2018年5月12日土曜日

当座

時折、墓地/墓石や納骨堂のチラシが新聞に折込まれてきます。墓地/墓石といっても永代供養墓、樹木葬の碑、合同墓が主で継承者がいない、或いは、いたとしても代々継承されることを想定していない一〜ニ代限りの墓です。

NHKが繰り返し現代お墓事情を取り上げ、従前の形式を否定するかの如く、引墓やら単身者の葬儀と納骨を紹介したためかこれまでの所謂墓石需要は激減しているようです。代わって個人、夫婦、せいぜい親子向けの墓地/墓石や納骨堂の販売競争が激化してるかに映ります。

で、こういったチラシを眺めていると、当初は個別に納骨されていても三十三回忌、五十回忌を目処に合同墓というか無縁墓に合祀される、と記載されていることがあります。無縁墓で永代供養...まぁ、次の誰かのために場所を空けるということなんでしょう。継承者がいなかったり、いても継承されないわけですから。

ここで首を傾げてしまうのは、没後33年、50年で果たして当初の契約通りに手続きが進められるのだろうか、と。契約の履行は何によって担保されるのだろう、ということです。今から50年後、業者側、施主側の当事者、関係者が全て故人になっている場合も結構な割合であるような気がします。

まぁ、関係者が誰もいなくなってしまえば供養どころか、合祀も掃除さえもされない、放置状態でも誰も苦情を言えないどころか、その事実すら認識できませんけど。

金銭の授受を行った当事者、関係者が物故した後、事業自体は継承されるのか、引き継いだ事業者は契約を適切に履行するのだろうか、疑問です。金銭面で収入がなくとも契約を履行するという条件で、後の事業者が引き継ぐとか?関係者が物故した契約というものは全くもって諍いの種だなぁ、と感じます。

施主側関係者が早期に物故すれば三十三回忌、五十回忌を待たずとも合祀できてしまいますし、事業者側が物故、若しくは破綻してしまえば以降の手続きの履行責任が不明になってしまうような。更に両者が物故してしまうと...有耶無耶になってもならなくても、なったか否かすら認識できません。そもそも、認識する主体がいませんから。

つまり、関係者が物故する可能性のある長期、超長期に渡る取り決めというものはその確実性に不安要素を排除できない、ということです。認識する主体がいませんから。

つまり、関係者が物故する可能性のあるほど長期、超長期に渡る取り決めというものは、関係者不在という不安要素を常に内包していて実行の確実性に対する疑義を払拭できないということです。

”会社の寿命は30年”、”倒産企業の平均寿命「23年半」”、【会社の寿命】今や"寿命"はわずか5年等、様々な数字が挙げられていますが、上述の三十三回忌、五十回忌前に、事業者側が既に寿命を迎えているということも十分あり得ます。その際、契約の履行が何によって担保されているのか、興味のある処ではあります。

話は逸れますが、このような事業の運営主体は、寺院(宗教法人)だったり一般の民間事業者だったりします。寺院による運営の方が事業の永続性という部分では信頼性に優るかもしれない、という印象です。既に代々、古くは300年、400年と継承されてきた、三十三回忌、五十回忌といった年忌も執り行われてた等、過去の実績を顧みれば、というのが理由です。

戻ります。

長期、超長期の未来など予測できるはずがない、ということに異論はありません。ただ、だからといってそこに既に見えている不安要素から目を逸らすのも適切ではないだろう、とみています。これは責任や負担を将来に先送り、押し付けることによる、責任回避、責任意識の希薄化、楽観です。簡単に言えば、”後は野となれ、山となれ”的姿勢に他なりません。

この部分に、三十三年、五十年という長期に渡る墓地/墓石や納骨堂の話ではありながらも、行き当たりばったりの刹那主義を感じた次第です。

このような”後は野となれ、山となれ”的姿勢や楽観を前提にした長期、超長期の取り決めは社会に少なからずあり、中には物議を醸して訴訟に至ったり、社会問題化した事例も珍しくありません。

思いつくままに挙げてみますと、


マンションの修繕積立金制度

分譲時、割安感を出すために月々の修繕積立金を低額に抑え、老朽化していざ修繕しようとしたら、全く予算不足だった、よく聞く話です。

生命保険

バブル期、いわゆる終身保険の勧誘目的で作成された”絵に描いたモチ”的保険設計書。30年の満期後、払込金総額に対する満期保険金と積立配当金の合計の比は現在では想像できない比率でした。倍率表現が相応しい程で、払込金総額の8〜10倍の受け取り金も当然のように記載されていました。当時、年齢20代後半から30代前半の夫婦世帯で世帯主の死亡保障として7000万〜1億円が必要などとの言説が真しやかにまかり通っていました。確か、一般社団法人生命保険協会によるデータを基にしたパンフレットで、”社団法人”、”協会”の語で権威付け、公正中立性を誤認させる明らかな誇大販促資料でした。その後、10年毎に解約と更新を繰り返すよう誘導したり(悪質な場合、バブル期の高い予定利率の保険を下取りさせてバブル後の低利率の保険との再契約を促したとか...)、営業社員の虚偽告知による不正契約問題が発覚したりして今に至っています。正に、長期、超長期の取り決めにおける、保険会社側の”後は野となれ山となれ。”と契約者の”そんな先のことはわからない。悪いようにはならないだろう。”精神が結実した賜物です。


