2015年6月7日日曜日

漫画(3)

前のエントリに続けます。

類似した話は枚挙に暇がありません。折よく、
[江川達也]<漫画「日露戦争物語」の真相 (2)>明治元年・松山生まれの秋山真之が主人公では「日露戦争」は描けない
[江川達也]<漫画「日露戦争物語」の真相 (3)>司馬遼太郎財団からきた苦情が漫画の方針を変節させた
といったエントリがありました。同じく漫画の例です。 「日露戦争物語」....面白くありませんでした。知らず知らずの内に連載中止になったか、雑誌の購読を止めたかです。とにかく、連載の途中から読み飛ばしていましたから。

それはさておき、少年誌、特に該漫画を掲載した雑誌では、
 因果関係を語る歴史漫画を日本の漫画読者が求めていないのでそういう漫画は描かれず、勝利や友情や戦争の高揚感勝利感という下らない(史実分析にとって)快楽を描いた歴史漫画が描かれるという現実は続くのである。
当時、連載されていた作品がどの程度事実に基づき、客観性があったか否かは存じません。ただ、友情・努力・勝利といった人気を博すための処方箋があったわけです。

連載中、作者、或いは編集者が、史実を利用した友情・努力・勝利といった価値観の、読者への植え付けを意図していたとみています。該目的に対し、場合によっては史実のデフォルメすら当然あったかと...ある時点で作品は処方箋から逸脱し始めたようですが。

加えて、ネットワーク内を賑わせる、虚構の”いい話”、”感動する話”についても、
Facebookはバカばかり
やっぱりFacebookはアホばかり
といったエントリがあり、こちらは、
またきたコレ・・・いくらでも作れる「いい話」。もう回すなって!!お願い
によれば、 
デマのいい話の作り方のポイント
1 差別意識がけしからんというオチを用意する
2 スタッフが最初に差別者の味方をするように見える
3 ところが・・ということで落とす。
といった処方箋に基づく話です。

少し話が逸れますが、こういった虚構の”いい話”、”感動する話”に対し、

”つくり話でもいい(感動できれば)”
といった 声があるようで驚いています。事実だからこそ感動できるのでは、と考えますから。感動に伴う脳内物質でも欲しているのでしょうか。

まぁ、”この話は架空ですが...”と始まる”いい話”と、”いい話”の後で”この話は架空です。”と明らかにされる場合で、同じように感動できる方なら話は別です。

かつて、実話という触れ込みで日本中で話題となった、
一杯のかけそば栗良平
という童話がありました。この話は後に虚構であることが判明し、作者の不祥事も相俟ってブームは収束しました。

インターネットが未だ黎明期の頃の話です。”つくり話でもいい”とされている方々が、背景とその後の経緯を踏まえた上で、”一杯のかけそば”を読んで感動できるのか、 興味のある処です。

又、こういった話になると、
”いやなら読まなければいい”
という声が湧き上がってくることも想定できます。ブログに寄せられた心ないコメントに対する応えとしてしばしば目にします。

これについて言及するのは別の機会に譲りますが、この考えに与するつもりはありません



話を戻します。

科学的事実、史実といった客観性の強い情報を場合によっては都合良く編集加工して利用する。
料理の美味しさに代表される、客観的評価が難しく主観に頼らざるを得ない指標については、権威を擁立し、その声の大きさに基づく価値体系(序列化するための座標軸)を構築する。
こういった手法を駆使した印象操作がされ得ることに危うさを抱いています。漫画の場合については、実は作者や編集者すら意識していない、無作為の摺り込みも起きているのではないかと思っています。好評を得るための処方箋が結果として特定意図への誘導に結びついてしまうということです。

例えば、前出の”インベスターZ”では、学生が大学卒業後、成功の姿、目指す方向として起業や投資の成功が示されており、企業など組織に属して禄を食む姿勢は否定的に描かれています。

で、独善的な価値観の当て嵌めかと、素直に首肯できず違和感を抱くわけです。市場原理主義の正当性を絶対とし、これを前提に、自らの能力や可能性を経済的価値に置き換え、その極大化を図るべき、ということなんでしょう。

市場原理主義や自己の換金極大化の正当性について描かれないまま、二者択一の形で選択を迫るのも如何なものかということです。

利益至上主義というか拝金主義のみを行動原理として認めていて、他の選択を排除しているかに見受けられます。

知的探求心や社会貢献を行動原理の主軸とする考え方も決して否定されるべきではないはずです。ウィリアム・ショックレーとゴードン・ムーア、リーナス・トーバルズとビル・ゲイツ及びスティーブ・ジョブズは同列に称賛されて当然です。素粒子物理学の小柴、小林、益川、といった方々は起業とは無縁です。

