ここの所のアベノミクス騒ぎに覆われ、身近なメディアによるいじめに関する報道は少なくなりました。衆目を集めるセンセーショナルな事実、問題解決に向かう進展がないためでしょうか。
メディアが大きく取り上げることはなくなりましたが、一時的なものと考えます。私には依然、この問題が解決に向かっているとは思えず、手詰り状態に陥っているのでは、と憶測しています。
いじめの定義自体には曖昧な部分があるものの、いじめそのものがなくなれば問題解決ではあります。残念ながら、現時点で私は”いじめをなくすことは不可能”といった立場です。ただ、問題解決がいじめ撲滅と等価である、即ち、いじめをなくすことが問題解決の唯一の方策であるとは考えていません。いじめをなくす方策についての検討が不要という訳ではありませんが、優先すべきはいじめによる被害をなくすことに注力すべきでしょう。
勿論、いじめ撲滅を唱わなければならない、或は、撲滅が可能と信じなければならない立場の人々がいることも承知していますが...
先の改憲についてのエントリで、法治や遵法意識が優先されるべきであり、これらの価値観はいじめ問題と関連付けられると記しました。憲法違反すら自律的に解消できない姿勢でいじめが撲滅できるのか、ということです。
遵法意識、即ち、”何故法は守らなければならないのか?”と同じく、いじめの加害者、或は、その予備軍に対し、”いじめはしてはいけないことである”と理解、納得させることは果して可能なのでしょうか。
道徳的、倫理的にではなく、或は、感性に訴えることなく、合理的に理解させる論理を私は持ち合わせていません。以前、”いじめの正当性と道徳教育”といった記事を拝見しました。頷く部分は多々あるものの、やはり理解、納得段階の手前で留まっているように見受けられます。
”なぜいじめはいけないのか”といった問いに対し典型的な回答を幾つか耳にしますが、未だ十分な合理性を満たしているとは思えません
”法によって罰せられるから”や”因果報応”、”己がされて不快な行為を他人するべきではない”、”社会の要請”とか、”公共の福祉に反するから”といったところでしょうが、これら事由がどこまでいじめの抑止力として働くのでしょうか。
思い浮かんだ事例を二つ程。
麻雀放浪記
読んだのはもう三十年以上前です。
社会に出る前の学生時分の印象として、読後感はとても爽やかといえるものではなく、寂寥感を覚えました。幼い自分の周囲と無頼の世界との間の相当な乖離を感じたのでしょう。
それはさておき、”なぜいじめはいけないのか”について考えた時、漠然と本書が思い起こされました。詳細な言葉は思い出せなかったため検索してみた所、正しくこの言葉が浮かんだわけではありませんが(他の台詞だったような気もしますが)、
――負けた奴は、裸になる。――
――年を老ったら、博打打ちらしく野たれて死ぬこった。お前さんそういう生き方をしてきたんだろう。――
――指だろうが足だろうが、千切ってどっかへ持っていくがいいや。手前等が力ずくで何をしようと文句は言わねえ。俺だっていかさまをやる人間だ。今まで力で、金を奪って生きてきたんだ。力に泣くのはしょうがねえ。だが、その力に頭を下げることだけはしねえんだ。――
確かにその言葉かと問われても確信はありませんが、こういった趣旨の言葉でした。
年端のいかない生徒、学生の口からこういった言葉を聞くならば愕然とするわけですが、意識の底流にこういった考えが潜んでいる可能性を否定できるのでしょうか。
即ち、”己も傷つけられないために他者を殴らない”の裏となる、”己が責められることも厭わないが、他者をも攻撃する”といった考えを否定し得るか、ということです。自己責任という言葉の下、両者の例は枚挙に暇がありません。
後者で受ける責めは、報復、賠償、罰だったりします。勿論、被る損害と与えたそれは必ずしも等価にはなりません。又、この場合については、結果として社会全体の損失、不利益に繋がっていく恐れはあるかもしれませんが、上記二つの姿勢は意識として対等の関係にあると考えます。
後者は他者に被害を与える行為ですが、それはあくまで行為の結果としてであって、行為の直前まではイーブンの関係です。
私はこれに坑って否定する論拠を見出せないままでいます。報復、賠償、罰を覚悟し、更には、あわよくば逃げ切ろうという姿勢、換言すれば、開きなおりに対抗する合理的な術はあり得るのでしょうか。
解があるとすれば前の違憲状態も判決が下される前に解消されているのでは、と考えます。
