2019年9月1日日曜日

風土(8)

大村秀章 愛知県知事

河村たかし 名古屋市長からの抗議をきっかけに、あいちトリエンナーレ2019”表現の不自由展・その後”は展示中止となり現在に至っています。その決定はあいちトリエンナーレ実行委員会会長である大村秀章 愛知県知事によって下されました。

ただ中止決定の理由は”日本人の、国民の心を踏みにじるもの”という河村市長の抗議ではなく、
――ガソリン携行缶を持ってお邪魔する――
といった京アニ放火事件を連想させるような、脅迫によるものとのことでした。

河村市長の抗議には、大村知事は当初、表現の自由の侵害で検閲に当たり、憲法違反の疑いがある、と反論しました。
憲法違反の疑いが極めて濃厚ではないか。憲法21条には、"集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。"、"検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。"と書いてある。最近の論調として、税金でやるならこういうことをやっちゃいけないんだ、自ずと範囲が限られるんだと、報道等でもそうことを言っておられるコメンテーターの方がいるが、ちょっと待てよと、違和感を覚える。全く真逆ではないか。公権力を持ったところであるからこそ、表現の自由は保障されなければならないと思う。というか、そうじゃないですか?税金でやるからこそ、憲法21条はきっちり守られなければならない。河村さんは胸を張ってカメラの前で発言しているが、いち私人が言うのとは違う。まさに公権力を行使される方が、"この内容は良い、悪い"と言うのは、憲法21条のいう検閲と取られてもしかたがない。そのことは自覚されたほうが良かったのではないか。裁判されたら直ちに負けると思う大村知事「河村市長の主張は憲法違反の疑いが極めて濃厚」…県には”京アニ放火”に言及した脅迫メールも

情けないことに、上記発言は言行不一致あったことが判明しています。後ほど触れますが、とりあえず該発言について言及します。

発言当初この発言は”愛知の誇りや!”などと称賛する声もありました。
【表現の不自由展】大村知事「河村市長の主張は憲法違反の疑いが極めて濃厚」
後に知事自身が梯子を外すわけですが、それに対しては口を噤んでしまっているようです。

これも表現の自由?/『愛知県の大村知事、 #あいちトリエンナーレ 関連のツイートを全削除しましたね』とネットユーザの証言
さて、上記発言についてですが、以前のエントリで触れた通りですが、別の事例で補遺します。

今回、”表現の不自由展・その後”が展示中止に至った理由は、
――大至急撤去しろ。さもなくばガソリン携行缶を持ってお邪魔します。――
という脅迫Faxによるものでした。

では、この脅迫文の文言は表現の自由として容認されるものでしょうか。実際に実行する意図はなかったとしてもFaxの送信者は威力業務妨害の疑いで逮捕されました。”容認されるものではない”というのが衆目の一致する処であるのは間違いありません。

この時、この文言と慰安婦像の展示には差異、隔たりがあるわけです。Faxの送信者が威力業務妨害の疑いで逮捕されたことから、その線引きは違法性の有無、つまり法が両者を隔てていることを示しています。このことは当に、表現の自由は法治主義の枠内でこそ認められているに過ぎない、ということです。

この法治主義はあくまで日本という国家の中で、その在り方を規定する原則であって他国に及ぶものではありません。表現の自由は日本の法治主義の下に在ります。憲法を国の根本的な基本法として、その下で国内法が体系化されて法治国家の枠組みが形成されていると理解しています。

日本国憲法の前文内には、

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。
とあって、国政の福利は国民が享受することは普遍の原理で、憲法はそのためのもの、ということです。換言すれば憲法は(日本の)公益のためであって、公益を害することを憲法の目的としていないのは明白です。

確かに、慰安婦像の展示は法に抵触する行為ではないかもしれません。しかしながら、公益を害することは明らかであって、これはそもそも憲法の目的に合致したものではないわけです。憲法で保障されているからといって、表現の自由を大上段に振りかざしても、元々憲法の目的ではない公益を害する行為は自由の対象外です。その視点に立てば、慰安婦像の展示が表現の自由云々以前に不適切であるのは記すまでもない、極当然のことです


