2016年7月11日月曜日

投票

参院選が終り、来る東京都知事選出馬者の話題で喧しい毎日です。一連の選挙は、選挙権年齢が18才以上に引き下げられる初めての国政選挙であること、首都東京の首長を選出する選挙であることも狂騒に拍車をかけているのでしょう。

で、当然誰に票を投じるか、若しくは誰を除外するかに思いを巡らすことになります。都知事選はお呼びではありませんけど。

以前のエントリにも記しましたが、

1.野次を飛ばさない政党、候補者を支持したい 

わけです。地方議会も含めた議会の場で、心無い野次による人格口撃、次いで謝罪騒動へと発展し、審議の停滞に陥ってしまうことは珍しくありません。懲りない、学習しないという以前に、全くもって非生産的、無駄の極みです。又、


2.臆することなく政策に自身の名を冠する政党、候補者は避けたい

ところです。勿論、果たして真の政策提言者は一体誰か、という話にもなりますが、そのことよりも自律性や合理的判断に支障を来してしまうのではないかと。

為政者が、己の名を冠した政策によって社会を発展させる結果を為し得たのであれば、政治家冥利に尽きるわけです。経済、外交、防衛、教育、産業、社会保障、いずれの分野であっても自身の名が歴史に残りますから、政治家の自己顕示欲を満たすには十分です。政治家個人にとってこれ以上の栄誉はないんじゃないかと。

しかしながら、逆に該政策で成果を上げられない時、或いは失政に終わった時はどうでしょうか。いずれであっても”失政・失敗”の語は政策実施者側の口から出るはずがありません。おそらく、いつ、いかなる状況でも失政・失敗は認めないだろうということです。これまでの様々な事例を振り返ってみると、
――まだ道半ばである――
――予算(投入資源)、時間規制や緩和の程度が不十分――
――(この政策を講じなければ)もっと悪化していた、これ以上の悪化を食い止めた―― 
他には、都合のいいデータによる成果を粉飾する、失敗の原因を自分以外(他国、自然災害等)に求める、”・・・れば上手くいった”、”・・・たら問題なかった”といった仮定の話に誘導していく、といったところが常套手段かと。

即ち、政策名に為政者自身の名を冠してしまうと、政治家の無謬性がより強固になってしまうということです。政策の間違い、失敗を認めないということは、状況評価の客観的な目を曇らせ、更なる(成果が出るまで無限の)資源の投入、施策の行き過ぎへと進むことになります。

’いけいけどんどん’で突っ込み続けてのっぴきならない状況、後戻りできない状況に追い込まれる...何せブレーキや
バックギヤがありませんから。政策に自身の名を含ませる政党、候補者にはそういう危険性を感じてしまいます。

これが避け得ない日本の伝統か否かは存じません。であったとしても、自律性を欠いた国家がどういう方向に進んでしまうのか、過去の失敗をもう少し糧にできないものかと考える次第です。その典型例は勿論、前の敗戦です。


3.上着が白い候補は信用ならない

全くもって偏見です。カレーうどんや味噌煮込みを口にするのが避けられていそうで...そんな輩は信用できない、単なる思い込みです。


他にもですね、”吐いた唾を飲まない”、”ブーメランを投げない”、”口にしたことと行いに整合性がある”とかありますが、そうすると、
誰もいなくなってしまう
わけです。


上は実在の人物の署名ですが、

だったり、
としか投票用紙に記入できないことが残念でなりません。

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