少し時が早いかもしませんが...
十分に冷やしたゴーヤーチャンプルーの丼について触れずして初夏〜盛夏の料理について語る...
そういった輩の投稿、口コミに果して信憑性があるのでしょうか。
補遺
トマトと卵の中華風炒めの丼を追加致します。(但し、よく冷やした場合に限ります。)
このブログを始めるきっかけとなった、 ”唇からナイフ もしくは余計なお世話” を運営されているルキウスさんに感謝致します。 示唆に富んだ記事により、”思考する”機会を私に与えて頂きました。
2013年5月25日土曜日
2013年5月21日火曜日
記憶
あるブログで紹介があったので読んでみました。
この日本で生きる君が知っておくべき「戦後史の学び方」 池上彰教授の東工大講義(池上彰)
15項目の戦後史のトピックスについて解りやすく解説してあります。
ただ、この本そのままが理系大学生の初年度一般教養の内容とするなら概略過ぎるかな、といった印象です。詳述すれば、各々の項目だけで専門書何冊にもなってしまうテーマばかりです。しかしながら、数項目についてでもその思想的背景、歴史的経緯、他国との比較、現状と今後の展望などもう少し堀下げた内容が、大学生向け講義として適当だろうと思いました。例え理系であったとしてもです。
この本の内容のみに限るなら、戦後史に興味のある高校二、三年生向きといったところでしょうか。
いい年した私自身にとって、生徒、学生、社会人時代を通じ、正に新聞、テレビで現在進行中の事件として見聞した項目もあり、今となっては曖昧な記憶が改めて思い出される部分もあります。勿論、当時、初等教育過程で語られなかったことについては新たな事項として...
例えば、”日教組”の説明など、その当時一体誰が解説し得たのか、少なくとも周囲には誰もいませんでした。偏った情報が与えられず良かったのかもしれませんが...
”日教組”含め未だ疑問がある幾つかの項目があります。いずれ機会があれば記すつもりです。
この日本で生きる君が知っておくべき「戦後史の学び方」 池上彰教授の東工大講義(池上彰)
15項目の戦後史のトピックスについて解りやすく解説してあります。
ただ、この本そのままが理系大学生の初年度一般教養の内容とするなら概略過ぎるかな、といった印象です。詳述すれば、各々の項目だけで専門書何冊にもなってしまうテーマばかりです。しかしながら、数項目についてでもその思想的背景、歴史的経緯、他国との比較、現状と今後の展望などもう少し堀下げた内容が、大学生向け講義として適当だろうと思いました。例え理系であったとしてもです。
この本の内容のみに限るなら、戦後史に興味のある高校二、三年生向きといったところでしょうか。
いい年した私自身にとって、生徒、学生、社会人時代を通じ、正に新聞、テレビで現在進行中の事件として見聞した項目もあり、今となっては曖昧な記憶が改めて思い出される部分もあります。勿論、当時、初等教育過程で語られなかったことについては新たな事項として...
例えば、”日教組”の説明など、その当時一体誰が解説し得たのか、少なくとも周囲には誰もいませんでした。偏った情報が与えられず良かったのかもしれませんが...
