2015年1月12日月曜日

過失

風刺、揶揄への対抗手段としての暴力が断じて許されないのは当然です。
テロに抗議のデモ行進 160万人以上参加
該リンクではテロに抗議し、テロに立ち向かう決意を示す行動として報道されています。

一連のデモには、民主主義の根幹を支える表現の自由”を守る行動としての意義も含まれているとのことです。

一方、”禁忌”という語が適切か否かは判りませんが、異なった価値観を有するグループが接触、衝突した場合、互いに自らの物差しで量ることができない思想、信条、宗教といった文化的規範が存在するのも事実です。

この相違が理解不足のまま、”表現の自由”を振りかざして、相手のアンタッチャブルな、触れてほしくない、嫌がる部分を揶揄するのもなぁ、と思わないでもありません。

おそらく、確信的行動であり、嫌がらせ以外の何物でもない気がしますが...

身勝手さ、独善性、偏った正義を感じるわけです。重ねて記しますが、だからといってその対抗手段としての暴力は否定されなければならないのは勿論です。

で、上記のように該デモの目的はテロに抗議し、テロに立ち向かう決意を示すことにあるわけですが、誰に向けて行動とみるべきでしょうか。

イスラム過激派に対して?価値観が異なるわけですから意思を伝達できるとも思えません。主に、欧米諸国を中心とした、価値観を共有できる民主主義陣営の結束を促す、といった主旨が実の処かと。

国際社会が協調してイスラム過激派との対峙を図り、近い将来の武力行使に信認を得るための事前行動、根回しでは、と憶測しています。

翻って日本の民放では、同じ頃、各地で催された成人式の模様ばかりが流されていました。日本が国際社会の一員として今一つ重んじられていないのもわかるような気がします。
2014年成人式 今年も自由過ぎる若者たちwww
ところで、私自身は問題解決の手段として武力を全く否定する側に立っているつもりはありません。民主主義や表現の自由以前に、
”自らの責に依らない理不尽な不利益は断じて許されるべきではない”
は譲れない部分ですから...

政治的、外交的理由による衝突はともかくとしてです。例えばナイジェリア、ISISといったイスラム過激派の跋扈する地域での女性、少年少女に対する犯罪は、今回のテロ事件に拘らず、むしろそれ以前に根絶に向けた再発阻止が講じられていて然るべきではないか、と考えます。

それは、必要であれば武力の行使を肯定してでも、ということを申し添えておきます。

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