過日、昼食でもと、寿司屋を訪れた時のことです。高級店でも回転寿司でもなく、ランチセットの用意がある、いわゆるフツーの町の個人店です。
カウンターの向こうで主人が寿司を握って盛り込む間、小上がりで配膳を待っていました。で、何気なく主人の方に視線を移した時、手にポリの手袋をはめているのを見たわけです。
スーパーの惣菜売り場の向こう側で、おそらくパートの人達が惣菜をトレイに盛り込む時と同じく、ポリの手袋をはめ、ズレ止めの輪ゴムを手首にしていました。
寿司屋で職人がポリの手袋をはめて寿司を握る...軽い驚きを禁じえませんでした。庶民向けの店ということも理由にあったのでしょうか。よくわかりません。
その時は、衛生面で苦情でもあったのかと訝しげに思いながらも稀なことだと捉えていました。寿司屋に入って、寿司を素手で握られることに抵抗があるものなのか、といった思いでした。
その後、つい先日ですがある回転寿司屋に入りました。昼時ということもあったのでしょうか、寿司は流れていませんでした。ランチのセットを頼み、その後追加で適当に注文して握ってもらったわけです。
で、この店でも寿司を握っている職人の手にはポリの手袋が...
いや、ことさらポリの手袋をはめて寿司を握ることを否定するつもりはなく、衛生上からはむしろ好ましいのでしょう。
ただ...寿司屋としてどうなんだろう、しっくりこないという話です。特段、ポリの手袋をはめて寿司を握ることをあげつらうつもりはなく、私の頭が硬いだけかもしれませんが。
思い起こせば、ホテルのレストランでローストビーフが切り分けられる時、ポリの手袋をはめた手が塊肉を押さえている姿を見ていました。テレビの飲食店紹介番組でも、和洋を問わず、又、個人経営であるか否かに関わらず、ポリの手袋をはめた手を見かけるのは珍しくありませんでした。
これが店側の発意によるものか、客からの要望なのかは存じませんが、寿司屋に限っては堅苦しさ似た印象を抱いてしまいます。
それなら、寿司屋に入らなきゃいいじゃないか、そんな思いが過ぎります。
もはや、粋とか野暮といった次元を超えている?、踏み外している?ようにも受け止めてしまいました。
どうなんでしょうか。確かに衛生面に配慮していると言われればその通りなんですが、他に重視すべき部分が置き去られているように思えてなりません。
このブログを始めるきっかけとなった、 ”唇からナイフ もしくは余計なお世話” を運営されているルキウスさんに感謝致します。 示唆に富んだ記事により、”思考する”機会を私に与えて頂きました。
2015年3月29日日曜日
2015年3月15日日曜日
上辺
自戒を込めて記します。
以前から
特に、飲食、飲食店に纏わるレビュー、ブログでこの表現を目にした時、首を傾げることがよくあります。
少し例をあげてみます。
”させていただく”は使役の助動詞”させる”と、謙譲の”いただく”の組み合わせです。ある動作を誰(何)かが行うよう強いる、或いは、誰(何)かがある動作を行うことを許可する、”させる”です。
この時、誰(何)かはその意志がなくとも動作が強いられ、逆に、意思があっても許可されないなら動作を起こせません。
で、”させていただく”の誰(何)かは私のわけです。では、誰(何)が私に”させる”のか、更に、”いただく”において、私は誰(何)に対して謙っていることになるのかについて考えてみます。
上記の例は食べログのレビューや食についてのブログから引っ張ってきており、私に”させる”誰(何)かは、飲食店、食べログの投稿システムとその閲覧者、ブログ読者、といった辺りが該当します。
少し、手前勝手に誇張して補完してみますと、
上記1〜43の例は、該誰(何)かに対しそこまでの謙譲が求められる行為とは捉えられません。例え、相当程度敬うべき同席者の場合であったとしてもです。
同時に、この却って慇懃無礼感、白々しさを醸し出す、行き過ぎた謙譲は果たして何に由来しているのだろうか、そういった思いが頭を擡げてくるわけです。
面従腹背ではないですが、上っ面で謙遜していても、中身との整合性の欠如に違和感を抱いてしまいます。
例えば、愛知を中心とした中部地方の飲食に纏わるブログで、天然鰻を食したエントリをしばしば見かけます。そういったブログ内にも蔓延していたりもします。”させていただきます”が...
前のエントリにも記しましたが、鰻資源の逼迫を鑑みて、”させていただきます”の一言で天然鰻を躊躇いなく口にできるものなんだろうか、と思うわけです。料理写真を公開、味わいを云々するための免罪符的な役割を”させていただきます”に担わせているのかもしれません。
資源枯渇に思いを馳せるわけでもなく、嬉々として天然鰻に舌鼓を打っておきながら、
それほどまでに”させていただきます”なら、
ところで、先だって、ISISに日本人ジャーナリストらが殺害された際、
今後もブログを続けさせていただきます。
以前から
”させていただく”という表現が気になっていました。勿論、自分自身も使ってきた自覚はあるのですが、ここの処、違和感が付きまとっています。
特に、飲食、飲食店に纏わるレビュー、ブログでこの表現を目にした時、首を傾げることがよくあります。
少し例をあげてみます。
至るところに氾濫している、”させていただく”で、悪酔いしてしまいます。
- こちらの記事を参考にさせていただいて
- お邪魔させていただきました
- 食べさせて頂きました
- 観賞させていただくことに
- お話をさせていただきました
- 持ち込みさせていただきました
- ご一緒させていただきました
- 感動させていただいた
- 参加させていただきました
- お持ち帰りさせていただきました
- 食事させていただきました
- 訪問させていただきます
- お話させていただいて
- 仲良くさせていただいてる
- テイスティングさせていただけました
- 利用させて頂いちゃいました
- お伺いさせていただいています
- 企画させていただきました
- 利用させていただきます
- 試食させていただきました
- 突入させて頂く事に
- 堪能させていただきました
- 投稿させていただきました
- 点数は基本的に3点とさせていただいてます
- 多用させていただいてます
- この点数とさせて頂きます。
- ★は3つ半とさせていただきました
- 撮影させて頂きました
- 予約をさせていただいて
- 写真を追加 させて頂きます
- 評価をさせていただきました
- ゆっくりさせていただきました
- 訂正させていただきます。
- お勉強をさせて頂きました
- リピさせていただきます!!
