑ろにされています。”世界観が理念と一致する”との理由で公共事業としてテーマパークを造ってもなぁ、というのが正直な印象です。

ファンタジーの世界で描かれている自然の大切さとか、環境保全の重要性を直ちに現実世界と結びつけることにはやはり躊躇を覚えるわけです。該理念の継承と更には実践に、ジブリパークどう寄与するのか客観的な説明が必要です。

加えて言えば、ジブリパークは愛知県が手がける公共の施設です。ここで”表現の不自由展・その後”に準えて考えると、愛知県という公が、民間のアニメ制作会社であるジブリの思想信条を肯定する、公益に資するものとして正当性を裏付けることを意味します。勿論、慰安婦像に較べれば、偏向が少なく中立性は高いとは思います。しかしながら、だからといって公に求められる中立の要件を満たしているかは別の話です。やはりスタジオジブリの思想信条を明確にし、ある意味それを公共の思想信条とすることの適切性を精査する必要を感じます。知事の安直な共感ではこころもとないなぁ、ということです。

少なくとも自然尊重、環境優先を絶対視して、盲目的な懐古主義、復古主義に傾くことには異を唱えます。

但し、ジブリパークがアミューズメント施設、観光施設として強力な集客力を発揮するであろうことは間違いありません。少なくとも賭場より健全で優っているのは確かです。ジブリの名には世界中から来場者を引き寄せる誘引力があります。それだけにアミューズメント施設として来場者に迎合する機能と、愛知万博の理念を来場者に伝える目的が上手くマッチングしていくのか注視したい処です。

以降は話が逸れた私見です。

ジブリパークの事業も名古屋城復元事業と同質のものを感じます。直感的に表現すれば、大村秀章記念公園でも作りたいのかな、ということです。古くからトンネルや道路、橋、ダムなどで似たような話を聞きます。こういった公共事業では費用便益比(B/C)を事業実施の一つの判断指標とするのが当然だと思いますが、この辺りジブリパークはどうなんでしょうか。尤も、”B/Cがどうであれ必要な道路は作る”との発言も耳にしたことがありますから結論ありきなのかもしれません。

でですね、数々のアニメに代表される空想というか虚構の世界が、現実空間に再現されることに戸惑いを覚えないでもありません。バーチャルな世界に在るはずの事物が、実際の事物として目に入った時、両者を同一物として認識することに微妙な抵抗感を抱くわけです。受け入れる際、スムーズに認識できず、タイムラグが生まれるような気がします。

これが逆方向、即ち聖地巡礼っていうのでしょうか、アニメ作品のモデルとなった場所を訪れた場合、”あぁ、ここがあの場所なのか”即座に違和感なく認識できるのですが。

これはおそらく、現実世界では事物についての情報量が圧倒的に多いことによるものだろうと推測しています。

アニメで表現されている事物を現実世界で表現しようとすると、色数、立体感、質感その他の情報が全く不足します。そこで、制作者は不足情報を補完して現実の事物を表現するわけです。この時、この補完情報が鑑賞者各々の頭の中にある補完情報と一致しないため違和感が生まれるということです。簡単に言えば、”何だか思い描いていたものと違う”と。

一方、現実空間の事物がアニメ化された場合、エッセンスの抽出、つまり多量の情報の間引きが行われています。情報を加えるのではなく、差し引いて本質部分を残すこと、これが脳内での現実からアニメへの変換に抵抗感がない理由ではないかと。違和感なく”あぁ、ここがあの場所なのか”との思いが去来するのはこのためです。

しばしば行われる、文芸作品の実写化、漫画のアニメ化、洋画の日本語吹き替えにおいて、具現化された映像や声と脳内で想像していたものとの間でギャップを感じることが少なくありません。ところが、”馴れる”ということなんでしょう。いつしかそういうものと頭の中で固定化されていることに気づきます。言い換えれば、与えられたもの以外を認め難くなり排他的になってしまう、ということです。自身が思い描いていた像すら受け入れ難くなったり、否定してしまうことも起こり得ます。正解がない問題に解答例が与えられると、それを受け入れて満足し、他の正解を誤りとして排除してしまう、あまつさえ自身の正解すらも...

外部からの具現化された情報の視聴覚は、それによる内心の占有、元々持っていた思いの排除と、その後の”思いを巡らすこと”の放棄に繋がる恐れを危惧してしまいます。外部からの情報が、あくまで一つの見方として留まればいいのですが、容易ではありません。具現化された視聴覚情報は強力で、心中の儚い思いなど容易に霧散せしめ、自由に思いを巡らすことを制限してしまいます。


次は津田大介 あいちトリエンナーレ2019 芸術監督の言動について考えてみます。