2016年12月26日月曜日

化粧(2)

さて、電車内での化粧に関しては前のエントリで記した実害の有無以外にも”見苦しい”、”みっともない”、”恥ずかしい”などの不快感を示す声も散見されます。

批判の場は大量の藁人形生産工場と化しますが、声を拾ってみますと、個々人の価値観、独善が入り乱れていて、余り曖昧さに目眩がします。合理性、具体性を欠くこと、甚だしいなぁと。概ねそれらは、
1)化粧は身だしなみであって私的な行為である。自宅等、個人の空間で予め済ましておくべきであり、電車内という公共の場で行うのは、公私の区別、けじめができておらずみっともない。
辺りに纏められるのではないかと考えます。で、この抽象的な文言を虚心に眺めた時、その正当性を首肯できない強い抵抗感を覚えます。そこに更なる炎上を目論むが如く、”電車内の化粧”は、”爪を切る””歯磨き”、”着替え”、”オムツ替え”、果ては排泄”と同じなどと藁人形が追加燃料として焚べられたりしています。

その周辺では、

2)電車内での化粧は実害がないとしても、該行為を目にして不快と感じる人がいる以上、マナー違反であり、許されない。
と延焼し、遂には、
3)電車での化粧は是非ではなく、恥ずかしいか否かの問題である。恥ずかしいと思えないこと自体が疑問で、そういった教育を受けてこなかったのだろう。

という話にまで飛び火することもあるようです。
尚、

4)かつての日本や海外では"人前の化粧=身体売る女性"と捉えられる。
という話も出ていますが、全て伝聞で真偽を確認できませんので触れません。この写真はなんだ、とか、こんな話もあるようなので。その可能性は勿論排除しませんが、そういった職業の女性が偶々公衆の場で化粧していたに過ぎないとも考えられます。公共の場で化粧する女性は須らくそういった職に就いているとみなすことに不自然な印象を禁じえません。等号で関係付けてしまう手法に藁人形論法的なものを感じます。

1)〜3)において、1)が電車内での化粧を否定する方々の支柱的理由でしょう。化粧を身嗜みという私的行為と定義付け、それを公共の場で行うのは不適切であるとしています。

詳述しますと、
a.化粧の目的は他人に自分をキレイに?良く?見せることである。
b.化粧の動機は他人に自分をキレイに?良く?見せたいという自己顕示、承認欲求、及び/或いは、社会の同調圧力による義務感に由来している。
c.化粧の効果はあくまで化粧後の状態からのみ生まれるのであって、本質的に、その過程を他人に見せることは目的達成に何ら寄与しない。即ち、化粧の過程と効果の関係は連続的ではなく離散的であって、例えば、過程の50%を経ていても50%の効果が生じるものではなく、プロセスが終了(100%)して始めて100%の効果が得られる性質にある。 
d. 従って、化粧の過程を他人に見せる、見られることは、実害がない限り、単に”自分を美化できていない状態”を見せている/見られているに過ぎないはずである。では、それが何故他人に不快感を抱かせることに繋がっていくのだろうか。

e. ある第三者に美化した自分を見せる、見られる目的で化粧をする。その裏返しとして、電車内での化粧はそれを目にすることになる周囲に対し、”美化した自分を見せるつもりはない”、”化粧していない自分を見られても構わない”という意思表示をしている
ことになる。 
f.これは化粧後の自分を見せる、見られる第三者より、化粧行為を目にさせられる電車内の周囲を軽視していることに他ならない。電車内の化粧行為はその周囲の人々を、どこの誰ともわからない第三者より劣位に置いてしまう。無意識であっても、そういった意志を含む振る舞いと受け止められれば、車内の化粧が不快感を周囲に催させるのは当然である。
 g.特に、——化粧は女性社会人として必要不可欠なマナー、ノーメイクは女性社会人として失格——、——家から一歩外に出れば、そこは公的な場であってそういった公衆の面前では身嗜みを整えておくのは当然——、と信じている層が電車内での化粧を目にした場合、自身が恰も公衆の一員として認識されていないかの如くの印象を抱かされてしまう。周囲の目を気にせず化粧をする当人は、周囲を公衆(=人前)としてみていない、換言すれば、卑しめている、自分の化粧のための踏み台にしているとも解釈でき、周囲の顰蹙を買うことは必至である。
いうことです。ここで、化粧という行為の行動原理が本人の自発的意志にあるのか、或いは、社会の同調圧力による義務感に由来するのか、又、家以外の公的な場における化粧の身嗜みとしての要否は鑑みておくべきです。いずれか一方に偏向しているのではなく、各々が絡みあっているであろうことは容易に想定できますが。

