2014年5月3日土曜日

相反(1)

さて、STAP論文記載の作製方法に再現性が認められなかった点について記します。

繰り返しますが、STAP細胞存在の真否は私には判断できません。

これまでの、論文の手順に従ってもSTAP細胞が作製できないこと、再現性がないことが発端となって今回のデータ捏造、改竄騒ぎに至ったわけです。 

存在しないものを在るかの如く見せかける為にデータが捏造、改竄されていたか否かは存じません。ただ、その真偽を切り離して考えた時、成果についての再現性が得られないことが、果してこれほどまでに許されざる事由となり得るのでしょうか。

確かに、”新たなる知を創出し、社会の共有財産として蓄積する”、といった科学研究本来の意義を鑑みれば、事実に基づかない、或は、合理的に導出されていない知見には知としての価値はなく、糾弾されてしかるべきです。

ところで、科学研究には、その分野に依りますが豊かで快適な社会の実現、といった意義というか責任を負わされているのも事実です。成果によっては、事業化、又は、産業化を通じて研究成果が巨額な経済的利益を生み出すことは容易に想定できます。

STAP細胞はこの典型例で、再生医療の分野で莫大な権益に結びつく端緒となる可能性があったわけです。

一方、成果が直接には社会の実生活に反映され難い、理論物理、宇宙物理等は対照的な例でこの分野における研究者は、科学研究の目的を主に”新たなる知の創出”と捉えているのではないでしょうか。産業応用や成果の生み出す経済的利益はそれほど念頭に置いていないのでは、と考えます。

勿論、両者の知としての価値は別です。どのように評価するかは難しいわけですが...


斯様に、科学研究の意義に関し、産業応用の占める割合を無視し得ないどころか、むしろ該方向に軸足が向いている分野もあるということです。 

で、この産業応用や、それに伴う経済的利益を目的とした場合には、知、即ち、発明を公開すると同時にその権利の独占が認められる、特許制度が利用されることになります。

本エントリでは、潜在的に莫大な経済的価値を有するであろうSTAP細胞関連の研究において、STAP論文の再現性の是非を特許との絡みも含めて記してみます。

新たに創出された知は学術論文や特許の形で明文化されますが、両者の意義は全く異なっています。学術論文は知の共有が求められますし、特許は権益の独占が目的です。特許については権益の独占と引換に発明(知)を公開(共有)することになるわけですが...

即ち、知の共有を目的とした学術論文と、権益独占の代償として発明の公開を強いられる特許は、本質的に相反する立場にあるではないかと考えています。能動的に知の共有を進めようとする学術論文と代償として発明を公開せざるを得ない特許、一つの知に対し両者の意義を両立させるのはなかなか難問かと存じます。一体、心根として知を公開して共有したいのか、或は、否か、ということです。



かなり以前の話ではありますが、かつて大学に代表される公的機関の科学研究は学術色が強く、産業応用は視野にあるものの、研究そのものの経済的価値は現在ほど意識されていなかったように思います。

勿論、分野によります。総じての話です。


――私は古い時代に研究生活を送りましたので、・・・――
 

STAP細胞論文の疑義についての理研の会見における野依理事長の発言の一節です。おそらく、野依理事長が現役の研究者であった当時には、PCを利用しての論文画像の改変、コピペはハード、ソフトの面で不可能に近く、従って、不可能な操作に対する是非の認識など存在しなかったのは当然でしょう。

で、
――・・・こういうことはあり得ない、

起こりえないと思います。――
に繋がっていくのではと...

ただ、該”古い時代”から今日に至るまでに、国家や社会の科学研究に対する期待、要望、要求の質は大きく変貌したのではないでしょうか。研究成果の持つ経済的価値が”古い時代”に比し、より重視されるようになったということです。


一つの転機は、自動車、鉄鋼、半導体等で日米貿易摩擦が生じた1980年代、大幅な貿易赤字を抱えた米国で、当時のレーガン政権によって進められた経済政策、いわゆるレーガノミックスにあったかと考えます。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といった著作が出版され、日本が調子に乗っていた頃の話です。

産業競争力を強化する目的でレーガン大統領に提出された「ヤング・レポート」、その中で知的所有権の保護強化、いわゆる、プロパテント政策が提言されていました。その頃から米国では”大学教授が自ら研究資金を稼ぐ”といった新聞記事を散見するようになった記憶があります。大学での研究に産業応用が強く意識され、特許に代表される知的財産権として、科学研究の経済的価値を評価することが全く普通になったということです。

米国では既にこの時、科学研究に”知の創出と共有”だけでなく、従来以上に、”稼ぐ手段”としての責を負わせていたわけです。

一方、空前の好景気まっただ中の日本は”基礎研究ただ乗り”といった批判に晒され、基礎研究重視の姿勢を打ち出すと共に、米国の後追いで”稼ぐ手段”としての科学技術が意識されるようになりました、科学研究への商業主義の導入が顕著になり、現在に至っているように思います。

該”稼ぐ手段”とは特許ですから、科学研究が、上述の”利益独占の代償として研究成果を公開せざるを得ない”、といった性質を帯びてくることになります。

更にその延長として、”より多くの利益を独占するためには知の公開は最小限に留めておきたい”といった姿勢が生じるのは自然でしょう。 


(続)

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