”日教組”含め未だ疑問がある幾つかの項目があります。いずれ機会があれば記すつもりです。
期待
乙武洋匡氏の入店拒否騒動についてですが、双方の持つ期待のミスマッチということなんでしょう。共に各々が想定していた訪客、飲食店のイメージと実際との間に隔たりがあったわけです。
店側は、まさかエレベータの止まらない階にあり、階段での昇降の際も必ずしも空間的に余裕のない自分の店に、知名度はともかく、介助を必要とする予約客が訪問するとは思わなかった。一方、乙武氏も予約の際、車椅子であることを事前に伝えていなかった。おそらく、これまでの飲食店訪問で、それほど大きなトラブルがなかったのでしょう。或は、御自分の知名度が念頭にあり名前を出せば察してくれるだろう、といった部分があったのかもしれません。
いずれにせよ、両者がこれまで経験のない場面に遭遇した、で、物理的に解決困難という状態の中、各々の姿勢が衝突した、といったところでしょうか。事前に回避し得た問題です。
残念ながら、特に小規模な店舗、特にビル内にテナントとして入居、営業している店舗において、いわゆるバリアフリーの構造が満たされていない事例は珍しくありません。従って、事前に車椅子での訪問であること、来店に介助が必要であることを伝えてさえおけば、準備するなり、予約を断る等の対応が可能となり、騒動にまで至らなかったと考えます。
ところで、私達は飲食店に何を期待するのでしょうか。勿論、味、量、価格、雰囲気、サービス等全てに満足できればこの上ありません。しかしながら、当然、価格とそれ以外の項目はトレードオフの関係になっています。例えば、食べログ等の匿名投稿サイトでは常設屋台のような飲食店でサービスが...とか乳幼児同伴を想定した飲食店で子供が騒がしい、と低い評価をつけた投稿をしばしば目にします。
上記項目全てを満たそうとする飲食店もあれば、一つの項目には特に拘って注力する飲食店もあります。これは正に飲食店のスタイルであり、責めるべき根拠は客側にはないのではないでしょうか。
ネットワーク上には、事前に伝えずとも対応するべきだとか、米国では...といった声があるようですが、法的な整備が十分でない時期に建築された商業ビルにバリアフリー構造が満たされていない事実からは逃れられません。又、一部の優位な部分だけを取り上げて、欧米では...だから日本は...といった考えには全く与できません。
件の店で、”料理と共に最高のサービスを提供します”とでも唱っているならともかく、サイト上にもエレベータが止まらない旨表示があるわけですから、確認しておくべきだったと考えます。予約時点で確認できていれば、そういった店であり、こちらの望むサービスは難しい、事前に準備するかキャンセルするかの選択も可能でした。
私自身は名古屋郊外に居住し、乗用車での移動がほとんどです。そのため、市内中心部で飲食する際には必ず当該店舗の駐車場の有無を確認します。ただ、駐車場がないからといって劣った飲食店という判断はしません。
下調べも疎かに初めて訪れた店が定休日だった、営業時間外だったとして、果してその店を責められるでしょうか。
さかもと未明氏の騒動の原因となった、公共の交通機関への乳児の帯同と同根のものを感じ、更に、手前勝手に考えればモバイル機器の発達による、”段取る力”の低下の一端が垣間見えた気がしました。
現状を直視し、如何に問題を未然に防いで、円滑、できれば愉快に物事を進めるべく段取るには、といった視点に重きを置くべきと考えます。
店側は、まさかエレベータの止まらない階にあり、階段での昇降の際も必ずしも空間的に余裕のない自分の店に、知名度はともかく、介助を必要とする予約客が訪問するとは思わなかった。一方、乙武氏も予約の際、車椅子であることを事前に伝えていなかった。おそらく、これまでの飲食店訪問で、それほど大きなトラブルがなかったのでしょう。或は、御自分の知名度が念頭にあり名前を出せば察してくれるだろう、といった部分があったのかもしれません。
いずれにせよ、両者がこれまで経験のない場面に遭遇した、で、物理的に解決困難という状態の中、各々の姿勢が衝突した、といったところでしょうか。事前に回避し得た問題です。
残念ながら、特に小規模な店舗、特にビル内にテナントとして入居、営業している店舗において、いわゆるバリアフリーの構造が満たされていない事例は珍しくありません。従って、事前に車椅子での訪問であること、来店に介助が必要であることを伝えてさえおけば、準備するなり、予約を断る等の対応が可能となり、騒動にまで至らなかったと考えます。
ところで、私達は飲食店に何を期待するのでしょうか。勿論、味、量、価格、雰囲気、サービス等全てに満足できればこの上ありません。しかしながら、当然、価格とそれ以外の項目はトレードオフの関係になっています。例えば、食べログ等の匿名投稿サイトでは常設屋台のような飲食店でサービスが...とか乳幼児同伴を想定した飲食店で子供が騒がしい、と低い評価をつけた投稿をしばしば目にします。