- シェフもお話しさせていただく
- 予約をさせていただき、
- 満足させて頂きました
- オーダーさせて頂きたいですね
- 写真3枚アップさせていただきます。
- いつも仲良くさせて頂いている
- 投稿をさせて頂こう
- 注文させていただきます
”させていただく”は使役の助動詞”させる”と、謙譲の”いただく”の組み合わせです。ある動作を誰(何)かが行うよう強いる、或いは、誰(何)かがある動作を行うことを許可する、”させる”です。
この時、誰(何)かはその意志がなくとも動作が強いられ、逆に、意思があっても許可されないなら動作を起こせません。
で、”させていただく”の誰(何)かは私のわけです。では、誰(何)が私に”させる”のか、更に、”いただく”において、私は誰(何)に対して謙っていることになるのかについて考えてみます。
上記の例は食べログのレビューや食についてのブログから引っ張ってきており、私に”させる”誰(何)かは、飲食店、食べログの投稿システムとその閲覧者、ブログ読者、といった辺りが該当します。
少し、手前勝手に誇張して補完してみますと、
――本来、私如き分不相応な者がそういった大役を担うのは力不足であるにも関わらず、その任に当たる機会を与えられ恐縮の限りです――こんなところでしょうか。
上記1〜43の例は、該誰(何)かに対しそこまでの謙譲が求められる行為とは捉えられません。例え、相当程度敬うべき同席者の場合であったとしてもです。
同時に、この却って慇懃無礼感、白々しさを醸し出す、行き過ぎた謙譲は果たして何に由来しているのだろうか、そういった思いが頭を擡げてくるわけです。
――誰であっても取り敢えず敬語っぽい表現をしておけば当たり障りはないだろう――これは決して対象を敬っているわけではなく、摩擦を避けるための保身です。意識しての、或いは無意識でのことかは存じませんが、そういった心理の見え隠れが白々しさの根本ではないだろうか、と推し量っています。
面従腹背ではないですが、上っ面で謙遜していても、中身との整合性の欠如に違和感を抱いてしまいます。
例えば、愛知を中心とした中部地方の飲食に纏わるブログで、天然鰻を食したエントリをしばしば見かけます。そういったブログ内にも蔓延していたりもします。”させていただきます”が...
前のエントリにも記しましたが、鰻資源の逼迫を鑑みて、”させていただきます”の一言で天然鰻を躊躇いなく口にできるものなんだろうか、と思うわけです。料理写真を公開、味わいを云々するための免罪符的な役割を”させていただきます”に担わせているのかもしれません。
資源枯渇に思いを馳せるわけでもなく、嬉々として天然鰻に舌鼓を打っておきながら、
”注文させていただきます”
”評価させて頂きます”
”写真を公開させていただきます”はないだろうと...己を卑下、謙遜してるのか何だかよく判りませんが、少なくとも遠慮していないのは確かでしょう。
それほどまでに”させていただきます”なら、
”喰うな”
”注文するな”
”公開するな”というのが率直な印象です。
ところで、先だって、ISISに日本人ジャーナリストらが殺害された際、
”その罪を償わさせる”と安倍首相は宣言したわけですが、これは”させていただきます”の変形なんでしょうか。
今後もブログを続けさせていただきます。
2015年3月11日水曜日
不審
かねてより不思議に思っていたのですが、冷蔵庫の機能にチルドとかパーシャル、氷温、ソフト冷凍などと称されるものがあります。
3〜6℃の一般的な冷蔵保存に対し、0〜2℃で凍る直前、0〜-3℃で微凍結、そういった状態で鮮魚、精肉などの生鮮食品をより長期間、味わい、鮮度を保つ機能とのことです。
生の鰯が冷蔵では三日程しか保存できないのに対し、上記機能を利用すれば最長のパーシャルの場合で一週間鮮度を保ったまま保存可能のようです。
街のスーパー、鮮魚店で鰯を購入、該機能を利用して一週間保存後、どんな風味になっているか、気になる処です。
該機能は(魚の自己消化の進行程度を示す)鮮度指標K値の変化で評価されているわけです。タタキで美味しく味わえる新鮮な鰯は、一週間経過後もタタキにして味わいは変わらないのでしょうか。試すつもりはありませんが...
で、実は鮮度が保たれているとしても試すつもりはない、該機能はそういった心理的な部分に負う所大ではないかとの思いが過るわけです。
スーパー、デパートの生鮮品売り場で、鮮魚、精肉はスチロールトレイに盛られラップで密封された状態で陳列販売されています。ラップに貼付られたラベルには、商品名、生産地と共に消費期限の記載があります。義務付けられているのでしょう。(対面販売がこの限りではないのも不思議でありますが...)
この消費期限が科学的手法で規定されているであろうことは明らかです。その基準については存じませんが。
例えば、消費期限が翌日となっている鰯を上記機能を利用すれば4〜5日後に消費期限を伸ばせることになります。にわかに信じ難いなぁと...