全てに先んじて、(特に公的な場に出る際、)化粧は女性の義務という、同調圧力も含めた社会的圧力が存在しているのは紛れもない事実です。

事例には事欠きませんが、
ウィキペディアの”化粧”についてのノートには検証可能・確認可能な公的な根拠が示されないまま、「化粧は社会人女性に必要不可欠なマナー」、「化粧しない女性は社会人として不適格」という記載が”化粧のページ”の過去の版に掲載されていた。
ウィキペディアに根拠なく該記載があったということは明らかに圧力です。
電車で化粧させてよおおおお
のエントリも電車内の化粧の是非とは別に女性に化粧を強いる圧力が存在することの証左です。電通過労死事件で被害者となった高橋まつりさんの自死に至るまでのツィートにもそういった圧力の存在が見え隠れしていました。

他、発言小町、ヤフー知恵袋、教えて!gooといった質問サイトで”電車内”、”化粧”で探せば圧力を感じさせるコメントは枚挙に暇がありません。辟易します。

上述したように実際には、圧力と自発的意志のいずれか一方ではなく、割合に差こそあれ、両者は化粧の動機として共存しているとみています。個人の内面に関わる話でもあり、それを第三者が線引きすることは困難ですが、その比率は広い範囲に渡っているのではないかと憶測します。一方、化粧を目にさせられる側には、化粧は社会人女性の(マナーを通り越した)義務とする層から不要とする層、更には”どうでもいい”層が存在しているのも間違いありません。

おそらく該自発的意志や義務には、慣習や先述の社会的圧力が意志や義務を強迫した部分もあるのではないかと推察しますが、いずれにせよ
”社会人女性がノーメイクで人前に出る公共の場に素顔を晒すことは、恥ずかしいみっともない/はしたない/マナー違反である
に対する認識の隔たりに帰結できる話と考えます。社会人女性がノーメイクで人前に出ることに対し、特段否定する理由を持たない立場としてはここが理解できないままでいます。
化粧が、社会人女性にとってマナーであるとする合理的根拠が見つからないということです。実害がない限り、化粧しようがしまいが、それがマナー違反であろうがなかろうがどうでもいい、というのも素直な思いです。これまで知り得た所では、社会通念というバッサリ切り捨てるというか、”だめなものはだめ”的な思考を停止させるような理由ぐらいでしょうか。引き続き、客観的、いや、主観的であっても、”社会人女性が公共の場に素顔を晒すことはマナー違反である”という根拠について関心を寄せていきます。

この社会通念の正当性が肯定されるのであれば、中高生の化粧の是非、異物混入を低減すべき食品製造、クリーンルームを使用する半導体製造の職場は公的な場ではないのか、といった話に繋がります。更に言えば、ヨイトマケの唄はマナー違反の唄、女性社会人失格の唄ということなんでしょうか。この辺りの論理的整合性を求めたいところです。

資生堂の新しい化粧品ブランド”インテグレート”のCMが”女性差別”、”セクハラ”との批判を浴び放映中止に追い込まれたのは耳新しい話です。このブランドは働く女性を購入層として想定していることがCMから伝わってくるわけですが、上記社会通念に則ったものとみて間違いないでしょう。その一方で、社会において女性の化粧に関わる時間的、経済的負担は、それを求める側から報われているようには見えません。タレント、モデル他の個人事業主が経費処理できることは承知していますが、一般の会社員女性の化粧に対し何らかの配慮があるという事例を知りません。

”腰掛け入社”という語が死語になって久しいわけです。かつてのそういう時代であれば暗黙の了解で俸給に含まれていたのかもしれません。当時の価値観を未だに引きずったまま上記社会通念が継承されてきたのでしょうが、現在の社会を取り巻く環境に適用するのは無理を感じます。


次のエントリに続けます。

2016年12月12日月曜日

化粧

移動に電車を使うことは非常に稀なんですが、車内で女性が化粧する姿を見かけます。数少ない利用時ですら必ずと言っていい程そういった場面を目撃しています。もはや車内における乗客の日常的な振る舞いの一つになっているのでしょうか。

