2018年3月17日土曜日

時代

遠い昔、まだ道徳が授業として行われていた小学校時分、読本にあった寓話を思い起こさせました。
君たちはどう生きるか
漫画版は200万部を突破し、ある高校では卒業生に手渡されたとのこと。文庫ではなく漫画って...原作は80年前に上梓されています。

NHKで頻繁に取り上げられ、
2018 新たな時代へ “君たちはどう生きるか”
『君たちはどう生きるか』 いま“大人たち”が読む理由
「君たちはどう生きるか」漫画が200万部突破
ジャーナリストの池上彰氏、ジブリの宮崎駿氏も愛読とのこと。池上氏はこの本を題材にした、
別冊NHK100分de名著 読書の学校 池上彰 特別授業 『君たちはどう生きるか』
出し、宮崎氏は、次回作のタイトルが「君たちはどう生きるか」であると発表しました。

名著として
巷間では概ね高く評価されているようです。そうなんですか。何となく違和感を持ち、諸手を上げての称賛にはむしろ危ういものを感じるのですが。

虚心に読んだつもりですが、全体を通して80年という時の流れ、古くささは否めませんでした。それは、文体や語句、話の舞台となる当時の社会状況ではなく、話の根幹となる価値観についての印象です。

果たして、この本を”普遍”、”不朽”とか”今尚...”といった形容で崇められていることに、懐古趣味的なものを感じると共に”大丈夫か?”という思いを禁じ得ないでいます。

この80年で社会は僅かでも賢くなったのか、と...

例えば、ノブレスオブリージュ、生産と消費、過ちては改むるに憚ること勿れ、儒教的思想などの語句、文言が
読み進めるに従って想起されます。

ノブレスオブリージュは、旧制中学に通う主人公に主人公の叔父がその考え方を説いているのだろうと受け止めました。しかしながら、実はノブレスオブリージュは具現化されることのない拠所であって幻想に過ぎない、という思いがないわけではありません。遥か大昔、或いは他国で、統治者が治世の方便として宗教(仏教)、
スローガン愛国無罪)、煽動(慰安婦問題)を利用する手法にも似てものを感じます。社会における理不尽な不公平、不平等に対する不満を抑えるために、ノブレスオブリージュという考え方を統治者が社会に浸透させたのではないか、といった疑念を持っています。
”いざ事あらば自ら率先して火の粉を被る”
語の浸透程度に比し、それを体現した史実が過少ではないでしょうか。

主人公に対する家族の”立派な人になってほしい”という願いも、銀行の重役だった父親(故人)、法学士の叔父を持つ裕福な家庭
━━父親の死に伴い都心にあった邸宅をたたみ召使いの数を減らして、母親とばあやと女中と暮らしている━━
そういった環境の下での”立派な人”に留まっているという受け止めです。

生産と消費について記せば生産は消費より尊く、”君たちはどう生きるか”という問いの答えの一つが”生産”であるという著者の思いは伝わってきます。しかしながら、この”生産”はあくまで価値の生産であって、生産さえすれば何でもいいのか、例えば、
━━穴を掘って埋めるだけでも━━
そこまでの言及はありません。今日、テレビを見れば、怪しげな健康食品、サプリメントの、”個人の感想です”を枕詞にした健康不安を煽る広告が氾濫しています。スーパーに赴けば廃棄を待つ見切り販売されている山積みの食品を目の当たりにし、コンビニを含む飲食業界では連日途方もない量の売れ残り、食べ残しが廃棄されています。

1937年刊行という現在に較べ全く物資が不十分な時代であればともかく、この生産に対する考え方を、現代に無批判に適用するのは如何なものかと考えます。

むしろ、当時より圧倒的に向上した生産性、社会の高齢化、人口減が生み出した需給ギャップとそれに伴うデフレをも鑑みた考え方が提示されるべきだったと。

それが刊行当時想定外であったことは理解できますが、であるならば”普遍”、”不朽”といった語による評価も適切ではないでしょう。

付け加えれば、主人公の亡父は銀行の重役だったそうですが、昨今のサブリース契約を基にした銀行のアパートローン、日銀による市中銀行からの国債買い取りで日銀の当座預金ブタ積みも生産なんでしょうか。素朴な疑問です。

