2019年9月15日日曜日

風土(10)

「表現の不自由展・その後」実行委員会

未だ、上記実行委員会の言動について不可解な部分が多く丁寧な説明を求めたい処です。

9月15日現在、「表現の不自由展・その後」の再開を求める運動や集会が継続して行われているようです。

「不自由展」再開求める声、今も 芸術祭は残り1カ月
ただ、津田大介 芸術監督が言及してきた、”議論のきっかけにしたい”という展示の目的は既に十分達成できているのではないでしょうか。今必要なことは展示の再開を求める活動ではなく議論を始めることです。

尤も先述したように、議論する意志があるのならば既にこれまで散々機会はあったはずです。そういった機会に真摯に議論することなく「表現の不自由展・その後」が企画されているわけですから、一体何時になったら議論がはじまるのか?、議論するつもりはあるのか?、そんな思いにかられます。これでは、展示が再開されたとしても議論など始まらないだろうと。

そうなると、今展示の再開を求めて活動している人々の、展示の目的は一体何だろうか、よく解りません。

彼ら彼女らが求めている「表現の不自由展・その後」展示再開のその先というか、根底にある目的について少し考察してみます。

思いつくままに列記してみると、
1)表現の自由が保障された社会の実現
2)自分達の作品が展示中止になったことへの反発
3)日韓で軋轢の続く慰安婦問題で日本の立場を妨害
4)他者からの介入で本意ではない中止を強いられたことへの反発
5)展示再開如何を問わず反体制的な活動そのものを偏好
1)については先述しましたが、慰安婦像である必然性はありません。そういった社会の実現に向けて社会の多くが共感できる作品でなければ無意味です。従って、1)を目的とした展示再開の要望には合理性がありません。

2)に関し、自分達の作品が展示中止にされたということは、該作品が展示に値しない、若しくは害を及ぼすと位置付けられた、ということです。少なくとも日本の社会において価値のないもの、有害なものと評価されているわけで、まぁ作家としての誇りを傷つけられた、ということなんでしょう。このことに対する反発、存在意義の主張のために展示再開を要求する、というのは理解できます。が、この場合、徒に展示再開を要求しても事態の好転は見込めません。自尊心を傷つけられたとしてもその評価を甘受するか、或いは、そのような評価となった理由を顧みるべきです。

3)を目的に、日本国憲法で保障されている表現の自由を持ち出すのも理解に苦しみます。こちらも先述していますが、ほぼ公益に等しい日本の国益を毀損せしめる行為を日本の憲法が容認するのか、といった話です。憲法の存在意義を考慮すれば、3)を目的とすることは根本的に誤りです。

特段、指揮下にあるわけでもないにも関わらず第三者から自身の言動を制限されるのが不快であることは心情的に理解できます。4)は、大村知事の展示中止決定に対する単なる反発解消を目的に展示の再開を要求するというものです。邪魔をされたから反発するというのも大人気ない話です。展示の中止、即ち邪魔をされたのなら、その理由に思いを至らすことができないのか...現状は、”私達は悪くない。悪いのは中止決定を下した知事だ。”そういった感が強く伝わってきます。安全上の問題だけではなく、それなりの理由に依拠して「表現の不自由展・その後」に対する抗議が行われたわけですから、やはりそういった考えに真摯に正対すべきです。観覧側が見たくない、見せてほしくないと思っているものを公の場で展示するという行為は容認されるのか、表現の自由はどこまでの範囲で保障されるべきか、そういった問いに答えが用意されないまま展示の再開を要求するのも正当とは思えません。再開と中止が繰り返されるだけです。

5)については言及しません。活動することそのものが目的ですから。

現在愛知県は、”あいちトリエンナーレのあり方検証委員会”でアンケート調査を実施しているようです。
【あいちトリエンナーレのあり方検証委員会】アンケート調査を実施します
 遅きに失した感は否めません。開催前の早い時期に、公式に県民の意見を集約すべきでした。尤も、秘密裏に「表現の不自由展・その後」の開催準備が進められていればそんな調査はできなかったわけですが。

これに対して実行委員会から
「不自由展への評価集計は、そのまま展示への圧力に直結する」
と抗議の声が上がっているようです。県民、納税者といった社会の総意で”見たくない”とか”展示すべきでない”という結果は圧力でもなんでもありません。むしろそれでも展示再開を要求する立場の根拠の理解に苦しみます。

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やはり、根幹は”表現の自由が及ぶ範囲”に対する認識の相違に帰結する話です。被表現者、つまり表現の受け手が傷ついたり、望まない表現や、公益を害する表現さえも、制限されることなく自由に表現できるのか、といった問題もここに含まれます。この隔たりが埋まらない限り、燃料投入の度に騒動は繰り返されていきます。永遠に解決しません。

「表現の不自由展・その後」の展示再開を要求する人々も徒に権利としての表現の自由を主張するのみで、その適用範囲について真摯に正対することを避けているかに見えます。

そうなると、
”エルサレムでコーランを破く
”6月4日に天安門広場をくまのプーさんの着ぐるみ着用で散歩する”
”赤の広場でプーチンの肖像写真を焼いてみる”
”英国で捕鯨の写真展を開催する”
については合理性のある答えを用意できているのか、用意があるとしてどういった思想的礎に依拠したものなのか、問い質したい処です。


次のエントリでは、おまけでこの騒動のNHKの取り扱いについて記してみます。

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