上記項目全てを満たそうとする飲食店もあれば、一つの項目には特に拘って注力する飲食店もあります。これは正に飲食店のスタイルであり、責めるべき根拠は客側にはないのではないでしょうか。
ネットワーク上には、事前に伝えずとも対応するべきだとか、米国では...といった声があるようですが、法的な整備が十分でない時期に建築された商業ビルにバリアフリー構造が満たされていない事実からは逃れられません。又、一部の優位な部分だけを取り上げて、欧米では...だから日本は...といった考えには全く与できません。
件の店で、”料理と共に最高のサービスを提供します”とでも唱っているならともかく、サイト上にもエレベータが止まらない旨表示があるわけですから、確認しておくべきだったと考えます。予約時点で確認できていれば、そういった店であり、こちらの望むサービスは難しい、事前に準備するかキャンセルするかの選択も可能でした。
私自身は名古屋郊外に居住し、乗用車での移動がほとんどです。そのため、市内中心部で飲食する際には必ず当該店舗の駐車場の有無を確認します。ただ、駐車場がないからといって劣った飲食店という判断はしません。
下調べも疎かに初めて訪れた店が定休日だった、営業時間外だったとして、果してその店を責められるでしょうか。
さかもと未明氏の騒動の原因となった、公共の交通機関への乳児の帯同と同根のものを感じ、更に、手前勝手に考えればモバイル機器の発達による、”段取る力”の低下の一端が垣間見えた気がしました。
現状を直視し、如何に問題を未然に防いで、円滑、できれば愉快に物事を進めるべく段取るには、といった視点に重きを置くべきと考えます。
2013年5月17日金曜日
反応
橋下大阪市長による件の発言に対する内外の批判について思ったところを少し、
朝日の報復なのか?
中国から人権について批判されるとは ...
どの口が...と失笑を禁じ得ません。
超保守稲田行革相 、橋下発言を全く擁護せず。人権化活動家に転向か?
目の錯覚なのか?現政権が中道寄りに見えてしまいます。
それはさておき、橋下氏は公教育を主導するべきではない、と改めて感じました。勿論、橋下氏以前を肯定するものではありません。教育に関する理念の不備を真っ当に是正することこそ喫緊の課題と考えます。
朝日の報復なのか?
中国から人権について批判されるとは ...
どの口が...と失笑を禁じ得ません。
超保守稲田行革相 、橋下発言を全く擁護せず。人権化活動家に転向か?
目の錯覚なのか?現政権が中道寄りに見えてしまいます。
それはさておき、橋下氏は公教育を主導するべきではない、と改めて感じました。勿論、橋下氏以前を肯定するものではありません。教育に関する理念の不備を真っ当に是正することこそ喫緊の課題と考えます。
2013年5月16日木曜日
終焉
ルキウスさんのブログに
”鮨屋のクレジットカード問題”
といったエントリがあります。
――鮨屋でカードはどうなのか――
といった内容です。
とんと高級寿司屋とは御無沙汰の私から見れば、現金払いの姿の方がこざっぱりと映ります。ただ、予め予算を想定して銀行で新券を用意しておくのもなあ、と感じています。そこからが寿司を喰うということの始まりかもしれませんが、”気分でちょっと摘んでいこうか”といった緩い気持で訪れるということへのハードルが上がってしまいます。カード払いはそういったフットワークの軽い利用を促してくれるのではないかと...
カードの利用手数料の別途徴収についてはよく判りません。おそらく、”機会を逃しません”とか”未払いがありません”といったカード会社、或は、その代理店の甘言に誘われて契約してしまったのではないでしょうか。
で、契約してみたら勝手に口銭を取られ、不愉快だが契約期間もあるし、初期投資もあるのでなかなか解約できない、と邪推しています。カード会社との契約当初から手数料を、といった飲食店もあるかもしれません。
この話についてはここでこれ以上言及するつもりはありません。
本エントリで私が考えたことは、果して、銀行振り込みは歓迎されるのだろうか、ということです。大仰ではありません。スマートフォン始めモバイル端末とネットバンクの組み合わせで、同一行ならばほぼ時間を問わず瞬時に振り込みが完了してしまいます。振り込み手数料も毎回ではないにしても月にx回までは無料、といったネットバンクもあります。
このxが今後増大し、店も客もカード会社を飛ばして理不尽な中抜きを排除する方向に進むべきと考えます。現金一回払いの飲食客にとっては何ら問題ないどころか、社会の中に介在する出納システムの効率が向上していくのではないでしょうか。(支払いを翌月に、或は、分割で、といったカード払いの方はそもそも借金ですから高級寿司屋に行くべきではないでしょうし...)
