2013年8月6日火曜日

依拠

さて、前のエントリで取り上げた、飲食店内で撮影した料理写真をブログで公開する行為について考えてみます。

既に削除されていますが、その方のエントリでは、一方で料理写真を公開しながらも、他方で店名を非公開としている姿勢に不快感を顕にされていました。
――このお店は、ご夫婦二人で、一生懸命仕事をされ、急にお客様が増えては、丁寧な仕事が出来なくなるので、お店にご迷惑をお掛けしますので、店名は伏せさせて頂きます。――
上記を口実に集客を目論む店、及び、その片棒を担ぐ客(?)の両者を痛烈に批判されています。


――大きなお世話ですね~~。
ガキじゃあるめぇし、てめぇの力量が及よばねぇって判かりゃ、相すみませんって、お断りするだけの話。
お店の人がそう言ったなら、じゃあ、書くなよѥです。
迷惑掛けたくないなら、一言も書くなよХです。
親にも、兄弟にも、総理大臣にも言うなХです。――

ただ、最初に該エントリとリンク先を拝読した際、私自身はそういった印象を微塵も持ちませんでした。おそらく、以前同様な状況に遭遇し、やらせ、ステマの疑念を抱かれた過去があり、それが思い出されて結びつけられたのかもしれません。

確かに、供された料理の脚色写真は漏らさず羅列して公開する一方、様々な理由をつけて店名を伏せ、挙句、メルマガ購読への、或いは、有料イベント参加への誘導、といった意図があからさまな営利ブログが存在しています。

こういったブログは比較的容易に判別できるのではないでしょうか。自著宣伝、メルマガの勧誘、イベントの案内といった利益誘導を目論む意図が露骨なだけにさもしさが漂っています。

この部分が、原則として収益を目的としない非営利のブログとの相違でしょうか。無料のブログサイトを利用されている場合が多いため、運営者の手では如何ともし難いスポンサーリンクはあるものの...

一方で実は、収益を目的としないが故にそういったブログを公開する動機を量りかねています。店名を非公開にしているにも拘らず、用意された料理の写真を何故ブログで公開するのか、何が拠り所となっているのか、理解できないでいます。

自身の記録ならば料理写真の公開は不要です。惰性で店名の公開、非公開に関わらず写真アップされているのでしょうか。

――いい店知っています。こちらが料理です。
 美味しいです。でも店は内緒です。――


よくわかりません。

尤も、それ以前に店名を公開していたとしても、供された料理の写真をブログで公開する意図がそもそも私には芒洋としていますから、不明は当然かも知れません。

何か理由があるのだろうと考えていますが、理解できないまま掴めていないのが実のところです。

知り得たいくつかの意見、事実から勘ぐってみます。


取り敢えず、集客の片棒を担いで宣伝費や特別待遇といった代償を得る、いわゆる利益誘導を目的とした営利ブログは考察対象から除外します。

それ以外の場合で、料理写真をブログで公開する動機を表すキーワードはおそらく、自慢、誇示、顕示或は、共感、賛同、称賛、承認、評価辺りだろうかと憶測しています。

こういった意識、願望の様々が複雑に入り混じっているのではないでしょうか。

当初、自己顕示欲の充足がブログ公開主たる動機だろうと思っていました。

提供された美味、珍味を自慢する、そういった料理を口にできる境遇を誇示する、若しくは、己の味覚の鋭敏さを顕示する、といった...

ところが、興味深いことに、とても自慢の材料にはなり得ない、ラーメン、ピザ、パスタ、及び、ファストフード等、大手外食チェーンの料理写真を掲載したブログもかなり散見されます。

こういった料理の写真を公開する理由は自慢や誇示では全く説明できません。そこで、誇示一辺倒ではない、共感、賛同、称賛、承認、評価を得たいのではないだろうか、といった見立てに至りました。

――この店は確かに安くておいしいよね。
    あちらは高いけど量は多いですよね。 
        こっちの店は私にはちょっと...――

に始まり、

――あなたの評価は尤もだ
     全く同意します。 
     おっしゃる通り、私もそう思います。――
といったように、直接的にコメントで明示されなくとも、暗黙的であっても、そういった心情が寄せられることへの期待感も一つの動機ではないでしょうか。

であるならば、料理の写真を公開するにあたって、店の情報の公開、非公開は、当事者にとってそれほど大きな意味を持たないことになります。

当該飲食店の情報とは全く切り離し、公開された料理の写真とエントリ内の文言に限定しての共感を期待しているわけです。これは、店舗情報の公開、非公開に関わらず、全く同じ扱いで料理写真が公開されていることからも窺えます。

従って、必ずしも読者が訪問可能な店で提供される料理の写真である必要はなく、自宅、友人宅、或は、屋外のBBQ、イベント、海外のホテルといった容易に食べることができない、或は、体験不可能な状況も実は非公開の店と同じではないかと考えます。

更に極論すれば、未訪問の店のサイト、第三者のブログ上の料理写真を借用して意見と共に自分のブログに掲載し、共感を求めても本質は異にしないように思えます。訪問不可能という意味では同じです。

己の思いを開陳し同意を得ることを眼目とし、そのための素材を問わないならば、他所からの引用画像を用いるという方法も整合性がなくはありません。

決して、盗用、流用、フリを肯定しているわけではありませんが...


更に妄想しますと、何故、料理の写真で共感、賛同、称賛、承認、評価を望もうとするのでしょうか。電化製品や電子機器を評価するブログやKakaku.comのパソコン、家電、カメラといった製品のレビュー、口コミと比較してみます。

上記の各々には確かに盛り付け、デザインといった呼称で主観性の強い評価要素、分量、価格といった客観的評価要素が含まれています。しかしながら、他の評価要素を比較した時、料理については香り、味といった更に主観性の強い項目で評価されてしまいます。

当然と言えば当然ですが、料理の主たる評価は主観で行われ基準が極めて曖昧です。他方、電化製品、情報機器は、性能、機能評価の数値化が容易であり、評価結果を私達の共通認識として捉えられます。

料理を含め飲食物の評価、評論が主観的、曖昧な尺度で為されてしまうのはやむを得ない事実です。であるが故に、料理についてのブログの公開は、実は、評価者であるブロガー自身の物差しを読者に評価して欲しいという姿勢の現れなのかもしれません。

確固な礎に立脚しているとは言えない自身の尺度に、読者から共感を得ることで確信を得、その存在に意義を見出したい、ということではないでしょうか。


引続き、”店と客、集客ブログ”について考えてみます。


(続)


付記

同様な印象を、いずれも主観的評価を避け得ない、映画、小説、音楽等の著作物、或は、歌舞伎、文楽、浄瑠璃といった芸能にも抱いています。いずれ言及する機会があれば、と思っています。

これまで特に触れませんでしたが、飲食に関するブログ、口コミサイトは、ネットワークの効用である情報の共有、集合知の形成が具現化された典型例と考えています。

私自身は、例え、集客目的の宣伝であったとしても、ブログや投稿の内容が実直ならば容認します。しかしながら、評価者の主観性に依存せざるを得ない性質を不適切に利用した、虚飾、過剰、或は、自演といった疑問符のつくケースも目につくのが残念です。

情報の信頼性、客観性が向上し、ネットワークの利便性が更に洗練されることを望みたいところです。

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