健康に支障が出ないという意味ならともかく、風味まで保持できるとは思えません。購入した直後ですら生食して旨いかどうか、店によって鮮度に差があることも珍しくありませんし。
通常、生食、焼き物、煮物、揚げ物へと手を加えて、最後には調理した状態で冷凍にする、そういった流れではないでしょうか。干す、漬け込む、煮る、揚げる等の加工自体も新鮮な状態で行うことが好ましいはずです。
この機能なら大丈夫と宣われても、消費期限から4〜5日経つまで鮮魚、精肉を生の状態で保存し続けるというのも想定し難いわけです。早く食べきらないと、とまではともかく、さっさと加工調理まではしておこうと思うのが自然ではないでしょうか。
おそらく健康に支障はないのでしょう。風味はともかく、該機能の効果に加え、店頭での消費期限の設定にも余裕を持たせているでしょうから。
問題は、上記機能で消費期限から更に4〜5日保存した鰯を食べて落胆した時、その失望感のやり場を何処に求めるか、ということです。
購入店では無理があります。消費期限を表示しているわけですから。では、冷蔵庫のメーカーでしょうか。ただ、
3〜6℃の一般的な冷蔵保存に対し、0〜2℃で凍る直前、0〜-3℃で微凍結、そういった状態で鮮魚、精肉などの生鮮食品をより長期間、味わい、鮮度を保つ機能とのことです。
生の鰯が冷蔵では三日程しか保存できないのに対し、上記機能を利用すれば最長のパーシャルの場合で一週間鮮度を保ったまま保存可能のようです。
街のスーパー、鮮魚店で鰯を購入、該機能を利用して一週間保存後、どんな風味になっているか、気になる処です。
該機能は(魚の自己消化の進行程度を示す)鮮度指標K値の変化で評価されているわけです。タタキで美味しく味わえる新鮮な鰯は、一週間経過後もタタキにして味わいは変わらないのでしょうか。試すつもりはありませんが...
で、実は鮮度が保たれているとしても試すつもりはない、該機能はそういった心理的な部分に負う所大ではないかとの思いが過るわけです。
スーパー、デパートの生鮮品売り場で、鮮魚、精肉はスチロールトレイに盛られラップで密封された状態で陳列販売されています。ラップに貼付られたラベルには、商品名、生産地と共に消費期限の記載があります。義務付けられているのでしょう。(対面販売がこの限りではないのも不思議でありますが...)
この消費期限が科学的手法で規定されているであろうことは明らかです。その基準については存じませんが。
例えば、消費期限が翌日となっている鰯を上記機能を利用すれば4〜5日後に消費期限を伸ばせることになります。にわかに信じ難いなぁと...
健康に支障が出ないという意味ならともかく、風味まで保持できるとは思えません。購入した直後ですら生食して旨いかどうか、店によって鮮度に差があることも珍しくありませんし。
通常、生食、焼き物、煮物、揚げ物へと手を加えて、最後には調理した状態で冷凍にする、そういった流れではないでしょうか。干す、漬け込む、煮る、揚げる等の加工自体も新鮮な状態で行うことが好ましいはずです。
この機能なら大丈夫と宣われても、消費期限から4〜5日経つまで鮮魚、精肉を生の状態で保存し続けるというのも想定し難いわけです。早く食べきらないと、とまではともかく、さっさと加工調理まではしておこうと思うのが自然ではないでしょうか。
おそらく健康に支障はないのでしょう。風味はともかく、該機能の効果に加え、店頭での消費期限の設定にも余裕を持たせているでしょうから。
問題は、上記機能で消費期限から更に4〜5日保存した鰯を食べて落胆した時、その失望感のやり場を何処に求めるか、ということです。
購入店では無理があります。消費期限を表示しているわけですから。では、冷蔵庫のメーカーでしょうか。ただ、
*当社調べ。運転状況や食品の状態や量によって、効果が異なります。
との記述が既に用意されていますし...
となるとやはり消費者自身ということでしょうか。釈然としないものを感じてしまいます。
鮮度落ちの早い生鮮食品は、機能に頼らずさっさと食べきるのが望ましいという、当たり前の話の再確認になるのかもしれません。
となるとやはり消費者自身ということでしょうか。釈然としないものを感じてしまいます。
鮮度落ちの早い生鮮食品は、機能に頼らずさっさと食べきるのが望ましいという、当たり前の話の再確認になるのかもしれません。
2015年3月8日日曜日
根絶
川崎中学生殺害事件についての報道に触れると、
加害者少年たちに事件の責任はないとするつもりは断じてありません。ただ、全面的、全ての責任、というか原因を少年たちに求めるのも違うだろうと思うわけです。
それは17、18才で未成年だからという意味ではありません。そういう行為に及んだ根幹に、自らの責に依らない部分があるのではないか、ということです。
確たる論拠、統計的な調査結果も持ちあわせていませんが...
同根に見える事件を時折見聞します。その環境が意図せずとも潜在的に代々連鎖しているとしたら...生物的な遺伝ではなく、親から子、そして孫へと受け継がれてしまう心理的な遺伝であるならば、抗えない無力感を抱いてしまいます。
南幌町家族殺害事件
”永山則夫 封印された鑑定記録”(堀川 惠子 岩波書店 2013年)を思い起さずにはいられません。
加害者少年たちに事件の責任はないとするつもりは断じてありません。ただ、全面的、全ての責任、というか原因を少年たちに求めるのも違うだろうと思うわけです。
それは17、18才で未成年だからという意味ではありません。そういう行為に及んだ根幹に、自らの責に依らない部分があるのではないか、ということです。
”人は氏より育ち”このことは全くもって正しいと信じています。ただそのような育て方(=生育環境)はどのように決定されてきたのでしょう。やはり、根本には自らが過ごしてきた環境で育まれてきた価値観、認識を基に、それを肯定し、類似した環境を用意してしまうということではないでしょうか。
確たる論拠、統計的な調査結果も持ちあわせていませんが...