勿論、”過ちては改むるに憚ること勿れ”については全く異論なく、素直に首肯いたします。

で、刊行当時の社会情勢に依るものかは存じませんが、物語全体の根底に、今尚見え隠れする滅私奉公、尽忠報国、挙国一致といった日本の伝統的体質と、及び儒教的思想が在るように思えてなりませんでした。

読後、作者吉野源三郎が反戦、平和主義、いわゆるリベラルな思想の持ち主であることを知りましたが、そうは言っても上記論調を否定できませんでした。

当初、そのギャップは当時と今の時代の差に起因するものと思っていました。しかしながらもう少し考えてみると、主人公の叔父からの言葉の端々に、”自由や多様性の制限”のような意図を感じたのかもしれません。どう生きるべきかを問いながらも、いい人、立派な人、有用な人になることを願う、なるべきだ、といったような主人公の叔父(=作者)の価値観への同調圧力を感じました。

確かに、物語中で滅私奉公、尽忠報国、挙国一致を明言しているわけではありませんが、”国”を”社会”に置換してみると話の主旨に沿うのではないでしょうか。ここで、社会と国を峻別する定義はなされず、少なくとも社会≠国ではなく社会≒国ですから、話の向こうに上記スローガンが透けて見えたわけです。

業員?奉公人?が病臥のため、豆腐屋の家業を手伝う同級生の章では、”生産”に携わる同級生が称賛されています。それと共に、社会の理不尽な格差、当人に何ら責任のない不平等について触れながら、妨げなく中学に通って勉強ができる主人公の恵まれた環境に感謝すべきと諭していますこのことを踏まえて自身の才能を伸ばして社会のために真に役に立つ人になって欲しいという願いへと続きます。

それを一つの視点として否定する意図はないのですが、なんだかこの格差や不平等を生む社会の理不尽さを致し方ないものとして容認しているかに感じます。主人公が恵まれた環境にあるからでしょうか。穿った見方ですが、既得権益に感謝しつつ、無意識かもしれませんがその体制の存続を肯定しているとも勘ぐってしまいます。

自身の恵まれた境遇は社会の格差が一因でもあります。そのことへの感謝以前に、社会の理不尽さに目を背けることなく正対して向き合い、合理的で公正な社会の実現を志向する、との見方を欠くべきではない思った次第です。

1937年当時、出生による格差は現在より当然のこととして社会に受け入れられていたでしょうから、この部分に思いを至らせることは難しかったかもしれませんが。

社会が国家主義へと足早に進んでいく状況で出版された「君たちはどう生きるか」ですが、時代はその後敗戦を経て戦後民主主義の時代へと移っていくわけです。
「君たちはどう生きるか・戦時版
「君たちはどう生きるか・敗戦版」
「君たちはどう生きるか・戦後民主主義版」
の発刊を待つと共に、物語の登場人物各々の戦時、敗戦、そして現在に至るまでの成長の過程と生き方、それらが彼等の次世代にどのような価値観として継承されていくのだろうか、気になる話ではあります。

尚、本作品があくまで創作であるという点はやはり留意しておくべき部分ではないかと感じます。以前のエントリでも記しましたが、「一杯のかけそば」、「江戸仕草」の場合と同様に、倫理的、道徳的にイイ話しならば創作(=虚構)でも構わないのか、という問いです。「一杯のかけそば」は後に虚構であることが明らかになり物語にも、作者にも非難が寄せられました。「江戸仕草」についてはそれが事実ではない旨明らかとなって批判を呼ぶ一方、”イイ話だから”と肯定的な受け止めもありました。

君たちはどう生きるか」にも共通する部分を感じているわけですが、否定的評価の「一杯のかけそば」や肯/否入り交じった「江戸仕草」との明確な線引は未だできていません。しかしながら「君たちはどう生きるか」についても高評価を得ている理由が、読者自身の現実の生き方に倫理的、道徳的示唆を与えているからではなく、実はイイ話”と同じく優れた娯楽物語であることに依るという可能性は排除できないと考えてます。つまり、冒険、近未来、サスペンスと同列に位置付られる、倫理、道徳ジャンルの感動物語に留まっての高評価ということです。

読者の生き方に特段影響を及ぼすわけではなく、倫理、道徳を主題として感動のみを与えているに過ぎないという見方は本作品に対する過少評価かもしれません。ただ、恰もスポンジに水が染みこむが如く、作者の価値観が創作(=虚構)を通じて、抵抗なく心に浸透してしまう(=生き方、価値観が変えられる)という懸念は減じられることになります。

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