2014年5月9日金曜日

相反(3)

引続き、特許では研究成果の再現性がどういった位置付けになるかを考えてみます。

特許の場合、どこまで再現性が求められるのか、捏造や改竄は許されざる行為なのか、ということです。

特許制度の目的は技術によって社会を豊かにすることにあります。そこで、技術に関わる発明の創出を促進する方策として、特許の要件を満たした発明を権利として登録し、独占的利用を認めることで権利を保護しているわけです。

では、STAP細胞が特許として成立した場合、競合相手が”再現しない”、”捏造だ、虚偽だ”と非難することに意味があるのでしょうか。

特許制度を鑑みれば、特許はそれを利用して社会に有用な生産物が得られることこそが本来です。追試して再現できない技術ならば追試者にとって利用不可能な技術であり、更に言えば該特許権を侵害して模倣しようにもできないわけです。

この時、出願人や発明者”再現しないのですが?”などと尋ねられることはありませんし、尋ねられたとしても回答する義務もありません。前のエントリと同じく、”稚拙な追試では再現しません”、”実施権と一緒にノウハウも購入しませんか?”で片付く話です。 

では、虚偽の発明であっても特許は成立するか、と問われれば、発明が要件を満たしていれば特許権は付与されるわけです。主要な要件は、自然法則の利用、新規性と進歩性、産業上利用可能性ですから、該要件を満たした発明ならば、制度上、特許は成立します。

特許申請された発明で明細書に規定された生産物が得られるとの記述があれば問題ないわけです。得られた理由は問われませんし、実施例の真実性に疑義があってもその判定は審査の対象ではありません。

まぁ、特許が成立したとしても、実施不可能で目的とする生産物が得られない発明には特許権としての価値はないということです。
本来的にはです。


このSTAP細胞特許ですが、検索してみたところ、優先権云々はともかく、2013.4に国際特許として出願されているようです。この出願された特許も捏造や改竄によるものということでしょうか。

であれば、一体いつから捏造や改竄が始まったのか、又、上述の如く原則としてですが、何故価値のない特許を出願したのだろうか、興味のあるところです。

(続)

2014年5月4日日曜日

相反(2)

前のエントリから続きます。

高齢化、少子化が急速に進み、需給ギャップの解消が進み難い現在の日本で、成長戦略の模索は続けられているものの、未だ妙手は見出せていないのが現状です。そういった状況を鑑みれば、新たなる成長産業の種を創出し得る科学研究が重視されつつも、国際競争力を保つべく成果を囲い込もうと秘密主義に向かう力もあって当然です。

声高に情報の公開を迫るメディアに要求されるがままに成果を公開し、競合他国の後塵を拝する結果に陥ったとしても、当事者の責任が問われこそすれメディアは素知らぬ顔をするのは明らかです。メディアはそういった事実を伝えて憂い嘆き、科学技術政策を批判するだけでしょう。

このよう
科学研究を巡る環境は、前出の野依理事長の”古い時代”とは明らかに異なっています。率直に表現すればギスギスした時代になってしまったということです。

典型的には野依理事長と同じく、ノーベル賞受賞者である鈴木章北海道大学名誉教授の言葉に現れています。


――特許を取るなんて、がめついヤツと言われた時代だった。それに、自分のお金でなく、国のお金で研究していたのだから。特許を取らずにオープンにしたおかげで、これだけ広く使ってもらえるようになったのだとも思う。――

――僕の怠慢。あのころは大学で

特許を取ることなんてなかった。――

そういった時代に研究者生活を過ごされた方と、現在激烈な競争の真っ直中にいる現役の科学研究者とでは、自ずと研究成果の公開に対する認識に相違が生じるわけです。(両者の是非、正否を云々する意図は微塵もないことを申し添えておきます。)