同根に見える事件を時折見聞します。その環境が意図せずとも潜在的に代々連鎖しているとしたら...生物的な遺伝ではなく、親から子、そして孫へと受け継がれてしまう心理的な遺伝であるならば、抗えない無力感を抱いてしまいます。
子は親を選べませんが、その親もまた自身が育った環境を選んだわけではないのです。そういった印象が単に一人歩きしているに過ぎないことを願っています。
いずれにせよ、社会全体がもう少し賢くなるべきかと思うわけです。個性、個人の意思が尊重されなければならないのは理解していますが、継代してしまう生育環境の負の部分を社会全体で排除、緩和できないものかと。
初等教育課程において、道徳の教科化、評価の点数化が話題になっていますが、
いずれにせよ、社会全体がもう少し賢くなるべきかと思うわけです。個性、個人の意思が尊重されなければならないのは理解していますが、継代してしまう生育環境の負の部分を社会全体で排除、緩和できないものかと。
初等教育課程において、道徳の教科化、評価の点数化が話題になっていますが、
――知らなかったから法的に問題はない――とされる政治資金規正法、
2015年3月6日金曜日
視点
”効率や生産性には目を向けない”やはり行政組織の体質なんでしょうか。以前からもその効果は疑問視されてきているのですが、
誰か佐賀県教育委員会にChromebookというものを教えてあげてくれ費用対効果を含めた生産性という観点が欠如しているわけです。最新、高性能のハードを教育に導入すれば効果が現れるのでしょうか。それ以前にシステムやコンテンツといったソフトウェアの質を重視すべきです。
結局ソフトの根幹にあるビジョンや目的、設計思想、そういった部分に信頼性がない限り、教育へのIT技術導入も効果は期待薄かなと...
手段と目的をはき違えているように見受けられます。門外漢ながらいずれ”学ぶこと”について記すつもりです。
で、効率性という点で国税電子申告(e-Tax)のシステムにも違和感を感じたわけです。本来、制度やシステムは単に電子化するだけでは不十分で、簡素化、統合を進めてこそ生産性向上が図れると考えています。
生産性云々より、電子化ありきだったでは、といった感が否めません。生産性向上に全く寄与していないと言うつもりはありませんが...
なんとなく、上記佐賀県の高校教育へのタブレット導入にも似た、ハコモノ公共投資的な印象を抱きました。正確にはハコモノではなくシステムですが...
確定申告の申告書類作成には、ここ何年かは国税庁の確定申告書等作成コーナーの書面提出を利用しています。国税電子申告(e-Tax)ではありません。PDFファイルとして作成した申告書類を印刷して提出しています。
上記コーナーの書面提出とe-Taxのシステムは未来永劫併存し続けるのでしょうか。とても統合されるとは思えません。何とも非効率だなぁと思います。
ICカードリーダライタ、電子証明書、公的個人認証クライアントソフト、ルート証明書...とてもe-Taxに移行しようという意欲を萎えさせます。まぁ、そもそもWindowsにMac OS、IEにSafari、Adobe Readerと使ってないOSやソフトばかりです。インストールすらしていません。
システムの運用当初はe-Taxの方が先進的だったかもしれません。しかしながら、クラウドという表現はともかく、ブラウザ一つ、しかも多様なOS、ブラウザで利用できる書面提出による申告書作成のほうがよほど先進的です。
本人認証の部分を厳格にして電子申告機能を付加すればe-Taxは不要ではないかとさえ思います。体面がありますから後には引かないでしょうが...旧来から連綿と受け継がれてきたの官の体質です。
少し検索してみると、
平成 25 年度における e-Tax の利用状況等について(概要)という報告があって、所得税申告における e-Tax利用率が50%を超えていて驚きました。が、更に調べると、
昨年はe-Taxによる申告の比率が、個人納税者の所得税申告で4割を超えたという話ですが、この利用率には税務署で申告相談に訪れた人をPC申告に誘導して、スタッフのヘルプの下、その場でe-Taxを使って手続きをとらせた人の数がカウントされているそうで、これが利用者数の大半を占めているのが実態のようです(税務署の相談窓口に行くと、手書き申告書持参でも即PCコーナーに誘導されます)。といった事情があるようです。
こういった非効率性から目を逸らして、IT化による行政機能、手続きの生産性云々が声高に叫ばれても、手段の目的化、ITゼネコンの既得権化が垣間見えてしまい、嘆息するばかりです。
2015年3月4日水曜日
懸念
自宅近くに紅白の幔幕が張られた家があります。近く行われる地方選立候補者の選挙事務所なんでしょう。
で、選挙カーには
ピケティブームに乗っかってでしょうか。底の浅さを感じないわけではありません。まぁ、理念も政策も聞いてるわけではありませんが。
軽々に、格差是正などと大口叩かない方が賢明かと思うわけです。文言の重さを背負えるのでしょうか。
で、聞きかじりからの憶測を続けます。
国家はそれほど賢くないのではないか、斜めに見ている私には、国家の介入には抵抗があります。反対というわけではありませんが積極的な支持は躊躇するということです。
課税される側も、富の分配に与る側も、自由主義経済における”富の追求”という行動原理が国家の介入によって削がれないでしょうか。行き過ぎは社会主義体制への移行を意味します。それが目指すべき姿ではないのは明かです。
それ以前に、国家が適切に管理できるとは思えないのです。
同時に、国家の介入による富の分配で、資本の利潤を求める姿勢がより強大にならないだろうか、といった疑問も生じています。
今、r-gに相当する富を資産税として徴税するとします。富の所有者の実質的な収益率は下がってしまいます。
この時、徴税分を加えた更なる収益を追求しようと、資本はよりグリード(強欲)にならないでしょうか。収益率として