問題が銀行とカード会社が同根であり既得権益を排除し、自発的にシェイプアップできるか否かでしょう。
これが相当困難かもしれません。
――では、直ちに振り込みますので口座番号を――
武骨すぎて却って共感を呼ばないでしょうか?
”鮨屋のクレジットカード問題”
といったエントリがあります。
――鮨屋でカードはどうなのか――
といった内容です。
とんと高級寿司屋とは御無沙汰の私から見れば、現金払いの姿の方がこざっぱりと映ります。ただ、予め予算を想定して銀行で新券を用意しておくのもなあ、と感じています。そこからが寿司を喰うということの始まりかもしれませんが、”気分でちょっと摘んでいこうか”といった緩い気持で訪れるということへのハードルが上がってしまいます。カード払いはそういったフットワークの軽い利用を促してくれるのではないかと...
カードの利用手数料の別途徴収についてはよく判りません。おそらく、”機会を逃しません”とか”未払いがありません”といったカード会社、或は、その代理店の甘言に誘われて契約してしまったのではないでしょうか。
で、契約してみたら勝手に口銭を取られ、不愉快だが契約期間もあるし、初期投資もあるのでなかなか解約できない、と邪推しています。カード会社との契約当初から手数料を、といった飲食店もあるかもしれません。
この話についてはここでこれ以上言及するつもりはありません。
本エントリで私が考えたことは、果して、銀行振り込みは歓迎されるのだろうか、ということです。大仰ではありません。スマートフォン始めモバイル端末とネットバンクの組み合わせで、同一行ならばほぼ時間を問わず瞬時に振り込みが完了してしまいます。振り込み手数料も毎回ではないにしても月にx回までは無料、といったネットバンクもあります。
このxが今後増大し、店も客もカード会社を飛ばして理不尽な中抜きを排除する方向に進むべきと考えます。現金一回払いの飲食客にとっては何ら問題ないどころか、社会の中に介在する出納システムの効率が向上していくのではないでしょうか。(支払いを翌月に、或は、分割で、といったカード払いの方はそもそも借金ですから高級寿司屋に行くべきではないでしょうし...)
問題が銀行とカード会社が同根であり既得権益を排除し、自発的にシェイプアップできるか否かでしょう。
これが相当困難かもしれません。
――では、直ちに振り込みますので口座番号を――
武骨すぎて却って共感を呼ばないでしょうか?
2013年5月14日火曜日
余裕
過日、お世話になった閑栖和尚様(隠居した禅僧のこと)の津送に参列したことがあります。僧俗問わず、又、社会的にも広く敬慕されていた方の葬儀であり、非常に多数の会葬者が参列した規模の大きな式でした。
この式は勿論ある意味公人の式ですから、一般個人の葬儀と規模も内容も異なりました。ただ、傍から見ていて、式を卒なく進行していくために相当な労力が段取り、下準備にかけられている、といった印象を持ちました。
一方、私の周囲で見聞する一般個人の葬儀は以前より更に簡素化が進んでいます。同居の親族だけ執り行う家族葬も全く珍しくありません。この傾向は例えば、”葬式は、要らない”(幻冬舎新書)や、しばしば週刊ダイヤモンド等雑誌の葬儀特集といった、出版物がきっかけではなく、既存のそういう共通認識が該出版物になったと捉えています。(この認識の正否、出版物の信憑性については言及しません。)
では、この共通認識の根源はどこにあるのでしょうか。結婚式と異なり、場合によっては不本意で、不慣れな弔事を葬儀社に依頼することの不確かさ、不透明性は勿論あり、それが葬儀の簡素化へ向けさせているのは確かでしょう。
ただ、それだけではなく、スマートフォンを含む携帯に象徴される、”直ちに解を手に入れたい”、といった姿勢も多分に影響しているように感じます。
もはや、待ち合わせという表現が適切とは思えませんが、時間も場所も予め決めないで携帯で通話しながら落ち合うことが当り前の”待ち合わせ”になっています。
所定の時間内に、特定の場所に到着する、そのために何時に家を出てどの交通機関を使うか。そういった、ある目的を達成するために必要な行動は何か、どの行動が最適なのか、更にその準備等、いわゆる段取る力の低下、若しくは、段取ることの回避が該共通認識の一因にもなっている気がします。
