2013年1月19日土曜日

同根

勇気、元気、希望、絆と、体罰、いじめ、しごき、全て同一のプラットホームに在るように見えます。

同根ではないでしょうか。

2013年1月12日土曜日

共有

先に述べたように、公共の場で乳児が泣く、幼児が騒ぐことによる周囲との摩擦は古今東西、日常の至る所で容易に起こり得る問題であると受け止めています。

件の騒動が話題となったのは、偶々、さかもと氏が雑誌コラムか何かで出来事を公開されたことに依るのでしょう。

これまでも日々、至る所で摩擦の種は生じてきたと推測できます。ただ、多くの場合、旅客機内での乗務員といった、中立な第三者が介在して潤滑油的な役目を果たさなくとも、
 ――保護者の負担感を慮って、
            困った時は相身互いで我慢しようか――
といった、私達が共有してきたであろう、公共の場における暗黙の認識が大きな諍いへと発展するのを未然に抑えてきたのではないでしょうか。

現時点で私自身は、このような認識が漠然とであっても乗客間で共有されているであろうと期待しています。従って、ほとんどの場合、先のエントリで記した機内アナウンスを乗務員の職務とする程の状況ではない、と捉えています。但し、乗務員側の責任において、母親はさかもと氏の苦情からは断固として守られるべきで、責めの声すら母親の耳に入れるべきではなかったという部分は譲れません。

逆に、もし各個人の公共の場に対する暗黙の認識が大きく乖離しているならば、円滑な運航に支障を来たす恐れを排除するという目的で上記アナウンスは職務として規定されるべきでしょう。

個人の価値観が多様化するに伴い、これに基づく認識に大きなずれが生じている場合、乗客各々の認識に判断を委ねることは軋轢の種になりかねません。運航責任者たる乗務員側は、乗客の認識に頼ることなく、積極的に乗客間に介在して運航管理する必要があると考えます。

本質は、1.公共の場に対する認識を私達がどの程度共有しているかです。更には、2.共有の程度は時代や社会と共に変化してきたのか、或は、3.単にメディアを通じて周知が進んだことで見かけ上の変化はあっても、実は従来からの大きな変化はなかったのでは、といった部分です。

残念ながら、私自身、定量的で明解な答を見出せていませんが、各々についてもう少し考えてみます。

(続)

2013年1月11日金曜日

対処

先のエントリで
 ――泣き止ませる術なく乳児はむずがることがある―― 
と記しました。

既に鎮静化したようですが、 
といった意見もネットワーク上にあり、一騒動あったようです。

では、泣き続ける乳児を宥めて静かにさせたい時、いかなる場合にも常に解決策はあるものでしょうか?

旅客機内という閉じた空間で乳児が泣く、幼児が騒ぐといった問題は、かなり以前から全ての航空会社で生じてきたはずです。この問題の解決、緩和に向けて乗務員側がこれまで何ら対応してきていない、或は、知見を蓄積してこなかったとは思えません。

もし、泣き続ける乳児を宥める、何らかの効果的な方策、ノウハウが乗務員側にあるならば、円滑な運航の遂行という職務の点からも乗務員は率先して対処するでしょう。裏返せば未だ有効な手立ては持ち合わせていない、といったところが現状ではないでしょうか。

取り得る手段があるにも拘らず、それを保護者に提案したり、或は、保護者のサポートをしなかったならば、乗務員側の怠慢であり職責が問われるべきですが、それは別の問題です。

この運行の円滑性、快適性を確保するといった視点から、乗務員の役割について考えてみます。泣き続ける乳児を宥める確実な手法がない以上、周囲の乗客が乳児の泣き声を我慢することになるのは明白です。その際、我慢を強いるのではなく、如何に周囲の理解を得て協力を要請するかが重要であり運行管理の一端を担う乗務員の能力が問われる部分ではないでしょうか。

取り得る手段は多くありません。保護者と周囲の乗客の間に立ち、協力を求め、容赦をお願いする程度でしょうか。機内アナウンスで周知するとしても、いずれにせよ言葉の力のみを頼りに心情に訴えざるを得ません。

ただ、たとえ用いる手立てが言葉のみであっても、保護者の乳児に対する真摯な姿勢、心苦しい心情を巧に伝えることで十分協力が得られるものと考えます。

更に、問題が発生する前に事前に乳児の泣声に対し容赦を願う旨、アナウンスしておけば騒動を未然に防げたかもしれません。突然の不快なハプニングは容易に受け入れ難いでしょうが、周囲の乗客に予め事態を想定させることで意識の中に許容する準備が形成されるのではないでしょうか。

周知のタイミングを選び、表現方法、口調を適切に駆使すれば、乳児が泣き止まずとも、乗客の協力を得ることは不可能ではないと思います。
(さかもと氏に対しどこまで効果的だったか、件の騒動を未然に防ぎ得たかについては疑問ですが...)