状況が好転することなく、際限なく課税が繰り返されてしまうことを危惧します。
国の側からしてみれば好都合かもしれません。社会保障費が足りない、国の債務増大に歯止めをかける、といった理由による消費増税と同じ構図です。徴税するいい大義名分ができたと。足りなきゃ税率を上げればいい、格差是正が不十分なら更に資産税を増やせばいいわけです。イタチごっこを己の匙加減で続けられます。
税率は安易に書き換えられます。で、徴税された公金の一部は様々な名目で補助金となって、企業に交付され、”知らなかった”政治屋のセンセイがたに還流したりもするわけです。
公金に対する意識がそういった程度の行政府の下で、格差是正の方策として資産課税の効果に疑問を払拭できないでいます。
単に持てる者の資産に課税すればよしとするだけでなく、徴税した資産税を格差是正を含めた公益に如何に支出していくか、丁寧な議論を期待したいところです。
で、選挙カーには
格差是正と大書された看板が載っています。
ピケティブームに乗っかってでしょうか。底の浅さを感じないわけではありません。まぁ、理念も政策も聞いてるわけではありませんが。
軽々に、格差是正などと大口叩かない方が賢明かと思うわけです。文言の重さを背負えるのでしょうか。
で、聞きかじりからの憶測を続けます。
r(資本収益率)>g(経済成長率)は資本主義の本質であるため富が集中し、格差の拡大は避け得ないと。で、行き過ぎた格差を是正するには国家が介入し、持てる者の資産に課税し、富の分配がなされるべきだと。
国家はそれほど賢くないのではないか、斜めに見ている私には、国家の介入には抵抗があります。反対というわけではありませんが積極的な支持は躊躇するということです。
課税される側も、富の分配に与る側も、自由主義経済における”富の追求”という行動原理が国家の介入によって削がれないでしょうか。行き過ぎは社会主義体制への移行を意味します。それが目指すべき姿ではないのは明かです。
それ以前に、国家が適切に管理できるとは思えないのです。
同時に、国家の介入による富の分配で、資本の利潤を求める姿勢がより強大にならないだろうか、といった疑問も生じています。
今、r-gに相当する富を資産税として徴税するとします。富の所有者の実質的な収益率は下がってしまいます。
この時、徴税分を加えた更なる収益を追求しようと、資本はよりグリード(強欲)にならないでしょうか。収益率として
r+(r-g)を目標に据えてしまうということです。結局、格差は是正されることなく、税負担だけが増やされていくと...
――音楽が続く限りはダンスをやめようとしない――
これも資本主義の本質です。状況が好転することなく、際限なく課税が繰り返されてしまうことを危惧します。
国の側からしてみれば好都合かもしれません。社会保障費が足りない、国の債務増大に歯止めをかける、といった理由による消費増税と同じ構図です。徴税するいい大義名分ができたと。足りなきゃ税率を上げればいい、格差是正が不十分なら更に資産税を増やせばいいわけです。イタチごっこを己の匙加減で続けられます。
税率は安易に書き換えられます。で、徴税された公金の一部は様々な名目で補助金となって、企業に交付され、”知らなかった”政治屋のセンセイがたに還流したりもするわけです。
公金に対する意識がそういった程度の行政府の下で、格差是正の方策として資産課税の効果に疑問を払拭できないでいます。
単に持てる者の資産に課税すればよしとするだけでなく、徴税した資産税を格差是正を含めた公益に如何に支出していくか、丁寧な議論を期待したいところです。
2015年3月1日日曜日
約束
戦時下のシリーズに入るとNHK朝ドラは、規定路線を寸分違わず類似した内容となります。
もはや、伝統芸能の様式美を追求しているのだろうか、とさえ思えてきます。
キーワードは、”鬼畜米英”、”非国民”、”国賊”等...朝から居丈高な怒声でそういった語を耳にします。
専横な軍、理不尽な官憲、手放しで国家を盲信する国防婦人会(マッサンには登場していないのですが、北海道には組織がなかったのでしょうか)や同級生、近隣住民...
家宅捜索で英和辞典を見つけてスパイ容疑ですか。一部、曽野綾子騒動ともシンクロしているなぁ、と思うわけです。他にも頭が悪そうな子供が石を投げる、窓ガラスを割る、といった嫌がらせが続きます。
終には準主役に次ぐ役どころで、前途ある好人物の青年が戦地に召集され、戦死すると...その後終戦を迎え、悲しみに打ち拉がれながらも懸命に生きていく、といった流れでしょうか。
朝ドラを通じて製作側が伝えたい意図を未だ掴みかねています。戦時下という特殊な状況で、理性でなく感性に訴えかけられて流され、翻弄される市民の弱さ、愚かさを描き出したいのかもしれません。
ラヂオを通じて情報というツールで扇動の片棒を担いできたNHK自身の過去をさておいてです。
ドラマを通じて戦争、差別、いじめ、軍国主義、全体主義に対する嫌悪感を植え付けたい意図があからさまです。NHKのその上から目線の教育的姿勢に押し付けがましさを感じます。不愉快です。
ところで、話が戦時下に移った時、ぎこちなさというか、こじつけのような印象を持ちました。上記意図を含ませるためでしょうか。史実がどうであったかは存じませんが...
自社ウィスキーの味わいが理解されず販売不振が続いていたニッカウヰスキーですが、人員整理に踏み切る直前、海軍にウィスキーを納入することで息を吹き返しました。
この納入要請時の海軍将校ですが、樽内の原酒を味見して、
もはや、伝統芸能の様式美を追求しているのだろうか、とさえ思えてきます。
キーワードは、”鬼畜米英”、”非国民”、”国賊”等...朝から居丈高な怒声でそういった語を耳にします。
専横な軍、理不尽な官憲、手放しで国家を盲信する国防婦人会(マッサンには登場していないのですが、北海道には組織がなかったのでしょうか)や同級生、近隣住民...