今更珍しくもありませんが、定期的に車内での化粧の是非についてボヤ騒ぎが起こります。依然、社会的な合意が形成されるまでには至っていないようです。まぁ、メディアとしては燻り続けた方が定例記事として取り上げ続けられるわけですから、現状維持を望んでいるのかもしれません。

先日ネット上を賑わせたのは、
東急電鉄「車内で化粧はみっともない」 啓発広告に賛否両論の嵐
といった記事でした。

その際、様々な視点からの主張は繰り広げられたようですが、結局、混沌とした状態が整理されないまま騒ぎは収束を迎えました。

論争の中で、1)公共の場、電車内、更には混雑する電車内の、化粧の場としての適否、2)義務づけにも似た、女性の化粧を当然の身嗜み、マナーと位置付ける社会的価値観(圧力)の正当性、といった辺りが印象的でした。

どうでもいい話といえばその通りですが、少し考えてみます。こういった事案の中にも社会が賢くなる端緒が潜んでいるような気もしますので。

ある乗車率以上に混雑した電車内で化粧する女性に対する批判は理解に難くありません。閉じた空間内、乗客の密度一定以上になれば、粉や匂いを放散させ、場合によっては他の乗客の衣服を汚す可能性が予見される、というのがその理由です。周囲に実害を与える恐れがある迷惑行為として電車内の化粧を捉えているわけです。

で、該可能性が極めて低い条件下ならば、電車内の化粧は容認されるのか、更に電車内に留まらず公共の場ではどうなんだ、といった話になります。

今、乗車率50%、100%(定員乗車)の状況を想定してみます。
乗車率50%:ほぼすべての座席が利用されている。 
乗車率100%:定員乗車。座席に着くか、吊革に捕まるか、ドア付近の柱に捕まることができる。
ちなみに乗車率150%でも”新聞が楽に読める”ようです。

つまり、全ての乗客が必ずしも着席していないとしても、殆どの座席が埋まっていて乗客同士が隣り合っている状態が乗車率50%です。

乗客同士が隣り合っている、言い換えれば、他人と席を隣り合わせている状態で、隣客が化粧を始めたら...上記可能性は低いとは言い難いんじゃないでしょうか。

即ち、乗車率50%であっても電車内の化粧が他の乗客に対する迷惑行為となる可能性を否定できない、ということです。(一人おきに着席している)座席の埋まり具合が50%以下、乗車率25%以下のかなり低い乗車率であれば、そういった恐れがなく、電車内の化粧は容認される、ということかもしれません。勿論、この容認は実害の有無という視座からのものであり、見苦しいとか、マナーといった視点は考慮していません

この25%以下の低乗車率という条件は、パーソナルスペースという語を用いても説明できます。乗車率50%で、ほぼ全ての座席が乗客で埋められている場合、偶々乗り合わせた他人同士が隣り合って着座していることになります。勿論、家族、友人、同級生、同僚といった、ある社会的関係のある乗客がグループで着座している場合もありますが、該グループの両端はやはり全くの他人と隣り合っています。

つまり、対面状態ではないものの、明らかに双方のパーソナルスペースを侵している状態にあります。乗車中、乗客は自身のパーソナルスペースが侵されていたとしても、電車内が公共の場であることを踏まえて我慢しているわけです。お互いさま、ということで譲り合い不本意ながら耐えていると。

そういった心情を鑑みれば、周囲に不利益を及ぼすかもしれない化粧という行為が、自身のパーソナルスペース内で行われること不快感を抱くのも、まぁ、当然でしょう。

電車内という閉じた公共の場に、偶々乗り合わせた乗客各々のパーソナルスペースが互いに不可侵となる乗車率以下であれば、電車内での化粧に対する不快感はそれほどではないのかもしれません。ただ、おそらくその乗車率は25%以下かと推察します。都市部の路線ではなかなか難しいのではないでしょうか。電車内での化粧に対する拒絶感は今後も解消には至らないのかもしれません。

以上は、実害の有無から見た話です。実現可能性はともかく、乗車率さえ極めて低ければ電車内の化粧は容認されるのでは、といった見方です。

これは他の公共の場、特に屋外のような開放的な公共の場における女性の化粧から受ける印象からも説明できると考えます。

以前、土曜日の午前11時頃、ローカル駅のホームでベンチに腰掛けて化粧する女性の姿を目撃したことがあります。又、公園、海岸、漁港、スキー場、寺社の境内といった屋外と、映画館、ホールやホテルのロビー、役所、学校、図書館、病院、デパートやスーパー、レストラン等の屋内ではどうでしょうか。

