2013年9月29日日曜日

怠慢

松江市の小中学校で起こった、漫画”はだしのゲン”の閲覧制限問題について思うところを記します。

私自身は週刊少年ジャンプでの連載当時読んだことがある世代です。他の漫画を読むついでに惰性で読んだ程度でした。熱心に読んでもいませんでしたし、連載を楽しみにしていたわけでもありませんでした。

閲覧制限が取り沙汰され、当該漫画が平和教育の参考資料として小中学校の図書室に置かれていることを初めて知り驚きました。

続く、1980年代から図書室に置かれていたことに対する、この期に及んでの撤去や閲覧制限を求める陳情、閉架措置とその撤回といった一連の経緯についても違和感を抱きました。

依然として、特定の有識者、政治家 の中に、当該漫画を初等〜中等教育の場に持ち込むことを推奨、若しくは、容認する姿勢が認められることも理解できないでいます。

特に、”表現の自由”、”平和教育”といった語を利用することで適否についての考察を封じ込め、騒ぎを収束させようといった意図を感じます。これでは、採択に至った経緯、検討の過程、正当性は依然として不透明なままです。騒ぎは沈静化していくとしても、透明性の高い、公正な決定に落ち着くことなく燻り続けることになります。

義務教育、即ち、初等〜中等教育課程に在学する児童に対する教材として該漫画の適性について考えてみます。

最初に、あくまで私見ですが、該教材として”はだしのゲン”という漫画は不適切である、という立場を明言しておきます。

一つの著作物としての存在は尊重されなければならないとしても、児童が手軽に手に取れる環境に置くべきではなく、少なくとも閲覧制限されてしかるべきと考えます。 

いくつかの理由を挙げます。


1.採択の経緯

Wikipediaによれば、この漫画は1980年代から多くの図書館や、小中学校の図書室に置かれたようです。上述しましたが、小中学校の教材として採択された経緯はネットで簡単に調べた程度では判りませんでした。

即ち、当時、誰が、若しくは、どんな組織がこの漫画を図書室に置くといった判断をしたのか、その判断の理由、目的は何か、決定に当たって正当性、客観性は確保されていたのか等、全て不明です。

この所、相当の賛否を巻き起こしていますので、当時の経緯を検証した上、再検討を経て適否が判断されるべきとも考えます。そういった、採択に至るこれまでの過程が明かにされないままその正当性を謳われても、当時の判断の中立性、客観性に疑念を抱いてしまいます。なんらかの作意が込められていたのではないかと...

今回の松江市教育委員会の対応は、場当たり的で単なる問題の先送りといった感が否めません。正に民主主義の本質の一つである、責任のつけ回しが体現されているのでしょうか。

”はだしのゲン”が教材として採択された経緯についての知見はネットから得られませんでしたが、この問題に纏わる様々な見解を知ることはできました。


「はだしのゲン」閲覧制限問題 子供たちが学校で読む本はどうやって選ばれている? 全国学校図書館協議会の森田盛行理事長に聞く 
『はだしのゲン』の利用制限等に対する声明



学校図書館「はだしのゲン」問題の本質~「選書が大事」という基本への回帰 

学校図書館の発展と読書の振興を目的とする該協議会には、事業の一つに”学校図書館向けの図書の選定活動”が掲げられています。学校に備えるべき基本図書リストに当該漫画が選定されていたか、否かは、”学校図書館基本図書目録”(有料)を見ていないので不明です。公立の図書館で閲覧可能かもしれません。

該漫画の教材として採択は該協議会によってなされたのでしょうか。上記リンクにはその旨の記述は認められませんでした。(上記声明には、各学校が選定したとありました。)

特段、該漫画の教材としての適否についての言及はなく、専任の司書教諭・学校司書を配置して任せるべき、といった程度に留まっています。単に、協議会に意見、適否を問う、確認することなく、蚊帳の外に置かれた状況に苦言を呈している、といった印象です。

ただ、そうである、 専任の司書教諭・学校司書の意見を重視するべきなら、少なくとも該漫画の採択に関するこれまでの経緯、及び、現在の見解、判断を公開する義務があると考えます。