大上段に”知の共有”という科学技術の意義を振りかざし、徒に再現性のないことを責め立てる姿勢には真偽とは別に若干の違和感を禁じ得ないというのが正直なところです。


STAP論文では後に捏造や改竄騒動に発展してしまうのですが、騒動の火だねとなった疑義が生まれなかったならば、論文に再現性がないことはさほど問題視されなかった気がします。

成果の全てを包み隠さずオープンにするのが科学
論文として理想であることは理解できます。しかしながら、それは研究競争が沈静化し、優勝劣敗により当該分野の研究者間で共通の価値観が醸成されて以降のことでしょう。換言すれば、知の創出に関わる栄誉や発明による権益の帰属がある程度定まらない限り、知の共有は始まらないということです。

”Natureに掲載”、自然科学の分野においてこの事象が研究成果の評価基準の一つとなっていることに釈然としないものを感じないわけではありませんが、いずれにせよ、これは単に真の知の共有に至る一過程に過ぎないと考えます。


未だ、権威ある科学論文に認められつつあるという過渡的状態であって、必ずしも普遍的な知となるまでには至っていないわけです。

抽象的な表現ですが、先述の、ある意味世知辛い競争環境の中、”STAP論文に再現性がない”と非難することに絶対的な正当性があるとは思えません。謂われのない誹りといった部分を否定できない気がします。

捏造・改竄騒動がなければ、”再現しない”といった声に対し、”微に入り細に入り情報を開示しろとでも?”、”未熟な研究者には再現できません”、”稚拙な追試です”、”詳細は次報で”と突き放せば片付いた話だったのではないでしょうか。

上記は再現性に欠けた場合の一般的な話で、本件では突き放す前に捏造・改竄騒動へと炎上してしまいました。前提としてSTAP細胞の存在とその確信があってこその一蹴であるのは言うまでもないことです。逆に言えば、即座に”稚拙な追試では再現できません”と断じ切れなかった部分が疑念を生み出しているわけですが... 


では、科学研究の即物的な成果である特許では、再現性はどういった扱いでしょうか。

(続)

職責

韓国フェリー転覆事故を受けて、例えば、

”カレチ(モーニングKC),池田邦彦”、”富士山頂,新田次郎”、”プロジェクトX〜挑戦者たち〜,NHK”に類したフィクション、ノンフィクションの作品はかの国にはあるのだろうか?あるとすればどのように受け入れられているのだろう、そういった疑問が生じました。

勿論、上記作品が演出山盛りかもしれないことは承知していますが...

併せて、以前記した”公共の場における乳幼児の帯同”に対するかの国
一般的な認識も興味のあるところです。

2014年5月3日土曜日

相反(1)

さて、STAP論文記載の作製方法に再現性が認められなかった点について記します。

繰り返しますが、STAP細胞存在の真否は私には判断できません。

これまでの、論文の手順に従ってもSTAP細胞が作製できないこと、再現性がないことが発端となって今回のデータ捏造、改竄騒ぎに至ったわけです。 

存在しないものを在るかの如く見せかける為にデータが捏造、改竄されていたか否かは存じません。ただ、その真偽を切り離して考えた時、成果についての再現性が得られないことが、果してこれほどまでに許されざる事由となり得るのでしょうか。

確かに、”新たなる知を創出し、社会の共有財産として蓄積する”、といった科学研究本来の意義を鑑みれば、事実に基づかない、或は、合理的に導出されていない知見には知としての価値はなく、糾弾されてしかるべきです。

ところで、科学研究には、その分野に依りますが豊かで快適な社会の実現、といった意義というか責任を負わされているのも事実です。成果によっては、事業化、又は、産業化を通じて研究成果が巨額な経済的利益を生み出すことは容易に想定できます。

STAP細胞はこの典型例で、再生医療の分野で莫大な権益に結びつく端緒となる可能性があったわけです。

一方、成果が直接には社会の実生活に反映され難い、理論物理、宇宙物理等は対照的な例でこの分野における研究者は、科学研究の目的を主に”新たなる知の創出”と捉えているのではないでしょうか。産業応用や成果の生み出す経済的利益はそれほど念頭に置いていないのでは、と考えます。

勿論、両者の知としての価値は別です。どのように評価するかは難しいわけですが...