全くの個人的印象かもしれませんが、屋外の場合には電車内ほどの違和感を生じないような気がします。漁港など、場合によっては多少の滑稽な印象が伴うとしても...屋内の場合は、なんとなく近付き難い、できれば距離をとっておきたいといった印象ですが、屋外と電車内の間に位置づけられます。

結局、開放的な屋外では公共の場であっても女性の化粧はそれほど気にならず、屋内であっても対象から距離を保てる、場合によってはその場から離脱可能であるならば、電車内ほど苦にならないんじゃないかと。しかしながら、乗客相互が近接し過ぎで、既にパーソナルスペースが侵害されている状況下にある電車内では、自分のパーソナルスペース内で化粧をされる懸念もあり、それが忌避感、不快感の由来ではないかと推察した次第です。先述したようにこの問題は、電車内という一定の閉じた空間における乗客の密度に関わる問題ですから、解決は容易ではありません。物理的に不可能ではありませんが...


次のエントリに続けます。

2016年11月19日土曜日

職人

前のエントリに関連した話です。


言葉の一人歩きというか語の価値のデフレということでしょうか。

”カレー職人”というレトルトカレーがあるわけです。
職・人・
一体どういった意図でこのようなネーミングをしたのか理解に苦しんでいます。由来を小一時間問い質したい気持ちで満ち溢れています。
職人とは、自ら身につけた熟練した技術によって、手作業で物を作り出すことを職業とする人のことである。
そういう熟練した技術によって手作業で作られたレトルトカレーなんでしょうか?それであの風味なら工場で大量生産されたレトルトカレーで私は十分です。該製品は比較的割安で販売されていますから、安い手間賃で職人がやっつけ仕事で作ったのかもしれません。

製品名に”職人”の語を含ませることでその言葉の持つ意味をイメージさせ、販売促進に繋げようということかと勘ぐりますが、中身が追いついていません。むしろ、”職人”という語に本来からは捻じ曲がった新しい意味が加わった、更に言えば、置き換わってしまった印象すら抱いてしまいました。

まぁ、致し方ないのかもしれません。釜飯の素も上市していますし。野菜を炒めて添えたり、スパイスを加えたりと食べる側がアレンジ職人になることを求める、という意味であれば反論できませんが、ちょっと違うような。

こういった語の一人歩きは全く好ましいことではないなぁ、と思った次第です。言った者勝ち、というか声の大きい側が正しい、に結びついてしまいますから。
公正中立を標榜し、社会の木鐸を自負するメディアとか、
法の支配、立憲主義を謳いながら憲法改正を目論む為政者とか、 
”安全”という語が一人歩きし神話になった結果、福島で何が起こったか、身に沁みてわかっているはずじゃないんでしょうか。で、このような語意の一人歩きが各人の受け止め方に差異を生じさせ、この差異が齟齬となってコミュニケーション不足が生まれると。典型は国会答弁でしょうか。相互の齟齬により不毛な質疑が延々と続くことも珍しくありません。噛みあわせないことを意図しているのかもしれませんが...

話を戻します。

その一方で、”職人”を過度に、不自然に持ち上げることについても素直に看過できないでいます。以前、NHKの朝ドラ”まれ”を眺めていてそんな思いが過りました。輪島塗の職人、製塩職人、洋菓子職人が役どころとして登場しますが、なんだか意識高い系職人のような印象を抱き違和感を拭えませんでした。

職人の仕事は趣味や道楽ではなく、あくまで生業です。時に職人と作家、芸術家が混同されているかに見受けられ、そこに独りよがりの矜持のようなものを感じたわけです。

おそらく職人本人より、職人仕事のイメージ
熟練の技能を有する職人が、時には採算を度外視して、納得できるまで念入りにした仕事
を植え付けたい周囲の思惑があるんじゃないかと勘ぐってしまいます。例えば輪島に代表される漆器産業ですが、
漆器産業全体の現状
明らかに衰退しています。そういった状況下、業界だか、組合、販売業者が活性化策というか販促活動の一つとして”職人の手仕事”という付加価値を載せて喧伝しているに過ぎない、ということです。