スポーツ
反則や罰則に対する捉え方がスポーツの種目で大きな差異があると感じています。ラグビー、サッカー、水球といった選手同士の接触を伴う格闘技型(?)と野球やバレーボール、ゴルフといった非接触のスポーツの違いでしょうか。
例えば、サッカーの試合において、ゴール前で反則してでも得点されるのを阻止する光景は珍しいものではありません。全く以って当たり前に見ることができます。
この行為がペナルティという代償を課せられることを承知の上でなされているのは明らかです。
この時、反則か否かといった判断は審判にのみ委ねられており、審判に反則を指摘されなければ尚好ましい、といった心理もなくはないだろうと憶測します。
”ばか正直の飛雄馬”(巨人の星)のような実話は寡聞にして知りません。
実は反射的なものかもしれませんが、こういった行為に至らしめる意識は、スポーツという枠組内のみに留められているものでしょうか。
ある特定のルール下にあるスポーツという場、法を拠り所にして秩序を維持しようとする現実社会の場、構図自体には大きな差異はないものと認識しています。スポーツは社会の中に内包された一部ではありますが、該意識が両者の間で適切に峻別、制御されているのでしょうか。実際には切り分け、切替えは曖昧になっていると感じます。
即ち、現実社会においても、法に対する意識は必ずしも、法を逸脱したら代償を払わなければならない、或は、代償を払わなければならないから逸脱しない、といった姿勢のみで構成されてはいないと推測しています。代償を払えば法を逸脱しても構わない、或は、代償を払う覚悟で逸脱する、といった姿勢も多分にあるものと考えます。
代償と引換に違反、反則が正当化されていると捉えることができます。
スポーツの世界と現実社会を同一視するのは適切ではありませんが、メディアが臨場感やリアリティを観衆に実感させようと垣根を取り払うべく煽っている気もします。
スポーツの世界と現実社会、法(ルール)に対し同根の意識があると考えます。こういった意識といじめの防止、どのように整合性を図るべきでしょうか。
当事者間、延いては社会全体の不利益を抑えるため、程度しか私には思いつきません。これではいじめ加害者の理解を得て納得させるには理が不十分です。
初等教育課程、家庭教育におけるこういった部分の欠如、不足がいじめに纏わる問題が燻ぶり続ける要因と推測します。
明解な論拠の提唱は現在の所、難題であると思います。新たな価値観の創出とまで至らずとも、指針になり得る論理の進捗を期待し、問題解消に向けたなんらかの光明が差し込むことを願います。
先日も少し触れましたが、”消費税還元セールを禁止する特措法”が話題になりました。
取り引き上で立場の強い小売業者から納入業者に対する不当な値引き圧力の防止が目的とのことです。実は消費増税が敵視され増税阻止への気運の高まりを懸念して、早期に芽を摘んでおきたいということなのでしょう。
”どのように悪者に仕立て上げるか”は政策、選挙等で用いられる、常套的な政治手法であります。特に今日、一旦敵に祭り上げられてしまうと、正に”ドブに落ちた犬は叩け”状態に陥り、集団いじめの様相を呈してきます。そこからの挽回、回復は容易ではありません。
そういった状況を回避したいという意図は理解できない訳ではありませんが、全くもってお門違いです。
該特措法が成立しても立場の弱い側への圧力が低下するとは思えません。手を変え品を変え圧力は続くものと考えます。
公正取引委員会の権限強化、独占禁止法の厳正な運用を検討されたら如何でしょう。
いずれにせよこの特措法には国家社会主義的抑圧を感じます。規制すべきは、大手流通が消費税還元と銘打って、既に悪者である消費税への衆目を集めることではありません。
そんな余力は、大手流通や外食チェーンが鰻を扱うことへの規制に向けられるべきだと考えます。
私の行動範囲内に限れば、蕎野、江月、そば清は美味い蕎麦が食べられる店です。そば清はうどんも提供されているのでそば専門と言えば蕎野、江月ということになるでしょうか。で、こういった専門店であっても昼食時に訪れれば必ずランチセットというか昼定食といった呼称で蕎麦とご飯もの(天丼他)を組み合わせたメニューが用意されています。
洗練とか粋といった仕草とは全く無縁の私にとってはありがたいのですが、”粋”を連想させる蕎麦専門の店で丼と蕎麦のセットメニューが何となく野暮ったく見えるのは気のせいでしょうか。(昼のメニューからなくされたら非常に困りますが...)
