昼食に天ぷら定食か天丼と迷って天丼を頼みました。
で、供された丼は紛うことなき天とじ丼だったわけです。いや、海老天入卵丼といった形容がより適切でしょうか。
海老天が小海老でしょぼいという意味ではありません。普通の天ぷら定食に添えられる一般的な大きさのものが三尾でした。
天ぷらは海老天のみ、ツユダクの状態でした。いわゆる天とじ丼でしたが、もう少し海老天をクタッと丼ツユで煮てあったかと。
味濃い蒟蒻入り土手煮が小鉢で、出汁のきいた赤だし、漬物といった陣容で、未だ尾張の食が残っているなぁ、と実感した次第です。
子供時分の家庭の天丼が正しくそれでした。
”天ぷらはカラッと揚がってなきゃ”
”パリッ、サクッとした歯応え”カラッと揚た天ぷらが載った天丼、ナニソレ?全く別世界の食物でした。
後年、卵でとじていない、一般的な天丼を初めて口にした時、
”飯の上に天ぷらを載せただけの天ぷら定食じゃないか。飯との一体感に欠けるなあ”と思ったのも遥か大昔のことです。
いつしか、該天丼が当然となり天とじ丼は圧倒的マイノリティに逆転していました。ミートソースやナポリタンのスパゲティをおかずに飯を喰らう以上にマイノリティかと思っています。
いつまでも残って欲しい、守って欲しいと思うほどの懐古趣味はありません。どっちがどうのとか、かくあるべしと講釈を垂れるつもりも毛頭ありません。
単に、ああ、昔はそんなだったなあといった思いです。
かつての狭い範囲の自分の当たり前が実はそうではなく、当初違和感を感じていたものに馴れていき、感覚が逆転していることに気がついた、それだけのことです。
ところで、海老のフライや天ぷらで、自分が海老の大きさにそれほど拘らない、むしろ、カラッとからっと揚がった小海老の方を好むのは、上記原体験と何か関連しているのかもしれません。
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