ざっくり言えば、需要の縮減に対し、”職人の手仕事”で立ち向かえるのかという話です。高齢化が進みシャッター通りと化した旧来からの商店街が、”人とのふれあい”をアピールして活性化を目論む話に通底した斜め上の哀しさを感じずにはいられません。

職人気質の強調には需要の減少に若干のブレーキをかける、延命効果はあるかもしれませんが、それを止める、根治するまでの力はないのです。

そういった現状を認識しないまま職人のイメージを等身大以上に持ち上げても、誇大広告としか受け止められず、”ああ、そうですか”程度の印象しかありません。モノにまとわせた、”思い”、”矜持””誇り”、”技”といった語が重苦しく鬱陶しい一方、モノそのものは黙して語らず、そんな事例がしばしば目につきます。

簡単には、需要があれば従事者が増え、工業化、技術革新といった仕事の効率化と共に産業は活性化します。換言すればいわゆる職人仕事に留まっている分野には相応した需要しか生まれなかったとみるのが妥当な処ではないかと。

”職人の手仕事”アピールで需要を伸ばそうとするのは、そんな理に逆らっているようにも受け止められ、なんだか整合性がないなぁ、と思った次第です。

2016年11月7日月曜日

錯誤

まぁ、テレビCMにいちいち突っ込んでもしょうがないわけなんですが...

最近、話題になっていますから少し。
ツナ缶の真ん中にゴキブリ1匹 はごろもフーズが自主回収しない理由
はごろもフーズに、ゴキブリ→ハエと続き今度はクモ混入!はごろも「コメントしない」
この辺りについて言及するつもりはありません。”鯖の水煮や味噌煮の缶詰を開けたらアニサキスが入っていた”というのも許されないのだろうか、そんな思いが過りました。

この話から離れ斜め上のテレビCMシーチキン食堂について記します。現在は放送されていません。自粛中でしょうか。

でですね、漁師町に開店した食堂が舞台となっています。その名もシーチキン食堂...店を訪れる漁師に様々なシーチキン料理が出されるCM
です。
シーチキンときまぐれ漁師のサラスパ
シーチキンマヨおにぎり
頭大丈夫なんでしょうか。漁師町の食堂、客も漁師を推察させる設定で...
漁師にシーチキン食わせてどうする?
旨そうにシーチキン料理を喰う漁師もどうなんだ?
ということです。魚が獲れない下手くそ漁師なんでしょうか。シーチキンが好きな漁師がいてもいいんですがね。自分が獲った、市場性はないかもしれないが新鮮な魚で飯を喰っている、というのは勝手な思い込みなんでしょうか。
シーチキン>自身が獲った魚
って漁師を莫迦にしてんのか?

実は漁師コスプレの客だった、というなら異論はありませんが。

2016年11月6日日曜日

回合

夜の焼肉が本業なんでしょうが、昼にはカレーうどんを出す店です。千種区仲田にあります。川崎のとんかつ勝義に比肩するメンチカツにはなかなか巡り会えませんでしたが、ようやく...

揚げたて熱々のメンチカツをガブリと齧れば、旨味が口内を満たし、残った齧り口からは肉汁流れ出しています。これで飯を頬張れば相好が崩れます。惜しむらくは、このメンチカツがカレーうどんのトッピングの一つであることです。ソースをガッーとかけて丼飯を掻き込める、メンチカツ定食の用意がないことです。

いや、決してカレーうどんが秀でていないわけではないのですが、やはりメンチカツが突出しているんじゃないかと。カレーうどん、メンチカツ、ご飯(小)で腹一杯胸一杯です。カレーうどんの抜き、メンチカツ、ご飯(大)の登場を願って止みません。メンチカツカレーはあるんですけどね。

2016年11月5日土曜日

手段

もうはるか大昔の話です。

小学校の頃か中学校か、いずれにせよ初等教育課程の社会科で、仏教を日本全国に広めるために聖武天皇が東大寺、国分寺を建立した、との知識を得ました。で、その目的は鎮護国家の思想に基づくものであったと。

国家の安寧というか内政の安定のためのツールとして仏教を利用したということです。社会の不満や不安を抑制するため、武力ではなくソフトパワーである、宗教の政治利用によって人心の掌握を図った、とも言えます。

当時、仏教によって社会が安定化する理屈が理解できないというか、腑に落ちませんでした。教師に質問もしませんでしたし。今であれば、小一時間は質問すると思いますが...

