2020年12月11日金曜日

手掛

未だゼロリスクについて考えあぐね、もたもた書き連ねているわけですが、そんな中、以前録画しておいた、

BS1スペシャル シリーズコロナ危機▽アメリカ バーチャル経済の光と影

を視てみました。番組そのものはバーチャル偏重というか、そこまでリアルを軽視できるものなのか、といった印象を抱いたのですが、その中でネット通販の将来像に触れていました。これまでは、実店舗における商品そのものや販売手法の評価が高まり、その展開としてネット通販という形態が加わってきたとのこと。それが発展したバーチャル経済社会では、最初にネット通販での評価が高まり、その後実店舗での販売が加わるようになるだろう、とのことでした。

Amazonが実店舗の販売を始めるようなものでしょうか。実験的な試みとして実店舗を出店したという話は以前聞いたことがあります。

で、これらにおいて最も重視されるものは何かを考えてみると、それはやはり信頼なんだろうと思った次第です。実物に触れることなくモニタとスピーカからの画像、動画、音、商品説明だけで購入を判断するわけですから。尤も、この購買スタイル自体は既に日常的にはなっていますが。

取引の成立には販売側と購入側に一定の信頼関係が存在していることが必須です。購入の決断は、完全にではないにせよ、バーチャルで知り得た情報を信用してこそ行われます。

上記番組で予想されている、

”最初にネット通販から人気となり、その後実店舗の販売が続く

これが定着し、日常になるということは、信頼社会の実現へと一歩、或いは半歩進んだ、若しくは少なくともその方向へ進む手がかりが得られたことに相違ない、そんな気がしています。

バーチャル空間からの情報で全ての顧客の期待に応える、といのはなかなか難題です。販売者側から提供される商品情報が示す内容と、その情報に対する購入者の認識との間で、無視できない割合の誤認や齟齬が必ず生じているはずです。商品を送付しないとか、説明と異なった商品を送付するといった詐欺的な話ではなく、販売者にとって適切に商品情報を説明しても誤認や齟齬は起こり得る、という話です。

購入者に誤認や齟齬を生じさせない取引が理想であるのは当然です。しかしながら、取引成立を目的として価格と仕様、画像、動画、商品説明で購入者の購買意欲を喚起する販売者の販促活動は、誤認や齟齬を容易に引き起こします。

簡単に記せば、販促という行動には例え潜在的であっても、虚飾、価値の嵩上げが必ず混入している、ということです。これは排除できません。販促にマイナスとなる情報には触れない、過小に、或いは淡々というか事務的に伝える、若しくはそれを恰も補えるかのような対処法を示す一方で、売り文句は誇大ではないにしても過大に伝える、そういった中立性を欠いたアンバランスな宣伝文句は日常的に目に止まります。

激、極、秘、高、限などの文字が入る修辞が踊って食傷気味になります。序列不明なまま最高と最上、極上、究極と質を形容する語で散々持ち上げられ、語意はインフレ化する一方です。特に、デザイン、味、接客といった主観性抜きには評価不可能な物品、サービスについては、当に言った者勝ちといった様相に感じます。まぁ、受け止める側も話半分というか、半値八掛け五割引きで差し引きますから、修辞は超インフレ状態です。

これは、売れても売れなくてもどうでも良い社会主義経済社会ならいざ知らず、自由主義経済社会では不可避の本質です。従って、上記の誤認や齟齬、期待外れや想定外による、購入者の失望は常に起こり得ます。

そのためこれまでの購買行動は、実店舗で実物を確認した上で試行的に商品を購入したり、商品の品質レベルを担保するブランドの信用力などに依拠したものでした。その後、該商品の高い評価が広まるに従い、ウェブサイトからの購入も増加していくといった流れです。

それが逆転し、ネット通販から人気に火がつくということは、ネットからの情報のみで購入が決断され、且つ、購入した商品が期待通り、若しくは期待以上だった、ということを意味します。つまり、ネットからの情報に頼ったネット通販で、安心して期待通りの商品を購入できるシステムが実現しているわけです。

そのシステムがどのように実現されるのか、実現には何が必要かは解りません。少なくとも、JISやウールマークに代表される(半)公的機関の品質認証だけでは全く不十分です。主観的要素が無視できない顧客満足度の話ですから。

ただ、常に高い顧客満足度を獲得、つまり、商品の購入者が期待以上と評価するような情報をネットのみから提供できるということは、ある意味信頼社会の実現に他なりません。これが実現し得るならば、前のエントリで記した信頼社会実現へと歩を進める端緒にできるのではないか、と考えます。

残念ながら、それがどのように実現されるか条件も施策もちょっと想像できないでいます。ないものねだりではないことを願って止みません。ただ、その実現には条件や施策以外にも問題が山積しています。その辺りの懸念を記していずれ又再考することとします。

一つは、民間の事業者がそういったシステムを手掛けることの適格性です。上記した、販売者側から提供される情報と購入者の期待感の摺り合わせを仲介するシステム全体はEC市場の管理運営者が担うものと考えられます。EC市場の管理運営者とはアマゾンに代表される民間の事業者であり、あくまで営利事業として情報提供の仕組みを含むEC市場のプラットホームが運営される、ということです。商品取引の場で培われた、情報提供と期待感の摺り合わせに関する知見を信頼社会の実現に適用できたとして、果してそれが妥当であるか否かは別途検討が必要であります。

つまり、信頼社会を実現する施策の設計に当たり、個々人の内面にある倫理や道徳的な部分にも一定程度目を向け、設計に組み込むことが求められるわけです。そういった個人の内面部分に対し民間の営利事業者が果して公正中立、誠実に向き合えるのか、事業者の自律性は担保されるのか、暴走は抑えられるのか、といった話です。過大な任にも思えますし、民間の営利事業者が手掛けることを手放しに是とはできません。

だからといって公的機関には困難な課題です。公的組織と市民の関係は、選挙を除けば原則として上意下達、”由らしむべし知らしむべからず”の図式になっていて、相互の信頼が既に成立していることが前提になっていますから。信頼関係が損なわれているからこそ信頼社会の実現を、と唱っている処にその役目を公的機関に担わせることは適当ではないだろうということです。

結局、信頼社会の実現に向けた仕組みの構築は誰が担うのか、という問題になります。

ただ、信頼社会の実現を、相似している商取引における顧客の十分な満足の発展形と捉えれば、大手EC事業者の様々な取り組みは端緒になり得ます。その最たるものは顧客レビューや口コミの仕組みではないでしょうか。勿論、該システムにおいても、なりすましによるヤラセ、虚偽、誹謗中傷といった不正や欺瞞行為は珍しくなく、イタチごっこの様相を呈しています。

不完全であるにしても、やはり透明性を上げる仕組みが信頼社会の実現に必須であるのは間違いありません。そんな中、完全万全完璧の語が乱舞し、

”仮定の質問には答えません”

の連発は、なんだかインチキ健康食品や偽ブランド商品の販売サイトとダブって映ります。この姿勢でアマゾンに出店していたら出店即アカウント削除です。

日本政府がアマゾンに施策を出品、説明は完全、万全、完璧を多用、美辞麗句が並んでいます。問い合わせてみると、

”回答を控えさせていただきます”

と。これじゃぁ...

0 件のコメント:

コメントを投稿