蕎麦専門店の歴史がそれほど古くない、元々きしめん、味噌煮込みといったうどん地域である名古屋圏の特徴かもしれません。
以前、少し考えてみました。
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いわゆる、名古屋メシの麺物の例として味噌煮込みうどん、きしめん、あんかけスパゲッティが挙げられています。実は私は、これらの根底には麺と共に”当然のように”飯を喰らう習慣があり、これこそが名古屋メシの本質ではないだろうかと思っています。
ラーメンをおかずに飯を喰らうのも、確かにラーメンライスという組み合わせ自体は全国的なメニューかもしれませんが、名古屋、正確には名古屋近郊以外の地域ではこれほど広く深く浸透していないような気がします。ラーメンそのものは名古屋近辺では比較的歴史の浅い麺物ですが、遡って中華そばと飯との組み合わせという視点から、ラーメン、若しくは、中華そばと飯のセットも十分名古屋メシの範疇にあるのではないでしょうか。
きっかけは関東以北出身者からの指摘でした。名古屋、正確には名古屋近郊も含めてですが、この地域では特にランチタイムにうどん、或は、きしめんとご飯、それにフライやてんぷら等の揚げ物を組み合わせて定食としたメニューが当り前のようにお品書きの筆頭や店頭、店内の壁の最も目立つ場所に表示されています。昼食のメニューには定食と双壁をなすものとして、一方がミニサイズとなることもありますが丼物と麺類の組合せも非常によく目につきます。指摘はこの丼物を含むご飯と麺類の組合せのあたり前さが奇異に感じる、といったものでした。
―― うどんを主としておにぎりや稲荷ずしを食べることはあるが、これはあくまでうどんのみでは量的に不十分な場合を補うサイドメニューである。おにぎりや稲荷ずしはうどんと切り離しても食事として成立する。しかしながら、それだけで食事として成立しない白飯と、麺類の組み合わせは受け入れ難い。又、丼物と麺物の組み合わせに至っては、何故麺類と共に丼物を食べる必要があるのか。丼物か麺類の一方だけで十分ではないか。なぜことさらに麺類と共に飯を喰らおうとするのか。――
確かに、私自身、関東での学生時代、貧乏学生のインフラの一つである学生街の中華屋でラーメンライスを食べたことがありませんでした。焼きそばを含む中華の麺類とご飯を注文し喰らう姿は、同級生からも、その店に居合わせた他の客からも見られませんでした。いくら空腹であっても注文するのは麺類かご飯物のいずれかでせいぜい大盛にする程度でした。メニューに麺類とご飯物を組み合わせたセットメニューを目にした記憶もありません。ラーメンライスを食べている客を見たのは5年間で一度位でしょうか。
その後勤め人として暮らした、東北、関東でも会社の社員食堂で麺類とご飯物のセットメニューはありませんでした。ただ、食欲だけは旺盛な若手でしたから、奇異な目(?)で見られながらもいわゆる定食や丼物に麺類を追加して勝手にセットメニューにしていました。名古屋圏の量を勘案したセットメニューではなかったため、各々一人前たっぷりありましたから結構な量でした。
先輩、後輩、同期といった私と同世代の人間も同様に食欲旺盛であったはずですが、他に勝手なセットメニューを食べている姿は記憶に残っていませんから、殆どいなかったと思います。街の極普通の蕎麦屋でもセットメニューはなく、丼物とそばの組み合わせを個別に注文していました。私の場合、この頃から麺類と共に飯を喰いたいという欲求が蘇ったような気がします。
ここで蘇ったと表現したのは、好むと好まざるに関わらず、義務教育過程の給食において既にみそ汁で煮たような味噌煮込み、焼きそば、ナポリタンやインディアンと称されたスパゲッティ等の麺類と食パンの組み合わせで、又、家庭でもうどんや焼きそばと白飯の組み合わせで食事を摂っていた原体験があるためです。麺を喰う時、白飯が欲しくなるこの性がDNAに刻み込まれているとまではオーバーですが、骨の髄まで滲み込んでいると言っても過言ではないでしょう。