通勤、通学の時間中、或は、旅行の移動中、手持ち無沙汰でメールをチェックしたり、サイトにアクセスする、時間の有効活用という見方も否定しません。ただ、思考するという視点からは、モバイル機器を所持せず、傍目には車窓を漫然と見ているようであっても、その日の段取り、懸案事項、些細な疑問、高遠な問題に思いを巡らせる方が時には有効ではないだろうかと思ったりします。
こういった、考えることに割ける余裕が狭められていく風潮、これがモバイル機器によるものなのか、その象徴がモバイル機器なのかはわかりません。
いずれにせよ、”段取る”に代表される、思考力の低下、若しくは、思考の回避も上記傾向の要因の一つではないだろうかと憶測しています。
”スマートフォンやタブレットを使いすぎると頭が悪くなるんじゃないか”
を拝読してそんな思いが頭を過りました。
この式は勿論ある意味公人の式ですから、一般個人の葬儀と規模も内容も異なりました。ただ、傍から見ていて、式を卒なく進行していくために相当な労力が段取り、下準備にかけられている、といった印象を持ちました。
一方、私の周囲で見聞する一般個人の葬儀は以前より更に簡素化が進んでいます。同居の親族だけ執り行う家族葬も全く珍しくありません。この傾向は例えば、”葬式は、要らない”(幻冬舎新書)や、しばしば週刊ダイヤモンド等雑誌の葬儀特集といった、出版物がきっかけではなく、既存のそういう共通認識が該出版物になったと捉えています。(この認識の正否、出版物の信憑性については言及しません。)
では、この共通認識の根源はどこにあるのでしょうか。結婚式と異なり、場合によっては不本意で、不慣れな弔事を葬儀社に依頼することの不確かさ、不透明性は勿論あり、それが葬儀の簡素化へ向けさせているのは確かでしょう。
ただ、それだけではなく、スマートフォンを含む携帯に象徴される、”直ちに解を手に入れたい”、といった姿勢も多分に影響しているように感じます。
もはや、待ち合わせという表現が適切とは思えませんが、時間も場所も予め決めないで携帯で通話しながら落ち合うことが当り前の”待ち合わせ”になっています。
所定の時間内に、特定の場所に到着する、そのために何時に家を出てどの交通機関を使うか。そういった、ある目的を達成するために必要な行動は何か、どの行動が最適なのか、更にその準備等、いわゆる段取る力の低下、若しくは、段取ることの回避が該共通認識の一因にもなっている気がします。
通勤、通学の時間中、或は、旅行の移動中、手持ち無沙汰でメールをチェックしたり、サイトにアクセスする、時間の有効活用という見方も否定しません。ただ、思考するという視点からは、モバイル機器を所持せず、傍目には車窓を漫然と見ているようであっても、その日の段取り、懸案事項、些細な疑問、高遠な問題に思いを巡らせる方が時には有効ではないだろうかと思ったりします。
こういった、考えることに割ける余裕が狭められていく風潮、これがモバイル機器によるものなのか、その象徴がモバイル機器なのかはわかりません。
いずれにせよ、”段取る”に代表される、思考力の低下、若しくは、思考の回避も上記傾向の要因の一つではないだろうかと憶測しています。
”スマートフォンやタブレットを使いすぎると頭が悪くなるんじゃないか”
を拝読してそんな思いが頭を過りました。
2013年5月13日月曜日
効率
先日、京大で催された作家、村上春樹氏の講演について報道がありました。その際、2011年スペイン講演での内容の一部、過酷事故の要因ともされる原発推進政策の駆動源を”効率優先”にあるとした部分を偶々耳にし、違和感を覚えました。遅ればせながら思うところを記します。
私は、効率化志向がむしろ不十分ではなかったのではと考えます。後講釈ではありますが、事故の発生確率、被害の程度を含めた安全性、核廃棄物の処理等をも繰り入れて効率性を公正に評価したならば、それでも原発は発電システムとしての優位性は揺るぎないものだったのでしょうか。
実は、公正な評価を歪める圧力が本来効率性に含めて考慮すべき部分を排除、少なくとも、過少評価し、単に(発電単価)=(効率)としてしまったと憶測しています。この”公正な評価を歪める圧力”が意図的なものであったか否かについては不明ですが、この力が愚直に効率向上を図る、合理的に選択する姿勢を損なってきたのではないかということです。
