2020年5月23日土曜日

混濁

ここの処、ゼロリスクなる語を頻繁に耳にします。
大阪府・吉村知事 休業要請の大幅緩和に「ゼロリスクは目指さない。第2波の可能性も受け入れて社会経済を回さないと」USJや海遊館の大型施設も解除
昨今のコロナ禍が収束に向かいつつある中、徐々に経済活動を再開するためのキーワードになっています。
”未だ新型コロナ感染者発生の可能性はゼロじゃない。だけどこのままじゃ干上がっちゃうから危険があっても働き始めるよ。”
といったところでしょうか。でですね、工業界でフェイルセイフの安全教育を受けた身としてはモヤモヤしたものを感じるわけです。

今でこそ”ゼロリスク”の語はテレビやネットから特段の説明なく流れてきます。ただこの考え方が頻出しだしたのはそれほど過去ではなく、福島の原発事故後、他の原発の再稼働だったり、将来的に原発をどうするか、という議論あたりだったとの認識です。以前、”ゼロリスク”、”原発”をキーワードとしてグーグルで検索して語の頻出性を調べていました。

勿論、ゼロリスクの否定とフェイルセイフは各々別個の姿勢ですから両者を同時に選択することは可能です。ただなんとなくですが、両者を混同しているかのような雰囲気を感じないでもなく、その辺りに違和感を抱いた次第です。

ゼロリスクとは危険の完全な排除を意味しますから、コロナ禍においてゼロリスクを実現するには感染の可能性をゼロにする必要があります。具体的には感染者が現れなくなるまで緊急事態宣言を解除せず継続し、感染の機会を極力減じた状態を継続する、ということです。これは”感染者が出ても、或いはクラスタが出現しても(フェイル)拡大させない”という点でフェイルセイフの施策の一つとみることができます。

逆に、ゼロリスクを求めないということは、感染者が出る、或いはクラスタが出現する危険を排除しない、ということです。新たな感染者、クラスタが出ることを一定程度容認しているわけです。これは感染拡大を抑制する方向の施策ではありませからフェイルセイフの姿勢とは相反します。ただそうであっても、検査、入院、治療に関わる医療資源が十分に備えてあるならば、感染者、クラスタが発生した際(フェイル)対処できます。つまり、安全を損なう施策であっても、起こり得る最悪の事態に対処するために十分な資源を備えておけば安全は保たれます。これが、ゼロリスクの否定と、且つフェイルセイフの実現です。

効果的な治療薬を欠いている今、用意可能な医療資源だけでフェイルセイフが実現できるのか、という部分を精査しなければならないのは云うまでもありません。

このようなフェイルセイフの部分を蔑ろにしたままでのゼロリスクの否定は蛮勇という印象を否めません。ゼロリスクの否定にのみ留まれば、”他人の痛みが解らない”当事者意識を欠いた判断、という辛辣な謗りは免れないだろうなぁと。

単なるゼロリスクの否定にはどうしても感染者切り捨てのイメージが付きまといます。フェイルセイフについての言及がないままですとそういった姿勢をより実感してしまいます。
実際の処どうなのか不明ですが、不慮の事態に備えないゼロリスクの否定には違和感を覚えます。

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