ただ、上記リンクにあるように、 ”各学校が選定した”、”責任主体は学校、自治体(公共図書館の場合)、大学(大学図書館の場合)にあり、行為、即ち、判断と選定の主体は司書、図書委員会にある”では、責任主体自らの対応もやむを得ないのではないでしょうか。

該協議会が定めた全国学校図書館協議会図書選定基準を参照すれば、該漫画は適切ではない、といった判断に正当性を感じます。


一方、

『はだしのゲン』閲覧制限問題で文部科学大臣に要請
「生きろゲン!」松江市教育委員会は「はだしのゲン」を松江市内の小中学校図書館で子どもたちが自由に読めるように戻してほしい。

といった、立場を明確にしたサイトもありました。

先述したように私自身は該漫画は学校教材として不適切と捉えており、前者の要請に反対する立場ではありませんが、その根拠とする部分を異にしています。正確には”新しい歴史教科書をつくる会”の示す問題点はあくまで理由の一部に留まっており全てではないと考えます。

政治的、思想的表現のみに焦点をあて、却って矮小化してしまっている感が拭えません。より広い視点に立った、中立性、客観性を意識した論を望みます。

ちなみに、文部科学大臣宛だけでなく、上記全国学校図書館協議会宛にも要望書を提出されているのでしょうか。こういった活動を通じた、該協議会からの教材としての該漫画の評価ついて伺いたいところです。 


今回の騒動に対し今更感は否めず、後に撤回されることになる閉架処理の判断も遅きに失しているといった印象です。何故この漫画は1980年代からの長きに渡り平和教育の教材として、図書館、図書室に置かれることを容認され続けてきたのでしょうか。 

最初の恣意的な推奨の判断がそのまま見直されることなく、放置、看過されてきた、これが実の所と推測しています。 

更に言えば、そういった恣意の初等教育の場への侵入を阻止できず、又、以降も修正することなく漫然と容認する結果に至らしめたことは、曖昧な選定基準、並びに該基準を策定、運用を司ってきた管理体の怠慢です。

この管理体が上記協議会、各学校、教育委員会のいずれに該当するのか明確にされてこなかったことも、本騒動の一因かもしれませんが、いずれにせよ責を問われるべき問題です。これを機として作意を排除し得る客観的、具体的な選定図書基準の再構築、及び、選定プロセスの透明化、過去の経緯の再検討が進むことを期待します。 


しかしながら、実は該基準の根幹、支柱とするべき確固とした礎が定まっていないことを承知で記しています。これについては後述します。

(続)










 

2013年9月27日金曜日

妄言

――日本は世界一安全な原発の技術を提供できる――
(2013.5.2 安倍首相 サウジアラビアでの講演)
に続いて
――The situation is under control
    汚染水は福島第一原発の0.3平方キロメートルの
港湾内に完全にブロックされている―― 
      (2013.9.7 安倍首相 IOC総会でのプレゼン 
 於アルゼンチン)
余りに責任感を感じさせない発言に驚きました。どのような精神的礎が上記発言を可能にしているのでしょう。理解できませんでした。

野田首相の原発事故収束宣言と同じく、2020年の開催時には総理の職に就いていないことを踏まえての発言でしょうか。

強気の、虚勢を張った上記発言は、表面的には問題を直視できない、全体主義的、国家主義的雰囲気を漂わせているようにみえます。

しかしながら、該発言は未来に対する責任の放棄、問題の先送り、将来への負担のツケ回しに由来しており、実はむしろ民主主義の本質を体現しているのではないでしょうか。こういった発言こそが健全な民主主義による、正確にはその影によるものと考えます。

2013年9月24日火曜日

封殺

論理、科学、確率、期待値、品質管理、言論プラットフォーム...