勿論、結果論との自覚はあり、その指摘を否定しません。私自身は事故以前は漠然とですが原発はやむを得ないという立場でした。現在は電力需要、効率化に纏わる疑問についての理解が進むまで是非の判断を留保しています。
以上は電力を供給する側の効率についてです。一方、消費側の視点に立っても効率化志向がむしろ不十分では、といった印象を持っています。
とりとめもなく挙げてみます。各々についていずれ詳細に言及できれば、と思っています。
例えば、”色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年”も旧来からの書籍の形とせず、電子書籍として出版すれば、製本に必要な素材始め、印刷、製本、流通は不要になります。書店での展示、在庫どころかリアルの店舗すら価値は縮小します。電子書籍として販売という形態にすれば、従来からの広告宣伝や販売促進にかける資源もかなりの効率化ができると考えます。
究極には、無償化してしまえばすれば出版社抜きで読者に直接作品を配本できるのではないでしょうか。
2.出版
毎年、莫大な量の書籍が上梓されます。その中で資源を消費して出版し、本という形態に留めておきたい、価値ある書籍がどれほどあるのでしょう。例えば、”ハダカの美奈子”、出版の必要があるのでしょうか。資源の浪費です。
3.テレビ放送
地上波とBS、チャンネル数を一方だけに削減、民放放送局を半減、地方局を解散しても社会に大きな影響はないと考えます。放送時間の短縮も効率化の一助ではないでしょうか。
例えば、天気予報、気象予報士という資格制度が創設される以前から、各局で定時に天気予報が放送されていましたが、現在ではオンデマンドで地デジのデータ放送やネット経由で天気予報を知ることができます。
各局が重複して天気予報を放送する意義をそれほど感じません。
報道番組についてもかなりの部分で重複している印象を持っています。
ただ、米議会調査局の報告書に関する報道(2013.5.11)のように必ずしも重複せず各局の思惑が見え隠れする場合もあります。該報告書内の従軍慰安婦(comfort girls)に関する記述が報道されたり、されなかったりで、局によって差がありました。
しかしながら、こういった差異は分かりにくく、建前で中立公正を唱うならば、いっそ偏向した報道姿勢を明確にする方がわかりやすく望ましいと考えます。
4.食料品
勿論、鮮魚店や精肉店も行きますが、他にも食料品を求めて成城石井、北野エース、西友、農協等によく赴きます。デパ地下の食品売場を訪れるのは年に一度でしょうか。デパ地下に限らずデパートは行く毎に気分を害することが多いので...
それはさておき、こういったスーパーには常に食料品が溢れています。当たり前のように、通常販売の食品に加え、相当量の賞味期限間近の食品、消費期限が近い食材が日々並べられています。-20%、-30%、半額といったシールが貼付けられたいわゆる見切り品の販売は以前よりかなり目立って顕著になったと感じています。需要と供給、価格の均衡が欠けた、余剰感を強く印象づけられます。
こういった見切り品、特に生鮮食材については購入、消費されなければ廃棄されるのでしょう。追跡、調査したことはありませんが、飲食店からの廃棄分も加えれば、日々膨大な食品廃棄物が生まれているのは明らかです。
”世界で生産される食料の半分が無駄に=英報告書”
身近な理不尽な例:“怒りのおでん”
原発に関わらずですが、これら食品廃棄物の”生産”、”廃棄”のために電力が消費されることに釈然としないものがあります。この現状で原発再稼働を、と宣われても...
全てではないでしょうが、”ゴミを生産して処理するのに電力が足りない”と見受けられる部分もあり、違和感を感じます。
原発再稼働とか食糧自給率を云々する以前に、食に纏わる最適化、効率化が図られるべきであり、その余地は十分にあるものと考えます。
今更、言及しませんが必要性を感じません。電力の供給余力が逼迫した場合、原発再稼働より前にパチンコ店の営業停止を優先すべきと考えます。
詳細は存じませんがかなり以前からカジノ合法化の検討が続けられています。同様な理由で賛同するつもりはありませんがパチンコ産業の解体、廃止と引換の公営カジノ運営ならば一考するかもしれません。
石原御大がそこまで踏み込むなら、その部分では見方を少しは変えようかと...
