2020年9月7日月曜日

損益

 未だ収束する目処が見えないコロナ禍の中で、

――ゼロリスク(感染者、若しくは死亡者ゼロ)を求めるべきではない――

――社会は一定程度の被害は許容すべきだ――

――許容できる被害は受け入れて経済活動を続ける

べきだ――

或いは 

――経済活動を止めないためにある程度の被害はやむを得ない――

といった論調が目につくようになってきました。損益とか費用対効果、生産性の視点からは、この考え方には合理性、妥当性があるのはその通りです。

しかしながら、だからと言って諸手を挙げて支持するには至っていません。躊躇を覚える、というのが正直な処です。
それはおそらく、この合理的な考え方の中にいくつかの整合性のない部分、詳細を詰めていくと論理性を欠いている部分が窺え、そこにもやっとした違和感を覚えるのだろうと思料しています。

そういった部分に論理的で明解な説明が与えられることを願っているわけですが、未だ得心できる論考に遭遇できていません。自分自身の立ち位置は、上記考え方を否定する意図は毛頭なく、むしろ不明瞭な部分、首肯するに当たり引っかかる部分が解明、解消され、素直に該考え方を支持したい立場であることを
明確に記しておきます。

こういった話題の場合、しばしば、

――そんなことを言っていたら何もできない――
――それなら対案を出すべき――

的な意見を見聞しますが、これこそ非論理的な応答の最たるものです。論点を逸らすことで異論や疑問を封じ込め、自らの主張を不可侵にしようとする姿勢にはとても与することはできません。

例えば、太平洋戦争において、対米開戦を上奏した旧海軍、旧陸軍にも、米国との国力差を鑑みて”戦勝の見込みはない”という認識が少なからずありました(海軍軍令部条約派や陸軍主計課)。であるにも、対米開戦の口火となる真珠湾攻撃を仕掛け、その後は周知の通り敗戦に向かうわけです。

”短期の攻撃で早期講和に持ち込む。そこで有利な講話条件を引き出すために日本の戦力を誇示する。”

といった考えもあったようですが、結果は記すまでもありません。その目論見は勿論外れたわけですが、仮に真珠湾攻撃以降、局地戦での連勝があったとしても、

”あれっ!案外いけるんじゃないか?日本軍最強!”

といった勘違いが生まれ、敗戦の結果は相違しないであろうことは容易に想像ができます。本質的に軍隊という組織は拡大志向ですし。(既にそういった雰囲気は醸成されていたかもしれません。)

この開戦の意思決定の場にも、上述の

――そんなことを言っていたら何もできない――

という空気が主戦派から醸しだされていたのだろうと推察します。



さて、先述したもやっとした違和感を抱いている点について記します。このもやもや感が解消される合理的説明を未だ見出していません。

1)”ゼロリスク”なる語はいつから使われだしたか

以前も記したのですが、20〜30年前にはゼロリスクという語を耳にした記憶がありません。よく耳にするようになったのは福島原発の事故以降です。原発の再稼働を巡る議論のなかで頻出するようになったという認識です。この時は、Googleで2011年03月10日から遡ってゼロリスク”、”原発”というキーワードで検索してみたのですが、”原発のリスクがゼロではない”ことに触れたサイトは見つかりませんでした。

改めて、同期間の”ゼロリスク”という語の使われ方について検索してみますと、幅広い分野でこの語は使用されているようでした。概観してみた処、時は、食品添加物、遺伝子組み換え農作物といった食品の安全についてのゼロリスク云々が注目されていたようです。冒頭に記したようなワクチンのない感染症拡大期のゼロリスク信仰の否定して、感染者、重篤者、死亡者が一定程度発生することは許容すべきだ、といったより過酷な状況下での判断を論考したサイトはなかったと思います。

感染症関連では、
感染症でもゼロリスクを求めると、エイズや肝炎患者等の完全な差別につながる。かってのハンセン病患者の隔離もこれに無縁ではない。明治の伝染病研究所反対運動、昭和初期の荏原病院移転反対運動など、日本人が如何に感染症のゼロリスクを求めてきたか、と云う歴史のあることは 銘記してよい。 
第26章:安全性論議の補足とまとめ 微生物学講義録 前国立感染症研究所長 吉倉 廣 著 2004年3月19日)