不動産融資

個人を対象とした不動産融資関連の契約も問題の種は尽きません。バブル期に旧住宅金融公庫が提供していたゆとり返済(ステップ返済)の制度もバブル崩壊やその後の景気後退に伴い多くのローン破綻を生み出しました。賃貸住宅のサブリース契約において、管理会社との契約時に保証された家賃が一方的に減額されたことによる、オーナーのローン破綻や集団訴訟に発展したケースも記憶に新しい事例です。最近ではスマートデイズが仲介したシェアハウス融資に絡むスルガ銀行の不正融資疑惑でしょうか。尤もこちらは詐欺事案かもしれませんが。

これらも契約期間が長期、超長期であることに由来した責任回避や楽観が具現化した事例と捉えても、あながち外れではないと考えています。

数年前からコマーシャルをよく目にするようになった、某銀行が扱うリバースモーゲッジという金融商品があります。換言すれば遺産収奪ローンですが、こちらも紛争の種としての時限装置が作動している気がします。それほど遠くない将来、顕在化するかもしれません。

勿論、民間や公団公社との契約に止まりません。国が関わった取り決めもあります。

緑のオーナー制度

国有林に出資して20〜30年後に成長した木の売却益を分け合う仕組みですが、売却損が出たり売却自体ができなかったりで国相手の訴訟に至りました。関連して先日、
「資産2407億円」実際は99億円 廃止11林業公社:朝日新聞デジタル
といった報道もありました。

最たるものと言えば、絶え間ない不祥事が続く、次のこの制度に他なりません。


年金制度

これまでの不祥事をいちいち例示するつもりはありません。多すぎて...ただ、以前のエントリで記したように、年金受給世代の年金原資として現役世代が原資を供出して支えていく保険方式において、最初の受給者に対する給付完了の見通し、即ち、一つのサイクルが回る目途が全く見えない現在ですら、制度の維持が危ぶまれる状況です。

このような長期、超長期の取り決めにおける、履行の低い信頼性は、まぁ、関係者全員の将来に対する責任意識の希薄化と楽観に由来するものですが、民主主義社会の性との類似性を感じます。

上記事例は全て民主主義の枠組みの中での取り決めですから、単に民主主義の特性がそれらの取り決めに反映されているに過ぎないのかもしれません。

ただやはり、民主主義の輪をかけたタチの悪さには留意しておくべきではないかと。みんなという正体の定まらない空気による決定は、同調圧力という抗い難い力を生み出しつつ、その決定に対するみんなを構成する各々の責任意識は希薄です。その結果は当座の責任を回避し、負担を将来に先送り、押し付けることです。この時”将来”が遠ければ遠いほど責任意識の希薄化が進み、楽観が強まるのは上記事例から明らかです。過去の得体のしれないみんなによる決定が、関係者不在となる後世を束縛して将来世代に苦労を強いる、その繰り返しこそが民主主義社会の歴史ではないかと考えます。

それは解りやすい表現を用いれば”後は野となれ、山となれ”的な刹那主義であり、例えば年金制度の設計不備、アベノミクスにおける日銀の量的金融緩和(財政ファイナンス)と公共事業投資、原発の核廃棄物問題などをその証左として捉えることができます。

一方、過去の意志決定が現在に負担を強いている例も多々挙げられます。前の敗戦は典型です。

広い意味ではくすぶり続けている憲法改正の賛否についての論争も該当するかもしれません。第九条絡みであれば自衛隊の合憲性と集団的自衛権認否が論点です。ここで、自衛のための防衛力であれば持つことを許されるとか、集団的自衛権は合憲であるという閣議決定を容認する解釈の余地が現行憲法に含まれていたわけです。

このような、その時々の政情に合わせて都合よく解釈できる余地を残してしまった、或いは、後世の解釈は起草者の意図に沿ったものか否かが不明瞭にしたことが現在の紛糾の種になっています。難しい話で後付と言われればその通りなんですが、起草の際、自衛、侵略、軍隊の定義を含む防衛と安全保障について想定し論を詰めなかった/詰めれなかったことが現在の事態を招いていると考えます。

取り敢えず起草しておいて面倒な部分、詳細な部分は先送りして後はよろしくと...このような見方ができなくもなく、民主主義による意思決定の特徴が現われているような気がします。

憲法起草時、起草者が思い描いた空の蒼さと、現在の憲法を遵守する側が思い描く空の蒼さが同じであるはずはありませんし、同じであっったとしても同じ蒼に見えるかは別の話です。起草時の空の蒼さを理解しない、顧みないで、強引な解釈で自分達の蒼さと同じであるとすることには、傲慢な姿勢を感じ、違和感を覚えます。

付け加えれば、先般の慰安婦問題日韓合意について、履行する/しないで未だ紛糾が続いています。同じ合意でも日韓各々の立ち位置から眺めた時、見える蒼さが異なっているのかもしれません。本来であれば、認識が共有できるまで交渉を詰めるべきだったと思います。ただ、それではいつまで経っても合意に至らず、場合によっては交渉が決裂しかねません。交渉の成果を国内で誇示するためにも、意図的に曖昧にした内容で両国が合意という形を優先したのが実の処だったのでは、と勘ぐってしまいます。

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