その後、大村知事は8月13日知事記者会見の質疑応答で、6月半ばあたりに”表現の不自由展・その後”の内容を知らされ、
これ本当にやるのかということで、津田監督を通して、また津田監督にもそうだし、津田監督を通してですね、これについてはどうかと。この展示についてはやめてもらえんかとかですね、これはこうじゃないかとかですよ、例えば実物じゃなくてパネルにしてくれたらどうかとかですよ、これは中は写真は撮っちゃ駄目だと、見てもらうだけだということとか、いろんな強い要望、希望は申し上げましたよ。強い要望、希望。
と要望したことを明らかにしました。続いて、
だが、それはしかし、それを一線越えるとですね、越えると、だから、多分またその憲法21条の話になってしまうおそれがあるわけですよ。
と。”心を踏みにじる”といった文言はありませんが、河村名古屋市長と似たような要望を出されています。一線を超える超えないで憲法違反になるとかならないとか述べられていますが、その一線についての詳細は不明です。結局、
それだったらこの企画展全部やめるとかいうような話もされたりしてですね。そうなると、まさに憲法21条そのものの話になってしまうということなんですよね。
となって展示を容認したとのこと。会見内容が後講釈感で充満しています。騒動が勃発してから、”実は...本意ではなかった”と弁明するのは、トリエンナーレの最高責任者で最大の権限を持つ実行委員会の会長としてその適格性に疑義を抱かざるを得ません。勿論、首長としてもです。

それと前後して、あいちトリエンナーレ関連のツィートを全削除されています。
大村知事はツイート削除、公式からは協賛・協力消える 殺到する「苦情」で続く余波
その理由は、
最近、私は過去のツイッターの一部を削除しましたが、これは 愛知トリエンナーレの展示の一部中止の件と関係のないお知らせの関係者に対し、同件に関する書き込みがなされ、ご迷惑をおかけする事態になったため、やむを得ず削除したものです
とのこと。これはこれで、隠蔽というか”なかったこと、関わっていなかった”ことにしようという疑いを持たれ、自ら燃料を投入してしまいました。

現在、”あいちトリエンナーレのあり方検証委員会”が設置され、”表現の不自由展・その後”の展示中止騒動等の問題が検証されているようです。ただ、それに先立ってトリエンナーレ実行委員会の会長が、迷走の記録を削除しているわけです。形式的な検証とか結論ありきの検証との疑いを呼ぶのも避けられないかと。検証結果が気になる処です。


さて、河村たかし 名古屋市長の肝いりが名古屋城復元事業なら、対抗する大村秀章 愛知県知事はジブリパークの開業です。

同じく私見を交えますが、これは公が手がける事業としての適切性に首を傾げています。ディズニーランドやサンリオピューロランドは民営です。民間のアニメ制作会社の名を冠するテーマパークに自治体が公共事業として関わる必然性を理解することに難儀しています。

少し調べてみますと、ジブリパークの目的は、
1)2005年に開催された愛知万博の理念を次世代へ継承
2)スタジオジブリの作品を将来にわたって伝え残す
とありました。

ここで、はっきりと明文化された文言が見つかりませんでしたが、愛知万博の理念とは、
自然や環境に配慮した技術と社会システムによって地球的課題の解決を進め、持続可能な社会の実現を目指す
と理解しました。これが、
ジブリの世界観は愛・地球博の理念に一致する。その世界を広げていくことが万博の理念の継承、レガシー(遺産)を進化させることにつながる(大村知事)
にどう結びついていくのかよく解りません。世界観とか理念といった語はふわっとしていて抽象的、主観的です。言われればなんとなく一致しているようにも思え、気を抜くと賛同してしまいそうです。

発案者である大村知事には、ジブリの世界観と愛・地球博の理念を客観的に明文化し、両者の何がどのように一致しているのかを説明する義務があると考えます。

尚、”持続可能な社会の実現”という上記理念については特段異論はなく、支持致します。ただやはり腐心すべきは、理念の下”前に進めるか”、或いは”進むために何を為すべきか”であって、理念の継承のみでは、”議論のきっかけになればいい”と同じです。

愛知万博が開催された2005年以降でも、今日まで幾つもの自然現象に遭遇し、益を受ける一方、害を被ってきました。2005年当時は地球温暖化対策としての環境保全と資源保護が重視されていた覚えがあります。燃料電池、風力や太陽光、化石燃料の使用抑制、排出CO2削減、再生可能資源(木材)の利用、家電やプラスティックのリサイクル辺りがキーワードだったかと。

今日枯渇が危ぶまれている水産資源、昨今多発している気候変動や自然災害に関して、当時の注目度はそれほど高くはなかったと思います。こういった当時予測し得なかった一連の自然現象に対し、果たしてどこまで上記理念を生かすことができたのか、疑念を払拭できません。特に、2011年の東日本大震災とそれに伴う原発事故について、該理念を踏まえて何か提言できただろうか、甚だ疑問です。

理念は具現化されているのか、愛知万博を経て少しは賢くなっているのか、そういった部分が蔑ろにされています。”世界観が理念と一致する”との理由で公共事業としてテーマパークを造ってもなぁ、というのが正直な印象です。