こういった合理性を装う語を駆使して発言が封殺される様を目の当たりにしました。

政治団体、宗教団体といった特定の思想、信条に基づくサイトであるならばその旨を明示すべきです。

”言論プラットフォーム”、”言論の市場”等、中立性、公正性を連想させる語をサイトのタイトルや趣旨に用いるのは不適切と考えます。


2013年9月19日木曜日

探訪

かき揚げが好きで蕎麦屋、天ぷら屋、和食店を訪れた際、品書きにかき揚げ、かき揚げ丼を見つけると、かなりの頻度で注文しています。

最近、名古屋圏に進出著しい、いわゆるセルフの讃岐うどんチェーンでもついかき揚げを取ってしまいます。勿論、味は価格相応です。

このかき揚げですが店によってかなり食味が異なります。油や揚げ方によるのでしょうが、ガリガリ、パリパリ、サクサクからフニャフニャ、しっとりまで幅広い食感のかき揚げが供されます。

蕎麦、飯といった併せて口にする相方によって、或いは、丼ツユに浸すことを考慮して等、揚げ上がり状態に対する各店の思いが反映されているのでしょう。材料も揚げ油も違うのは勿論ですが...

”午後からガンバロー”といった視点で、勤め人の昼食としてのかき揚げ、若しくはかき揚げについて店名順不同で記してみます。


訪れたのは20年以上前ですが、お茶の水 天ぷら 山の上のかき揚げ丼は確かに旨かった記憶があります。海老、小柱等の入ったかき揚げは良い塩梅に丼ツユが浸み、口当たりよく食が進みました。

ただ、当時でも、おそらく今でも、昼食として気軽に口にできる価格ではなく、この点を含めれば追随を許さない最上とまでは言い難いところです。そもそも名古屋からは遠過ぎます。

清水 光村は想定通りのかき揚げ丼でした。丼ツユがまぶされたかき揚げが掻き込む手を緩めさせませんでした。ただ、繁盛店にある行列、慌ただしさを思うと手放しで、是が非でもと足を運ぶ気になれません。

新守山 よこいのかき揚げ丼は光村に似た普通に旨い丼でした。光村よりややボリュームのあるかき揚げだった記憶があります。

この時、穴子天も併せて頼んだのですが、穴子特有のクセというか香り?匂い?を感じました。時間と共に増す、穴子の魚体表面のヌメリがクセの元かもしれない、と憶測しています。定かではありせん。

このことによるものではありませんが、思うところがありわざわざ訪れようという気になれないでいます。

天白 大番のかき揚げ丼が上記2店のものより気に入ってます。種に烏賊や貝柱がある以外、大きな違いはないように思うのですが、一旦丼ツユに潜らせたかき揚げの食味、歯ごたえの違いでしょうか。或いは、偶々並ばず席に着けたためかもしれません。

高社 舞扇のかき揚げ丼は強めに揚げられたかき揚げが載せられていました。サクサクより固めでパリパリの食感でした。もう少し丼ツユを含ませしっとり感があると嬉しいのですが...


ところで、”カツ丼は丼ツユの浸みた衣で喰わせる”と思い込んでいる私は、かき揚げ丼にも似た食感を期待しています。子供時分、天丼として卵でとじた、いわゆる天とじ丼に馴染みがあり、ツユが衣に浸みたしっとりというかクタッとした天丼にそれほど抵抗がないためかもしれません。

当然ですが、油切れ悪く衣がベチャッとした天丼が好みというわけではありません。あくまで、ツユが衣に浸みて、です。

丼に盛った飯に丼ツユをかけ、そこに天ぷらを載せたかのような、或は、僅かにしか丼ツユが塗されていない天丼に、しばしば遭遇してがっかりします。揚げ立ての天ぷらのカラッとした食感を損ねないための配慮かもしれませんが、これでは天丼ではなく、天ぷら載せ御飯です。

特に、天ツユの延長であるかのような、醤油味が薄い上、コクが足りない一方で、甘味がある丼ツユでは力不足です。丼を置くことなく、一気呵成に掻き込ませる力に欠けます。天ぷら、丼ツユ、ご飯のバランスがチグハグな気がして、一体感が感じられず更に失望感を誘います。