や、ワクチンの副作用について言及、
ワクチンの副作用という目の前の小さなリスクに目を奪われ、病気というより大きなリスクを招き寄せるのでは何もなりません。不確定性原理のようなもので、リスクというものは全くのゼロにすることはできず、人が何かをする限り必ず何らかの形でリスクはつきまといます。エコナの件でもそうですが、実際にはありえないゼロリスクを目指してしまう過剰な傾向が、我々の暮らしに様々なデメリットを呼んでしまっている気がしてなりません。
ゼロリスク症候群  2009年10月1日)
はありました。

尚、原発とゼロリスクに関しては、検索されたPDFファイルについても調べてみた処、言及のある文書がありました。文書の公開当時、その内容が原子力行政や社会にどの程度影響を及ぼしたかは存じません。ただ、そういった言及ががあったにも拘らず、又、あったとしても、或いは、あったが故に、対策が不十分なまま福島原発の過酷な事故が発生したことは否定できない事実です。

2011年03月10日以前、原発とゼロリスクについてどういった言及があったか、公開日時順に少し引用しておきます。

リスクとのつきあい方 

•リスクは災害そのものではなく、その可能性の予測にすぎない

•したがって正しい予測をするためには、関連する状況を見通す想像力を必要とする

•またすべてのリスクは相互依存的である。一つのリスクが他のリスクによって相殺されることもあれば、 逆に相乗的に働くこともある。それに便益やコストとの関係も相互的である

•このようなリスクと付き合うためには、全体をシステムとして把握する広い視野を必要とする

付き合い方:つづき

•リスクには自分で回避ないし低減できるものと、そうでないものがある。

•自分で低減できるものは、自助努力するのがまず第一。例えば岩登り・ボクシングや飲酒・喫煙などは、 危険だと思えば自分で避ければよいし、またそれが可能である

•それには、まず事前に注意を払う、自己の能力をわきまえる、リスクを分散する、無理をしないなど、昔から伝わる手法は沢山ある

付き合い方:つづき2

•自分で低減できないリスク、例えば地震・食品添加物、原発などのリスクは、他者の力に依存するほかない

• そこから出てくるのが、信頼できる他者の存在である

•信頼できる相手が安全を保証した場合、私たちはそれを信用してリスク低減を相手にゆだねる

•ところがこれまで、リスク低減の主体となる行政や企業はあまり信頼されてこなかった

付き合い方:つづき3

•その最大の理由は、行政や企業が十分情報を開示せず、「知らしむべからず依らしむべし」「寝た子を 起こすな」といった政策をとっていたからである

•一方国民の方も十分な知識を持たないまま、素朴な感情論を展開していた

•これでは実りのある議論が展開されるはずがない。そこで必要なのが、関係者が問題を共考する技術である 

島根県の原子力防災関連資料 公開日時不明)

現実問題としてゼロリスクを達成することはきわめて困難である中で、原発の原子炉事故、核廃棄物とその処理についてゼロリスク要求が高いゼロリスク要求についての領域分類: 認知的特性の探索的研究 2002年、という報告もありました。

リスク認知の構造とその国際比較2002年リスク社会における判断と意思決定(2006年)ゼロリスク実現が不可能であることを踏まえて、リスクの認知構造やその理由についての分析、論考です。強いゼロリスク要求(=強い不安感)の典型例として原発が取り上げられています。
原子力発電所の危険性とその安全対策を合理的かつ定量的に評価するため、原子力安全 委員会ではリスクの考え方を取り入れ、確率論的安全評価に基づいた安全目標の考え方を 打ち出している。安全で安心な世界と社会の構築に向けて-安全と安心をつなぐ- 日本学術会議 2005年 P.36)

では”ゼロリスク”という語は用いられていないものの、”確率的安全評価”という語で原発のリスクはゼロにならない、ゼロリスクが不可能であることが認識されています。 

原子力は、きちんと扱えば安全でも危険だと思っている人がいる(食い違いあり)。原子力は確率的に安全であるのに、不安だと思われている。合意形成に結びつける技術としてリスコミが必要だといえる。談話会レポート「リスクとリスク認知」2009年6月18日)
は、ゼロリスク要求の解消のための、根本にある不安感を取り除く必要性と、その技術としてリスク・コミュニケーションの重要性が提言されています。ここでは原発は(確率的に)安全であることが前提になっています。
「1基当たりの炉心損傷頻度は年当たり1万分の1程度以下、1 基当たりの格納容器機能喪失頻度は年当たり 10 万分の1程度以下とし、両方が同時 に満足されること」リスクに対応できる社会を目指して 日本学術会議 2010年 P.7)
上記は、事故の発生確率が1/10000、1/100000とゼロでない目標が設定されている例です。ここでも確率的安全目標が用いられていて、前提がゼロリスク実現は不可能であることを窺わせます。