白飯と組み合わせる麺について考えてみると、おそらく私はうどんやきしめんを一汁三菜といった定食における汁物と位置づけています。そのため主食である白飯が必要となり、又、同時に供されるフライ等の揚げ物を副菜として当然のように受け入れているのでしょう。一方、味噌煮込みの場合、その濃厚な食味が白飯とよく合い、従って、白飯が進む汁物の役割を併せ持つ副菜として捉えられているものと考えます。名古屋圏で妙にカレーうどんが人気なのは味噌煮込みといった味が濃く白飯が進む先行例があるためではないでしょうか。
きしめんや味噌煮込みは名古屋文化圏に特徴的な料理として挙げられていますが、その根幹には
――うどんやきしめんは汁物として、又、味噌煮込みやカレーうどんのみならず、中華、挙句には焼きそばやスパゲッティすら副菜として白飯と共に喰らう――
があり、このことこそが名古屋圏における食文化の本質ではないかと考えています。
憲法記念日です。巷間、改憲の是非が盛んに議論されています。
現時点で、改憲の是非について言及する意図は私には全くありません。改憲について云々する前に法治の意味、或いは、遵法の意識について明確にしておくべきではないかと思っています。
極論すれば、遵法意識に乏しい状況下で改憲に意義は見出せるのでしょうか、疑問です。あらゆる犠牲と引き換えても憲法を厳守する、そういった覚悟が問われることなく改憲の議論のみが先行しているように見受けられます。
揺るぎない遵法意識が確立していないならば、現行憲法のままで構わないのではないでしょうか。違憲か合憲かという判断が曖昧な場合であっても、これまでのように時流に合わせた都合のいい解釈で目を瞑っていれば時間は流れていきます。更には、一票の格差問題に対する長期に渡る違憲状態の放置、違憲どころか選挙無効とまで判断された先日の裁判で、判決に対する緊急避難的と言えば聞こえはいいが、実は当面の鉾先を鈍らせるべくその場しのぎの対応、とても法治国家の礎として憲法を尊重し遵守しようという姿勢が窺えません。
ここ数日、議論の中心は改憲のハードルを下げる第九十六条についてですが、己の遵法意識を棚に上げ、そこまで改憲に固執する必要はあるのでしょうか。これまで憲法に対する遵法意識が確固として堅持されてきたわけではありませんから、”たとえ憲法違反との誹りを受けようとも、国益に資するならば違憲となることを躊躇しない”、といった毅然とした意思で憲法と向き合うことも一つの理があると考えます。
中途半端な遵法意識で、浅薄な議論によって第九十六条を弄り憲法全体に影響を及ぼす前に、自らの襟を正されることを願います。違憲や無効との判断が下された選挙によって選出された議員で構成される立法府、ここでの決議の正当性を問うことについては卵が先か鶏が先かになり不毛です。ただ、足元の違憲状態を最優先に解消し、合憲であることに疑う余地のない立法府が確立してこそ、改憲についての議論に尊重すべき意義が生まれると考えます。
改憲の目的について、現行憲法は余りに実態にそぐわないから、といった発言も耳にします。現状が違憲だから改憲して合憲化する?
大丈夫なのでしょうか。上述した”違憲となることを躊躇しない”より危惧すべき主張です。違憲になったら改憲すればいい、といった論理に流されてしまいます。憲法改正の発議要件どころか、一票の格差も、戦力の保持も、自在に合憲化できてしまいます。現状追認憲法では国家としての理念、目指すべき姿が見出せません。
勿論、私自身はいわゆる護憲派ではありません。現行憲法が実態と乖離していることは承知しており、例えば、集団的自衛権を行使すべく自衛隊の再定義は必要と考えています。ただ、現状が違憲だから改憲して合憲化するという理由には全く合理性を認めません。たとえそれが念頭にあったとしても口にするべきではなく、多くの国民の合意形成に導く論理の構築を優先すべきでしょう。
シャツのボタンを留め間違えた時、それが正しいと主張しボタンを掛けたまま袖、襟、身頃を外し、その状態に合わせてシャツを仕立て直すでしょうか。一旦全てのボタンを外し、正しく留め直すのが自然です。
尚、法治、遵法の捉え方はいじめや体罰問題の根本にも大きく関連付けられると考えています。いずれ記すつもりです。
本日(5/3)、新聞テレビ欄に
――金曜ロードSHOW!「特別エンターテインメント池上彰くんに教えたいニュース」――
番組内容 池上彰でも知らない事がある!各界の賢人に学ぶ今を読み解くキーワードが続々....
とありましたので、私も一つ。できれば、是非池上さんに解説願いたいのですが....