家宅捜索で英和辞典を見つけてスパイ容疑ですか。一部、曽野綾子騒動ともシンクロしているなぁ、と思うわけです。他にも頭が悪そうな子供が石を投げる、窓ガラスを割る、といった嫌がらせが続きます。
終には準主役に次ぐ役どころで、前途ある好人物の青年が戦地に召集され、戦死すると...その後終戦を迎え、悲しみに打ち拉がれながらも懸命に生きていく、といった流れでしょうか。
朝ドラを通じて製作側が伝えたい意図を未だ掴みかねています。戦時下という特殊な状況で、理性でなく感性に訴えかけられて流され、翻弄される市民の弱さ、愚かさを描き出したいのかもしれません。
ラヂオを通じて情報というツールで扇動の片棒を担いできたNHK自身の過去をさておいてです。
ドラマを通じて戦争、差別、いじめ、軍国主義、全体主義に対する嫌悪感を植え付けたい意図があからさまです。NHKのその上から目線の教育的姿勢に押し付けがましさを感じます。不愉快です。
ところで、話が戦時下に移った時、ぎこちなさというか、こじつけのような印象を持ちました。上記意図を含ませるためでしょうか。史実がどうであったかは存じませんが...
自社ウィスキーの味わいが理解されず販売不振が続いていたニッカウヰスキーですが、人員整理に踏み切る直前、海軍にウィスキーを納入することで息を吹き返しました。
この納入要請時の海軍将校ですが、樽内の原酒を味見して、
――やはりこんなものか。――
――まっ、ウイスキーの味も分からんような連中には、この程度でも十分だろう。――
と宣うわけです。更に、
――実は、欧州の戦争の影響で、洋酒の輸入が難しくなってきてな。ウイスキーを大量に確保しておく必要に迫られている。――といった言葉も。必要?
そもそもウィスキーは軍需物資なんでしょうか。贅沢な嗜好品として統制品に指定されるならまだ理解できますが...軍におけるウィスキーの軍需品としての位置付けを知りたい処です。日本酒や焼酎で代替できない理由もです。
ウィスキーは武器ではありませんから、軍に必要とされるなら、民需もあったはずです。であれば、もう少し売れていてもいいように思えますが。やはり、不味くて売れなかったのかもしれません。
で、上の海軍将校の言葉です。輸入ウィスキーを飲み馴れていて味に詳しい将校なんでしょうか。続く”まっ、ウイスキーの味も分からんような連中...”とは海軍でウィスキーを飲む層、将校や将官を想定しての感情の発露?
まとめると、
一方で、六年熟成させた原酒を使ったブレンドウィスキーは販売不振でした。自身が納得できる味わいで満を持しての発売だったはずです。本場スコットランドのウィスキーにも引けを取らない自信作だったかと...
これが日本人に受け入れられず売れないと...本場のウィスキーに精通しているかもしれない海軍将校からは”こんなもの”呼ばわり...
一体、誰に向けてのウィスキーだったのか、不思議です。結局、旨かったのか不味かったのか、よく分かりません。唯一考えられるのは、日本人に受け入れられる味も創り出せず、”こんなもの”しかできなかった、ブレンダーとしての亀山の能力不足ということなんでしょうか。
又、先行して国産ウィスキーを発売していた寿屋はどう対応したのかも興味をそそられます。通常であれば実績のある寿屋がまず要請されるのが自然かと思うわけです。蒸留所も京都に立地していますし。
何故破綻直前のニッカに白羽の矢が立ったのか気になるところです。
ウィスキーは武器ではありませんから、軍に必要とされるなら、民需もあったはずです。であれば、もう少し売れていてもいいように思えますが。やはり、不味くて売れなかったのかもしれません。
で、上の海軍将校の言葉です。輸入ウィスキーを飲み馴れていて味に詳しい将校なんでしょうか。続く”まっ、ウイスキーの味も分からんような連中...”とは海軍でウィスキーを飲む層、将校や将官を想定しての感情の発露?
まとめると、
ウィスキーの調達に訪れた海軍将校だけがウィスキーの味に詳しい。
海軍でウィスキーを飲む層は本物の旨いウィスキーの味を知らない。
にも拘らず海軍にとってウィスキーは必需品である。
そして、ニッカのウィスキーは(樽出しの若い原酒だったためかもしれないが)、大した味ではない。といったところでしょうか。 これでは敗戦已む無しだったかも...
一方で、六年熟成させた原酒を使ったブレンドウィスキーは販売不振でした。自身が納得できる味わいで満を持しての発売だったはずです。本場スコットランドのウィスキーにも引けを取らない自信作だったかと...
これが日本人に受け入れられず売れないと...本場のウィスキーに精通しているかもしれない海軍将校からは”こんなもの”呼ばわり...
一体、誰に向けてのウィスキーだったのか、不思議です。結局、旨かったのか不味かったのか、よく分かりません。唯一考えられるのは、日本人に受け入れられる味も創り出せず、”こんなもの”しかできなかった、ブレンダーとしての亀山の能力不足ということなんでしょうか。
又、先行して国産ウィスキーを発売していた寿屋はどう対応したのかも興味をそそられます。通常であれば実績のある寿屋がまず要請されるのが自然かと思うわけです。蒸留所も京都に立地していますし。
何故破綻直前のニッカに白羽の矢が立ったのか気になるところです。
無頼
「NHK受信料をテレビ持たない人からも徴収」報道に高市総務相「何も決まっていない」日経の記事、
NHK受信料、テレビない世帯も ネット拡大で検討を受けての所管大臣の応えです。
――何も決まっていない――
確かにそうかもしれませんが、既にテレビを保有していなくともNHKとの受信契約を迫られる現状にあります。ガラケーやカーナビを持っているだけで...