2011年3月11日までの時点ででも確かに原発に関連付けた”ゼロリスク”なる語の使用は確認できました。ただ総じて、ゼロリスク実現が不可能であることを揺るぎない事実として、それでもなぜゼロリスクを求めてしまうのか、といった分析や考察、講じるべき方策などについての論考、報告でした。これらは学識経験者からの報告や論文をPDFファイルの形式でネットに公開されていました。想定している読者が一般市民ではないことはほぼ間違いありません。

一方、2011年3月11日以降は、専門家向けではない、どちらかと言えば一般市民向けのより多くのwebサイトで、”ゼロリスクを求めるな”的な意見が目につくようになっています。

そして、冒頭に記した、ゼロリスク信仰の否定や被害を一定程度許容することに対する躊躇、違和感の原因についても該PDFファイルで得心しました。その一つは以前のエントリでも記した信頼性の欠如です。前の島根県の原子力防災関連資料から該当する部分を引用します。
ゼロリスクはあり得ない 
• 科学技術の急速な進歩によって、私たちは非常な便益を得た、自動車しかり、インターネットしかり、医 療技術しかりである 
• しかしその盾の反面として、それらの技術には、必ずリスクが含まれている。例外はない 
• 自動車もあの便利さの背後に、年間1万人近い人を殺す「走る凶器」の側面を持っている
 

ゼロリスク:つづき
• あらゆる科学技術にゼロリスクがあり得ないのは自明の理なのに、これまで関係者はそれを主張してきた 
• 例えば促進側の行政や企業は、 無 謬 むびょう 主義の立場から「事故は絶対に起こらない」と主張することが 多かった 
• 逆に反対派は、強硬に「ゼロリスク」を主張することが多かった
(略)

付き合い方:つづき2 
• 自分で低減できないリスク、例えば地震・食品添加物、原発などのリスクは、他者の力に依存するほか ない 
• そこから出てくるのが、信頼できる他者の存在である
• 信頼できる相手が安全を保証した場合、私たちはそれを信用してリスク低減を相手にゆだねる 
• ところがこれまで、リスク低減の主体となる行政や企業はあまり信頼されてこなかった

付き合い方:つづき3 
• その最大の理由は、行政や企業が十分情報を開示せず、「知らしむべからず依らしむべし」「寝た子を 起こすな」といった政策をとっていたからである
• 一方国民の方も十分な知識を持たないまま、素朴な感情論を展開していた
• これでは実りのある議論が展開されるはずがない。そこで必要なのが、関係者が問題を共考する技術 である


共考と合意形成の手法
• リスクに関係する人びと(stakeholder という)が実りある議論を交わし、リスクに対応するにはそれなりの 技術を必要とする 
• その技術は相手を説得することではなく、フェアな情報を共有し、相互に意見を交換し、共考する技術で ある 
• 具体的にはリスクコミュニケーション、コンセンサス会議、stakeholder dialogue、public participation など いろいろの手法がある 安全と安心のキーワード 
• 複雑で多様な構造を持つ現代社会において、すべてのリスク対象に対して正確な知識をもって対応せ よといわれても、現実問題として困難である
• 最低限の自助努力はもちろん必要だが、残る部分をカバーするのは相手への信頼である
• 安全と安心の社会を作るためには、何よりも「信頼社会」を作ることが先決である
認識しておくべき部分は、福島原発の事故以前でも、該資料で行政の無謬性、行政によるゼロリスクの明言の危うさは既に指摘されていて、しかしながら、それでも事故は防げなかったということです。事故以前は”日本の原発は安全です”といった断定的な姿勢と、”そんな(極小確率)のリスクなど考えていたら原発なんて作れなくなる”といった主張が大勢で、確率的な安全を絶対的な安全と誤認しました。それが本来防止できたはずの事故対策を怠った一因となり、後の重大事故発生に繋がっていったわけです。

次のエントリに続けます)

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