2019年3月10日日曜日

果然

早速ですか...
官房長官、国内景気「緩やかに回復との認識に変わりない」
一致指数「下方局面」でも景気後退とならなかったことある=再生相
3月7日に内閣府が公表した景気動向指数で基調判断を「下方への局面変化」に引き下げたことを受けての反応です。
”この判断は「機械的」であり...”との文言も(茂木経済再生相)。機械的に算出された景気動向指数の悪化を、定性的に”下方局面”と表現したに過ぎないという認識なのですが、官房長官は指数の悪化すら認めないということなんでしょうか。


景気動向指数「下方への局面変化」に判断下げ-4年2カ月ぶり
景気、後退局面の可能性=基調判断下方修正-内閣府
ここで、使われている語に解り難い部分があり、ちょっと本題から離れて整理してみます。あくまで私の理解です。朝日新聞のネット版から同様の記事を一部引用すると、
これまでの「足踏み」から「下方への局面変化」に引き下げた。景気がすでに後退局面に入った可能性が高いことを示す。
とありました。景気が好転、或いは悪化する状況で、「足踏み」は今の状態に留まっているであろうことは理解できます。「下方への局面変化」は下方へと方向転換した、但し進んだわけではない、「後退局面」は悪化の方向へ進んでいる、そういった認識です。

ただ、悪化の方向に”下”と”後”があるのか、その違いは何なのかよく判りません。もし同じ意味で使っているならばあまり適切な語の選び方ではないなと。”下”と同じく比喩空間的位置を示したいのであれば”低”を、比喩的な定性表現ならば”悪”を用いるのが適切では、と思います。

戻ります。

で、上記景気動向指数の悪化に対する政府閣僚の反応を見ると残念な印象を抱かざるを得ません。現代の大本営発表とまでみなすのは行き過ぎでしょうが、その姿勢の本質には共通したものを感じます。

事象の客観的表現である統計をも跳ね返し、認識を改めない...その認識の正当性は一体何に依拠しているのか、或いは統計への不信感が根強くあるのか、眼前にある事実から目を逸らすのは、如何なものかと。

これは、以前のエントリで記した件の厚労省 統計不正問題や大本営発表にと同じく無謬の空気が生み出した姿勢であり、
”人は自分の見たいものしか見ない”
の好例でもあります。

過去を顧みれば、事実に目を背けた結果、後手に回った事例は枚挙に暇がないはずなんですけど。まぁ、統計というツールの役割が、時の政権による政策の正当化やその成果を自賛するという範囲内に留められているならば、致し方ない話です。

2019年3月5日火曜日

威光(追記)

こんなことを記して罰が当たったのか、総務省統計局 基幹統計 家計調査を依頼されました。面倒なことこの上なく、テキトーになるのは間違いありません。この時点で既に統計に嘘が含まれていくのか?

それはさておき、以前、ネット上に氾濫する料理写真について考えてみたことがあります。食べログに代表される飲食店で提供された料理、自宅で自身や家族が調理した料理、食材会社の販促用調理例、とにかくネット上は料理写真で溢れています。で、これらの写真は、果たして見る側に料理の実態(風味や量、食べ易さ等)を忠実に伝えているだろうか、疑問でした。

飲食店の宣伝用、食材会社の販促用写真が実体以上により良く撮影された写真であることは容易に理解できます。特に大手外食チェーン、コンビニ、大手スーパの商品宣伝用写真と、実物との間の圧倒的乖離は何故問題にならないのか不思議でなりません。

ただ、これらの写真は宣伝や販促を目的としたもので、料理の価値が嵩上げされている、下駄が履かされているであろうことは容易に理解できます。是非はともかくとして。

では、食べログ等のレビューサイトで、飲食店の来店客が投稿した料理写真、ブログ等のSNSで公開している料理写真についてはどうでしょうか。いずれも料理を提供した飲食店との利害関係のない投稿者、ブロガーを前提としています。彼ら彼女らが公開のために、無為に撮影した料理写真は嵩上げされることなく料理そのもの忠実に表しているだろうか、ということです。

おそらく、”百聞は一見に如かず”の如く、文章より写真の方が客観的に判りやすく料理を伝えられるだろう、というのが撮影者の動機ではないかと推量しています。この時、撮影者は、自分が目にした料理をそのまま写真という手段で伝えようとしているだけで、粉飾して撮影する意図はないのかもしれません。

しかしながら、撮影時、意図せずとも綺麗に、そして美味しく見えるように撮影しようとする潜在的な意識が働いていると思料しています。”料理を撮影する”という行為自体が、ピント、背景、照明、構図等を調整して料理を美味しそうに伝える動機になっている、ということです。該行為から、料理を実体以上に嵩上げして伝えてしまう可能性を排除することは困難と考えています。

歴史や統計だけでなく、写真もウソがないわけではない、と穿った見方をしています。

この行為そのものが結果を変歪させてしまう恐れは、統計処理においても免れ得ません。適正の範囲内であっても、期待した方向に結果を引っ張るような統計操作十分ありえる話です。

この統計不正問題において、野党側は政権与党に対し、アベノミクスの成果を粉飾する目的で確信的に統計操作を行った、と疑惑の目を向けています。ただ、せいぜい潜在意識下で期待される結果となるような統計操作を行った、というのが実の処ではないでしょうか。

この統計への(無意識であったとしても)思惑の混入が排除された、検証可能な統計処理というのはなかなか難しい話かもしれません。

統計処理の中立性、客観性は、学識経験者の知見と矜持に依る処が大きいわけですが、更なるブラッシュアップの必要性を強く感じます。

一連の国会答弁の中で、”過去にさかのぼって数値が大幅に変わる理由や、実態を適切に表すための改善の可能性など”の問題意識が官邸秘書官から厚労省担当者に伝えられたと報じられました。

この実態こそが統計の示すものであって、意図した実態を表すように統計を操作することは本末転倒です。その実態は統計以外の何から得られるのか、期待する結果が得られるようにプロセスを弄る、といった話に他なりません。肌感覚、恣意、忖度、粉飾、捏造等が統計に入り込む余地の存在を意味認める、そういった発言こそ未だ現行の統計処理の客観性が不十分であることの証左です。