6.スマートフォン
私の周囲でも多少はスマフォ利用者を見かけるのですが、生産的に活用されているのでしょうか。用途は会話、メールの送受信、ゲーム、地図、飲食店探し、株式取引、写真撮影、携帯音楽プレイヤー、通販、電子書籍端末、掲示板への投稿といったところでしょうか。
便利かもしれませんが生産的なのでしょうか?むしろ生産的活動に費す機会が削がれているように思えてなりません。確かに、便利という点では効率は向上しているのかもしれませんが、費用対効果は如何なものでしょうか。
ネットワークの効用を否定したりスマフォの機能を過小評価する意図は毛頭ありません。ただ、いわゆる業務での利用はさておき、スマフォの端末としての機能、性能、携帯性、ネットワークの利便性を十分活かし、相応して利用されているのだろうか。少なくとも上述の用途からはそれが窺えません。
これら用途に対しスマフォでなければならない理由が見当たらず、強いて言えば全てを1台で賄えるといった程度です。このことと、スマフォなど本来不要であろう利用者層の存在が、リソースの浪費のように見え、かえって非生産的、非効率に見えているのかもしれません。
ハードウェア、プラットホームの持つ機能、性能とソフトウェア、コンテンツの意義、価値、更に利用者の要求、目的のミスマッチが効率向上を妨げているように思えます。
思いつくままに漫然とあげつらってきました。
個々人の立場や価値観により、効率の見方には大きな差異があるであろうことは認識しています。ただ、放置すれば増大していくであろう電力供給への欲求に対し、求められるのは節度というか、足るを知る姿勢ではないでしょうか。
果たして、社会にそんな自律性が備わっているのか半信半疑です。如何に自律機能を付与し、高めていくか、或は、そんなことは可能なのかについて引続き頭を抱えてみようと思っています。
私は、効率化志向がむしろ不十分ではなかったのではと考えます。後講釈ではありますが、事故の発生確率、被害の程度を含めた安全性、核廃棄物の処理等をも繰り入れて効率性を公正に評価したならば、それでも原発は発電システムとしての優位性は揺るぎないものだったのでしょうか。
実は、公正な評価を歪める圧力が本来効率性に含めて考慮すべき部分を排除、少なくとも、過少評価し、単に(発電単価)=(効率)としてしまったと憶測しています。この”公正な評価を歪める圧力”が意図的なものであったか否かについては不明ですが、この力が愚直に効率向上を図る、合理的に選択する姿勢を損なってきたのではないかということです。
勿論、結果論との自覚はあり、その指摘を否定しません。私自身は事故以前は漠然とですが原発はやむを得ないという立場でした。現在は電力需要、効率化に纏わる疑問についての理解が進むまで是非の判断を留保しています。
以上は電力を供給する側の効率についてです。一方、消費側の視点に立っても効率化志向がむしろ不十分では、といった印象を持っています。
とりとめもなく挙げてみます。各々についていずれ詳細に言及できれば、と思っています。
1.電子書籍化
例えば、”色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年”も旧来からの書籍の形とせず、電子書籍として出版すれば、製本に必要な素材始め、印刷、製本、流通は不要になります。書店での展示、在庫どころかリアルの店舗すら価値は縮小します。電子書籍として販売という形態にすれば、従来からの広告宣伝や販売促進にかける資源もかなりの効率化ができると考えます。
究極には、無償化してしまえばすれば出版社抜きで読者に直接作品を配本できるのではないでしょうか。
2.出版
毎年、莫大な量の書籍が上梓されます。その中で資源を消費して出版し、本という形態に留めておきたい、価値ある書籍がどれほどあるのでしょう。例えば、”ハダカの美奈子”、出版の必要があるのでしょうか。資源の浪費です。
3.テレビ放送
地上波とBS、チャンネル数を一方だけに削減、民放放送局を半減、地方局を解散しても社会に大きな影響はないと考えます。放送時間の短縮も効率化の一助ではないでしょうか。
例えば、天気予報、気象予報士という資格制度が創設される以前から、各局で定時に天気予報が放送されていましたが、現在ではオンデマンドで地デジのデータ放送やネット経由で天気予報を知ることができます。
各局が重複して天気予報を放送する意義をそれほど感じません。
報道番組についてもかなりの部分で重複している印象を持っています。
ただ、米議会調査局の報告書に関する報道(2013.5.11)のように必ずしも重複せず各局の思惑が見え隠れする場合もあります。該報告書内の従軍慰安婦(comfort girls)に関する記述が報道されたり、されなかったりで、局によって差がありました。
しかしながら、こういった差異は分かりにくく、建前で中立公正を唱うならば、いっそ偏向した報道姿勢を明確にする方がわかりやすく望ましいと考えます。
4.食料品
勿論、鮮魚店や精肉店も行きますが、他にも食料品を求めて成城石井、北野エース、西友、農協等によく赴きます。デパ地下の食品売場を訪れるのは年に一度でしょうか。デパ地下に限らずデパートは行く毎に気分を害することが多いので...
