2021年4月27日火曜日

損益(3)

  先のエントリからの続きです。

 3)ゼロリスクに関する工学的取扱い

これまで2011年03月11日までで検索できた、ゼロリスクに関する言及を記してきました。ここで気になったのは、ゼロリスクが人文系、社会科学系のテーマとして扱われている、ということです。安全工学や信頼性工学といった工学的視点でゼロリスクを取り扱った事例はこれまで見当たりませんでした。ウィルスにしろ、原発にしろ医学や理工学といった自然科学に依拠した話ですし、ゼロリスクについてもう少し工学的アプローチによる考察があってもいいような、というかあってしかるべきです。

全てに先んじて、”ゼロリスクの実現は不可能である”、これが揺るぎない事実であるのは間違いありません。それを前提として、1)ゼロリスクは不可能であっても更なるリスクの低減をどう進めるか、2)許容可能なリスクの大きさをどう見積もるか、について合理的な方法論が確立されているようには思えません。

重大事故が起こった際の被害の大きさという点で、対比には必ずしも最適ではないかもしれませんが、自動車、船舶、航空機といった動力機械や設備と、原子力発電所よる事故やコロナウィルスに代表される自然災害に対する印象の違いで考えてみます。

一例として自動車を挙げれば、自動車に対しゼロリスクを求める声を知りません。事故の可能性を排除するため、運転するなとか、製造するな、といった主張です。前のエントリで引用した資料中の文言を借りれば、
• 自動車もあの便利さの背後に、年間1万人近い人を殺す「走る凶器」の側面を持っている
とされているにも拘らず、です。完全にではないかもしれませんが、社会は
総じて動車事故のリスクを許容しているとみていいのではないでしょうか。その一方で、だからといって自動車の開発、製造に携わる各メーカーは、リスクの許容を求めているわけでも、望んでいるわけでもない、と認識しています。少なくとも表面的には...明言もできませんし。一つには自動車事故は運転者の操作に依る処が大きく、自動車メーカー自身には直接的な責任はない、という立ち位置なのかもしれません。しかしながらそうであっても自動車事故やその被害の低減を目的に技術開発が進められていることは間違いありません。その典型は、運転において、運転者の負担を極力軽減する、換言すれば運転者の関与を極力排除する自動運転技術の開発でしょうか。

このような事故防止技術の開発には、立ち止まることなく資源が投入されているわけで、そこ(事業者側)には事故のリスクを許容してほしい、許容されるべきといった姿勢は感じられません。

次に、社会が自動車事故のリスクを、例え明確にではなくとも許容している理由について目を向けてみます。直ちに挙げられるのは自動車のもたらす利益と自動車事故で生じる損失を通算してみると、社会全体が獲得する利益の方が十分上回る、ということでしょうか。この認識がほぼ社会全体で共有されているであろうことは間違いないと思料しています。しかしながら、これはあくまで社会全体として損益を通算した場合の話です。自動車による利益を、個別、即ち交通事故の被害者、加害者が、非当事者と同じように抵抗なく首肯するのは無理な話です。

つまり、自分は大丈夫、自動車事故に会わないというバイアスを前提とした損益通算の結果、自動車の社会的有益性が受け入れられている、ということです。社会が自動車事故のリスクを許容しているのは、社会の圧倒的大多数が有する、”自分は自動車事故には関わらないだろう”というバイアスがあって、その上でほぼ社会全体に共有されている認識なわけです。自動車事故は被害者、加害者の家族、友人までが事故に関与しているとしても、まぁ100人程度の規模ではないでしょうか。この関わる人員の規模の程度が原発の重大事故や新規ウィルスによるパンデミックと大きく異なる部分であって、これがリスクを許容する/ゼロリスクを求める、の境目ではないかと考えます。

個々人が許容できないほど大きな被害を生じるリスクであっても、被害者の最小単位が小さい場合であれば、社会全体としてリスクの許容を共有できる、ということです。各々自分は被害者にはならないと思い込めるわけですから。これが、たとえ発生確率が極めて低くとも、一旦事故が発生すれば自分も被害を免れない場合には、一転僅少のリスクであっても許容しない、こんな処ではないでしょうか。

加えて、自動車事故であれば、事故に遭う確率をゼロにまでできなくとも、自助努力による極小化が可能です。一方、原発の重大事故や新規ウィルスによるパンデミックによって被害を被る確率を自助努力で極小化することは困難です。

このような事故の性質の差異が、例え、一生のうち、
交通事故死する確率>原発の重大事故で死亡する確率
であったとしても自動車事故のリスクは許容できるが、原発事故のリスクは許容できない、という姿勢になるのでしょう。