それはさておき、古今東西、統治者の威を借る寺院や僧侶が大きな権勢を振るい、良くも悪くも政治に関与してきた史実は枚挙に暇がありません。今日でも、宗教の政治利用を疑わせる、推察させる事案を挙げることは難しくありませんが、憲法の定める政教分離の下、少なくともおおっぴらな利用認められていません

又、時折散見されますが、皇族や皇室の政治利用に関する事案については厳しく指弾されています。東京五輪招致の際、首相官邸が宮内庁に高円宮妃久子さまのIOC総会参加を要請した件などは耳新しいところです。
「政治利用」とされている過去の事例
このような思想、信条、意識、価値観といった個人の主観に働きかけ得る事物を政治に利用することは慎まれるべきであって、現行憲法はこれを認めていない、と理解しています。
信仰、崇拝、尊崇を通じて政治が個人の内面に干渉すべきではない、ということです。

では、翻ってスポーツはどうでしょうか。ここで指すスポーツとは参加者としてのスポーツではなく、観戦者としてのスポーツを意味します。

スポーツの意義については例えば、
スポーツ振興基本計画 1総論
の中に
スポーツは、人間の可能性の極限を追求する営みという意義を有しており、競技スポーツに打ち込む競技者のひたむきな姿は、国民のスポーツへの関心を高め、国民に夢や感動を与えるなど、活力ある健全な社会の形成にも貢献するものである
とあります。勇気、感動、頑張る姿、可能性、ひたむき、共感、夢、成長、人間性、努力、真摯、極める、忍耐、不屈、精神力、大和魂、サムライ... そういったキーワードを用いて、スポーツの与えるもの、見せるものについて語られることが非常に多いように見受けられるかと。思いっきり個人の内面に働きかけているわけです。

本エントリでは、このスポーツの意義について云々する意図は毛頭ないことは明言しておきます。

言及する関心は、個人の内面に働きかけ得るスポーツの政治利用にあります。以前からそういった印象を抱いていたのですが、東京五輪の競技施設に纏わる一連の報道を見聞してより一層その思いが強まります。巨額な予算が絡むからでしょうか。

現役選手の発言の背景にある競技団体の意図、さらにその後ろ盾となるスポーツ行政に影響力を持つセンセイ...そんな構図が想起されます。以前のエントリでも記しましたが、やはりセンセイとしては墓標を残したいのでしょうか。或いは、負の遺産にできるだけ多くの予算を費消して関連企業に恩を売っておきたいのか。
虎は死して皮を留め、人は死して名を残す
と言いますが、センセイは死してハコモノ(=債務)を残す、ということかもしれません。

東京五輪、即ちスポーツを理由とした公費の費消も含め、スポーツと政治の関係は政教分離前の宗教と政治の関係を想像させます。政教分離以降かつての政治における宗教の役割をスポーツが担っているんじゃないかと。

確かに、スポーツの政治利用は憲法で制限されていません。だからといって、スポーツの絶対的正当性を前提とした、あからさまな政治利用というのも違和感を感じる次第です。

上述したようにスポーツの観戦は明らかに個人の主観に働きかけます。例えば、良くも悪くも国威発揚を目的としての利用は至極当然のように行われています。即ち、一般庶民の印象操作や煽動といった情宣活動の有用な手段とみて間違いないわけですが、その利用は全く規制されていません。

政治とスポーツの更なる強固な結びつきは、その延長にスポーツの国家神道化をも勘ぐらせます。国家、組織、国民が本分を知り、自律機能を作用させる、即ち賢くなればいいのでしょうが、それもなかなか難しい話かと。暴走を憂慮してしまいます。

2016年10月29日土曜日

須要

かつて、名古屋、及びその近郊においてエビ天の天とじ丼を以って天丼と称してきた、とみています。つまり、海老の他、メゴチ、鱚、烏賊、穴子等の魚介類に加え、茄子、南瓜、玉葱といった野菜の天ぷらを丼ツユに浸して丼飯に載せた、今日の天丼は当地では一般的ではなかったと。

記憶が定かではありませんが、そういった天丼を始めて口にしたのは二十歳前後で愛知県外でした。それまでは天丼即ち、エビ天の天とじ丼でした。ですから、何かで見聞きした、カラッと揚がったサクサクの天ぷらを頂いた天丼というものは想像だにしませんでした。丼ツユを吸った衣が溶き卵と渾然となった天丼しか知りませんでしたから。