また、例えば宇宙や海洋資源開発、国産旅客機や核融合炉の実用化といった巨大なプロジェクトには組織に属さない限り携われません。

そういった自らの能力や可能性を経済的収支のみで片付けることができない、市場原理の枠内に留まらない部分を蔑ろにすべきではないと考えます。二項対立的な表現ではこの部分は埋没してしまいます。


斯様な価値観の当て嵌めは漫画に限られた話ではなく、ネットワークメディア、新聞、雑誌、文芸作品、テレビ、ラジオ等、媒体に依らず通底したものであることは承知しています。

本質的には、
操作-被操作の戦場としてのインターネット、コミュニケーション
で記されているように、
コミュニケーションの対象が自分にとって都合が良い行動をとってくれるよう、モチベーションや欲求を修正しようとする不断の試みが含まれている。
ことには相違ありません。

ただ、漫画には特有の、より強い影響を懸念しています。それ以前に元々漫画の公正中立は望むべくもないことは明らかなんですが...建前であったとしても社会の木鐸、公正中立を標榜する新聞、テレビですらあの有様です。

漫画はその内容の客観性や信頼性、事実性に疑義が生じるのは当然です。漫画ですから。

新聞世論の形成、印象操作を目的とした場合であっても、おそらく事実の編集までに留まっているかと。誤報や捏造報道に対しては厳しい目が向けられ撤回や謝罪を求められます。最近では朝日新聞による従軍慰安婦報道の撤回、謝罪が記憶に新しい例でしょうか。遅きに失していたわけですが...

一方、漫画は、人気獲得(=売上増加)が主たる目的でしょうが、例え事実の歪曲があったとしても容認されるのが、社会の大方の共通認識ではないでしょうか。で、創作物と言う理由が虚構、虚偽に対する抵抗を緩和し、批判や反発を起こり難くしています。

元々、客観性や真実性が求められているわけでもなく、あたかも事実であるかの如く虚構を流布したからといって、咎められることはありません。例外は性的な表現、モデルとなった当事者からの名誉毀損による訴訟程度でしょうか。
雑誌編集倫理綱領
といったガイドラインはあるようですが、とても遵守されているとは思えません。審査機能もないようです。最初の項に”言論・報道の自由”が掲げられていますから、続く”人権と名誉の尊重”、法の尊重”、社会風俗”、品位”は体裁を整えるための項目に過ぎないのかもしれません。

唯一と言っていい掲載基準は人気です。人気を一定程度獲得した漫画でありさえすれば、物議を醸す内容であっても”言論・報道の自由”に守らせることができてしまいます。

勿論、”人気”が重視されるべき指標の一つであることは否定しません。前のエントリでも触れましたが、漫画は理解させることに力点を置いています。理解されなければ支持されないのは当然ですから。そのために、表現力、描写力、話の筋立てを工夫して読者に現実感を抱かると共に、優しく向き合うわけです。

読者側も好んで漫画を読むわけですから、理解しよう受け入れようといった姿勢で互いに向き合います。その距離感は読者-新聞間の場合より近いのではないでしょうか。で、この漫画に対する読者の親近感が、共感や思い入れを生み出す根源ではないかと思っています。

こういった読者と漫画の関係がある下で、作者、或いは編集者が特定の意図を刷り込む目的で漫画を利用すれば、それは極めて効果的なツールになり得ます。

漫画は作者の主観、価値観を読者に伝えるメディアですから、例え上記意図の刷り込みを意識していたか否かに拘らず同じ結果に向かうことになりますが。

政治的、社会的な関心事について、予備知識なくそういった問題に関する漫画を目にした時、その内容、主張が正当なものとして予断を抱かせることにならないか、そういった恐れを危惧した次第です。

登場人物の台詞に意図が忍ばされ、あくまで作品の世界観において論理的、尤もらしい事実として読者に固定観念が植え付けられてしまうのも好ましいことではありません。

”美味しんぼ”の原発事故に関する描写や”はだしのゲン”はその典型です。かつてより政治的、社会的問題を題材とした漫画が増加していると感じる現在、思想的落とし穴に陥る危険性も高まっているのではないでしょうか。

難しい話で、相反する部分があるのも確かですが、思想信条、表現、言論の自由が侵されるべきではないことは承知しています。

ただ、それを嵩に野放図に漫画をツールとした印象操作、誘導、思想教育が蔓延ることには強い反発を覚えます。表現の自由を理由にそういった部分の考察、議論が封印されているのではないか、時折物議が醸されるものの沈静化してそれまで、といった場合が多いように見受けられます。

頸木なく創作の自由を謳歌してきた作者や編集者には不都合かもしれませんが、表現の自由に対する盲目的な信奉について議論の深化を望みます。

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