テレビを保有していなくても携帯電話を保有しているならばNHKとの受信契約、即ち、受信料支払いの義務が発生する、ということをご存知でしょうか。テレビ放送が受信可能な機器、たとえその機器がテレビ放送の受信を目的とした保有ではないとしても、携帯電話やカーナビにワンセグ放送の受信機能があるならば契約の義務があるとのことです。
視聴するに値しない番組がほとんどだからテレビは購入しない、固定電話は不要で携帯だけで十分、で、その携帯電話にワンセグ放送の受信機能が付加されている。視聴するどころか、受信さえ希望していないにも関わらず、NHKとの契約の義務発生...不愉快です。
問題なのはNTTドコモについてしか存じませんが、ガラケーと呼称されるほぼ全ての機種にワンセグ受信機能が付加されており、又、この機能を除外できないことです。受信機能のない機種は高齢者向けの”らくらくフォン”一機種と何種かのスマートフォンのみ。ガラケーで十分と思っている人には機種変更の自由度はほぼ皆無です。
NTTドコモが全てのガラケー使用者にスマートフォンへの移行を促したいのか、或は、NHKが、テレビ保有の有無に関わらず全世帯から受信料を徴収する意図なのでしょうか。
著しい不快感を持ってます。結局、テレビを保有し、既に受信料を支払っている世帯のワンセグ受信機能のないらくらくフォンと交換しました。交換はSIMカードも交換して行いましたが、バックアップを取ったり、メモリ容量不足でデータをすべて交換できなかったり非常に面倒でした。
この当事者は私ではありません。私はテレビを保有し受信料を支払っています。ただ、現在のテレビが耐用年数を迎え、又は、故障した時、更新するつもりが失せました。NHKとの受信契約を解約します。テレビ放送を受信する意思がなく、偶々保有している携帯電話にワンセグ受信機能があるといういう理由で受信契約を迫るNHKの姿勢に公共性や公正性は全く感じられません。
池上さんに解説して頂ければ幸いです。
一連の記事を書き進めていく中で強く感じたことがあります。
その間、いじめや体罰に関連した事件がメディアで盛んに取り上げられ、道徳教育の教科化が検討され始めました。現場の教員のみならずこの教科化を提唱、議論、推進する側の道徳心は?、又、道徳教育の目標像、或は、目標を達成する手段は?、といった点で、私自身は教科化の効果には懐疑的です。
例えば、ヘルメットに迷彩服といった出で立ちで戦車に乗り込み嬉々として手を振る首相や与党幹部、靖国神社を参拝したり供物奉納する閣僚や与党国会議員、”消費税還元セール”に対し抑圧的な姿勢を示す大臣、そういった方々を政権中枢に擁する政府が推進する道徳教育、危惧せざるを得ません。
私自身は特段上記二つのナショナリスティックな行動を否定する意図はありません。ただ、そういった行動を基に抑圧的な姿勢で、個人の思想、信条とも無関係ではない道徳教育が進められることの危うさを強く感じます。
まさか、聖人君子を養成するわけではないにしても、道徳心の育成や向上が目的なのでしょう。勿論、道徳教育が不要とは思いませんが、精神の根幹部分に関わる問題です。期間が限られた有識者会議等で安易な結論が出されてしまうことを恐れます。
初等教育課程では、これまでの記事で扱った、"空路を利用した移動における乳児の帯同"、"乳幼児を伴った場合の新幹線の座席(自由席、指定席)の利用ルール"といった具体例を通じて身近な日常生活の知識、ルールを周知すべきではないでしょうか。そういった具体例におけるルール遵守の蓄積が公共の場での行動規範となり、”道徳教育”などと大上段に構えずとも、公共の場におけるマナー、ひいては各個人の道徳心の萌芽、育成へと昇華していくものと考えます。
尤も、ネットワーク上の論争を見れば、上記二つの題材についてでさえ明確な解が得られないかもしれません。ただ、少なくともそういったテーマについて考察することが、内包する問題を意識した行動に繋がり、それが各々の道徳心の礎形成に大きな役割を果たすであろうことを期待しています。
乗物に偏ってしまいますが自転車の通行方法も一つの事例です。今日、どれだけの生徒、学生が車道の左側通行を意識的に遵守しているのでしょう。勿論、学生のみに限らず、いい大人も含まれますが...