実際、死亡に繋がる交通事故の発生件数を低減する対策は可能である一方、原発の事故や自然災害では発生確率、被害をを被る確率を低下させることが事故対策となります。前者の対策としては、技術の発達による自動車の装備、機能の充実、法規制や取締、更には、事故後の保険制度の整備が挙げられます。こういった対策と自助努力と自己責任を基に社会全体として自動車事故のリスクは許容されているわけです。

では後者はどうでしょうか。新しい技術の導入も法整備も進められているであろうことに異論はありません。ただ、一般市民がそれによって確率がどう変化したのか、変化する見込みなのか知ることは困難です。これは、先述
行政や企業が十分情報を開示せず、「知らしむべからず依らしむべし」「寝た子を 起こすな」といった政策をとっていたからである
根底に横臥していることは間違いなく、であれば、対策の中身はブラックボックス化され窺い知ることなど無理、というのも宜なるかなとなります。そういった環境では勿論、自助努力の余地など生まれるわけがありませんから、勢いそんなリスクは受け入れられない、となるのも頷ける処です。

結局、先述の
安全と安心の社会を作るためには、何よりも「信頼社会」を作ることが先決である
に帰結するわけですが、2011年3月11日の事故を経て、果して社会は前進できているのだろうか、甚だ疑問ではあります。


次に、事故の発生確率を含めてリスク評価を行うことになる原発の事故や自然災害の、”リスクを許容すること”について記してみます。前出のリンク先や、未だ騒動冷めやらぬ日本学術会議からの提言、からリスクの許容に関する一部を引用してみます。
リスク認知の特徴
(略)
4.規定値:10のマイナス4乗以上の死亡率は受容されるが、マイナス6乗(自然災害の程度)以下は気の毒だと思っても無視される。そこで、10マイナス6乗は規定値として世界で広く使われており、規制値決定の大事な概念となっている。
10マイナス4乗より大きいと受容されない技術になる。自然災害、溺死は10マイナス6乗で水泳禁止にはならない。理由はわからないが、10マイナス6乗だと暗黙のラインとして我慢するようだ。これより大きくするとコストは安くなるが、反対運動が起きて政策が認められなくなる。これは政策担当者の腕のみせどころとなる。
原子力、化学工業会も10マイナス6乗を下限のリスクとしているそうだ。(談話会レポート「リスクとリスク認知」)
上記記述の引用元がよく解らなかったのですが、調べてみると"安全工学"という学会誌掲載の同一著者による

が大元のようです。単位がよく解らないのですが、火災や水難事故、自然災害、列車事故のリスク、1e-5〜1e-6であれば許容され、1e-4以上のリスクは許容されないらしいとのこと。この理由は定かではなく、又、未だ十分確定した値ではないようですが、リスクが許容されている事例です。この許容値をやむを得ないものとしているのか、”自分は大丈夫”という正常性バイアスによるものかはよく判りませんが。

いずれにせよ、社会で起こり得る全ての被害/損失/危害に対しゼロリスクが求められているわけではないのは明らかです。であれば、ゼロリスクを巡って論争が頻発する、原発、更に昨今のコロナ禍も、リスクがしきい値以下なら許容されるのか、或いは、それでも許容されないのか、という話になります。

そうなると当然、該リスクの大きさは実の処どの程度なんだろうと、しきい値を越えているのか否か、確認することになります。事象の発生確率と(被害/損失/危害)の大きさとの積で定義されているリスクの、その単位も考慮しておくべき点と考えました。

そこで、上記引用では無単位ですが、ゼロリスク要求の典型的対象である原発、リスクが許容されている航空機について、文献からリスクの数値と単位を拾ってみます。例えば、

原子力安全白書 平成12年版 1 原点からの原子力安全確保への取組み

には、
一般的に無視できると考えられる個人へのリスクは、1e-6/年(100万年に1回)などより小さいことである。
との記述があります。又、
炉心損傷頻度(CDF)<1e-4/炉年
早期大規模放出頻度(LERF)<1e-5/炉年
英国の安全目標として、
放射線業務従事者(死亡リスク)
・広く受容される領域:1e-6/年以下
・我慢できる領域:1e-3/年以下
公衆の個人(死亡リスク)
・広く受容される領域:1e-6/年以下
・我慢できる領域:現行の原子力施設に対し1e-4/年以下、将来の原子力施設に対し1e-5/年以下
といった記述を見つけることができます。(この時点で日本には安全目標は示されていなかったようです。平成12年に新たに安全目標専門部会が設置され、平成14年には中間報告書がまとめられた程度です。)

