2013年10月19日土曜日

転嫁

時折、ブログに公開された天然鰻の料理写真を目にします。

鰻の現状など全く意に介すことなく、”あっさりしている”、”しつこくない”といった寸評が写真に添えられています。

私自身は、

食べられぬ心配だけで保護意識が無いウナギ報道
ウナギの乱食にブレーキをかけられるのは誰か?
ウナギをどう看取るか?
日本のウナギ根絶作戦が、ついに最終段階

と捉えているのですが...

更に天然鰻については、

“世界的ウナギ博士”からの提言 「ニホンウナギを守ろう!」
EASEC緊急提言(Final).pdf(日本語版)

と天然鰻の保護こそが将来の鰻資源回復に極めて重要な方策であると認識しています。

そういった現状を踏まえた上で、天然鰻の料理写真がブログにアップされているのか否か、私の知る所ではありません。ただ、平然と上記コメントを添えて写真を公開する行為には無神経さを感じます。

こういったブログの中には、飲食店のレビューを料理の写真と共に公開するに留まらず、社会性、公益性を意識した意見や問題提起をしているブログもあります。

例えば、食の安全については啓蒙しているつもりなのか、食品添加物の使用となると神経を尖らし、法令を遵守していても添加物を使用する食品メーカーを責め立て、攻撃し製品の不買を煽ったりしています。

或いは、飲食店内での喫煙については、店側が禁煙を定めているわけではないにも拘らず、居合わせた客の喫煙をブログ上で毒づき、非難したりしています。

その一方で、天然鰻を口にすることには寛容で、脳天気に天然鰻の料理写真をブログ上で公開する...独善的、利己的で傲岸不遜な姿勢に不快感を持ちます。


身勝手な俺ルールの合理性、公正性を疑わず、公益に資すると思い込む、で、そのルールの厳守を叫び、逸脱することを糾弾する、新興宗教の教祖、独裁集団の指導者と同根のものを感じてしまいます。

飲食についての蘊蓄をひけらかす人々ならば、鰻、特にニホンウナギが絶滅の危機に瀕していることは十分承知のはずです。

実は長良川の天然鰻をいくら消費しても国内の鰻資源量への影響はない、鰻資源枯渇の心配は杞憂に過ぎないとも思えません。


天然鰻の消費は鰻資源の回復に悪影響を及ぼすどころか、枯渇を助長しかねません。にも拘らず尚、どういった意識、動機が天然鰻口にさせるのかについて推してみます。鰻資源の現状について知識がない場合は除きます。

”鰻資源危機的状況から目を逸らして天然鰻口にる”は、

違法ではない実感がない関知する所ではないなんとかなる”といったところが理由として想定できます。

自重、自律といった姿勢の片鱗も見受けられません。

”今、自分達さえ口にできれば、その後鰻資源が枯渇しようと構わない。” 

総じて、根幹はそういった意識ではないでしょうか。”なんとかなる”は、やや意味あいが異なりますが、本質は、”自分以外の誰かが何とかしてくれるだろう”といった楽観的な他力本願の表れでしょう。責任感を欠いた依存の強さを感じさせます。

鰻の完全養殖の確立を目指し、研究が進められているのは事実です。しかしながら、未だ道半ばであり、実用化できる程の完成度には達していないようです。

天然、養殖に関わらず、鰻とみれば喰い漁る、そういった姿勢で果して、鰻資源が枯渇するまでに完全養殖実用化技術が間に合うのでしょうか、危惧しています。

いずれにせよ、鰻資源の回復を一方的に科学技術に頼ることは身勝手であり、野放図に鰻を喰い尽くすことが免責されるわけではありません。資源回復の責任を科学技術に負わせるというか、転嫁することで鰻を口にしていい理由付けをしているかにみえてしまいます。

単に、不確定の未来に責任所在を先送りしているだけではないでしょうか。

この鰻資源の問題は不確定の未来に責任所在を先送りする”といった、民主主義、市場経済社会の根幹にある責任の不透明性、刹那的な利己性を改めて確認させます。

未だ是非が紛糾している原発とその再稼働、破綻に向かう社会保障制度、崩壊から逃れ得ないバブル経済次世代への負債のツケ廻しである量的金融緩和と消費増税、こういった事例にも同様の動きが垣間見えてしまいます。

この抗えない本質を認識し自律機能を社会に組み込めるほど、果して私達は賢いのでしょうか


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