2016年1月11日月曜日

墓穴(2)

前のエントリから続けます。

5.ではどういう姿勢が望ましいか、という話になるわけです。排他的な姿勢は否定されるべきですが、それでは無関心ならいいのか、という話でもないかと。以前のエントリで記しましたが、周囲の目を気にすることなく左手に丼、右手に箸を持って雑誌を読みながら食事を摂る、当事者も周囲も互いに無関心ならば、上記騒動など起こらなかったはずです。ただ、それは違うような気がします。

こちらも、関心-興味-好奇や無関心-無視-容認といった外からは窺い知れない、曖昧な感情の境界に纏わる話かもしれません。いずれにせよ好ましい姿勢を思いあぐねています。自然に、普通に、と言われても一定の違和感は拭いきれないんじゃないかと。


6.件の”異常”発言からは、他のマイノリティに対する差別的発言に比して、とりわけ嫌悪感に類したものが伝わってきます。この感情の由来は、自意識の強さにあるのでは、と想像しています。率直に言えば、自分が同性から性的な対象として見られることへの恐れ、不安の裏返し、ということではないかと。
――大丈夫、誰もアンタをそれ程気にかけていないから。自意識過剰です。――
更に根本にある承認欲求が満たされず、それはそれで不満を募らせることになるかもしれません。


7.さて、こうした問題にどう向き合うかなんですが、どうしましょうか。問題に対する正しい理解が必須であるのは間違いないところです。偏りのない情報とその理解...オープンな議論の場でしょうか。

LBGTを含むマイノリティに関する問題は世界の至る所で解決されないまま、未だ根深く残っています。社会の更なる成熟が望まれているのは確かです。駒を進めるにはやはり教育でしょうか。

旧来の価値観を盲目的に受け継ぐことなく、新たな視点から再評価して教育の場に反映させる、そういったことかとは思いますが大きな転換が必要です。自己変革は容易ではなく、明治維新や前の敗戦に相当する、強圧的な価値観の再構築に頼らざるを得ないであろう、難儀な話と受け止めています。

0 件のコメント:

コメントを投稿