2014年12月29日月曜日

無駄

下衆な話で一寸一服。
NHKお天気お姉さん「岡村真美子」さんがW不倫&警察沙汰騒動で番組降板。
全くもってどうでもいい話題なんですが、 思ったところを記します。関係者の方はどなたも存じ上げません。

まぁ、
”根本的にテレビの一番組、或いは番組の一コーナーとしての天気予報はいらないんじゃないの?正に資源の浪費だなぁ。”
とは以前から感じていたことです。必要なんでしょうか。当然お天気キャスターと称される方々も含めてです。

どなたも気象予報士の資格をお持ちなので自らの考えで予報を公表できるのでしょうが、自分の言葉で解説していても予報にどこまで己の考察を加味しているのか、首を傾げています。

で、不倫はするが丁寧でわかりやすい解説と予報が確実に的中するお天気キャスターと、解説が判り難く予報も外れまくりだが不倫はしないお天気キャスター、有能なのはどちらなんでしょう。

結局、お天気キャスターという電波芸者であって、気象予報に関し突出して優れた何かを提示できていないわけです。気象庁由来の同じ元データの分析によるわけですから、予報や解説もほぼ一つに収束してしまいます。

残るはキャスターのパーソナリティで、特色はここで出す外ありませんがその必要はあるんでしょうか。

内容に差のない気象番組を各放送局がタレ流しても電波含め人、モノ、カネの無駄遣いです。もっと生産性の高いコンテンツの制作に資源を投入できないものかと。

昨今、天気予報は、テレビ、ラジオ、新聞、電話といった旧来メディアからだけでなくPCやスマホ経由でネットから、又、テレビでもデータ放送によりオンデマンドで知ることが可能です。

そういった環境の中で、各放送局が毎日定時に天気予報を流す有用性がどれほどあるのでしょうか。真に予報を必要とする属性の方々は積極的に予報を入手するでしょうし...

必要ではないが知りたい層、若しくは、番組と番組の間、番組内の一コーナー、さらに言えば、単にバックグラウンド天気予報として受動的姿勢で視聴する程度でしょう。

局の数、放送時間、ヒト、モノ、カネと見る側の受動的視聴時間を積算すれば、相当の資源が浪費されていることは容易に推測できます。

規制緩和の一環か否かは存じませんが、一般向け予報業務の民間への許可を可能にするため気象業務法が改正され、気象予報士という資格が創設されたわけです。

ところが、鳴り物入りで始めた資格制度にも拘らず資格の需要が大きくなかった、増えなかったと。今更なくすわけにもいきませんし...

何となく、硬直化している電波利権の中でしか生息できない気象利権といった感が否めません。

2014年12月27日土曜日

逆転

以前のエントリで記した喫茶店と同じく、名古屋に隣接した市の役所近くの定食屋?居酒屋?の話です。

昼食に天ぷら定食か天丼と迷って天丼を頼みました。

で、供された丼は紛うことなき天とじ丼だったわけです。いや、海老天入卵丼といった形容がより適切でしょうか。

海老天が小海老でしょぼいという意味ではありません。普通の天ぷら定食に添えられる一般的な大きさのものが三尾でした。

天ぷらは海老天のみ、ツユダクの状態でした。いわゆる天とじ丼でしたが、もう少し海老天をクタッと丼ツユで煮てあったかと。

味濃い蒟蒻入り土手煮が小鉢で、出汁のきいた赤だし、漬物といった陣容で、未だ尾張の食が残っているなぁ、と実感した次第です。

子供時分の家庭の天丼が正しくそれでした。
”天ぷらはカラッと揚がってなきゃ”
”パリッ、サクッとした歯応え”
カラッと揚た天ぷらが載った天丼、ナニソレ?全く別世界の食物でした。

後年、卵でとじていない、一般的な天丼を初めて口にした時、
”飯の上に天ぷらを載せただけの天ぷら定食じゃないか。飯との一体感に欠けるなあ
と思ったのも遥か大昔のことです。

いつしか、該天丼が当然となり天とじ丼は圧倒的マイノリティに逆転していました。ミートソースやナポリタンのスパゲティをおかずに飯を喰らう以上にマイノリティかと思っています。