ファンタジーの世界で描かれている自然の大切さとか、環境保全の重要性を直ちに現実世界と結びつけることにはやはり躊躇を覚えるわけです。該理念の継承と更には実践に、ジブリパークどう寄与するのか客観的な説明が必要です。

加えて言えば、ジブリパークは愛知県が手がける公共の施設です。ここで”表現の不自由展・その後”に準えて考えると、愛知県という公が、民間のアニメ制作会社であるジブリの思想信条を肯定する、公益に資するものとして正当性を裏付けることを意味します。勿論、慰安婦像に較べれば、偏向が少なく中立性は高いとは思います。しかしながら、だからといって公に求められる中立の要件を満たしているかは別の話です。やはりスタジオジブリの思想信条を明確にし、ある意味それを公共の思想信条とすることの適切性を精査する必要を感じます。知事の安直な共感ではこころもとないなぁ、ということです。

少なくとも自然尊重、環境優先を絶対視して、盲目的な懐古主義、復古主義に傾くことには異を唱えます。

但し、ジブリパークがアミューズメント施設、観光施設として強力な集客力を発揮するであろうことは間違いありません。少なくとも賭場より健全で優っているのは確かです。ジブリの名には世界中から来場者を引き寄せる誘引力があります。それだけにアミューズメント施設として来場者に迎合する機能と、愛知万博の理念を来場者に伝える目的が上手くマッチングしていくのか注視したい処です。

以降は話が逸れた私見です。

ジブリパークの事業も名古屋城復元事業と同質のものを感じます。直感的に表現すれば、大村秀章記念公園でも作りたいのかな、ということです。古くからトンネルや道路、橋、ダムなどで似たような話を聞きます。こういった公共事業では費用便益比(B/C)を事業実施の一つの判断指標とするのが当然だと思いますが、この辺りジブリパークはどうなんでしょうか。尤も、”B/Cがどうであれ必要な道路は作る”との発言も耳にしたことがありますから結論ありきなのかもしれません。

でですね、数々のアニメに代表される空想というか虚構の世界が、現実空間に再現されることに戸惑いを覚えないでもありません。バーチャルな世界に在るはずの事物が、実際の事物として目に入った時、両者を同一物として認識することに微妙な抵抗感を抱くわけです。受け入れる際、スムーズに認識できず、タイムラグが生まれるような気がします。

これが逆方向、即ち聖地巡礼っていうのでしょうか、アニメ作品のモデルとなった場所を訪れた場合、”あぁ、ここがあの場所なのか”即座に違和感なく認識できるのですが。

これはおそらく、現実世界では事物についての情報量が圧倒的に多いことによるものだろうと推測しています。

アニメで表現されている事物を現実世界で表現しようとすると、色数、立体感、質感その他の情報が全く不足します。そこで、制作者は不足情報を補完して現実の事物を表現するわけです。この時、この補完情報が鑑賞者各々の頭の中にある補完情報と一致しないため違和感が生まれるということです。簡単に言えば、”何だか思い描いていたものと違う”と。

一方、現実空間の事物がアニメ化された場合、エッセンスの抽出、つまり多量の情報の間引きが行われています。情報を加えるのではなく、差し引いて本質部分を残すこと、これが脳内での現実からアニメへの変換に抵抗感がない理由ではないかと。違和感なく”あぁ、ここがあの場所なのか”との思いが去来するのはこのためです。

しばしば行われる、文芸作品の実写化、漫画のアニメ化、洋画の日本語吹き替えにおいて、具現化された映像や声と脳内で想像していたものとの間でギャップを感じることが少なくありません。ところが、”馴れる”ということなんでしょう。いつしかそういうものと頭の中で固定化されていることに気づきます。言い換えれば、与えられたもの以外を認め難くなり排他的になってしまう、ということです。自身が思い描いていた像すら受け入れ難くなったり、否定してしまうことも起こり得ます。正解がない問題に解答例が与えられると、それを受け入れて満足し、他の正解を誤りとして排除してしまう、あまつさえ自身の正解すらも...

外部からの具現化された情報の視聴覚は、それによる内心の占有、元々持っていた思いの排除と、その後の”思いを巡らすこと”の放棄に繋がる恐れを危惧してしまいます。外部からの情報が、あくまで一つの見方として留まればいいのですが、容易ではありません。具現化された視聴覚情報は強力で、心中の儚い思いなど容易に霧散せしめ、自由に思いを巡らすことを制限してしまいます。


次は津田大介 あいちトリエンナーレ2019 芸術監督の言動について考えてみます。

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