航空機の設計・整備におけるリスク評価

では、”死亡の危険率”という語で定期航空は1e-7/hr、1e-10/km、自然災害は1e-10/hrと記されています。これらは時間当たりの値ですから年当たりに換算すると定期航空では8760e-7/hrで1e-4〜1e-3/年、自然災害では8760e-10/hrで1e-7〜1e-6/年となります。これは一年間常に定期航空機に搭乗していて死亡する確率は自然災害で死亡する確率の1000倍ということを意味します。しかしながら、実際にはそのように搭乗し続けることはなく、日本の航空法によって年間乗務時間が上限1000時間に制限されている機長、副操縦士で考えても10〜100倍といった処でしょうか。

大雑把に、自然災害で死亡する確率の10〜100倍であっても社会の殆どはこのリスクを許容して航路での移動をしている、ということです。

ここでよく分からないのが上記、”個人へのリスクは、1e-6/年(100万年に1回)”の文言です。ある一人の個人が(100万年生き続けたとして)一度その事象に遭遇すると理解しました。これを換算すると100万人に一人は年に1度被災するという話になるような気がするのですが...10年であれば10万人に一人です。2020年の世界人口は77億9500万人ですから10年の間77950人、一年では7795人が被るような(被害/損失/危害)であれば社会の殆どはこれを許容しているという理屈になります。ちょっと実感できないので日本の人口1億2577万人で規格化してみると、126人/年です。例えば2019年の交通事故死者数は3215人ですから、その4%程度です。このしきい値と実際の原発リスクを比較することで原発のリスクは果して無視できるほど小さいのか、そしてそれでもリスクの低減をもとめているのか、或いは、未だリスクは十分大きく更なるリスク低減が要求されているのかが判断できるわけです。

交通事故死者数の4%に相当する、126人/年、1260人/10年が死亡する(被害/損失/危害)を、仕方がない、やむを得ない事故として許容することは果して可能でしょうか。これは、交通事故と同質の、即ち、全国津々浦々で各々何ら無関係に生じる(被害/損失/危害)であれば許容されると考えます。しかしながら、この126人/年が同時に、同一場所で被害を被る(被害/損失/危害)であるならば、看過し許容することは困難ではないかと、捉えています。例えば、ある一車種の設計上の欠陥、信号や法規を含む交通システムの欠陥や不備、日照や降雨降雪といった気象条件、落石や高波などの自然現象に起因する、同一原因による死者数126人/年の交通事故が社会からとても看過されないことと同じです。

死者数126人/年の航空機の事故、列車事故、船舶の遭難、沈没、大規模建造物の倒壊が受け入れられないことと何ら変わりありません。同様に、一発電所、若しくは一基の原子炉における同規模の事故は許容されない、というのも火を見るより明らかです。

こういった同一原因による(被害/損失/危害)については、その原因を除去することで大きく被害を回避できるわけですから、むしろ積極的に原因究明と対策への取り組みが求められるはずです。

ところで、許容できる126人/年の死者数は、2019年の交通事故死者数3215人の4%と上記しました。しかしながら、各々の質というか偶然性、過失割合のような要素も考慮してみると、この4%という割合はあくまで外見的な割合に過ぎないことに気付かされます。自らに何ら原因を求めることのできない126人/年の死者を生む(被害/損失/危害)は、交通事故死者数3215人に対し過小に映りますが、自らに何ら原因のない交通事故による死亡者数と比較するのが妥当である、ということです。

ワクチン接種で生ずる副反応や、重大な原発事故に起因した放射線被害による死亡事故件数は、例えば、暴走車によって横断歩道を横断中、歩道を歩行中の歩行者が死に至らしめられた事故件数に対する比で、その許容性を考えるべきです。これらがいずれも偶発的で理不尽な事故であるのは間違いありません。単に交通事故死者数3215人/年に対し、4%程度の126人/年の死者を生む(被害/損失/危害)であれば許容できるということではなく、偶発的で理不尽な交通事故による死亡者数が果して126人/年より多いのか少ないのか、そしてそれは許容できるのか、といった話になろうかと。

このような被害者に何ら責任のない交通事故の死亡者数というのはなかなか掴めませんが、直感的には126人/年ほど多くはないだろうと憶測しています。それでも理不尽な交通事故が報道されると厳罰化や法規制強化の声が上がります。そう考えると死者126人/年を生む(被害/損失/危害)、100万年に1度の被災確率であれば社会は概ねそれを受け入れている、という見方も手放しで首肯できないのかもしれません。精査が必要です。



次のエントリに続けます)

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