未だ収束しない学術会議の新会員任命拒否問題ですが、最近で学術会議に対する批判も噴出し始め、民営化論、解体論も散見されるようになってきました。
興味深いのは、この解体論を提唱している論者がコロナウィルス対策、原発再稼働案件ではゼロリスクを否定し、リスク許容を主張していることです。経済の損失を抑えるためには一定の感染者発生を容認して経済活動を止めるべきではないとか、日本社会の維持存続にはリスクを許容し原発を再稼働すすることが必要とか、まぁ、そんな論調です。
メリットとデメリット、ベネフィットとリスクを通算した結果、メリット、ベネフィットが上回るため、コロナ対策としてのロックダウン的な規制を否定、原発を再稼働という主張は理解できます。
ただその一方で、学術会議を解体するべきという意見が同じ視座から出されているのであれば、どうにも得心できないわけです。問題の多い学術会議を解体する(=消滅させる)ことは、例えばリスクをゼロにするため原発の稼動を認めないことと通底しているように映ります。
学術会議については上述の通算の結果、メリット、ベネフィットなしとされたのでしょうか。勿論、社会や市民にとってです。
何かが在るということは自動的に何らかのデメリットやリスクを伴うことに他ならないと考えます。このマイナス分とメリット、ベネフィットとの差分が有用であれば、それこそがその何かの存在理由です。
その上で消滅を求めるということはこの差分がマイナス、つまり学術会議は社会に損失を与えているという理屈になります。学術会議を消滅させればそのデメリットやリスクはゼロになりますから、ある意味ゼロリスクを要求しているわけです。
福島原発の事故が起こっても尚原発の稼動を求める、新型コロナウィルスの感染が警戒されている中、コロナ禍前の経済活動求める、こういったリスクを許容して差分のメリット、ベネフィットを追求するという姿勢を理解できないわけではありません。しかしながら、その一方で学術会議のゼロリスクを求めて解体・消滅を提案するというのも整合性が欠けています。
ダブルスタンダードとの印象は払拭できませんが、同一人格の中で、リスクを許容する事物とゼロリスクを求める事物、両者を何が隔てているのか、興味深い処です。
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