いわゆる全国共通の天丼を始めて目にした際には、
”タレを飯にまぶしてその上に天ぷらを載せただけじゃないか”
というのが素直な印象でした。飯と天ぷらの一体感のようなものを感じなかったのです。

当地では歴史の浅い、専門の蕎麦屋、セルフの讃岐うどんチェーンの勢力拡大、昔ながらのきしめん屋の衰退に伴い、いつしか天とじ丼は天丼として当たり前ではなくなってしまったように思っています。どちらが秀でているかを云々するつもりは毛頭ありません。

そう言えば光村なんかは昔はどうだったんでしょうか。あそこはあそこでかき揚げ丼などは丼ツユを割としっかり吸わせていて、カラッ、サクサクという丼とは一線を画していたような覚えがありますが。

それはともかく、名古屋市東区出来町という正にザ・名古屋に位置するきしめん屋を訪れた方が撮影された店内お品書き、及び、召し上がられた天とじ丼の図を見て思った処を少し。

1610240200.JPG

天丼と天とじ丼が併記してあります。各々に”上”が設けられているのも気になりますがそれはさておきます。つまり、ザ・名古屋のきしめん屋で天丼=天とじ丼ではなく、両者が区別されているわけです。前のエントリで守山区、中区鶴舞、西区、更には隣接の郊外でも天丼=エビ天とじ丼と扱われていることを確認しているのですが。両者を区別しているきしめん屋がザ・名古屋の場所に位置していたとは...軽く驚きました。ま、どうでもいいことですが。

こうなると、上記天丼がいわゆる天丼なのか否か興味を引きます。或いは、単に玉子でとじないエビ天丼なんでしょうか。はたまた、鱚天や野菜天の入ったいわゆる天丼なのか...

ところで、下図は上記ブロガーの方が注文された天とじ丼ときしめん(小)の配膳写真です。

1610240204.JPG

ここで仮に、きしめんを注文せず丼物のみを頼んでいたとしたら、赤だし等、汁物もなくお茶と共に掻っ込むことになったのだろうか、ふとそんな思いが過りました。淋しいなぁと。

寿司屋で海鮮丼や散らし寿司を頼めば味噌汁がつきます。中華料理店の炒飯には通常中華スープ?、ラーメンスープ?がついてきます。鰻屋だってうな丼を頼めば吸い物が。肝吸いか否かは別ですが。牛丼チェーン、カツ丼チェーンでは味噌汁がついてきたりオプションだったり。これはまぁ、ファストフードのチェーンですから致し方ないかもしれません。

微妙なのはオムライスで洋食屋、喫茶店、定食屋、専門店と供される店も様々ですが、スープも店によってついたり、つかなかったりです。個人的には水やお茶と共にオムライスを口に運ぶのも物足りなさを感じます。ただ、スープがつかない店でも食後のコーヒーがセットで出されたりしますから、オムライスにはスープは不要という考え方かもしれません。個人的にはコーヒーよりスープを優先して頂きたいのですが。例えインスタントであっても。オムライスを注文して眼前にそのひと皿だけが配膳されると、旨いでオムライスであっても軽く落胆します。おそらく一汁三菜に近い状態を期待しているのでしょう。水やお茶、コーヒーは一汁には含まれませんから。

カレーは明確です。水と共に食べることになっているかと。しかしながら、自分としてはカレーでもスープが欲しいところです。味噌汁でも構いませんけど。ナポリタン定食?イタリア定食?と称されるもの、焼きそば定食、お好み焼き定食というものがあっていずれも味噌汁がつくわけですから、カレーに味噌汁でも何ら可怪しくないと考えています。

でですね、上記のようなうどん屋、きしめん屋、蕎麦屋で丼物を頼む際には必ずカツ丼とミニきしめん、ミニ天丼とかけそば、といったセットを注文してきました。丼物のみを単品で注文したことは全く記憶にありません。丼物単品のみを頼んだ時、汁物無しでそれだけ配膳されるのでしょうか。

うどん屋、きしめん屋、蕎麦屋で丼物単品のみを注文した場合にはお茶と共に丼を口に運ぶのが真っ当なのか否か、よく判りません。お茶をすすりながらというのも、物足りないというかか物悲しい気がしてなりません。