所管大臣の見解を伺いたい処です。
新聞各社におかれましては、冒頭の方向に進むようでしたら惰性で続けている新聞の購読を中止しますので心して論陣を張って下さい。
――新聞は民主主義に不可欠――などと意味不明の理屈をこねくり回して軽減税率の適用を乞う前に、NHK様をどうにかしたら如何でしょうか。
戯言
引き続き、
で、rの引き上げ、即ち金融政策によるgの増加は期待できません。金融緩和は継続され、gが増加しなければ追加緩和すら求められますから。
やはり、上昇余地は限られてしまうかもしれませんが、経済成長率の増加を図って資本収益率に近づけていくべきかと。この増加が結果として資本収益率を押し上げ、再び経済成長を促していく、そういった正のサイクルを目指す以外に成長の絵図は描けないのではないでしょうか。
上図は、『21 世紀の資本』(著者: トマ・ピケティ 翻訳:山形浩生,守岡桜,森本正史 出版: みすず書房)の、訳者の方のサイトからの引用です。
世界全体といった括りで、r>gが成立しています。ただ、r,gを微視的にみれば、各々に変動、ばらつき、ゆらぎが存在し、相応の分布が認められるのでは、と想像しています。これが、時代による格差、或いは、地域間格差ということかもしれません。
今、政治と経済のシステム、教育と技術水準を含めた地域と、時代の関数としてr(pn,tn)、g(pn,tn)、更に両者の比r(pn,tn)/g(pn,tn)を考えてみます。
上図でも明らかなように、常に
当然ですが、r(pw,tn)/g(pw,tn)が時間に対して変動しているように、同一時点t1であっても国家、地域によってr(pn,t1)/g(pn,t1)
が異なるであろうことは明らかです。
更に、ある二つのr(pn,tn)/g(pn,tn)が、
ある地域phighの経済成長率g(phigh,t1)が高ければ、相応して高い資本収益率r(phigh,t1)であり、日本のように低経済成長率g(pjp,t1)ならば低い資本収益率r(pjp,t1)に留まり易いわけです。
そこで、
問題は日本の低い経済成長率g(pjp,t1)を如何にg(phigh,t1)に置き換えるかです。実際にはg(pjp,t1)に地域phighの高い経済成長率g(phigh,t1)を反映させるといったところでしょうか。
まぁ、g(phigh,t1)のg(pjp,t1)への働きかけ、連携、寄与に期待するということです。その目的で資本収益率r(pjp,t1)の低い日本から、成長余地のある地域phighへの経済成長を促す投資も一策です。で、g(phigh,t1)によってg(pjp,t1)を牽引させると...
地域経済間の相関性が弱かったかつてであれば、相互に及ぼす影響は現在ほどではなかったはずです。しかしながら今日までの情報、物流技術の進歩により、距離と時間による地域間の隔たりは劇的に縮められています。
場合によっては、関税という障壁は勿論、 国境、政治体制、経済システムの違いを乗り越え、恰も一つの経済体であるかの如く振舞うことすらあります。
グローバル化って言うんでしょうか。この傾向が加速する過程で、低い資本収益率r(pjp,t1)で成長が抑えられている日本でもg(phigh,t1)の寄与による成長が見込めるかもしれません。
特に少子高齢化が進む日本において、国内のみに留まる需要喚起、新たな需要創出に頼る成長戦略では、経済成長は望めないとみています。公共事業は成長戦略となり得ず、社会から強く求められる新たな需要というものも又、想定し難いわけです。
現在描かれている成長戦略がどういった設計思想に基づくものなのか、気になる処です。
時間についても同様に
g(pn,tn)は連続的に変化する指標であり、t1からt2への時間経過と共に、g(pjp,t1)からg(pjp,t2)へと漸次変化していきます。
ここで技術革新により、未来のg(pjp,t2)であるかの如く非連続的にg(pn,tn)を上昇させます。
資本収益率r(pn,tn)と経済成長率g(pn,tn)は相互にリンクしながら時間と共に変化していくと考えています。生産性、新材料、新規需要でも、これまで想定し得なかった技術革新によりg(pn,tn)を離散的に上昇せしめてr(pn,tn)の引き上げを目論むわけです。
技術革新によりr(pn,tn)とg(pn,tn)の時間に対する追従性にズレを引き起こし、一時的にg(pn,tn)がr(pn,tn)に近づく、或いは上回らせることでr(pn,tn)を押し上げられないか、ということです。
そういった技術革新の可能性の有無はともかくとしてです。
同一地域内での技術革新によるg(pn,tn)の劇的な引き上げは困難かもしれませが、格差のある異なった地域への適用なら実現可能かもしれません。
教育、生産性、技術レベルに格差のある二地域を考えます。低レベルの地域plが単独で高レベルの地域phに追いつくには時間が必要です。そこでphからplへ教育、生産性、技術の移転を急激に進め、レベル向上に必要な時間を短縮させます。
そうすることで、当該地域において
上述の戯言は世界に多様性というか、格差があっての話です。各地域で成長率g(pjp,tn)が広い範囲でばらついていること、技術や教育水準に格差があることを前提としています。
そういった不均一性の均質化、ばらつきの収束がグローバル化なわけで、グローバル化が進みすぎて世界が均質化してしまうのも問題があるなぁ、と思った次第です。
懸念を二つほど。
引用したグラフ中、1950-2012でr(pw,t1950-2012)/g(pw,t1950-2012)が最も1に近づいています。これがグローバル化の寄与ということでしょうか。これが均質化の結果であるならば既に身動き取れなくなっているのかもしれません。
上記戯言はある意味トリクルダウンに期待するものです。高成長の地域が低成長の地域を引き上げると。ただ、トリクルダウンの実現性を疑問視しているのです。個人的にですが...