勿論、協力を請うに際し、たとえ周囲に伝わらずとも、保護者が懸命に対処しようとする姿勢が必須であることは言うまでもありません。

(続)

2012年12月24日月曜日

斟酌

この乳児とその保護者の旅客機への搭乗で生ずる周囲の乗客との摩擦の例は、電車、バスといった公共交通機関への乳児の搭乗、更には、公共の場を利用する各々のモラルやマナーの問題へと拡張して考えることができます。

新幹線や高速バスのような運行が長距離となる交通機関への乳児の帯同、混雑する通勤列車内へのベビーカー持ち込み、飲食店への乳幼児の同伴、酔客、宴会客や女性グループ客との飲食店での遭遇、喫煙が特に制限されていない飲食店での喫煙等、具体例は枚挙に暇がありません。

いずれの例でも偶々その場に乗り合わせたり居合わせたりした、面識のない何者かから迷惑を被る、若しくは逆に不快感を与えてしまう恐れがあるという点は共通しています。

こういった互いに見知らぬ不特定多数の人々が会する公の、或いは、公に準ずる場でのマナーについて、ネット上では喧々諤々の論争が繰り広げられています。しかしながら、論者各々の価値観が異なるだけでなく、想定している事例、議論の前提条件が揃えられていないこともあり、明解な結論に辿り着くことなく収拾がつかないままの場合が多いようです。

上述の、旅客機内で乳児が泣き叫び続けた例では、周囲の乗客は我慢すべき、否、する必要はなく、保護者には乳児を泣き止ませる義務があり、そもそも乳児を連れ込むべきではない等、さかもと氏を批判したり、支持したりと二分しています。

二分とはいえ大勢は批判的な意見ですが、明確には割れていないようです。いずれかの立場を頑として譲れないという主張は実は少数で、大方は条件次第で翻意し得るのではないかとみています。

いわば条件付容認でしょうか。私はここに含まれます。泣き叫んで周囲の乗客に不快感を与える恐れが予見される、乳児の機内への同伴は避けるべきが本来であると考えます。

泣き止ませる術なく乳児はむずがることがある、少なくとも私はそう思っています。加えて、搭乗中、乳児の体調に異変があった場合の対処のし易さも考慮すれば、乳児同伴の移動手段としての空路の利用は優先度の高い選択肢にはなり得ません。

従って、長距離の移動は上記問題を考慮して手段を選ぶ必要があり、空路以外に選択の余地がないならば、場合によっては移動そのものの断念も選択肢の一つです。

ただ、現実的には、乳児と同行して空路を利用せざるを得ない特段の移動目的があることも理解しています。特定の冠婚葬祭や海外からの帰国等が目的であれば乳児を帯同しての搭乗もやむを得ないのでは、と考えます。勿論、判断は個人の価値観によるのでしょうが、私は乳児帯同の搭乗を一律に差し控えるべきといった主張には与しません。

乳児を同伴した公の場での行動について保護者が上述の認識を持っている、即ち、乳児を帯同しての旅客機への搭乗は本来避けるべきであると自覚しているかが容認の前提です。この前提の下、それでも空路を利用せざるを得ない必然性があるならば、乳児帯同の搭乗は妨げられないと考えます。勿論、ことさらに乳児を同伴した乗客が搭乗前に移動の事由を申告したり、他の乗客に周知したりする必要はありません。

このような乗客がよんどころのない事情により、旅客機に同伴した乳児が泣き続けた場合、保護者は内心穏やかではないはずです。たとえ保護者のそういった心苦しさが周囲に伝わらずとも、或いは、泣き止まぬ乳児を宥めようとする姿勢が窺えなくとも、上記前提が成り立っているならば斟酌して容認すべきと考えます。

尤も、この謙譲の前提条件を潜在的に共有できているならば、保護者の切迫感や途方に暮れた心情、呵責の念は十分酌み取れるのではないでしょうか。

こういった前提が曖昧なまま、泣き続ける乳児とその保護者を許容するか否かについて論じることには意義を見出せません。

その場に居合わせたわけでなく、状況の把握が不十分なまま、己の見識を嵩に一方的に是非を断じようとする姿勢には違和感を禁じ得ません。当事者意識を伴った丁寧で詳細な議論が望まれます。