中途半端な丼ツユなら、塩天丼の方が好みです。

さて、瀬戸 千登勢かき揚げ丼には心躍るものをそれほど感じませんでした。普通においしい丼でしたが、上品、あっさりというか、力不足というか、上述のような一体感を欠いていた記憶があります。

現時点では、自宅から比較的近くて訪ねやすいこともあり、瀬戸 たなぼのかき揚げ丼が最も気に入っています。店構えは牛丼チェーンに似て、さっと掻きこんで、”ごちそうさま〜”といった雰囲気です。丼ツユを含んだかき揚げと飯のバランスが好みです。やはり天丼よりかき揚げ丼です。

厳密にはかき揚げ丼ではありませんが、瀬戸 喜楽梅むらでは塩味の天ばら丼?、天ばら重?、天ばらまぶし?が供されました。揚げたて天ぷらの熱々感、サクサクした食感、突き崩されたかき揚げから滲み出た油のコク、飯の甘みが塩味でまとめられた丼です。小海老の天ぷら部分と飯を同時に口内に放り込むと、渾然一体となった旨さが現れました。

尾張旭 車屋は蕎麦屋ですが、かき揚げについてのみ触れます。此処の天ぷらは玉ねぎのかき揚げでした。家庭のかき揚げに近いものがあり、こういったかき揚げも嫌いではありませんが、そのつもりで注文しないと期待を裏切られる方が多いかもしれません。

既に移転していますが、以前、尾張旭に倉四季という和食の店があり、昼の品書きにはかき揚げ定食がありました。小海老の入った美味しいかき揚げが出てきました。

今思えば、揚げ上がりの食感を損ねないため丼という形態を避けていたのかもしれません。揚げ上がりの天プラのサクッとした食感、天だねの適切な加熱と丼ツユの浸み込み具合い、浸み込むことで失われる歯応え、これら全ての均衡を取ることは相反する部分もあり、なかなか難題かと想像します。 

気軽に立ち寄れるだけでなく美味しい蕎麦屋である、藤ヶ丘 蕎野昼時に美味しい蕎麦と共にかき揚げ丼が頼めます。

このかき揚げは、サクサクよりパリパリの印象で、揚げ上がりは色濃く、強めと感じました。かき揚げ丼がタレ、塩と選択できることは嬉しく、昼のセットを取り上げてあれこれ言うのも不相応なことを十分承知の上で、身勝手な注文を記します。

これまでも断片的に言及しましたが、定食の一品、酒肴、蕎麦、うどんの種として、或いは、丼種として、更には、タレで喰うか塩で喰うかによって、各々望ましいかき揚げの状態があるのでは、と考えています。

丼を例に取れば、タレの場合には、丼ツユを適度に衣に含ませ、ツユとバランスさせるべく、色濃く、即ち、香ばしく揚げたかき揚げが好ましいかと思います。で、部分的にしっとりさせて生み出された飯との一体感を口に放り込みたいわけです。

一方、塩の場合、突き崩し飯と共に味わえるような脆いかき揚げが好みです。ツユを含ませませんからあまりパリパリより淡い揚げ色のサクサク程度で、油、塩、飯のあっさりしたバランスを期待します。

かき揚げには食す様式によって最適な揚げ上がり状態があり、同一の状態を全ての様式に当て嵌めても、必ずしも好感が得られるとは限りません。

蕎野の場合、かけそばに載せ、揚げ上がったパリパリ部分と汁を含んだ油麩のような食感を楽しむのに向いているかもしれません。

タレ味のかき揚げ丼とするなら、もう少し丼ツユに浸す、塩味の丼であれば、揚げ上りを弱め、同時に、脆く崩しやすいと有難いかなと...一方に合うように最適化し、どちらかに絞るのも一つの方策かもしれません。勝手な思いです。


引山 江月 も同様に揚げ上がりが強めのかき揚げ丼だった覚えがあります。

上記2店は、かき揚げに対し揚げ蕎麦のパリッとした食感を意識されたのでしょうか。

今、蕎麦屋のかき揚げとしては大曽根 なごや華のものを、最も気に入ってます。かき揚げ丼はまだ口にしていませんが、かき揚げその物は大きさ十分で薄黄色の揚げ上がりでした。