r(資本収益率)>g(経済成長率)について思いを巡らせているわけですが、r(資本収益率)によってg(経済成長率)の上昇余地は限られてしまいます。rが低い限りgも低率に留まります。
で、rの引き上げ、即ち金融政策によるgの増加は期待できません。金融緩和は継続され、gが増加しなければ追加緩和すら求められますから。
やはり、上昇余地は限られてしまうかもしれませんが、経済成長率の増加を図って資本収益率に近づけていくべきかと。この増加が結果として資本収益率を押し上げ、再び経済成長を促していく、そういった正のサイクルを目指す以外に成長の絵図は描けないのではないでしょうか。

上図は、『21 世紀の資本』(著者: トマ・ピケティ 翻訳:山形浩生,守岡桜,森本正史 出版: みすず書房)の、訳者の方のサイトからの引用です。
世界全体といった括りで、r>gが成立しています。ただ、r,gを微視的にみれば、各々に変動、ばらつき、ゆらぎが存在し、相応の分布が認められるのでは、と想像しています。これが、時代による格差、或いは、地域間格差ということかもしれません。
今、政治と経済のシステム、教育と技術水準を含めた地域と、時代の関数としてr(pn,tn)、g(pn,tn)、更に両者の比r(pn,tn)/g(pn,tn)を考えてみます。
上図でも明らかなように、常に
r(pw,tn)/g(pw,tn)>1ですが、一定ではありません。pwは世界全体とします。r(pw,tn)がr(pn,tn) の総和か平均かは存じません。
当然ですが、r(pw,tn)/g(pw,tn)が時間に対して変動しているように、同一時点t1であっても国家、地域によってr(pn,t1)/g(pn,t1)
が異なるであろうことは明らかです。
更に、ある二つのr(pn,tn)/g(pn,tn)が、
r(pa,tn)/g(pa,tn)=r(pb,tn)/g(pb,tn)であっても資本収益率r(pn,tn)と経済成長率g(pn,tn)は、
r(pn,tn)/g(pn,tn)>1を満たす範囲で様々です。
ある地域phighの経済成長率g(phigh,t1)が高ければ、相応して高い資本収益率r(phigh,t1)であり、日本のように低経済成長率g(pjp,t1)ならば低い資本収益率r(pjp,t1)に留まり易いわけです。
そこで、
r(pjp,t1)/g(phigh,t1)という状況を作ることでr(pjp,t1)増加させ、この増加が再びg(phigh,t1)を引き上げるといった、上述の正のサイクルが期待できるのではないかと憶測します。
問題は日本の低い経済成長率g(pjp,t1)を如何にg(phigh,t1)に置き換えるかです。実際にはg(pjp,t1)に地域phighの高い経済成長率g(phigh,t1)を反映させるといったところでしょうか。
まぁ、g(phigh,t1)のg(pjp,t1)への働きかけ、連携、寄与に期待するということです。その目的で資本収益率r(pjp,t1)の低い日本から、成長余地のある地域phighへの経済成長を促す投資も一策です。で、g(phigh,t1)によってg(pjp,t1)を牽引させると...
地域経済間の相関性が弱かったかつてであれば、相互に及ぼす影響は現在ほどではなかったはずです。しかしながら今日までの情報、物流技術の進歩により、距離と時間による地域間の隔たりは劇的に縮められています。
場合によっては、関税という障壁は勿論、 国境、政治体制、経済システムの違いを乗り越え、恰も一つの経済体であるかの如く振舞うことすらあります。
グローバル化って言うんでしょうか。この傾向が加速する過程で、低い資本収益率r(pjp,t1)で成長が抑えられている日本でもg(phigh,t1)の寄与による成長が見込めるかもしれません。
特に少子高齢化が進む日本において、国内のみに留まる需要喚起、新たな需要創出に頼る成長戦略では、経済成長は望めないとみています。公共事業は成長戦略となり得ず、社会から強く求められる新たな需要というものも又、想定し難いわけです。
現在描かれている成長戦略がどういった設計思想に基づくものなのか、気になる処です。
時間についても同様に
r(pjp,t1)/g(pjp,t2)という状況を生み出すことで成長率g(pjp,tn)の上昇を誘導できないだろうかと思っています。t2はt1以降の未来を示します。
g(pn,tn)は連続的に変化する指標であり、t1からt2への時間経過と共に、g(pjp,t1)からg(pjp,t2)へと漸次変化していきます。
ここで技術革新により、未来のg(pjp,t2)であるかの如く非連続的にg(pn,tn)を上昇させます。
資本収益率r(pn,tn)と経済成長率g(pn,tn)は相互にリンクしながら時間と共に変化していくと考えています。生産性、新材料、新規需要でも、これまで想定し得なかった技術革新によりg(pn,tn)を離散的に上昇せしめてr(pn,tn)の引き上げを目論むわけです。
技術革新によりr(pn,tn)とg(pn,tn)の時間に対する追従性にズレを引き起こし、一時的にg(pn,tn)がr(pn,tn)に近づく、或いは上回らせることでr(pn,tn)を押し上げられないか、ということです。
そういった技術革新の可能性の有無はともかくとしてです。
同一地域内での技術革新によるg(pn,tn)の劇的な引き上げは困難かもしれませが、格差のある異なった地域への適用なら実現可能かもしれません。
教育、生産性、技術レベルに格差のある二地域を考えます。低レベルの地域plが単独で高レベルの地域phに追いつくには時間が必要です。そこでphからplへ教育、生産性、技術の移転を急激に進め、レベル向上に必要な時間を短縮させます。
そうすることで、当該地域において
r(pl,t1)/g(pl,t2)の状態を生み出せないでしょうか。で、r(pl,t1)の押し上げや日本の成長率g(pjp,t1)への働きかけを期待するというわけです。
上述の戯言は世界に多様性というか、格差があっての話です。各地域で成長率g(pjp,tn)が広い範囲でばらついていること、技術や教育水準に格差があることを前提としています。
そういった不均一性の均質化、ばらつきの収束がグローバル化なわけで、グローバル化が進みすぎて世界が均質化してしまうのも問題があるなぁ、と思った次第です。
r(pw,tn)/g(pw,tn)>1が固定化してしまって、身動き取れなくなってしまいますから。
懸念を二つほど。
引用したグラフ中、1950-2012でr(pw,t1950-2012)/g(pw,t1950-2012)が最も1に近づいています。これがグローバル化の寄与ということでしょうか。これが均質化の結果であるならば既に身動き取れなくなっているのかもしれません。
上記戯言はある意味トリクルダウンに期待するものです。高成長の地域が低成長の地域を引き上げると。ただ、トリクルダウンの実現性を疑問視しているのです。個人的にですが...
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