2014年10月28日火曜日

槍玉

”女性が輝く社会づくり”だそうです。

確かにダークに輝いて注目されているというか、炎上しているわけです。女性閣僚が...

観劇会、ネクタイ、下仁田葱、ベビー服、化粧品(小渕)、団扇(松島)、靖国参拝(高市、山谷、有村)と賑やかです。

で、思ったところを2つ程記してみます。


 1)タイミング


これまで四人もの宰相を輩出してきた上州です。これまで温存されてきた、保守王国の旧態依然とした北関東の田舎体質、政治に集る慣習が露呈したのでしょう。では、何故、今なんでしょうか。報道によれば、観劇会や身内への便宜供与の件は2010,2011,2012年の話です。それ以前も叩けば埃どころか粉塵が舞い上がるのは容易に想像できる話で、この時期に公になった理由がよく分かりません。

今朝の一週間を振り返る時事番組では、該問題の後、特定秘密保護法の運用基準と政令が閣議決定されたことを取り上げていました。飯の種の締め付けに対するメディアの抵抗、報復なんでしょうか。該法案の修正や運用上での骨抜きを取引すると...

 下衆の勘ぐりだとは思います。

北九州で漁協の元組合長、建設会社社長、飲食店関係者が殺傷された見せしめ事件に似た構図を連想してしまいました。

(追記)
カジノ法案成立阻止に向けた抵抗勢力の搦め手か、とも憶測しています。反対の理由は、単にカジノに対する懸念というより、パチンコに代表される既存業界の保護かもしれませんが...


2)利益供与


 上記観劇会の事案は、小渕氏の政治資金管理団体の劇場側への支払いが、観劇会参加者からの収入より大幅に上回っていることが問題となっています。有権者に不当に利益を供与している、買収しているのではないか、という疑義が生じているわけです。

公職選挙法や政治資金規正法に違反しているのではないかということです。

ここで、故意の有無を含めた記載漏れ、誤記載といった記載不備はさておき、不正な利益供与の是非について考えてみます。

公職選挙法の目的は公正な選挙の確保にあります。特定候補による買収や寄付行為は、本来、候補者の資質、能力、信条、人格に対して抱くであろう選挙人の自由な意思を阻害し、選挙の公正性を歪曲せしめてしまうとされています。

買収や寄付の原資をより多く持つ候補は、より多く”金で票を買う”ことができ、持たざる候補との不平等が生じ公平な選挙が実現されません。

公職に就く者は、一定のルールに従って、等しく同じ条件で選出されなければならないということなのでしょう。

加えて、該行為によって当選し、公職についた候補の場合、使った原資の埋め合わせ、次回選挙のための蓄積、自らの蓄財等を目的とした、利益誘導や贈収賄といった職務権限を悪用した不正に繋がりかねません。

こういった不正によって民主政治の健全な発達が損なわれることに対する牽制として、買収や寄附行為の禁止が規定されていると理解しています。


ところで、以前のエントリでも引用した、マイケル・サンデル教授の「民主主義の逆襲」ですが、その中に
 「裕福な学生の寄付金を貧困な学生の奨学金に」に納得できる?
 という部分があります。


寄付金を払えば大学の入学権を手にすることができるという話です。入学者のある割合を寄付金、家柄枠として確保し、寄付金を払えばその枠の入学が許可されるとのことです。寄付金は生半可な額ではなく、富豪の子女のための枠といった位置付けです。大学側はこの寄付金を経済的に困窮している学生のための奨学金、大学施設の充実、優れた教授の招聘等、良い大学の運営に活用します。

議論のためだけのテーマではなく、米国の有力大学ではよくある話のようです。裕福な家庭出身の代表例がブッシュ前大統領との話を耳にした覚えがあります。真偽は存じません。

当然、賛否両論が噴出します。

否定的な意見の根本は、機会が均等ではなく不公平、寄付金を入学の選考基準とするのは不適切、といったところでしょうか。

しかしながら一方、集められた寄付金が奨学金として適正に活用されるならば、経済的な問題によって就学を断念せざるを得ない、といった別の不平等の是正には寄与します。

元々、寄付入学枠の学生と一般枠の学生は同等ではなく、前者を大学のタニマチとみなせば、幅広い学生に対し入学の門戸を拡げる一つの方策とも受け止めることができます。

タニマチが当該大学の品位を大きく貶めない、といった前提は必須かもしれません。

ある不平等を容認することで、別のより深刻な不平等の是正、格差の縮小がなされ、結果として社会全体の利益が増大する、場合によるかもしれませんが、 こういった手法にも一定の意義が認められるべきではないか、と考えています。

社会のより高い生産性を目指して、選良の選出、議会、行政の運営にこういった手法が適用できないだろうか、ということです。 例えば、舛添現東京都知事が厚労大臣であった時の発言に対し、当時抱いた違和感を思い出しました。
――政治家としての正当な報酬を得て、国民の代表として職務に邁進するわけである。さもなければ、他に収入の道がある金持ちしか政治家になれないことになる。――
この後”議員歳費を削減するな”、”退職金がないから議員年金は必要だ”、”退職金も出ないような勤め先には、優秀な人材は集まらない”といった発言が続きました。

果たして政治家は職業なのだろうか、といった疑問を抱いたわけです。もはや政治家ではなく政治屋じゃないかと...

政治を生計を立てるための仕事、生業と捉えるならば、政治屋(家)が給料、賞与等の報酬や退職金、年金といった特典を要求するのも頷けます。自らが生活する糧を得るための手段なわけですから。

この場合、自己の利益最大化を図ろうとする意図が生ずることには抗えず、むしろ自然です。当然、国益に代表される公益と自己の利益との相反が起こる場合もあるでしょう。この時、果たして私欲を抑えて公益を優先できるのか、不信の念を払拭できないわけです。職業倫理、職責という語があるにしても、なんせ生業なんで...

本来であれば、外部からの監査、検証の仕組みがあって然るべきですが、”猫に鈴をつけることができるのは誰か”といった話になってしまいます。猫が自分で己に鈴をつけることはしないように、自律、自浄機能は期待できませんし、政治倫理審査会、メディア、検察?いずれもその任に適当とは思えません。

法に抵触しさえしなければ、自己の利益優先を図ろうとする意図を政治活動に込めても構わないことになってしまいます。

ノブリス・オブリージュの片鱗すら窺えません。端から放棄しているということでしょうか。


(続)

0 件のコメント:

コメントを投稿