(続)

我欲

今更さかもと未明氏の話題を取り上げるのは遅きに失しており、辟易されるかもしれません。

しかしながら、乳幼児を連れた旅客機への搭乗に代表される、公共交通機関、広くは公衆の場への乳幼児の帯同についての賛否は、以前から連綿と燻ぶり続けてきた関心事です。

この問題には、むずがることがある乳児、騒ぐ幼児、同行している保護者の対応、ベビーカー等の付随する用具、場の責任者の管理、当事者や周囲のモラル、身勝手さを含む価値観等、実に多くの考察すべき点が内包されています。

更に、ネットワーク、即ち、さかもと氏のツイッターを通じて上記話題が衆目を集めた、という経緯からも考えるべき部分があることを付け加えます。

観点が多く整然と言及できないのですが、忘備録の意味も含め雑感、憶測、勘ぐりを羅列してみます。

常々日本人の我欲を非難している件の暴走老人がその場に居合わせたとしたらどう行動したでしょうか?真っ先に母子を責めるような気もしますし、逆にさかもと氏に対し怒声をあげるかもしれません。少なくとも窘めるという見識ある態度はとらないような気がします。

巷間、御子息が総理大臣に就くことを待望していると噂されるほど子煩悩な方ですから、この気質がどう行動に現れるか。乳児を気に障る騒音源とみなすのか、我欲にかられた身勝手な苦情から母子を守ってやるのか。

架空の話ですが、興味を持っています。
残念ながら、御老人はエコノミークラスには搭乗されないでしょうから起こり得ませんが...

さて、この騒ぎは今注目を浴びているLCCでも起こったでしょうか?

低価格だから乳児の泣声など我慢して当然ということではないでしょうが、それも含めて価格相応にやむを得ないとという意識が、忍耐を強いるような気がします。むしろ価格の低さが耐えることを容易にさえしてしまうのではと思います。

それでは、ビジネスやファーストクラスでも同様な騒ぎの可能性はあるのでしょうか。

乗客は、いわゆるオプション料金を支払うことで、より上質な快適性を得ようとこれらクラスを選択しています。従って、泣き止まない乳児とその母親にはより厳しい目が向けられるのではと思います。

尤も、それ以前に周囲の乗客に不快感を与えることが予見される母子に対しては、ビジネスクラスのような上級クラスの利用には制限が設けられているのかもしれません。利用できるのであれば、運行責任者である航空会社職員は、母子と周囲の乗客各々に不快感を抱かせぬよう、搭乗中のみならず搭乗前と降機後も含め、より真摯に細心の注意を払って対応するような気もします。

乳児の泣声ですからよい結果となるか否かは不明ですが...

(続)

2012年12月12日水曜日

突出

――ロースはどこへ行った――

食べログ愛知始め、食べ歩きのブログから、名古屋のビストロのような店のランチメコースを見てみると、チキンソテー、ローストポーク、牛ホホ肉の煮込みがよく提供されているようです。最も高額なコースに牛ホホ肉の煮込みが含まれています。

煮込み料理であればテール、タン、スネ、ネック、スジ肉でもいいはずですが、妙にホホ肉率が突出しているような気がします。ホホ肉の煮込み一辺倒に近いものを感じます。

余計なお世話ですが、ロース、カタ、バラ、モモといった他の部位が余すことなく利用されているのか不思議です。こういった部位はビストロではなく焼肉店やステーキハウス行きで、結果として飲食店全体で効率よく消費されているということなのでしょうか。

2012年12月9日日曜日

凋落

選挙戦も真っ盛りの今、テレビの報道番組では各政党の党首、或は、幹事長クラスの政治家がとても討論とは形容し難い舌戦を繰り広げています。

その中で、他の出演者の発言中、発言を妨害するかの如く割って入る、「はい」の連呼。不快です。

少数政党の党首ですから発言の機会がそれほど与えられないのは理解できますが、機会が与えられた時の発言は、口数ばかり多く鬱陶しいだけで全く心に響かない

該政党が凋落した要因の一つには党首のこういった姿勢があるのでは、と改めて思いました。

私は勿論支持しませんが、これでは仮に主義、主張が賛同できたとしても、支持者は離れていくのだろうな、と。

実はこれがメディア側の狙いなのかと思うのは勘ぐり過ぎでしょうか。