いつまでも残って欲しい、守って欲しいと思うほどの懐古趣味はありません。どっちがどうのとか、かくあるべしと講釈を垂れるつもりも毛頭ありません。

単に、ああ、昔はそんなだったなあといった思いです。

かつての狭い範囲の自分の当たり前が実はそうではなく、当初違和感を感じていたものに馴れていき、感覚が逆転していることに気がついた、それだけのことです。

ところで、海老のフライや天ぷらで、自分が海老の大きさにそれほど拘らない、むしろ、カラッとからっと揚がった小海老の方を好むのは、上記原体験と何か関連しているのかもしれません。

2014年12月26日金曜日

遺志

寒・北・雪・冬・海・寂・哀・黙・情・厳・忍・独・静、といった辺りが俳優 高倉健から連想される語でしょうか。

哀惜の念に絶えません。残念です。

映画”鉄道員”では、厳寒の中、駅舎で焚かれたストーブの際立つ暖かさが印象的でした。この暖かさが象徴するように、周囲とは対照的に、若しくは一線を画して、役柄の人間を孤高浮き上がらせる、そういった出演作ばかりでした。

多くの作品で、余韻が続いたというか、高倉健演じた人物の物語後を想像させました。

ただ、余りに役柄が固定化されてしまっていたかに見えました。御自身が役柄に共感した作品にのみ出演されていたとの話ですから致し方なかったのかもしれません。周囲が想像だにし得なかったような役も観てみたかったとの思いが残っています。

ところで、遺作となった映画”あなたへ”は散骨を扱った作品でした。

で、現実には既に故人となっている元妻江利チエミ
さんはお墓に納骨され墓参りを欠かさなかったと。又、水子のお墓も建てられ、生前その傍に御自身のお墓を用意されていたようです。

各々事情は異なるでしょうが、散骨とお墓への納骨、高倉健、或いは小田剛一としてどうお考えだったのか、気になるところではあります。
高倉健「去年5月に養子縁組」50歳の元女優...世話になった人に財産残したい
高倉健と子供のお墓は鎌倉に…元妻江利チエミのお墓は…
 どちらなんでしょうか。

2014年12月23日火曜日

懐旧

俳優菅原文太の訃報を耳にし脳裏を過ぎりました。

三十年以上昔です。東京吉祥寺の東映系映画館で”仁義なき戦い”を観ました。全シリーズをオールナイトで上映する企画でした。勿論再演です。

入場時並んだ記憶があり客席はほぼ満席だったかと。場内はある意味異様な雰囲気でした。危なっかしい客層だったのでしょうか。

まず、”仁義なき戦い”のタイトルが映し出されて拍手。観客全員ではありませんでしたが、それなりの一体感がある程度には...

で、オープニングクレジット中、出演”菅原文太”で再度拍手。一部掛け声も。”文ちゃ〜〜ん”だったか。

本編上映中は比較的静かでした。二列ほど斜め前の観客はサントリーの焼酎樹氷をラッパ飲み。場内の所々には赤橙色の灯が点々々と。煙草の紫煙がゆらゆらと立ち込めています。

エンディングクレジットの”菅原文太”で再度拍手です。結局、三、四作目で抗争場面が食傷気味になって寝てました。

ただ、一作目、二作目の躍動感と非日常的な場内の妙な高揚感は未だ印象に残っています。

当時、出演者にその後著名となった俳優の名が連なっていることに驚愕したのも大昔。改めて、時代の変化をまざまざと実感しました。

ええ、単なる懐かしい思い出です。

大志

さて、NHKの朝ドラ”マッサン”の中で、
――”日本で初めて”、”国産初”といった語に違和感を禁じ得ないものがあります。――
以前のエントリ記しました。

ことさら、”国産初のウイスキーを造る”と意気込まれても、素直に共感できないものがあるわけです。
”日本で初めて”に囚われ、それが目的になっていないか、単に”日本初”という冠を望む功名心に端を発してはいまいか、といった疑問を払拭できません。

それは確かに賞賛される功績であるのは間違いないところですが...