又、自転車の運転についての規制が曖昧な基準で運用されている状況下、中高生が自転車通学に利用する経路に関する安全性、適法性の検討、評価を行う責任主体はどこにあるのでしょうか。
実質的に野放し状態になっているのが現状で。とても学校、警察を含めた行政が責任を持って生徒、学生の自転車通学路を選定、指導、評価しているとは思えません。
自転車の通行に関する規制に曖昧な部分があるならば、生徒、学生、更には、彼らの保護者に対し、相応にきめ細かい教育、指導が必要なはずです。ただ、自転車通学する生徒、学生の通学路を学校、警察が個々の事情を考慮して綿密に評価、指導したという事例を私は存じません。
実際、自動車専用道路に近い、歩道がなく往来の激しい幹線道路を高校生が自転車で右側通行する姿を目撃しています。
こういった身近な日常生活に纏わる、安全についての交通ルールでさえ遵守されていない、又、遵守すべく指導、教育も為されていない現状では、道徳教育の意義とその実効性に疑問を持たざるを得ません。
本来合理性に依拠しているであろう、日常生活の支障を未然に防ぐ身近なルールやマナーの遵守、或いは、それらを遵守するための指導や教育、これらの現状が改善されることがより精神の根幹に関わる道徳についての議論の始まりと考えます。
更に、しつこく乗物に偏りますが、教育で伝えて頂きたい知識の例を一つ挙げます。
数年前まで自宅である名古屋市近郊と千葉県浦安市(JR新浦安駅)を往来することがありました。JR新浦安駅から自宅へ向かう場合には、新幹線に乗り換える前に東京駅の改札を出ることが許され、駅外で昼食を摂ったり、或は、手土産を購入することが可能でした。ところが、自宅から浦安に向かう際には、新幹線に乗車する前の名古屋駅での途中下車が許されませんでした。少なくとも私にとっては理不尽で長い間疑問でした。思い出して調べてみて、違いを理解したのは最近です。
新浦安に向かう時にはJRを大曽根駅(名古屋市内の駅)から利用していたことが問題でした。乗車券は”名古屋市内から新浦安行き”となります。この場合名古屋市内の駅間で途中下車は認められません。一方、自宅へ向かう場合の乗車券は”新浦安から名古屋市内行き”であり、東京駅は途中駅であるから下車が許された、ということです。
当然と指摘されれば私が至らなかったわけですが、名古屋駅で途中下車を拒否された時、JR職員から説明を受けてもいません。JR側からすれば説明するまでもない当り前のことという意識だったのでしょう。(私も"東京駅では途中下車できた"という不明確な物言いでした。)
このルールが教育で伝えられるべき知識ということではありません。日常生活において、より不可欠であるが正しく伝えられていない、教育されていないルールや情報が実は他にも数多くあるのではないかということです。
繰り返しになりますが、初等教育課程では曖昧な部分が排除できない道徳教育を押しつけるのではなく、最低限必要な日常生活の知識、ルールの周知を優先し、それに伴う道徳心、公共心の自発的な萌芽、育成を図るべきと考えます。
(終)
生来の文才のなさに加え、実生活での雑事に忙殺されて、更新を滞らせていました。その間も政治、社会、経済、教育、メディア、科学技術、スポーツの分野で時々刻々と興味ある事案が現れ流転しています。折良く所感を記すことはできませんが、その根幹について考える機会があれば、と思っています。
さて、さかもと氏の騒動は、旅客機内で偶々母親と共に同乗していた乳児が止むことなく泣き続けたことに原因がありました。それでは、乳児を同伴した移動で空路を利用せざるを得ない場合、保護者の行動に望まれる姿勢とは一体どういったものでしょうか。
残念ながら、全くもってありきたりな思いつきしか挙げられません。”移動中に起こり得る事態を想定し、事前の準備を怠らない”に尽き、如何に多様な事態を想定するかが肝要と考えます。事態と共にその理由が予め把握できていれば対策の用意も難くないはずです。
例えば、建築や土木、製造の現場、或いは、自動車の運転に際し、事故を未然に防ぐ安全活動の一つとして危険予知トレーニングといった手法があります。これは、平常のある状況を示すイラストや写真を見て、そこにどういった危険が潜み、発生し得る事故を想定する訓練です。この活動は実際の現場での安全対策を講じることに有用であるだけでなく、イラストや写真を見ることで状況を客観的に把握し、この後何が起こり得るかを推測する力の養成にも効果的です。
こういった手法を応用し、題材の体系化と事例の蓄積を進めれば、少しづつであっても不測の事態の低減に繋がるでしょう。
いずれにせよ、別のエントリでも触れた言葉ですが、(起こり得る事態を想定し)用意周到、(入念な)準備万端、(事態の兆候に応じ)先手必勝こそが保護者に望まれる姿勢と考えます。
付け加えれば、鉄道会社や航空会社といった運行管理者には乳児を同伴した移動で起こり得る事態例に留まらず、自らに生じ得る事態を各乗客自身が想定するために有用な資料の提供を期待します。