それはさておき、こういったスーパーには常に食料品が溢れています。当たり前のように、通常販売の食品に加え、相当量の賞味期限間近の食品、消費期限が近い食材が日々並べられています。-20%、-30%、半額といったシールが貼付けられたいわゆる見切り品の販売は以前よりかなり目立って顕著になったと感じています。需要と供給、価格の均衡が欠けた、余剰感を強く印象づけられます。
こういった見切り品、特に生鮮食材については購入、消費されなければ廃棄されるのでしょう。追跡、調査したことはありませんが、飲食店からの廃棄分も加えれば、日々膨大な食品廃棄物が生まれているのは明らかです。
”世界で生産される食料の半分が無駄に=英報告書”
身近な理不尽な例:“怒りのおでん”
原発に関わらずですが、これら食品廃棄物の”生産”、”廃棄”のために電力が消費されることに釈然としないものがあります。この現状で原発再稼働を、と宣われても...
全てではないでしょうが、”ゴミを生産して処理するのに電力が足りない”と見受けられる部分もあり、違和感を感じます。
原発再稼働とか食糧自給率を云々する以前に、食に纏わる最適化、効率化が図られるべきであり、その余地は十分にあるものと考えます。
5.パチンコ
今更、言及しませんが必要性を感じません。電力の供給余力が逼迫した場合、原発再稼働より前にパチンコ店の営業停止を優先すべきと考えます。
詳細は存じませんがかなり以前からカジノ合法化の検討が続けられています。同様な理由で賛同するつもりはありませんがパチンコ産業の解体、廃止と引換の公営カジノ運営ならば一考するかもしれません。
石原御大がそこまで踏み込むなら、その部分では見方を少しは変えようかと...
6.スマートフォン
私の周囲でも多少はスマフォ利用者を見かけるのですが、生産的に活用されているのでしょうか。用途は会話、メールの送受信、ゲーム、地図、飲食店探し、株式取引、写真撮影、携帯音楽プレイヤー、通販、電子書籍端末、掲示板への投稿といったところでしょうか。
便利かもしれませんが生産的なのでしょうか?むしろ生産的活動に費す機会が削がれているように思えてなりません。確かに、便利という点では効率は向上しているのかもしれませんが、費用対効果は如何なものでしょうか。
ネットワークの効用を否定したりスマフォの機能を過小評価する意図は毛頭ありません。ただ、いわゆる業務での利用はさておき、スマフォの端末としての機能、性能、携帯性、ネットワークの利便性を十分活かし、相応して利用されているのだろうか。少なくとも上述の用途からはそれが窺えません。
これら用途に対しスマフォでなければならない理由が見当たらず、強いて言えば全てを1台で賄えるといった程度です。このことと、スマフォなど本来不要であろう利用者層の存在が、リソースの浪費のように見え、かえって非生産的、非効率に見えているのかもしれません。
ハードウェア、プラットホームの持つ機能、性能とソフトウェア、コンテンツの意義、価値、更に利用者の要求、目的のミスマッチが効率向上を妨げているように思えます。
思いつくままに漫然とあげつらってきました。
個々人の立場や価値観により、効率の見方には大きな差異があるであろうことは認識しています。ただ、放置すれば増大していくであろう電力供給への欲求に対し、求められるのは節度というか、足るを知る姿勢ではないでしょうか。
果たして、社会にそんな自律性が備わっているのか半信半疑です。如何に自律機能を付与し、高めていくか、或は、そんなことは可能なのかについて引続き頭を抱えてみようと思っています。
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