主人公亀山の妻エリーが懐妊した時、嬉々としてゆりかごを作っていました。もう”日本で初めてゆりかごを作った男”でもいいじゃないか、と思ったわけです。真否は別にして。

日本人に、これまで知られていなかった、ウイスキーという新しい酒の旨さをを体験して欲しい、楽しんでもらいたい、が本来の動機であって然るべきではないでしょうか。

それが、結果として日本初であるならば申し分なしで、素直にその動機を尊び賛辞を送ることができます。

ただ、これまでの話で、同じ時代を過ごした人々の、或いは現代の視聴者の、一体どれだけにウイスキーの美味しさが伝わっているのか、又伝えることに注力したのか、そういった部分が蔑ろにされてきたのでは、と見ています。

で、単に”日本初”に固執しているかに受け止めた次第です。

ピートのクセは現代であっても馴染みのない人もいるわけで、当時果たして伝わっていたのか...諸手を挙げてウイスキーの美味しさを支持している登場人物は、亀山をスコットランドに派遣した住吉酒造の社長ぐらいでしょうか。

自身が試して美味かった、だから皆も美味いと感じて当然、というのも独り善がりだなぁといった印象です。

美味さが理解できないのは感性が鈍いから”といった優越意識が垣間見えます。現代でもそういった意識は、食についての評論、ブログの形として至る所に転がっています。
――そがいな飲み方はほんまもんのウイスキーの飲み方じゃなあ。ウイスキーを馬鹿にしとる。――
竹鶴12年を水割、お湯割り、時には炭酸で割って頂いている私はニッカウヰスキーから叱責されてしまうのでしょうか。




記念

”東京駅開業100周年記念Suica”について少し。

15000枚限定販売への殺到、涙と怒号、罵声、不手際の混乱を経て、希望者全員が購入可能になったようです。
「東京駅開業100周年記念Suica」の今後の発売について
この決定で転売価格が乱高下しているのは、元々のタイトな需給関係に基づく価格形成に、次元の異なるSuica緩和で、供給がじゃぶじゃぶになるであろうことによるものです。

同様な操作は国債を使っていくつかの中央銀行で進行中です。

偶々、今朝の報道バラエティ番組で、上記JR東日本の決定の賛否に対する街の声が取り上げられていました。で、賛成者と反対者のみの割合が示されていたのですが、”どうでもいい”、いわゆる白票、棄権者、無党派層の割合は端から排除されているのでしょうか。

先の国政選挙にも似て、低投票率の中での多数意見によって、あたかもそれが全体の信認された意見として伝えられてしまうのもどうなんだろうか、と思った次第です。

まぁどうでもいいことです。

本来、”記念”、”限定”といった語は価値体系を構築するキーワードの典型です。元締めである発行者はこういった語を巧に使い、人気や希少性、即ち価値を操作しながら市場を形成していくわけです。

付加価値、プレミアムとも称される下駄が履かされていることになりますが、この下駄が虚構か否かは各々の価値観によるのは勿論です。

オランダのチューリップバブル時の球根、コンプガチャが問題となったゲームアイテム、カードゲームのレアカード、切手、コイン等と根源は同じかと。
”持っててどうすんの?”
というのが素直な印象です。値上がり益云々はまた別の話です。

価値がわからない奴は黙ってろと言われれば、仰る通りでございます。

ところで、アベノミクスと称される経済政策で、異次元の金融緩和の真っ最中です。日銀が野放図に国債を引き受けて市場を金でじゃぶじゃぶしようと。ところが、民間の金融機関には貸出先企業が増えず、日銀が国債購入で供給した金は日銀の当座預金にブタ積みになっているとのことです。

ブタ積みされる日銀供給資金と退蔵される記念Suica、流動性が低く生み出すものがないという点で似たものを感じます。

定性的な話です。民間の金融機関が日銀に持つ当座預金から資金が動き出し、様々な経済効果を生みながらも最終的にSuicaとなって退蔵されると。以降は価値を生み出さないわけです。記念Suicaに限らず、他にも更に大きな規模でそういった、退蔵、ある意味需要不足が起きていないでしょうか。

この資金やモノの流動性が低く、澱んでいる状況ではなかなかいい話にはならないだろうなぁと思った次第です。

水は高きから低きに流れますが、この時、勾配が0に近ければ流れは緩慢です。場合によっては止まったり逆流したりします。で、上のタンクにどんどん水を追加して下へ流したいわけですが、上下のタンクを繋ぐ配管が細かったり、管壁、混入異物、フィルタによる抵抗が大きければ流量は上がりません。