材料各々に火が入り過ぎず、また、特に小海老の食味もよく、蕎麦と共に美味しく頬張りました。

上述のかき揚げと趣は異なりますが、うどん屋の上前津 丸一はサクサク感が心地よい殆ど桜えびのみのかき揚げでした。薄黄色でカラッと揚がっています。品書きをあるか否かも見ていませんが、ご飯と混ぜて天ばらにして頬張りたい衝動にかられます。


材料は勿論、揚げ油の温度、時間で生じる揚げ上がりの油切れ、食感と食味と共に、麺、飯といった相方との和、一体感を今後も楽しみにしています。



2013年9月18日水曜日

連想


「“津軽”生誕100年 太宰治と故郷」
(9/17 BSプレミアムで再放送 2009年作)
の中で、津島修治とタケの関係に、

”永山則夫 封印された鑑定記録”

堀川 惠子 岩波書店 2013年

の永山則夫と姉 セツとの関係との類似性を感じました。


思い過ごしかもしれません。


”封印された鑑定記録”についてはいずれ機会があれば記すつもりです。

2013年9月14日土曜日

民度

新幹線車内の座席指定に纏わる忌まわしい経験、目の当たりにした品性に欠ける行為についてルキウスさんが言及されています。

そういった不快な事態に遭遇することは珍しくないようで他の方も記されていますし、以前のエントリでも触れています。

このような品性に疑問符がつく行為は単に列車内に留まらず、街中の公道上でも容易に見かけます。

記憶にある二つの不細工な事例を挙げてみます。 


池下にあるメゾンカイザーと成城石井を訪れるようになって数年が経ちます。当初両店前の通りでは、路上駐車の車を殆ど見かけませんでした。極稀に配送のトラックが停車している程度だったと思います。通りには特に標識等も設置されていませんでした。

ところが、ここ一年位でしょうか。通りの両側に黄色が目立つプラスティックの鎖を張ったカラーコーンが置かれ、数ヶ所に”駐車御遠慮ください”との表示があることに気づきました

ただ、路上駐車はそれにも拘らず未だ続いており、訪れる度に駐停車した車両が通りの円滑な往来を妨げているのを目にします。

著しい場合には、”駐車御遠慮ください”と表示のあるサインポストの目前に駐車しています。名古屋セントラルガーデンの店舗への来店客用には駐車場が用意されており、十分な空きがある状況でも路上駐車は後を断たないようです。

利用可能な駐車場が用意され、余裕がないわけではない、又、路上駐車もやむを得ないと窺わせる特段の理由もない、にも拘らず平然と店舗前の路上に駐車する、こういった行為に及ぶ心情が理解できないでいます

往来のない田畑中の農道に駐車する感覚で、問題ない、迷惑ではないと考えているのでしょうか。

或は、少しぐらいなら往来を妨げても構わない、迷惑をかけても気に懸けていないということかもしれません。

”葛飾にバッタを見た”は下町の情景を伝えますが、”池下にカッペを見た”は嘆息を誘います。

いずれにせよ、こういった残念な行為に至らしめる品性が、あくまで個々人の公共心にのみ由来するものであり、決して名古屋とその周辺地域の民度によって培われたものではないことを願うばかりです。


続いてもう一つの事例を挙げます。


かなり以前に食べログで目にした口コミですが、その違和感からか未だ脳裏に残っています。

以前、春岡にあったイタリア料理店への訪問に際し、らくだ書店に駐車したことを全く包み隠さず公開している投稿があります。

該料理店への来店客の駐車に関わる合意が、らくだ書店との間にあったならば問題はないわけですが...

臆することなくこういった行為に及び、加えて躊躇うことなく行状を投稿する、感性を理解しかねています。

上述と同じく、あくまで特定個人の行動であり、地域の民度を示すものではないと捉えたいところです。



実は程度の差こそあれ、即ち、公共心、モラル、責任感、遵法意識に差異はあったとしても、根幹の行動原理は以前のエントリで触れた”SNSによるバカの可視化”の事例と同一と思っています。