2019年8月18日日曜日

風土(2)

まず、全てに先んじて、脅迫や恫喝で自らの要求を強いる行為は断じて容認しないことを明記しておきます。

「表現の不自由展・その後」の展示は8月3日で中止されています。大村愛知県知事の会見によれば、
――サリンとガソリンをまき散らす――
――県内の小中学校、高校、保育園、幼稚園にガソリンを散布し着火する――
――県庁職員らを射殺する――
などといった脅迫メールが770通、電話やファックスを合わせれば計約5500件の脅迫や抗議が殺到していることを受けて、
「これ以上エスカレートすると、安心して楽しくご覧になることが難しいと危惧している。テロ予告や脅迫の電話等もあり、総合的に判断した。撤去をしなければガソリン携行缶を持ってお邪魔するというファクスもあった」
が理由とされています。最前面に、京アニの放火事件を想起させ”来場者に危険が及ぶ”が押し出されました。尤も、別に理由があったものの、最も反発を最小化するのに合理的な理由を採ったという見方できますが...これは現時点では判断を留保しておきます。

ともあれ、卑劣な脅迫や恫喝の否定は全ての記述において不変です。強い憤りと共に一切肯定しませんし、嫌悪感をも抱きます。

ただ、だからといって、該展示を支持するつもりはなく、8月7日に脅迫犯が逮捕されて以降も、再展示の要求は拒絶されるべきと考えています。


平和の少女像と題された慰安婦像は芸術作品なのか?

この”表現の不自由展・その後”において騒動の原因となった展示物は「平和の少女像」です。勿論、この語は言葉通りに受け止められず、未だというか半永久的に解決しないであろう慰安婦問題を象徴するものです。この問題における慰安婦を想起させる像を、「平和の少女像」と変換して展示すればそれだけで炎上は確実です。その変換手法の陰湿さも問われて然るべきと記しておきます。

で、最初に、この慰安婦像は芸術作品なのか、について考えてみます。芸術作品に該当しないのであればそもそも国際芸術祭という場に展示すること自体が誤りだったということになります。であれば、芸術作品ではないものを詐称して芸術祭で展示するという行為に及んだことを指摘し、出品者やあいちトリエンナーレ実行委員会の責任を質していけばいいわけです。

しかしながら、この像は芸術作品ではないと断じるにはかなりの無理を感じます。

上記ファクス、電話による抗議には”芸術ではない”という声が上がっているようですし、
慰安婦像は芸術ではない。これはただの政治活動の象徴だ。芸術でもないものを芸術だと見なすのは、根源的な間違いだ。(慰安婦像は芸術なのか?)
といった意見もありました。しかしながら、Wikipediaやコトバンクに記されている芸術の定義に則るならば、
芸術:表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動。
芸術:他人と分ち合えるような美的な物体,環境,経験をつくりだす人間の創造活動,あるいはその活動による成果をいう。
該慰安婦像が芸術に該当しないことを説明するのは困難です。表現者、鑑賞者でも、或いは第三者でも”これは芸術だ”と主張すれば芸術になってしまうわけです。いわゆる芸術的価値が小さくとも、美的でなくても、そういった評価から主観性を完全に排除することは不可能であって、それらを以って芸術でないことの理由付けはできない、ということです。

以前、橋下徹氏が大阪市長だった頃、文楽への助成金削減を巡って紛糾しました。この時、作家の瀬戸内寂聴氏にから、
――世界の見るべき人が見て素晴らしいと言うのだから、それで十分でしょう――
――橋下さんは一度だけ文楽を見てつまらないと言ったそうですが、何度も見たらいい。それでも分からない時は、口をつぐんでいるもの。自分にセンスがないと知られるのは恥ずかしいことですから――
といった発言があったわけです。以前のエントリで記しましたが、”見るべき人が見て価値を感じればいい、それ以外の人は理解出来なくても構わない”という部分に選民思想、優越意識が伝わってきました。解らないことを解らないと意思表示すること、これを恥ずかしいこととして封じ込めようとする発言の中に、品性の卑しさを感じた次第です。これこそが、
”これは芸術です。解らない人は解らなくて構いません”
の典型です。特に、権威や権限のある、いわゆる声の大きな人物がそう発言すれば直ちに芸術になります。

この辺をあまり深堀りするつもりはありません。単に該慰安婦像の展示中止を求めるに当たって、芸術作品ではない(芸術性の否定)”は理由にはできない、ということです。

但し、あらゆる事物が芸術作品であるとしてもその価値は様々であって、価値がマイナスとなる作品が存在し得ることも確かです。この芸術作品の価値がマイナスという考え方を用いて、そういった作品は衆目に晒される必要はない、若しくは晒されるべきではない、と考えます。価値がマイナスの作品は、ある意味有害な作品でもあり、これは展示中止の理由として十分な正当性があります。

この時鑑みるべきは、何が作品の価値を決定するのか、即ち、価値が依拠するものです。それはおそらく普遍性、絶対性のない相対的な何かだろうとみています。評価者の声の大きさ、社会状況や時代背景で揺れ動く、主観性恣意性を含んだものだろうと。

従って、「表現の不自由展・その後」実行委員会が件の慰安婦像を展示に値する作品としてその価値を評価したことと、河村たかし名古屋市長が該像を日本国民の心を踏みにじる作品としてマイナスに評価したことは、符合します。
権威、権限といった声の大きな評価者が各々の価値観、視座から自身の主観を主張しているに過ぎません。ベクトルが異なるだけで評価の根幹には同質のものが横臥しています。

それならば、該慰安婦像の展示の是非を一体何で判断するか、という話になるわけですが、その指標には公益性を採るべきと考えます。

この場合、公益性とは日本の国益、日本社会、日本人全体の利益と同義になります。世界とか人類全体、日韓にまで広げての公益ではありません。該慰安婦像の展示が公益に寄与するか否かのみを考えれば是非は明らかです。公益にならない、という理由で展示は不適切と考えます。

展示、或いは再展示を求める側が、その理由として”表現の自由を守る”を掲げていることは承知しています。これは日本国憲法第21条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
に依拠しての主張なんだろうと。つまり、日本という国家の存在を踏まえた上で制定された憲法の一条文を根拠にしているわけです。
日本国憲法って日本のために制定されたんじゃないの?
日本のために制定された憲法の条文が日本に損失を与えるのでは矛盾が生じます。

この前提を伴う表現の自由は、本騒動の場となった公的な催事のみにとどまらず、責任は軽減されるものの私的な場にも該当するものと理解しています。

その辺りの認識が不十分なまま声高に、表現の自由とか憲法の遵守を叫ばれても、違和感を禁じえません。特に、先頭に立ち、表現の自由の旗を振った自治体首長の、展示中止を拒む発言には失望しています。

前エントリに”芸術とか文化的な活動には関与しないほうが賢明”と記した理由の一つです。


次のエントリに続けます。

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