更に、下のタンクが既に満水であるならば、水は流れません。上のタンクに水を追加し過ぎれば、タンクや配管は破裂してしまいます。

2014年12月22日月曜日

有体(2)

前のエントリに引き続き、もう少し食材とその付加価値について無責任に書き連ねてみます。

言うまでもなく、農産品典型的な食材の一つです。今般の衆院選で安倍政権の継続が決まり、農業分野でTPP(環太平洋連携協定)交渉が加速すると見られています

TPP交渉に反対の立場を取る JA全中などの農業団体に対し、経団連を含む経済界は交渉妥結を要望しているわけです。現在、交渉が進んでいるのか、暗礁に乗り上げているのかまったく存じませんが...

日本の農業に対し、経済界を含めたTPP交渉推進派からは、
日本の高度な農業技術は、高品質の農産品を生産できる。輸出に活路を見出すことで農業分野の成長は十分可能である
の考えをよく見聞します。

例えば、

大分県特産の甘い日田梨は、台湾に向けて現地産の5倍という高い値段にもかかわらず、輸出されています。北海道では雪国の特徴を活かしたお米で、輸出を5年間で8倍に増やした例もあります。攻めの農業政策により農林水産業の競争力を高め、輸出拡大を進めることで成長産業にしてまいります。そのためにもTPPはピンチではなく、むしろ大きなチャンスであります。
2013.3.15 安倍内閣総理大臣記者会見 - 首相官邸
といった発言です。国内の反発を抑えて、TPP交渉を進めるための詭弁に聞こえるわけです。

耕作放棄地の現状、就農人口の将来予測、農業従事者の平均年齢、平均的な農業所得、公的資金投入による補助の状態等を鑑み、日本の農業は一産業としてどうなのか、と問うてみると、
”なかなか難しく、責任感にかける発言だなぁ”
というのが率直な印象です。

突出して優れた事例を列挙されても農業は産業であり、ワールドカップのようなスポーツの競技会ではありません。我が国農業が産業として存続、成長できる潜在的可能性と共に農業従事者の平均的なモデル像が描けない限り甘い言葉に踊らされかねません。

自動車産業において排ガス対策、省エネ対策のために導入されたトップランナー方式を同様に農業に持ち込むのは無理があると。基礎体力に差があり過ぎです。

農業の活性化とTPPへの対応への競争的な仕組みの導入は、補助金頼みの現状を鑑みれば、既に終わってるだろ、と思えてなりません。補助金を前提としたトップランナーでしょうから。

たとえ一強が生き残ったとしても、後は屍の山では産業として存続できているとは言えません。確かに日本の平均的農産品でも国際的に高品質かもしれませんが、果たしてそれでどれだけの競争力があるのか、といった視点からの客観的評価が必要ではないでしょうか。

ヒト、モノ、カネ、加えて時間といった投入資源に対し、農業単独では一体どれだけの投資効率があるのか、他産業との比較を踏まえた、地に足のついた提案を求めます。

更に言えば、この高品質な農産品が手間暇かけた労働集約的に生産されているならば、衣料品や電気製品と同じ轍をたどることも十分懸念されるます。遅きに失しているかも...

よくわからないまま勝手なことを記しています。

同様に地方創生が話題になる時、対策のツールとして必ず農業が挙げられ、差別化、高付加価値化の方向性が正しい解として示されているような気がします。


で、やはり平均的なモデル像を蔑ろにすべきではないかと。自由主義社会の競争経済をそのまま適用するのも如何なものかと思うわけです。特段、社会主義を支持しているつもりはありません。

農業の産業としての自立性、成長性の底上げに繋がるような技術レベル向上、高付加価値化を目指して頂きたいものです。競争激化による弱肉強食で”普通に”、”平均的に”農業を営んでいる農家が淘汰されるようでは、産業として消滅してしまいます。

付加価値競争の激化で、商業主義優先の実質の伴わない虚構の付加価値で粉飾された農産品の跋扈と共に、突出してではなく、”フツーに美味しい”農産品を手掛ける真っ当な生産家の疲弊を危惧します。