斯様に、科学研究の意義に関し、産業応用の占める割合を無視し得ないどころか、むしろ該方向に軸足が向いている分野もあるということです。 

で、この産業応用や、それに伴う経済的利益を目的とした場合には、知、即ち、発明を公開すると同時にその権利の独占が認められる、特許制度が利用されることになります。

本エントリでは、潜在的に莫大な経済的価値を有するであろうSTAP細胞関連の研究において、STAP論文の再現性の是非を特許との絡みも含めて記してみます。

新たに創出された知は学術論文や特許の形で明文化されますが、両者の意義は全く異なっています。学術論文は知の共有が求められますし、特許は権益の独占が目的です。特許については権益の独占と引換に発明(知)を公開(共有)することになるわけですが...

即ち、知の共有を目的とした学術論文と、権益独占の代償として発明の公開を強いられる特許は、本質的に相反する立場にあるではないかと考えています。能動的に知の共有を進めようとする学術論文と代償として発明を公開せざるを得ない特許、一つの知に対し両者の意義を両立させるのはなかなか難問かと存じます。一体、心根として知を公開して共有したいのか、或は、否か、ということです。



かなり以前の話ではありますが、かつて大学に代表される公的機関の科学研究は学術色が強く、産業応用は視野にあるものの、研究そのものの経済的価値は現在ほど意識されていなかったように思います。

勿論、分野によります。総じての話です。


――私は古い時代に研究生活を送りましたので、・・・――
 

STAP細胞論文の疑義についての理研の会見における野依理事長の発言の一節です。おそらく、野依理事長が現役の研究者であった当時には、PCを利用しての論文画像の改変、コピペはハード、ソフトの面で不可能に近く、従って、不可能な操作に対する是非の認識など存在しなかったのは当然でしょう。

で、
――・・・こういうことはあり得ない、

起こりえないと思います。――
に繋がっていくのではと...

ただ、該”古い時代”から今日に至るまでに、国家や社会の科学研究に対する期待、要望、要求の質は大きく変貌したのではないでしょうか。研究成果の持つ経済的価値が”古い時代”に比し、より重視されるようになったということです。


一つの転機は、自動車、鉄鋼、半導体等で日米貿易摩擦が生じた1980年代、大幅な貿易赤字を抱えた米国で、当時のレーガン政権によって進められた経済政策、いわゆるレーガノミックスにあったかと考えます。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といった著作が出版され、日本が調子に乗っていた頃の話です。

産業競争力を強化する目的でレーガン大統領に提出された「ヤング・レポート」、その中で知的所有権の保護強化、いわゆる、プロパテント政策が提言されていました。その頃から米国では”大学教授が自ら研究資金を稼ぐ”といった新聞記事を散見するようになった記憶があります。大学での研究に産業応用が強く意識され、特許に代表される知的財産権として、科学研究の経済的価値を評価することが全く普通になったということです。

米国では既にこの時、科学研究に”知の創出と共有”だけでなく、従来以上に、”稼ぐ手段”としての責を負わせていたわけです。

一方、空前の好景気まっただ中の日本は”基礎研究ただ乗り”といった批判に晒され、基礎研究重視の姿勢を打ち出すと共に、米国の後追いで”稼ぐ手段”としての科学技術が意識されるようになりました、科学研究への商業主義の導入が顕著になり、現在に至っているように思います。

該”稼ぐ手段”とは特許ですから、科学研究が、上述の”利益独占の代償として研究成果を公開せざるを得ない”、といった性質を帯びてくることになります。

更にその延長として、”より多くの利益を独占するためには知の公開は最小限に留めておきたい”といった姿勢が生じるのは自然でしょう。 


(続)